- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622079828
作品紹介・あらすじ
人類史上もっとも人の寿命が長くなった今、医師やまわりの人は死にゆく人に何ができるのだろうか? 全米で75万部のベストセラーとなった迫真の人間ドラマ。現役外科医にして「ニューヨーカー」誌のライターでもある著者ガワンデが、圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく医療ノンフィクション。
【英語版原書への書評より】
とても感動的で、もしもの時に大切になる本だ――死ぬことと医療の限界についてだけでなく、最期まで自律と尊厳、そして喜びとともに生きることを教えてくれる。
――カトリーヌ・ブー(ピュリツァー賞受賞ジャーナリスト)
われわれは老化、衰弱と死を医療の対象として、まるで臨床的問題のひとつであるかのように扱ってきた。しかし、人々が老いていくときに必要なのは、医療だけでなく人生――意味のある人生、そのときできうるかぎりの豊かで満ち足りた人生――なのだ。『死すべき定め』は鋭く、感動的なだけではない。読者がもっともすばらしい医療ライター、アトゥール・ガワンデに期待したとおり、われわれの時代に必須の洞察に満ちた本だ。
――オリヴァー・サックス(『レナードの朝』著者)
アメリカの医療は生きるために用意されているのであり、死のためにあるのではないということを『死すべき定め』は思い出させてくれる。これは、アトゥール・ガワンデのもっとも力強い――そして、もっとも感動的な――本だ。
――マルコム・グラッドウェル(「ニューヨーカー」誌コラムニスト)
感想・レビュー・書評
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眠るように安らかに死にたい、と、誰もが一度は思ったことでしょう。
しかし、医療の発達した現代では、死は急転直下の如く、突然やってくるものではなく、じわじわとにじり寄るようになってきています。
この本では、そんな「死にゆく人」、余命わずかな人に医学は何ができるのか、私たちがしていることは果たして正しいのか、という点に重きを置いている本です。
日に日に弱っていく父母を見て、少しでも長生きして欲しいと思うことは当然のこと。しかし、いざ自分が死に近づいているとき、同じ感情になるのでしょうか。
チューブだらけで薬の副作用に苦しめられながら死んでいくよりも、少しでも元の生活を取り戻したい、長生きしなくてもよい…そう考える人もいると思います。
死生観は一人一人異なり、またそれらは何も不自由なく過ごすことのできている現状では、ゆっくり考えることすらしないのです。
現代の環境は「死にゆく人」たちに対応できているようには思えない。外科医として、数々のそうした場面を見てきた著者は、そう語ります。
ナーシングホームと呼ばれる介護施設は、もちろん全てに施設がそうであるとは限りませんが、中には彼らを収容することが目的となり、外観の美しさや設備の充実ぶりを売り文句にしているところもあるのです。
著者が説く、医師としての務めは、厳しい現実を伝えること。そして、それに対してどのような選択を取ることができるかを正しく伝えること。そして何より、自分が何ができるかを伝えることにあると説きます。
「豊かに生きる」だけではなく、「豊かに死ぬ」にはどうするべきか。死ぬことをただ終わり、と考えることなく、事実として向き合ってみる時間を取るべきなのかもしれない。そしてそれをするべきは、今なのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
原題は"Being Mortal --Medicine and What Matters in the End"。
著者は現役の甲状腺外科医であり、ハーバード大学関連病院であるブリガム・アンド・ウィメンズ病院に勤務するかたわら、文芸誌「ニューヨーカー」の医学・科学部門の執筆も務めている。本書は同誌に連載されたエッセイが元になっている。
臨終に際して、人と医療がどう関わるか、またどう関わるべきかがテーマである。
類書は数々あろうが、本書を際だったものにしているのは、多重性がある視点であり、その柱は3つある。
1つは、患者とその家族の「その日」に向かう日々を描くルポルタージュとしての側面。1つは、医療界の内幕も知る医師ならではの臨終期医療が孕む問題についての鋭い分析。そしてもう1つは、死を間際にして、よりよく生きるとはどういうことかに関する著者自身の深い思索である。
現代医療の発展は、かつてないほど人を長生きにした。しかし、終末期医療は、必ずしも人を幸せにはしない。ところどころで落とし穴にはまりながら坂を転がっていくような経過を辿ることも珍しくない。治癒する可能性はゼロではないものの限りなくゼロに近い治療を続け、「こんなはずではなかった」最期を迎える人もいる。
なぜそうなのか、そうならないためにはどうすればよいのか。多くの実例、分析、考察を示す本書は、示唆に富む。
病院は、基本的に病気を治すところである。患者の体調に不具合が生じれば、何らかの対処法を示し、実践することになる。その際、示される治療法は、効く可能性もあるが、効かない可能性もある。病気を治そうと頑張る患者は自分が治る方に賭けようとする。医療者が余命はあと数年と思っている場合でも、患者と家族は10年、20年単位で考えている。患者の期待に反する告知をするのは、医師にとってもつらい。こうした認識の相違は容易には解消されない。
老人ホームは、歴史的に、「医学上の問題」を「長期間」抱えている人の受け皿として発展してきた。慢性疾患や加齢から生じる問題に、従来の病院は十分には対処できなかったため、受け止めきれなかった人々を「ケア」する場所として生まれてきたのである。余命わずかとなった人が残りの人生を豊かに過ごすことを目的とはしてこなかった。
こうした流れに疑問を抱き、自ら施設を立ち上げた人々の例が本書で紹介される。
なるべく自分の家と同じように過ごすことを可能にし、本人が望まない医療行為や過剰な管理を止める試みである。もちろん、世の流れに反すると言うことは、簡単なことではなく、こうした施設もすべて丸く収まっているわけではないのだが、可能性を感じさせる事例である。
これらの施設や緩和医療を中心としたホスピスを見ていくと、「攻め」の医療を施した際よりも、場合によって、余命が伸びる傾向が見られるという。実現可能かわからない未来を目指して現在つらい治療を続けるより、現在を心地よく過ごすための最善の策を採る方が、結果的に、よい効果を生じる場合もあるということだ。
終末期医療がテーマであるので、出てくる患者はほぼ最期を迎える。患者も家族もつらい時を過ごす。出口が見えない日々、胸を締め付けられるような話も多い。
著者自身の父も、終末を迎える1人である。著者も両親も医師である。そうした家族にとっても、終末期は簡単なものではない。著者の父は脊髄腫瘍を患った。放っておけば四肢麻痺になるという。化学療法や放射線療法を採ることもできるが、効果はさほど望めない。手術はこれらより効果的と考えられるが、かなりのリスクを伴う。息子である著者はよりよい選択肢を求めて奔走する。父は自分の望む生活と治療のリスクを天秤に掛け、選択をする。
選択は一度では終わらない。人生は続く。状況は変わる。ときどきの病状に合わせ、治療の効果を見ながら、患者と家族のぎりぎりの選択が何度も何度も行われることになる。
臨終期が近づいていると感じても、死を前提にした会話をすることは難しい。けれども、患者が本当にどうしたいのか、聞きにくくても聞いておくことは、後の選択に重要だと著者は言う。
出来るだけ食べたいものを食べたいのか。友人や家族との会話を楽しみたいのか。外へ出ることが大切なのか。ペットとふれあいの時間を持ちたいのか。何気ない希望でも聞いておけば、患者本人の意志を尊重した決定をする一助となる。
日米の制度上の違いはあろう。そのまま当てはまらないことも多いだろうとは思う。
しかし、著者の学識と温かい人柄が感じられる本書は、家族の看取り、自身の終末を考える上で、重要な示唆を含んでいる。
誰しもが「死すべき定め」を負っている。臨終を考えさせ、深い余韻を残す好著である。 -
死ぬということは暗いイメージしかなかった。でも、死ぬことをしっかりと考えておかないと、死ぬ間際になって後悔するんだろうなと思った。
自分が後悔するだけであればまだいいものの、周囲の人を後悔させることにも繋がることがわかった。
機械につながれて生きるのは、本当に生きてるとはいえない。そんな最後は嫌だと思った。
医学の進歩で、生きながらえさせることは可能だが、豊かに生きることができる人って、少ないと思う。それに、豊かという価値観も人それぞれであるため、豊かに生きる形も人それぞれだと思う。
最後の最後に、悔いを残さないために、今を精一杯生きていくことが大切だと感じた。時間には限りがある。今しかできないこと、自分にしかできないこと、やっていこう。 -
(2024/02/01 4h)
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やはり死に方は選べないのか…どんより。
今読んでいる『さよならの良さ』(吉本ばなな著)の一節に、暗い気持ちに光が差すように思えました。
「そのときをどう迎えるかを自分で決めることができないのは確かに恐怖ではある。
だからこそ、歳が上だった人たちが見せてくれたいろんな形を、自分の中に入れておきたい。こうなりたいという理想をケチに追いかけるのではなく、ただ優しくふんわり貯めておこう。」(p271)
思いがけず、読んでいる本と本の内容が繋がってドキドキ、これぞ読書の醍醐味! -
もうよくなる見込みはない、という病状にある人たちに本当は何をするべきか?という問いを探るハードな本。多くの人は苦痛のない平穏な死を望みながらも、過酷な闘病生活の沼にはまって苦しみ、孤独の中で亡くなることになる。また、施設は安全と医療が行き届いてはいても孤独でプライバシーのない、尊厳を奪われた状態になりがち。いったい私たちは、科学と医療の進歩で何を追い求めてきたのか?どのようにすれば、死地に立つ人たちとその家族に現実を受け入れる勇気を与え、尊厳を取り戻せるのか?という話が、著者の家族を含め実在の人々のエピソードを通じて語られる。
その人たちの病状や生活を奪われる苦しみも克明に語られるので、読んでいてぞっとしたり重い気分にもなるけれど、自分や身近な人たちにもその時は必ずやってくることを強く意識させられた。私の祖父は病苦で自殺していて、それが彼の尊厳を守る方法だったことは受け止めているが、祖父や家族にとってもっといいやり方があっただろうともずっと思っている。結局のところ、お前は、お前の親のことはどうするのだ、と繰り返し問われている気がするのだ。
死に瀕する人は生き方を鮮明にする。そして考えるのは死ぬこと自体ではない。一生涯かけても答えが出ないかもしれないことに、ある時いきなり清算を求められるのは厳しいものだ。 -
厳しい会話をすることがその後を変える。では、誰がその役割を担うのか。
介護者も被介護者もお互いに覚悟が必要。ACPを簡単に考えすぎていた自分に反省。
まだまだ親は元気だけれど、まずはこの本を兄妹で共有からかな。 -
これはぜひ超高齢化社会を生きる日本人全員に読んでほしい。
終末期医療にかかわる筆者が、自らみとった患者の例を共有しながら理想のターミナルケアとは何かを論じる。
例えばがんを宣告されたとしよう。しばらく闘病したのち、打てる手はすべて打って、予後が不良で余命間もないとしよう。主治医が「最後の手段はこちらの新薬です、もしかしたら効くかもしれない(効かないかもしれない)」と提案して来たとして、どこまで戦うべきなのだろうか。それは自分の年齢にもよるかもしれない。若ければ若いほど、治る可能性にかけてしまうかも。でもそれは最善の選択なのだろうか。きかなかった場合は?病院のベットで独り弱りながら最後には口もきけなくなって死んでいくのか、それとも自宅で家族とともに最後の時を過ごすのか。
大事なのは「自分にとって何ができなくなったら死んだ方がましなのか、どれだけつらくても何ができれば生きていられると思うか」を家族と共有しておくことだという。例えば食べるのが好きなわたしなら、ものを食べたり飲んだりできなくなったら死んだ方がまし。逆に大好きなチョコレートを食べられるなら苦痛の中でも生きていられると思う。
自分の最期なんてずっと先のことと思うが、その時のために今できることは「自分にとって何ができなくなったら死んだ方がましなのか、どれだけつらくても何ができれば生きていられると思うか」を探しながら生きていくことなのかもしれない。 -
本書は、ガンを経験し死を身近なものとして少しは意識したこともあり、前から気にはなっていたが手に取るのを避けてきたような気がする。
読み終えて、呼んで良かったと強く感じている。
死にあたって何が大切なのか、もう一度考え直してみる必要がありそうだ。
日本でも、もっと患者の生きる意義に寄り添った医療やケアが普及することを望んで止まない。