別れの手続き――山田稔散文選 (大人の本棚)

著者 :
制作 : 堀江 敏幸[解説] 
  • みすず書房
4.07
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本棚登録 : 54
感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622080909

作品紹介・あらすじ

人は思い出されているかぎり、死なないのだ。思い出すとは、呼び戻すこと。精緻な文章で、忘れえぬ印象を残す、名作13篇を収めるベストオブ・ヤマダミノル。

感想・レビュー・書評

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  • 『私は想像する。ライクロフトとほぼ同じ年齢にたっしたころ、あるときーーそれは夜中にふと目ざめ、ふたたび寝つかれなくなった暗闇のなかで、あるいは久しぶりに家族そろっての夕食の席で、要するに、とくにどうというほどのこともない機会にーーふと、私もまた「自分の人生は終わった」と、こころの片隅でひそかに呟いたのではないか』-『ヘンリ・ライクロフト』

    枯れるために必要なこと。それが必ずしも老いではないと作家は思っている。本当にそうなのだろうか、と老いの入り口の見えてきた自分は思う。枯れる、という言葉の意味することにも因るだろうけれど。それが主に、達観、という境地を指しての言葉であれば、確かにそうだろうと肯くこともできる。しかし、その言い換えから立ち上がるイメージからは、白砂を敷き詰めた手入れの行き届いた庭に置かれた存在感のある庭石が思い起こされ、枯れるというこうべを垂れたようなイメージと逆に、むしろ何か高みから半眼で見据えるような趣きがある。自分の中では、枯れることの本質は、むしろ敷き詰められた落ち葉の中に紛れてゆくような、言ってみれば、私、というものの輪郭がぼやけてゆくような印象があり、身体の中に湛えた水分が外にこぼれる位の瑞々しさのただ中にいる者が、やはり枯れるということはないのだろう、と思うのだ。

    更に言えば、たとえ表面から水分が失われ老いが全身を「覆う」ように見えたとしても、それが枯れたことの十分条件ではない、とも思う。枯れることの本質はむしろ「芯」にある。樹齢を重ねた大木の表面がいかに朽ちていようとも、根の吸い上げた水分が芯を流れている限り枯れたことにはならない。それが新しい芽吹きを生み次の時間を生きる力となる。それは生まれ変わり続ける力があること、変化することによって枯れることを拒絶する力が存在していること、と捉えることもできる。

    変化。詰まるところそれこそが老いと枯れを決定的に分ける言葉であるのだろう。「自分の人生は終わった」と呟くものが、明日への変化を期待しない心情を吐露しているだけなのであれば、それは枯れることへの願望を口にしているだけであるように、自分には思えてしまう。

    別れの手続きとは何か。それは死後の自分の存在を固定化するために準備することなのか、それとも生前の自分の存在の痕跡を上手に掃き清めてしまおうとすることなのか。作家は、それを前者であると捉えているような気がしてならない。であればそれは、老いて尚盛ん、とこそ評される心境であって、懐古趣味もまた明日の自分を如何にこの世に立ち上がらせようかとする心情とも見えてくる。枯れた趣味の最たるものであろう盆栽が、何故「枯れた」と称されるかということを考えてみると、そこに「無私」という心境があってのことなのでは、と思うのである。

    明日への変化を期待しない。その期待が現実のものとなる為には今日を昨日と同じように生きるしかない。自分の見て来たもの、感じてきたも、それらを如何に自分自身から切り離してしまうか。そうして残された自分自身から全ての水分が失われた時、上手に何も残さずに枯葉の中に紛れ込むことができるか。そんなことを考えられるようになるためには、やはり老いるという条件が満たされる必要があるのではないだろうか。そんなことをぼんやりと考えてみる。

  •  軽妙洒脱で上品なエッセイ集、特に秀逸は本の題名となっている”別れの手続き”では著者と同業の某作家が病気入院中に世話をする妹と交わす一言一言やビールを飲みながらの会話、一時帰宅中に友人や家族に対しての何気ない言葉等は末期患者で己の人生や妹・友人との今生の別れをさらりと語り湿っぽくなく淡々と残りすくない日々を送る本人と妹の距離感や気遣いが素敵です。

  • 文学

  • こういう交友て良いよね、と羨ましくなった。

  • 上品で、ほのかなユーモアがある。

  • アナル?アナール?(苦笑)。解説が堀江敏幸さんだったからおもわず手にとってしまったのと、久しぶりに目にした、フランスの歴史研究グループ「アナール学派」のことでも書いてあるのだろう、という見込み違いから最初から苦笑するしかなく。でも、最後まで、心暖まる、ああ、なんて個性的な、良い文章を読んだ、という気持ちに満たされた。

  • アナル?アナール?(苦笑)。解説が堀江敏幸さんだったからおもわず手にとってしまったのと、久しぶりに目にした、フランスの歴史研究グループ「アナール学派」のことでも書いてあるのだろう、という見込み違いから最初から苦笑するしかなく。でも、最後まで、心暖まる、ああ、なんて個性的な、良い文章を読んだ、という気持ちに満たされた。

  • 「みすず書房」の「大人の本棚」シリーズに新しく加えられた山田稔さんの散文集だが、これを手に取ったのは、堀江敏幸さんが書かれたあとがきに惹かれたからだ。

    独特の個性を発揮する山田さんの文章を、「ひとつの文学ジャンル」であると位置づけて解説するその視点の温かさと的確さに、まったく系統は異なるものの、同じ仏文学を専攻した異形の先輩への素直な敬意がうかがえる。

    実は、初めてお目にかかる作家だなと思っていたのだが、この本の目次を繰りながら「ロジェ・グルニエ」の名が目に入った。そこで、にわかに記憶がよみがえり、何冊か堀江さんの著作の記述にガイドされて読んだことのある、ロジェ・グルニエ作品の翻訳者であることを思い出したのだった。何という奇遇かと思ったのだが何のことはない、どちらも堀江さんを介在しての出会いということになる。

    さて、集められた散文集は、一見俗に見えるもののその実、粋で洒脱でさらに品があるという変わった味わいのものばかり。

    冒頭に置かれた「ヴォワ・アナール」などは、糞尿譚作家としてデビューしたという山田さんの個性が際立った読み物となっている。フランス語力のなさを恥じながら、自分のおかれた状況をいっぺんに逆転して見せる機転と、それを写し取る筆の冴えが見事な味わい。あとがきの中で、堀江さんが敬意を表しながら、山田さんを評して「アナル学派」と揶揄する気持ちが良く分かる。

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    どうやら私はごく若いころから人生を思い出として、完了した過去の相の下に反芻することに喜びを感じる、そうした型の人間であったようだ。「私は人生を生きるよりも思い出すことが好きだ。思い出の中に生きたい」(フェリーニ)。

    (中略)

    楽しかった「こないだ」、いまでは近々過去でなく四、五十年も前の「こないだ」について、その時間を共にしたあの人この人について回顧談のようなものをせっせと書きつづける。
    ここ数年私の書いてきたものは小説であれ、エッセイであれ、みな「いや、こないだはどうも」のつづきにすぎなかったような気がする。

    文章によって親しい人を呼び寄せあるいは甦らせる、この世に呼びもどす、これもまた文学の大事な役目であろう。(p202-203より引用)


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    山田稔の文章を、まるでイタコのようだと言った人がいた。
    そのときはまだ私は実感としてその意味がよく分からなかった。

    先に読んだ『コーマルタン界隈』も、山田稔がパリで暮らしていた時の出来事を綴ったエッセイであり、過去という点では共通しているしある意味では回顧録である。
    しかし死者を呼びもどすというのとは違う。

    『別れの手続き』は、かつて山田稔が関わって今は亡くなってしまった人々を懐かしみその思い出を語るものである。
    この本を読んで、さらには冒頭に引用した山田稔本人の思いを読んで「イタコのよう」な文章という意味が分かった。


    親交のあった人との思い出話、そして登場する人物に興味を持たせるという点で、『昔日の客』関口良雄(夏葉社)を思い出した。
    古本屋の主人であった関口良雄氏が様々な作家たちとの思い出を語る『昔日の客』も回顧談であり、亡くなった人を呼び寄せ甦らせるものだった。

    『昔日の客』と山田稔の違いは、山田稔の方はどれもユーモアに溢れ、湿っぽくないということだ。
    『昔日の客』の方は泣けるし、心にじんわりとあたたかいものが込み上げてくるようなものだったけれど、山田稔の文章はエスプリがきいている。
    そうして描かれる人はみな、みずみずしく生き生きと映し出される。

    山田稔自身が言う「こないだはどうも」というのが本当にぴったりとくる文章なのである。


    『前田純敬、声のお便り』という話の中では、前田純敬の死を知ったときのことを
    「ああ、あのひと、まだ生きていたのか」なんて書いてしまう。
    不快だった気持ちも正直に打ち明けてしまう。そういうところがすごい。

    いいことだけ書くのは簡単なのだ。でも山田稔はそうではない。
    汚いものも、惨めで情けないことも、さらけ出して書く。


    そもそもこの本の最初に収められている話が『ヴォア・アナール』(←肛門の道という意味。便秘の話)という世界共通の話題を持ってくるところからして、
    山田稔という作家が「人間が生きるということは綺麗事だけでは語れないのだ」と考えていることが分かる。
    そして、エスプリとユーモアに富んでいるということも分かる。

    どんな人間だって食事をして排泄をする。それが生きるってもんだ。
    どんなに悲しみに打ちひしがれても腹は減る。排泄だってする。
    楽しみも幸せも悲しみも苦しみもすべて同じ中にあるのだ。

    山田稔の文章はそう言っている気がする。
    全部ひっくるめて人間なんだと。

    だから山田稔の回顧談は生き生きしているのかもしれない。


    母親の死を知り、旅から帰る電車の中での描写、

    「悲しみにもかかわらず空腹をおぼえ、それが恥ずかしくまた悲しく、わたしは顔を伏せ、駅弁の冷たい飯の上に涙をこぼした。」(『志津』より)

    という文章は本当に素晴しい。
    冷たい飯の上に落ちる涙は、きれいに美しく書くよりもずっと悲しく感じる。


    解説の中で堀江敏幸氏は

    「山田稔が固有名であると同時に、ひとつの文学ジャンルであることはもはや疑いようがない」

    と書いている。私もその通りだと思う。


    山田稔の文章は「そうそう、この間こんなことがあってさ.......」と始まる友人からの手紙を読んでいるみたいに読める。

    考えられた構成や精緻な文章を深く考察しようなんていうのではなく、ただ素直に、山田稔という文学を愉しめばいいのだ。

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著者プロフィール

1960年、長野県生まれ。日刊ゲンダイ編集部長などを経て独立。編集工房レーヴ代表。
東洋経済オンラインなどに経済、社会、地方関連の記事を執筆。信州育ちもあり、30代から山の世界にはまり、月に3回は山歩きを楽しむ。山の著書多数。

「2022年 『60歳からの山と温泉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

山田稔の作品

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