- Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622077831
作品紹介・あらすじ
インドシナ半島奥地に広がる熱帯の高地=ゾミア。そこには、モン、アカ、チン、カレンといった少数民族が独自の文化を築いてきた。彼らはなぜこの辺鄙な山中に定着したのだろうか? 彼らの生業・文化は《国家からの逃避》を目指した結果だ、という大胆な仮説を展開する脱国家のグローバル・ヒストリー。
感想・レビュー・書評
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"ゾミア"とは東南アジア大陸部の五ヵ国と中国の四省を含む広大な丘陵地帯を指す新名称であり、その地には約一億の少数民族の人々が住み、言語的にも民族的にも目もくらむほど多様だとされる。
一般にこのような山地に住む人びとは、文明から取り残された後進的で原初的な存在として認識されがちである。しかし著者はこのような捉え方に真っ向から異を唱える。ゾミアに暮らす(または世界各地の)山地民たちの多くを、「何々以前」の状態としてではなく、むしろ「以後」としての彼らの生き方を提示する。
著者は、山地で生を営むことは、山地民たち自らによる選択であり、生業(狩猟採集・移動農法)、社会組織(首長の不在・頻繁な分裂と吸収)、イデオロギー(平等主義)、そして口承文化(文字の放棄)さえもがあるものから距離を置くために選ばれた戦略だとする。その対象とは「国家」である。古代国家が誕生して以降、一定数の人々は国家からの徴税や賦役をはじめとした統治を避けるために自ら山地へと生活の拠点を移し、山地の営みに適し、国家に絡めとられないための工夫を編み出した。かつ、彼らは自分たちの社会の内部から国家が生まれてこないための機能もつくりだしていた。
ゾミアにおいて見出されるのは、このような国家形成への反応として意図的に作り出された無国家空間であり、アナーキズム史観の提示でもある。つまり、狩猟採集から灌漑農業にいたるとする不可逆的な社会発展的文明史観の否定である。そのような見立て自体が、国家にとって都合の良い社会の在り方を前提に成り立っているということになる。私個人も、学校教育で焼畑のような移動農法は環境に悪影響を及ぼす農法として否定的に教えられていた記憶があり、実はそれが誤りであるという本書の指摘に驚かされるとともに、現実に国家からみた認識を疑いなく受け容れていることを示すわかりやすい一例だろう。
本書を通してとくに従来の認識を改めさせられるのは「民族」「部族」といった集団に対する定義の恣意性と曖昧さである。このような集団の定義はおおむね国家によって「野蛮人」の烙印を押された、国家に従わない人々に対して一方的に与えられる。実際の「民族」「部族」は離散集合も激しく外部の文化や人を積極的に吸収し複数の言語を扱うことなども珍しくないため、本来は厳密な定義をすること自体が困難だ知らされる。そして、そのような集団は生来的な性質や文化、言語といったものではなく、先にあるような人々の意志にもとづいた政治的な選択によって成立する。
ここで描かれる過去のゾミアにあるような山地民の生き方は、(多くの奴隷や戦争の捕虜によっても占められた)国家に暮らす人々と比べてはるかに魅力的に映る。その魅力を支える主な要素は、やはりその平等主義だろう。それは明確な階層社会と貧富差のある平地の水稲国家とは対照的である。同時に、本書が山地民と対比して描きだし、かつ山地民と切り離せない表裏の関係にある「国家」のありようを見るにつけ、全てが一致するわけではないにせよ現代の国家にもつながる国家の本質を理解するためのヒントが数多く示唆されているのではないかと思える。
著者が何度か繰り返すとおり、本書にあるようなゾミア・山地民の生き方は1950年以降の現代のについては当てはまらない。各種のテクノロジーの向上によって実質的な距離が極端に縮まった現代では、世界中のどこであっても国家の網の目を完全に逃れての営みは不可能に近い。また、かつては低地民より山地民のほうがむしろ健康的だったという事実についても、衛生や医療が進歩した現代社会では事情が異なるだろう。しかし、それほど遠くない時代まで、人間の多くが自らの意志で国家を回避して主体的に生き方を選ぶことが可能だったという事実からは、人とその社会にある潜在的な可能性の豊かさについて希望を教えられる。それはいまの社会以外の正解は存在しないという固定観念から解き放つものである。
本文約340ページ、上下二段組。実際に読んだ感覚としてはかなりのボリュームがあった(例えば上下巻ある『サピエンス全史』以上)。本書は価値の高い良書だが、同様のテーマでもう少しコンパクトな著書をお求めなら、古代メソポタミア社会を対象とした同著者による『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』もかなりお薦めです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
国家の形成と、そこから逃げた人々の攻防?
東南アジアで近代まで国家に属さなかった人達がどのようにして帰属しないで来れたのか、という本。
逆の立場からあえて属さなかったのだとして歴史を問い直してる。
そこそこ面白いんだけど読むのが大変だった。
ミャンマーが揉めるのが何となく納得出来てしまう。
まあ現地に行っても揉めるなと思ったけど。 -
壁にかけている地図において、地面は平らに展開している。他方で、地図を「横にしてみる」と、ずらりと並んでいる様々な地理的空間によって作られている世界像が現れてくる。国家の形成は、こうした様々な空間のせめぎ合いの中で生まれる。本書が取り上げた「ゾミア」とは、中国の西南部から東南アジアをわたった、盆地による国家統治の蔓延から逃げてきた山地民の生活空間である。
モーラル・エコノミーで有名になったJ・スコットは、本来の政治・経済学の分野を超えて、歴史学や人類学的なアプローチも取り組んできました。大量な史料をもとに書かれた『ゾミア』は、出版された当時から研究者に高く評価されるとともに、批判や論争も多く巻き起こしている。
資料の引用の間違いが多くあるのではないか。山地民の主体性を過大評価したのではないか。国家を妖魔化しすぎたのではないか。”The Art of Not Being Governed”(『ゾミア』英語版のタイトル)に対して、"The Art of Governed”(M・Szonyi 2017)を題する本も最近出版され、スコットに喧嘩をうっているようにもいえる。
百年前の山地民は本当はどう思っているのか。それを実証することは難しい。山地民の実態よりも、『ゾミア』によってたくさんの議論が喚起されたことは、私に大切なことを教えてくれたのである。それは、文字と国家形成に象徴されている「文明」に排除され、矮小化された人びとの汚名を洗おうとし、さらに無意識的にも文明側に立っている自らの姿を見直す、というスコットの決意である。
「理性的な声」を世の中に出すことは研究者の仕事であるのは間違いない。しかし、「問うべき問い」を見つけて多少雑でありながらも答えを示していく覚悟も不可欠であろう。そういう意味では、『ゾミア』は、開発と国家文明の関係を考えるための豊かな素材と視点を示しているだけではなく、人びとの理性の深い所に働きかける一冊ともいえよう。
(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘) -
☆ゾミアとは、ベトナムからインドにかけて広がり、中国の4省を含むアジアの山岳地帯である。山地民は国民国家に統合されていない人々で、奴隷、徴兵、強制労働などから逃れてきた者である。
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モラルエコノミーの著者なのに気付かず読んでいた。
スコット自身はタイ語などの一次史料を読めるわけではなくあくまで二次史料からの仮説で、その史料もかなり恣意的な編集をしているとの批判を聞いた。でもまあ仮説としては面白い。 -
東南アジア大陸部の五ヵ国と中国の四省を含む広大な丘陵地帯を「ゾミア」という。そこには、狩猟採集や焼畑農業を営み、文字を持たず独自の言語を話す少数民族が1億人ほども住んでいた。
現代的常識では、彼らは文明化から取り残されている原始の人々という感覚かもしれない。しかし、実際のところは、もともとは文明的に統制された平地に住んでいたが、国家による徴税、賦役、徴兵、奴隷狩りから逃れるためあえて国家権力の及ばない山地に逃れた人々だった。平地からのアクセスが難しい山中で分散して住むことで、国家が支配して得られるメリットよりも、支配に要するコストが上回り、結果として国による搾取を免れるというわけだ。
そのようなゾミア研究の大著となっている。読むのも大変だったけれど、違う角度から世界を見られるようになる良書だと思う。
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【書誌情報】
原題:THE ART OF NOT BEING GOVERNED: An Anarchist History of Upland Southeast Asia
著者:James C. scott
監訳:佐藤仁
訳者:池田一人
訳者:今村真央
訳者:久保忠行
訳者:田崎郁子
訳者:内藤大輔
訳者:中井仙丈
カバーデザイン:川添英昭[美術出版社 デザインセンター]
地図製作:ステイシー・メイプルス(イェール大学スターリン図書館)
NDC:316.82
【版元】
アカ、カチン、フモン、ラフ……。様々な人々が独自の社会を築いたインドシナ半島の奥地、ゾミア。この深い山中の民族文化や生業は、国家を回避するための戦略だった。世界の自由民たちが息づくグローバル・ヒストリー。
本書のテーマはシンプルかつ深遠だ。スコットは言う。「原始的」な民族は、わざわざ、そのような生活習慣を選ぶことで、国家による束縛を逃れているのだ、と。
彼らが、焼畑に根菜類を植え、文字を使わず口承で伝え、親族関係を自由自在に変化させる文化を発達させてきたのは、権力からの自由と自治のための戦略だった、というわけだ。
さらにスコットの眼差しは、全世界に広がる。アメリカ大陸の逃亡奴隷によるマルーン共同体、ヨーロッパのロマ、ロシアのコサック……彼らの社会の成り立ちのなかにも、課税や奴隷化を逃れ、自由を希求する構えが読み込まれていく。
国家による管理の無力さを一貫して追及してきた政治学者・人類学者による、壮大なスケールの〈もうひとつの国家論〉。
“ゾミアは、国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である[…]険しい山地での拡散した暮らし、頻繁な移動、民族的アイデンティティの柔軟さ、千年王国的預言者への傾倒、これらすべては、国家への編入を回避し、自分たちの社会の内部から国家が生まれてこないようにする機能を果たしてきた[…]国家形成から逃れた人々の歴史抜きに、国家形成を理解することはできない” (本文より)
〈https://www.msz.co.jp/book/detail/07783.html〉
【メモ】
ブクログ(というかAmazon.jp)では、『モーラル・エコノミー 東南アジアの農民叛乱と生存維持』が無いようなので、版元のリンクを貼っておく。
〈https://www.keisoshobo.co.jp/book/?book_no=25783〉
【目次】
題辞 [i]
凡例 [ii]
目次 [iii-vii]
はじめに [ix-xix]
I:山地、盆地、国家――ゾミア序論 001
周縁の世界/最後の囲い込み運動/臣民を作りだす/「ゾミア」――偉大な山の王国、もしくはアジア大陸部の跨境域/避難地帯/山地と平地の共生史/東南アジア大陸部のアナーキズム史観に向けて/政治秩序の基本単位
II:国家空間――統治と収奪の領域 041
国家空間の地理学と地勢の抵抗/東南アジアにおける国家空間のマッピング
III:労働力と穀物の集積――農奴と灌漑稲作 065
人口吸引装置としての国家/国家景観と臣民の形成/「読みにくい」農業の撲滅/多様性のなかの統一――クレオールセンター/人口支配の技術/奴隷制/財政面の把握しやすさ/自壊する国家空間
IV:文明とならず者 099
平地国家と山地民――双子の影/野蛮人への経済的な需要/創られた野蛮人/借り物の装飾品をとりこむ/文明化という使命/規範としての文明/国家を去り、野蛮人のほうへ
V:国家との距離をとる――山地に移り住む 129
他の避難地域/ゾミアに移り住む――長い歩み/避難の遍在とその原因/課税と賦役/戦争と反乱/略奪と奴隷売買/山地へ向かう反逆者と分派/国家空間における過密、健康、生態環境/穀物生産に逆らうように/距離という障壁――国家と文化/乾燥地の小ゾミア、湿地の小ゾミア/野蛮人のほうへ/アイデンティティとしての自律、国家をかわす人々
VI:国家をかわし、国家を阻む――逃避の文化と農業 181
ある極端な事例――カレンの「避難村」/なにより場所、つぎに移動性/逃避農業/新大陸の視点/「逃避型農業」としての移動耕作/逃避農業としての作物選択/東南アジアの逃避焼畑/東南アジアの逃避作物/トウモロコシ/キャッサバ/逃避の社会構造/「部族性」/国家らしさと永続的上下関係の回避/国家の影で、山地の影で
VI+1/2:口承、筆記、文書 221
筆記の口承史/読み書きの偏狭性と文字喪失の前例/筆記の欠点と口承の利点/歴史をもたないことの利点
VII:民族創造――ラディカルな構築主義的見解 241
部族と民族性の矛盾/他民族を吸収して国家を作る/低地をならす/いくつものアイデンティティ/ラディカルな構築主義/部族を作りだす/家系の体面を保つ/立ち位置/平等主義――国家の発生を防ぐ
VIII:再生の預言者たち 287
生まれつきの預言者、反乱者/フモン/カレン/ラフ/周縁と疎外の弁神論/無数の預言者たち/「遅かれ早かれ」/高地における預言運動/対話、模倣、つながり/臨機応変――究極の逃避型社会構造/民族合作の宇宙論/キリスト教――隔たりと近代化のための資源
IX:結論 329
国家をかわし、国家を阻む――グローバル-ローカル/撤退の諸段階と適応/文明への不満分子
用語解説 [345-350]
小さき民に学ぶ意味――あとがきに代えて(二〇一三年九月 佐藤仁) [351-363]
原注 [viii-lxxvii]
索引 [i-vii] -
ゾミア―― 脱国家の世界史
(和書)2014年01月18日 16:22
ジェームズ・C・スコット みすず書房 2013年10月4日
柄谷行人さんの書評から読んでみました。
柳田国男さんの山人について柄谷さんが書いているのを読んでいて、なんとタイムリーな内容なのだろうかと感動しました。
「文明的」とは「国家の支配におかれた」といい「未開」とは「国家の支配をかわす」というという最後の指摘は今までの視点を変えることに非常に有益で簡明な指摘でした。
この本を読んでいて僕は今まで自分が生きてきた中でゾミアというものを必要としてきた生き方を思い出していました。自分の今までの人生の記憶とそういった国家への姿勢が僕の生まれた時から学校という制度や企業や世間やそういった僕自身が平地民として国家に囲い込まれて同化させられようとしていた、その抑圧の中で思考停止やそれによるダメージが自分自身にあったと僕は感じています。
僕はどうすれば良かったのか?ゾミアという生き方があるということそれが今は消えつつあるが柄谷さんの言う抑圧されたものの回帰としての哲学というものを真剣に考えてみたいと思います。それはゾミアの回復というものになるだろうと思い、この本を読めて本当に良かったです。
図書館の方にもお礼を言いたいです。 -
ジェームズ・C・スコットの壮大な見方の転換術とでもいうのだろうか。新しい考え方に触れた。授業でやりました。