- Amazon.co.jp ・本 (263ページ)
- / ISBN・EAN: 9784594078706
作品紹介・あらすじ
特定のメディアの偏りばかりが目につくとしたら、
それは観察する者が
何かの立場に強くコミットメントしているためだーー
人と人とのコミュニケーションに、偏りが存在しない状態はない。この世に「真実そのもの」が仮にあったとしても、それをまっさらに伝えることのできる「なかだち」は存在しない。文字であろうが映像であろうが音であろうが、伝えられる情報量は有限だ。
ニュースは出来事を要約して伝えなければならいし、仮に無限の伝達が技術的に可能であろうと、人の時間は有限である。すべての情報は断片的で、切り取られたものだ。何かの断片的で編集された情報を手にしたうえで、「真実を知った」と思い込むのは誤っている。
〈本書まえがきより〉
評論家・ラジオパーソナリティとして活躍する著者による、分断の時代のメディア論。
本書では、安保法制や軽減税率など過去の新聞記事を引用しながら、あるいは独自データを用いながら、各メディアの「クセ」が示される。
それを見て、「やれやれ」「やっぱり」と溜飲を下げるかもしれない。が、本書の目的は、むしろ、そうした“ふるまい”へのリハビリにある。
「バイアスのないメディアなど存在しない」という前提に立ち、その「クセ」を詳らかにすることで、分断する社会で溢れる情報とつきあう具体的スキルを提示する一冊だ。
感想・レビュー・書評
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第一部「新聞はいかにして「偏る」のか」は、タイトル通りの内容。原発再稼働問題などのいくつかのテーマについて、各紙の記事を引用しながら、各紙のスタンスというか、右か左かのポジションを浮き彫りにしているのが面白かった。
また、同じ右や左でも、各紙の個性のようなものもあって、それもまた面白いです(特に産経の資質という言葉に関するダブルスタンダードの指摘は面白かった)。
第二部は世論調査が各紙でやり方違うとか、第三部は書評欄の裏側とかが書かれていて、興味深かったです。
ちょっとだけ新聞読みたいと思ったけど、まあ読まないかな。読むとしたら飛ばし記事が得意な日経かと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
一見すると、親しみやすい現代的なメディア論である。
が、中身は驚くほど古色蒼然としたメディア観で、著者が想定しているであろう批判対象(ある意味読者対象)が抱いている疑問に全く答えていない。
これほど読んでいて隔靴掻痒の感を抱き続け、読み終わって肩すかしを食らったと感じた本も珍しい。
著者は所謂ネトウヨ(ネット右翼)層に見られる、アンチ朝日新聞だったりアンチマスメディアだったりするスタンスへの批判を念頭に、本書を執筆したと思われる。
(なお、殊更ヘイトをぶちまけている層はここでの議論対象に含まない。念のため付言しておく)
そのアンチマスメディア層が抱いているメディア不信を具体的に言うと以下の二つに集約される。
1.新聞(やテレビといったマスメディア)は特定のイデオロギーが先にあって、時には事実無根の記事で他者を批判したりもするが、報道機関に求められるのは客観的な情報の提供であり、変な色をつけた報道をするな。
2.政権を監視する力を有するマスメディアそれ自体が権力であるが、そのマスメディア権力が国民からの監視や批判を拒絶している。その結果暴走しているのがマスメディア権力だ。
これに対して著者はどう答えているか。
1に対しては、報道においては事実の取捨選択から、編集という過程を経ており、そこには報道に携わった人間のバイアスが必然的に介在する。つまり、全てのメディアは「偏って」いるのであり、中立公正・無色透明な報道などあり得ない、と大上段の議論で切って捨てている。
確かに、著者の言っていることは間違いではない。客観的な事実・情報など存在し得ないであろう…究極的には。
しかし、アンチマスメディア層が言っているのはそこまで突き詰めた話ではない。
「内容の吟味や議論は情報の受け手でやるから、報道機関はそのベースとなる情報を提供しろ。
議論の基礎となる事実は議論する全ての人間が土台とできるものであり、そこに嘘や間違い、偏りがないように最大限の配慮をするのが報道を担うプロたるマスメディアにまず求められていることだ」
自分たちのイデオロギーが先にあり、政権与党の不祥事や問題はガンガン批判するが、野党議員の不祥事に話が及びそうになると途端に触れなくなる(例、東京医大裏口入学問題)など、国民に広く提供すべき情報を自分たちの主義主張に合わせてコントロールする。
もっと酷いものになると事実無根の「疑惑」を騒ぎ立てるだけ騒ぎ立て、しかも疑惑を向ける相手方に「国民が納得のいくような丁寧な説明をしろ」と悪魔の証明を求めさえする(加計学園獣医学部設置「問題」)。
これは「全てのメディアは偏っている」で片付ける問題ではない。
無色透明なメディアというのはないのかもしれない。
中立というのも現実には望めないのかもしれない。
しかし、自らの主義主張よりもまずは事実を優先して報道する「公正さ」を求めることは本当にあり得ないのだろうか。
さしあたり、公正さを求める指標としては「交替可能性/交換可能性」のテストが有用であろう。
交替可能性/交換可能性のテストとは、ここでは相手方を非難する言論が、立場を入れ替えてもなお主張しうるのかという論者の態度についてのテストである。メディアの報道姿勢について言えば、非難対象が自分たちに対して敵対する側(政権与党側)か近しい側(野党側)かで扱いを変えない、ということもあるだろう。
上記の例で言えば、東京医大裏口入学問題に関与していたのが野党議員でなく与党議員であっても、報道において同じ扱いをするのか、ということである。この点、新聞やテレビが不信と侮蔑をもって「オールドメディア」と呼ばれているのは、「権力の監視がメディアの役目だ」という些か古びたお題目のもと、政権与党側に辛く野党側に甘いダブルスタンダードをとっているからだろう。当然、ここには交替可能性/交換可能性など認められない。
本書では、ネットで「オールドメディア」が批判されているこういった点に全く触れられていない。
体裁こそ今風で読みやすくわかりやすそうで、その実中身は恐ろしい程に時代遅れで、古色蒼然と言って良いくらいに古い議論水準にとどまっているように感じられる一因はここにある。
2についても基本的には同じ構造である。
著者は、国家と国民(含むメディア)の対立関係を「縦の関係」とし、ネットのデマなど新しいメディアによる現代的な問題を「横の関係」と捉えて説明している。
が、ここにすっぽり抜け落ちているのが新聞・テレビといった巨大メディア・マスコミである。
縦の関係においては「権力を批判するのがメディアの使命だ!」と国民側に立ち、横の関係においては「ネットでデマを流すのはネットユーザー」と国民相互の問題としてそこからマスコミはするっと抜けているのである。
「権力を批判し、時には政権すらペンの力で打倒する」マスコミは、自身が巨大な力を有していることは明白で、マスコミが事実上の第四権力ともいわれるのはこの故である。
が、著者は本書の中で新聞を「第4の力」と呼んでいる。マスコミのもつ権力性をさらっとごまかしているようで、著者の書きぶりに姑息な印象を受けた。
情報を独占し、自分に都合の良いように編集して大々的に報道し、世論を形成する。時には政権すら倒す、そんな組織が国民から見て国家権力に比肩する「権力」である、という認識が本書からは決定的に欠落している。
ネットのデマをもってインターネットが危うく信用ならないメディアであることも触れられているが、新聞・テレビというやつがいかに不勉強で、ろくな裏付けもとらずに適当な記事を書き飛ばしてきたかに思いを致すと、デマに対する反論もわき上がるネットの方がよほど健全だと私は思う。
ネットの登場により、新聞・テレビといったマスコミのいい加減さが白日の下に晒され、事実上の「第四権力」にも監視が働き出した今、国家とマスコミ、マスコミと国民、そしてマスコミとネットという新たな関係性をどう捉え、どう考えるか。
我々は時代の転換点におり、新しいメディアとどう付き合っていくか…考えるべき事はたくさんあり、同時に知的好奇心も刺激される。
が、本書はそういう事共がほとんど視野に入っていない。これで「メディア論」と言われてもねぇ…と読み終わって肩を落とした。 -
自分の読んでる新聞がだいぶ偏っててだんだん思想が染まってきたと自覚してたので、読んでみました。
データベースからの中立的な分析で、各紙の個性がよく見えてきました。
わかったのは、偏りのないメディアは存在しないということ、もちろん自分の中にもバイアスがあって、「真実」なんてないこと。偏りをなくしたいと思って読んだのだけど、結局、自分が心地よいと感じる言説だけ集めて、自説を強化して、「自分こそは偏っていない」という選民思想に繋がる。著者は、各紙のクセを認識しつつ、うまく付き合うように言いたいのだと思いました。
著者のメディアへの提言は、なるほどなと思うことばかり。署名記事のタグ化とか。もしかして言いたいことってこれで、その根拠と説得力を持たせるために、これだけのことを語ったのかな。
時々ちょっとユニークな部分もあっておもしろく読めました。 -
読売、朝日、日経、毎日、産経の主要5紙を徹底比較。
記事の取り上げ方、内閣支持率の統計の取り方、よく呼ばれる専門家やその登場回数などを多角的に分析し、比較した表が異様に多い本。
各紙の政治的立場や社会問題に対するスタンスがかなりはっきりしてくる。
わかった上でどう付き合うか。 -
独自に収集したデータが興味深かった。
特に各紙の書評欄についての考察。
仕事で、本の紹介リーフレットを作る際の参考になります。 -
全国紙5紙のスタンスの違いを、紙面にコメントを掲載する学者の顔ぶれや憲法条項の言及数などによって定量化している点が興味深い。どの新聞を読むかによって、その人の思想は自ずと変わるだろうことは容易に想像できる。
新聞にコメントが掲載される社会学者(1993年~2016年)は、各紙とも山田昌弘、上野千鶴子、橋爪大三郎が多く、朝日新聞では小熊英二、宮台真司も多い。政治学者(1993年~2017年)については、五百旗頭真、御厨貴が各紙に登場するが、中西輝政は産経に、姜尚中、山口二郎、中島岳志、加藤陽子は朝日・毎日に頻出する。
憲法条項の言及数(1993年~2015年)を比較すると、毎日・朝日では14条 (法の下の平等)、21条 (表現の自由)、24条 (両性の平等)、25条 (生存權)が多く、産経では1条 (天皇)、9条 (戦争の放棄)が多い。読売では24条 (両性の平等)が少ない他は平均的で、日経では96条 (憲法改正)、9条 (戦争の放棄)の他は少ない。
デモ実施の報道の数については、テーマよりも報道数の合計が毎日、朝日に比べて読売は4割程度、日経、産経は5分の1程度と異なり、民主主義に対する姿勢を反映しているように思える。
読売新聞:明治7年創刊。
朝日新聞:明治12年創刊。
毎日新聞:明治5年に東京日日新聞として創刊(日本で最初の日刊紙)がルーツ。昭和18年に毎日新聞。
日本経済新聞:明治9年に三井物産内で中外物価新報として創刊。中外商業新報、日本産業経済を経て、昭和21年に日本経済新聞。
産経新聞:昭和8年に日本工業新聞として創刊。産經時事、産業經済新聞を経て、昭和33年に産経新聞。 -
発売当初、書店の平積みで見かけて気になっていたもの。そのまま何となく読む機会を逸してしまっていたのだけど、この度”みらいめがね”で荻上作品に触れて、これは読む価値ありだな、ってことで改めて入手。メディアに中立性を求めたくもなるけど、偏りがあることはもちろん自明。その記事内容とか、取り上げる話題を検証して、偏りの方向を見える化してくれてる点が本書の魅力。書かれているように、複数を読み比べられると一番良いんだけど、なかなかそうもいかず、となるとどれを選ぼうかな、っていう問いに、ある程度自分なりの答えは出た感じ。次の新聞選びの参考に。
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媒体に関係なく、自分たちがそれぞれに「気持ちいい」言説を求めているということを意識しながら情報に触れていく必要があると感じた。
”そもそも政治的事柄を朝から晩まで年中書き込んでいる人ほど、圧倒的に少ない”というフレーズが印象深い。 -
コンテンツアナリシスとしてはやや食い足りない感じ。論じるに当たって根拠となる数字等が示されていないことに違和感を感じ続けた。新書のレベルだから仕方がないのかなあ。