大間違いの織田信長

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784584138106

感想・レビュー・書評

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  • 以下、本書より。

    【本能寺の変の黒幕は誰か】
    最近の学界では、長曽我部元親黒幕説が有力視されています。
    本能寺の変は、黒幕がいたのか否かの他に、光秀の動機が謎とされています。
    その有力な動機として、信長の四国政策の変更を多くの人が主張しています。
    曰く、それまで信長は明智光秀を取次とし、長曽我部との連携で「四国切り取り次第」としてきた。
    ところが、羽柴秀吉の仲介で敵であった三好を重視するようになり、遂には長曽我部打倒作戦を発動するに至る。
    ここに光秀の面目は丸つぶれ、秀吉に出世競争で抜かれると思った光秀は将来を不安視し、謀反を起こすに至った。
    さらに念入りに、光秀の年齢は通説の五十五歳ではなく、六十七歳だった。
    人生の終焉を前にして、子孫の将来に不安を抱いていた、と付け加えられたりします。

    申し訳ないですが、こんな動機で殺されたなら、信長に同情します。
    これでは戦国時代どころか、現代日本のサラリーマンも勤まらないでしょう。
    私自身がこの目で見聞した話ですが、「二秒で経営方針を変える会長」も、「十二時間に一回、敵と味方が入れ替わる社長」も実在します。
    信長のみならず光秀だって、あの世から名誉棄損訴訟を起こしたいでしょう。
    「俺は、そんなにヤワな人間ではない」と。
    戦国時代なのですから、強くなりすぎた長曽我部を叩く方針に切り替えるなど、不思議でもなんでもありません。
    それで、いちいち謀反など起こしていては、それこそお家が守れません。
    長曽我部の為に、なんでそんなリスクを取るのか。

    対四国政策が光秀にとってどれほど大きいか。
    一族の総力をあげて戦わねばならないとしたら、それに値するしがらみの証明が必要です。
    それは同時に、明智一族に食い込んでいた長曽我部のインテリジェンス能力の証明も必要でしょう。

    そもそも、光秀が秀吉に抜かれたのか?

    いわゆる〝方面軍〟の実態はさておき、北陸に柴田、関東に滝川、四国に丹羽、中国に羽柴と五大幹部のうち四人は地方に飛ばされています。
    いわば、「地方本社社長」です。
    それと比べ光秀は、信長の本領の美濃と京都の中間に位置する近江に所領を持ち、丹波(京都西北部)も本拠地です。
    「近畿管領」と呼ばれることもあります。
    つまり、「近衛師団長」なのです。
    「本社副社長」です。
    もっと言ってしまえば、他の有力者四人の誰か、あるいは複数が裏切って攻めてきた場合に、信長を体を張って守るのが光秀です。

    なんで、「本社副社長」が「地方本社社長」に嫉妬して、身の危険を感じなければならないのか。

  • '明治までのエリートには、人の上に立つ者の覚悟がありました。だから、世界史の奇跡と言われる明治維新を成し遂げ、日清日露の両大戦を勝ち抜き、世界の誰にも媚びないで生きていける強い国、大日本帝国を築き上げました。
    しかし昭和になり、エリートが「試験で優秀な成績を取った人」というわけの分からない定義に変わってしまい、結果、陸軍も海軍も官僚たちも“自称エリート"たちの庇い合いばかりで、誰も責任を負わないまま、敗戦という取り返しのつかない大失敗をおかしてしまいました。それでも戦前は、まだいい。少なからずの指導者たちが、自らの命を絶ちました。
    …翻って現代日本、実にグダグダな時代です。戦争に負けて、負けっぱなし。殴り返す気力すら、失っている。アメリカの持ち物にされたばかりか、ロシアや中国までが「それを俺に寄越せ」と小突き回しに来る。あまつさえ、韓国や北朝鮮にまで舐められている。元をたどれば、占領軍のダグラス・マッカーサーが日本人をそういうふうに去勢したのでしょうが、いつまで七十年前の占領軍に責任を押し付けるのか。いいかげん、自分で強くなる、自分で賢くなる努力を始めるべきではないのでしょうか。このグダグダな現代を、どう生きるか。私はそのヒントを、本書で織田信長に求めたいと思います'

    '真の現実主義には理想が必要であり、真の理想主義は現実的な行動なくしては実現しえないものなのです。現実主義の反対語が理想主義ではない。だとしたら?
    現実主義の反対語は、空想主義と現状主義です。前者は現実を見ずに空想に流されるから、後者は理想を持たずに現状に流されるから、現実主義の反対なのです。

    では、信長が掲げた理想とは何だったのか?
    「このグダグダの世の中を正す」です。

    美濃を攻略したときまでの織田信長を振り返ってみましょう。
    尾張は江戸時代の石高で五十七万石、美濃は同じく五十四万石、合わせて百十一万石です。江戸時代を通じて最大の外様大名は加賀前田班でしたが、百二万石です。信長はわずか三十四歳で破格の大成功を遂げたわけです。
    …もしここで信長が、「もう俺は人生でやることをやった」と守りに入ったなら、間違いなく本能寺の変のような横死はしなかったでしょう。望むなら、安穏とした人生を送れたでしょう。
    …しかし、信長は守りに入らなかった。まるで、美濃攻略など通過点に過ぎないと言わんばかりに、さらなる大事業にのめり込んでいきます。そんなことをやれば、敵だらけの人生になると分かっているのに、ところが、信長は戦いの人生を選びます。
    やることやったから、守りに入る。人生の基盤が固まったから、大きく飛躍する。これはどちらが正しいかという論理の問題ではありません。本人がどちらに価値を置くかを決める話です。その価値判断の基準を「世界観」と言います。
    当時の戦国時代の常識に従えば、安穏を選ぶのが現実的に思えたでしょう。しかし、それは現状主義にすぎません。その現実を肯定した先に、何があるのか。永遠にグダグダが続くだけでしょう。
    織田信長の人生を振り返ると、現実主義者だったと思います。もちろん現状主義ではない、本当の意味での現実主義。理想を持った現実主義者という意味です。
    …幼少期からの自己鍛錬も、美濃攻略戦、それまでの信長の人生は、この日の為にあったような気がします。今は誇大妄想でも、いつか自分の理想を実現できるように力を蓄える。そのためには徹底して空想を排して生きる。

    事の大小はあれど三十四歳の織田信長と同じような決断を迫られる人も、いるのではないでしょうか'


    信長は戦後に突然ヒーローになった。萬屋錦之介、司馬遼太郎の「国盗り物語」のおかげで。

    信長カンパニーはノルマが緩い。働かない人間を基準にしているから。大きな成果を出した人間はどんどん出世させる。その緩いノルマさえも達成できない人間だけを激烈に叱責する。正しい意味での成果主義で、間違った意味での現代の成果主義とは正反対。

    信長は自分が寝ないで働く。働かない社員を食わすために。自転車操業だとしても事業を拡大していく(領土を広げていく)。弱い兵をたくさん抱えながら、獲っては獲られ繰り返しながら。

    信長はカリスマではない。キャプテンシーの大空翼くんだ。自分が働くことによって現場を維持し、事業を回していく。ワンマンチームで結果を出し続けるからこそ、皆が信じて付いてくる。

    信長は魔王ではない。帝王になろうとした。帝王とは頂点に位置し、自分一人の責任で事を決める、そしてその責任を負わなければならない人ということ。

    信長は権威主義者だった。戦国時代とは、ただ力で下の者が上の者を倒すという構図ではなく、権威と大義名分の基に家格を上げていくことを「下克上」と言った。権威を大切に扱い、大義名分を大事にするからこそ、権威に取って変わることができた。守護代の家来でしかなかった田舎の三男の信長が天下布武の手前まで登り上がることができたのは権威と上手に向き合う模範生だったからだ。

    信長はなぜ延暦寺を焼いたのか。鎮護国家の聖地を手にかけたことで、敵に大義名分を与え、信玄という強敵を動かすことになってしまうというのに。それは、宗教の名を使って、私利私欲をほしいままにし、嬉しげに信長の敵に加担して自分は殺されない安全地帯にいるつもりになっているのが許せなかったから。抑えきれない怒りが爆発した。

    信長は弱い。何度も負けて何度も死にかけている。信玄、謙信は元より、毛利元就、三好長慶、北条氏康、尼子経久、今川義元、朝倉孝景、と信長よりも強い大名など幾らでもいた。織田滅亡の淵に何度も立たされていながら、踏み止まった。強いものに媚び諂うことを忘れず、ときに土下座するのも厭わず、そして、最後には運を味方に付けて生き残っていった。



    信長は、最良と最悪を考えていた。例え存亡の危機に直面していても常にそれは同じだ。絶体絶命の度に、信玄が死に謙信も死んだ。まるでそれを待っていたかのごとく、迅速に次の一手を打ち、状況をそっくり一転させることができた理由だ。

    信長を天才だとか、魔王だとか、特別な人間として持ち上げてしまったら、そこから学ぶことは遠ざかってしまう。カリスマに仕立ててしまった途端に、自分とは異なる存在という前提が自分にも当てはめることができるいくつもの可能性を消してしまう。好きな歴史上の偉人とか戦国武将とか言って妄想みたいな憧れの像を作ってしまうことは何にもならない格好悪いことに思う。信長も自分と同じだ、とか、信長のこういう部分を自分も持てるようになりたいとか、ほんの少し自分の舵取りを変えるだけで自分だって信長のようになれる、とか。いま目の前にあることに対して、この本を読んだ結果として、次の一手を変えてみようと思たら、変えることで自分のこれからが違う風景を広げていくと素直に思い描くことができたなら、そういうことは確かにあるんだと僕は思う。歴史というものから学び、その延長線上に自分というものの現実を更新する道筋を発見する。歴史を自分の中に取り込んでいく。この方法は自分を拡張していくためのとてつもない可能性だ。もっともっと知りたい。学びたい。様々な世界を自分というものに重ねることだ。

    信長と自分は同じだ。そう思えるからこそ、信長から学ぶことができる。

  • 信長感が変わった。そして謙信感も変わった。謙信がワールドチャンピオンのようなドラえもんのような扱いだったんだなぁ。そして明智光秀が裏切った理由も気に入った。できたからやった。アムロの脱走みたいなもんかな。

  • 天才でもなく最強でもなかった信長。
    極めて模範的な戦国武将で、商人肌。
    色々異論はあろうが、相変わらずバシバシ言い切る倉山さんの語り口も面白い。

    もっとも、天下取った辺りから急に調子こき出したという、その辺りからなんかいい加減感は否めない。

  • 天才でも魔王でもなく体育会系で人の良い熱いオッさんとしての信長。確かに独創というよりアレンジャーとしての側面が大きいし権威も利用していたと思う。筆者のいうとおり凡人であるが故の飛躍はあったのだろう。金持ちの二代目だとしても修羅場潜って全国統一に近づいたから凡夫と言い切るのはどうかと思うが筆者は努力して近づこうぜというメッセージなので好感は持てる。

  • 倉山先生の信長解説。歴史上ダントツ人気だった秀吉は先の敗戦後、朝鮮出兵が仇となり英雄視できなくなり、代わりに信長が天才、魔王となってきたらしいが、司馬遼太郎の影響は恐ろしいが、時代によって評価が変わるのは仕方ない。実のところは庶民に優しく部下の相談にのり、戦下手ゆえの土下座外交、また6代将軍足利義教を倣してたところが多いとの事。もし謙信の急死がなければ今川義元レベルだったとか、信玄の死のタイミングとか歴史はおもしろい。 竜馬と同様、才能やエキセントリックではなく努力と工夫、行動力が魅力であると。

  • 織田信長と言えば覇王というイメージがあり、そのイメージの元、桶狭間の戦いとか、稲葉山城攻め、姉川の戦い、延暦寺焼き討ち、本能寺の変といった出来事が、大河ドラマなどで描かれていて、できれば近づきたくない上司のようなイメージがあったのだが、そういうイメージがついたのは戦後の話で、戦前以前の戦国大名と言えば豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信であり、織田信長はそれほど注目された武将ではなかったという。また、覇王とかワンマンというイメージもなく、権威を大切にし、ダメ部下にも根気よくあたり、ノルマのゆるい大名だったという。
    別の観点から織田信長を見ることができてよかった。

  • この数年感じることは、学校で習ってきた歴史上の有名な人達の別の姿が紹介されることが多くなってきた、ということです。有名な武将の二代目(豊臣秀頼、武田勝頼、今川氏真等)についても認識を新たにしました。

    この本を読みえた今、、創造的破壊者・比叡山焼き討ちをした冷徹な人・長年仕えた部下も平気でリストラする合理主義者、と私がとらえたいた「信長像」を、かなり見直すことになりました。と同時に信長は、他の武将と同じく、戦国時代を悩みながら生きていた、人間らしさを感じることができました。

    著者の倉山氏も、たしかに信長が本能寺の変で、明智光秀に殺される前の数年間は、ひどい振る舞いが目立つ、と述べています。現在では、信長が家督を引き継いでからそこまでに地道に苦労していた部分があまり触れられていないような気がします。この本では、若き時代に、強い武将に囲まれて苦労した部分にスポットがあてられていて、新たな信長の時代を知ることができて良かったです。

    以下は気になったポイントです。

    ・戦国時代の下剋上とは、上の権威をひたすら担ぎ続け、殿様が聞き分けのない無能者だったら、一族から別の人を立てて、言いなりになる人を据える(p19)

    ・戦国時代では抜擢人事をやった家は全て滅びている、豊臣家や織田家、明智光秀は信長と長男を殺しただけだが、織田家を滅ぼしたのは豊臣秀吉(p23)

    ・信長の魅力は、弱卒を率いて勝つこと、この差をどう埋めるかは、努力と根性(p26)

    ・農村余剰人口を軍隊に入れているのが当時の社会、傭兵と違って農民出身の兵隊は逃げたら帰るところがない、だから必死に戦うので強い軍隊になる(p28)

    ・秀吉の天才ぶりとして、有名な刀狩りと同時にやった「海賊停止令」である、海賊は存在そのものを認めないという立場を打ち出し実現させた、これに欧州が追いついたのは、1856年のパリ条約(クリミア戦争の講和条約)である(p30)

    ・今でこそ侵略は悪いと思われているが、当時は褒め言葉であった。どんなに速くても1919年のベルサイユ会議まではそんなことは言っていない。1928年の不戦条約で初めて公式に侵略戦争は良くない、と言われた(p39)

    ・戦国大名のうち、江戸時代まで残った大名の実に半数が愛知県出身、徳川300年の礎となった、なので世界でもまれに見る平和な時代になった(p54)

    ・組織を育てようとする場合、号令・命令・訓令の順番を飛ばしてはいけない。部下にどれだけ裁量を渡していくのか、という話である(p55)

    ・信長が功績のあった人にどれだけの恩賞を与えるかというと、今川義元に一番やりをつけた人と首をとった人の場合は、一生遊んで暮らせる程度(p75)

    ・総大将が習うべき鍛錬は、馬術と泳術である。逃げるのに必要なので。次いで、鷹・鉄砲・弓術・兵法(剣術)・相撲である(p95)

    ・下剋上が激しいのは、畿内周辺(四国含む)だけ、広がっても東海、北陸あたり。中国地方は毛利氏が乗っ取ったのみ、東北地方は信長の死後までなし、九州はない(p109)

    ・実際の戦いは、今でいえば選挙の投票日、確かに逆転のどんでん返しもあるが、大抵はその前に決着がついている。現代の選挙も戦国合戦も同じ(p113)

    ・籠城は、援軍が来てくれる時以外は、やった瞬間に負けなので(p116)

    ・信長の「天下布武」でいう「天下」は、畿内のこと。全国統一の意味で上杉謙信や武田信玄に送り付けたら、宣戦布告となる(p134)

    ・延暦寺にいた女子供を虐殺した理由は、退避勧告を無視して非戦闘員をそこにおいていたから、延暦寺の責任である(p160)

    ・信長が絶体絶命な危機を乗り越えた理由は、1)寝ないで働く、2)予想外に好転したときのことを考える、3)弱い奴からつぶす、4)進撃速度である(p183)

    ・長篠の戦で死傷者が多いのは鉄砲戦だからではなく追撃戦によるもの、追撃戦では武田方の殿軍にかなりの数を返り討ちにされている(p196)

    ・信長は仏教勢力の大半とは戦ったが、神社を攻撃したことはない(p214)

    ・1576年(天正3)11月には信長も、右近衛大将となる、武家の平時の最高職である。有事の際は、征夷大将軍である(p213)

    ・小姓と男関係を結ぶのは、当時の戦国大名の義務である、例外は、秀吉と家康(井伊直政を例外)である(p244)

    ・最大の脅威である上杉謙信の死を境に、本能寺までの3年3か月の信長は、ガラリと変わる。よく言われる「万人恐怖の信長」が始まる(p256)

    2017年10月7日作成

  • 歴史の授業やドラマで描かれている織田信長像は本当に正しいものなのか?という視点で著者が史実を分析した本。
    なるほどと思えるものも多く、興味深い内容だった。

  • 憲政史家の倉山満が織田信長を語る一冊。

    信長の人気が出たのは戦後で、江戸時代から戦前までは一貫して秀吉が人気だった(特に明治維新後は朝鮮出兵というファクターもあり)とか、他の歴史家や作家が言及しないことに言及してて面白かった。

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著者プロフィール

憲政史家

「2023年 『これからの時代に生き残るための経済学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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