大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか (ベスト新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784584124758

作品紹介・あらすじ

日本国民が人種差別の歴史に終止符を打った!肌の色が違うがために辱められ、惨めな境遇を強いられてきた民が、日本の働きによって重い鎖から解き放たれた。

感想・レビュー・書評

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  • 第二次大戦後に国連大使を務めた外交官・加瀬俊一の息子であり、自らも外交評論家として世界各国で講演活動を行う著者が、先の大戦における日本の真の功績を紐解く。「なぜ日本はアメリカと戦わなければならなかったのか」・「東京裁判は違法」などの正しい解説を添えながら、白人至上主義による支配から東南アジアの国々を守って独立させた「大東亜戦争」の英雄と讃えられる日本国の凄さを物語る。

  • この本は読むべきです。
    御前会議の様子

  • 著者は加瀬俊一〈かせ・としかず〉の子息である。名前は知らなくても誰もが必ず一度は見たことがあるはずだ。日本が大東亜戦争に敗れ、ミズーリ号で降伏を調印した際、重光葵〈しげみつ・まもる〉外相に付き添っていた外交官である。
    https://sessendo.blogspot.com/2018/08/blog-post_29.html

  • 歪められた歴史認識、植え込まれた自虐史観を・・・日本人の心と誇りを取り戻す時期にきていると感じさせてくれる書籍です。

    争いをせず、歴史を正しく認識し、未来を創っていくために必要な心を持ちたいですね。

  • なぜアメリカは対日戦争を…の本を読んで、つながりでこちらも読んでみた。
    最終章のあたりで出てきた、連合国→国連の誤訳、初めて知りました!(無知…)驚き!
    戦争から時が経つにつれて、大東亜戦争が導いた結果(人種差別や、独立についてなど)が、自国である日本人の頭からどんどんなくなっていってしまってるんだなぁと。感じました。世代交代は進むけど、本当はこんな意義があったんだよといい続ける人が圧倒的に少ない。そのせいだなたぶん。

  • なるほどな。と思った。日本人で良かったと。心から思える。

  • 日本が先の戦争でポツダム宣言を受諾して負けたのは動かしがたい事実なのですが、昔歴史の授業で習った時、なぜ、日本が当時占領していた国が元の連合国の植民地に戻らずに多くの国が独立していったのかが分かりませんでした。

    終戦後に、東南アジアを領有していた、イギリス・フランス・オランダ・米国は、なぜ戦勝国でありながら元の状態に戻せなかったのでしょうか。

    この本では、そのようなポイントについて解説されています。東南アジア諸国の人達に、独立させる気持ちにさせるのに、日本が関与していたのであれば戦争を戦った甲斐があったというものでしょうか。

    毎年、終戦記念日までに先の戦争を自分なりに理解するために、1冊の本を読むことにしていますが、今年はこの本を含めて記憶に残る本が二冊になりました。

    この本の内容を鵜呑みにすることなく、あの戦争が日本にとって、また近隣の諸国にとってどのような影響を与えたのか、永遠のテーマとして見つめていきたいと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・大本営は、敵によって本土が分断された場合に備えて、第一総軍(東海から東北)と、第二総軍(九州、四国、中部)を担当、北海道は北部軍のもとにおかれた(p23)

    ・ルーズベルト政権は、昭和14年7月、15年1月に失効する日米通商航海条約を延長しないことを決定し、日本に通告した、これは明治44年に締結されたもの(p40)

    ・対日講和条約第一次案は、ドイツに課せられたベルサイユ条約よりも、はるかに苛酷なものであった(p44)

    ・ルーズベルトは、日本が7月28日に北部仏印進駐を強行した10日前に、日本本土爆撃作戦を承認していた。しかし欧州戦線が急迫して大型爆撃機をイギリスに回す必要があり、中国に供与できずに実施されなかった(p46)

    ・トルーマン大統領に極東米軍最高司令官を罷免された、マッカーサーは、昭和26年(1951)5月3日に、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、日本はアメリカの経済封鎖により、自衛のために戦わざるを得なかったという証言を行ったが、日本には報じられなかった(p47)

    ・陸軍、海軍ともに、南方作戦についてなんの準備もしていなかった。陸軍はソ連との戦争に備えていたし、海軍はアメリカと日本海海戦ような艦隊決戦を行うことしか想定していなった(p49)

    ・東郷外相は、A級戦犯とされ獄中病死した。朴茂徳として鹿児島で生まれ、東京帝大卒業したときに、東郷に改めた(p52)

    ・明治に入るまでは葬儀にはかならず白い服を着ていたが、明治政府が、黒服を着るように全国へ通達をした(p59)

    ・日本国民がいだいていた二つの大きな悲願、一つ目は不平等条約の撤廃、二つ目が、人類平等(p60)

    ・日本が占領したどの地においても、アジアを白人から解放しようと夢見る思い入れ、が現地の人々の独立への願いと共振し、アジア全域にわたって独立への勢いが燃えさかった(p64)

    ・大東亜会議が、昭和18年10月に東京で開催された。参加者は、日本の東條首相、中華民国の汪兆銘、タイの首相代理殿下、満州国の国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラー・ボース主席である、ビルマ(8月)とフィリピン(10月)は日本が独立させていた(p65)

    ・ボースは、本会議は、戦勝国間の会議ではなく、解放された諸国民の会議であり、新秩序を建設するものであると、説いた。アジア諸民族のリーダーが集まって人種平等の理想の世界をうたった、世界史の大きな転換点であった(p70、72)

    ・日本が敗れると、イギリスはインパール作戦を戦ったインド国民軍を反乱軍として、ヒンズー教・シーク教・イスラム教徒の三人の将校をイギリス国王に対する反逆罪として、裁判にかけたが、数百万人がインドの街頭を埋めた。ついにはインド将兵が部隊ぐるみで抗議に加わり、イギリスはインドの独立を認めざるを得なかった(p78)

    ・インドネシア独立宣言文の年号は、日本に感謝して、皇紀2605年からとって「05817」としている。彼らはイスラム国なので、イスラム歴を用いることができたが、いまでもその年号が刻まれている(p83)

    ・平成10年上半期の邦画では、「プライド運命の瞬間」が観客動員数で第一位となった、その年の通年では「踊る大捜査線」(p88)

    ・天皇陛下が側近者に対して、対米戦争をもたらした原因として、「第一次世界大戦後のパリ条約において、日本の主張した人種平等案が容認されず、カルフォルニア州移民拒否により、国民を憤慨させたことにある」と述べた(p101)

    ・東京裁判では、インドのパル判事のみならず、オランダのレーリング判事、フランスのベルナー判事の三人が、多数意見に反対する判決書を提出したが、報道されなかった(p103)

    ・昭和天皇の崩御により、164か国の元首、代表が弔問に訪れた。明治天皇時には、10数か国、大正天皇でも30数か国(p105)

    ・マリアナ諸島(サイパン、テニアン、ペリリューなど)、マーシャル諸島、パラオ諸島の日本による統治は20年程度であるが、島民はいまでも日本を慕っている。白人統治と異なり、島民を差別することなく、教育や民生向上に努めたから(p107)

    ・アメリカや欧州の植民地では、現地人の将校が白人兵の上に立って指揮することは考えられなかった。日本軍では、多くの朝鮮人が、将官・高級将校として、日本人将校を指揮した(p110)

    ・昭和14年に朝鮮では創氏改名が許された、朝鮮では8割、台湾では2%程度。王族、高級将校だった朝鮮人は、朝鮮名を名乗り続けた(p110)

    ・アメリカでは白人が入植した当初から黒人奴隷を使役したが、1863年に奴隷解放宣言が発せられるまで、700万人以上の黒人奴隷がアフリカから拉致されて酷使された(p113)

    ・1950年当時、アメリカでは黒人の血が8分の1以上混じっていれば、法的に黒人として定義された。これは、ナチスがユダヤ人を迫害するにあたって定義(5分の1以上)した、ニュールンベルク法よりも苛酷であった(p123)

    ・多くの州では、白人と黒人との性交渉と、結婚を犯罪としていたが、1967年になってようやく最後の3つの州において撤廃された。(p123)

    ・1976年フォード大統領は、大戦中に日系人を強制収容所に送った、大統領行政命令を無効にする、新しい大統領令に調印した(p125)

    ・ペリリユー島上陸作戦において、アメリカ軍はそれまでの歴史において、どの地でも見られなかった、40%という最大の戦死傷率を蒙った(p140)

    ・石清水八幡宮は、京都の南西を守護する神社として、平安時代に建立され、徒然草にも登場する、社格が伊勢神宮と並ぶ(p144)

    ・残存していた全海戦力をあげて日本海軍が出撃した、レイテ沖海戦が、19年10月23-26日に行われ、航空母艦4隻、武蔵を含む戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡4隻、駆逐艦11隻、潜水艦5隻を一気に失った、最大の損害。アメリカは32隻の航空母艦のうち、3隻と駆逐艦3隻を、特攻攻撃で失った(p145)

    ・昭和19年10月に急場をしのぐ戦術として採用された特攻戦法は、昭和20年1月には、戦略となった(p157)

    ・特攻攻撃は、通常の航空攻撃と比べてその効果ははるかに大きいと、スイスにて論評された。昭和20年5月24日の沖縄戦において、日本軍は111機の特攻機を喪失したが、アメリカ軍は11隻の軍艦、輸送船を沈められた。戦死者は5000人を超えて、第三艦隊は、第五艦隊と交替する必要があった、地上戦では8.9万人の日本将兵が戦士したが、アメリカ側は、陸軍と海兵隊で7000人以上戦士、海軍は5千人戦死した(p160、162)

    ・アメリカが占領下で行った調査では、日本は敗戦の日に、陸軍機・海軍機を合わせて、1万2千7百25機の爆撃機、戦闘機、偵察機、を堅固な掩体の中に温存していたことがわかった(p188)

    ・日本はアジアを侵略した罪によって裁かれたが、この裁判中に、イギリス・オランダ・フランスは、マレー半島、インドネシア、ベトナムを再植民地化するために戦争していた(p197)

    ・日本が独立を取り戻した翌年(昭和28年、1953)に、戦犯の即時釈放を国会にて決議、これは」4000万人の署名を受けたなされたもの。当時の人口の60%、成人人口のほぼ全員が署名した(p202)

    ・連合国が日本全土を占領したのも、東京裁判によって国家指導者をさばいたのも、ポツダム宣言に違反していた(p214)

    ・国際連合は誤訳で、本来は「連合国」、日本が連合国を相手にして、第二次世界大戦を戦っていた昭和20年6月にサンフランシスコにおいて創立された。(p215)

    ・国際連合の加盟資格は、すべての平和愛好国で、昭和20年3月1日までに、日本やドイツなどの枢軸国に対して宣戦布告していることが条件(p217)

    ・外務省も新聞も、敗戦後の昭和20年10月までは、国連を「連合国」と正しく訳していたが、外務省が戦前存在した「国際連盟」をもじって「国際連合」と呼び換えた(p218)

    2015年8月9日作成

  • 人種差別主義の大統領により、不平等条約や経済封鎖で戦争を強要され、精神力で戦った日本。世界に白人による人種差別撤廃、アジア・アフリカの独立をもたらした。戦後占領軍による徹底したプログラムで自虐史観を植え付けられた。

    自虐史観のマインドコントロールの根深さを思い知らさせます。被害者意識で鬱憤晴らし、でなく未来にどう生かせるか。

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著者プロフィール

外交評論家。慶應義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長。1977年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問を務めたほか、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。公益社団法人隊友会理事、東京国際大学特任教授。著書に『ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか』『アメリカはいつまで超大国でいられるか』(ともに祥伝社新書)、『昭和天皇の苦闘 巡幸と新憲法』(勉誠出版)『「美し国」日本の底力』(共著、ビジネス社)など、多数。1936年、東京生まれ。

「2022年 『日本と台湾 なぜ、両国は運命共同体なのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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