新書862目に見えない世界を歩く (平凡社新書 862)

著者 :
  • 平凡社
3.89
  • (4)
  • (2)
  • (1)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 109
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582858624

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • #3206ー29

  • 先日読んだ本。タイトルに『「全盲」のフィールドワーク』とある通り、視覚障害のある文化人類学者による著作。前半では自分の半生や盲人史研究について語り、後半では触ることの良さをものすごい勢いで語る。

    どちらかというと目が見えない人の日常生活について知りたかったのでそのあたりに関して言うと、著作の中の川柳がだいぶ参考になった。
    「目覚めれば ボタンを押して 知る時間」
    「色は無視 手触り任せ 服選び」
    「自分では 必要ないが 電気点け」
    最後のやつはちょっとおおっとなった。

    パソコンやスマートフォンの台頭によって点字離れが進んでいる話なども興味深かった。世代や視力を失った時期によって視覚障害者文化に違いが出てきているというのは、あまり考えが及んでいなかった話である。著者は点字に思い入れが深く、点字文化の衰退を惜しんでいるようだ。

    しかし、国立民族学博物館がよく面白そうな展示をやっているなと思ったら、こういう方が働いていたのですね。
    あと107ページにスッと書いてあった「専業のイタコもいなくなり」という文が地味にショックでした。…もう…いないのか…。

  • 2021年1月期の展示本です。
    最新の所在はOPACを確認してください。

    TEA-OPACへのリンクはこちら↓
    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00536419

  • 配置場所:摂枚普通図書
    請求記号:369.275||H
    資料ID:95180088

  • ↓貸出状況確認はこちら↓
    https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00260680

  •  幸か不幸か、視覚障害者は便利な視覚を使えない(使わない)ので、職文化の価値に気づくチャンスを手に入れました。ピンチ(視覚を使えない不自由)がチャンス(視覚を使わない自由)をもたらしたと総括できるでしょう。「触常者宣言」に以下のような記述があります。「たとえば、彫刻作品にゆっくりさわってみよう。触覚の特徴は、手と頭を縦横に動かして、点と線、面、立体へと広げていく創造力になる」。(p.81)

    「目が見えない」琵琶法師が、「目に見えない」合戦の場面を語る。「目が見える」聴衆は、音と声を「目に見える」画像・映像に変換して、琵琶法師の語りを味わう。つまり『平家物語』とは、聴覚情報と視覚情報を交流・交換させる語りの芸能だったといえます。語り手と聴き手の創造力が交流・交換することにより、『平家物語』は中世社会で大流行しました。
     現代は想像力を発揮するまでもなく、色々な「絵」を見ることができます。しかし、視覚は視覚、聴覚は聴覚というように、人間の感覚が分断され、交流・交換の楽しさが失われているのではないでしょうか。「交わる人」としての触常者の歴史は、当事者間でも忘れ去られてしまいます。当事者が触常者の歴史的役割を再確認することも大事です。(p.84)

     僕の旅の思い出は「○○で食べた××の味」の記憶で満たされている。各地に足を運び、手と舌で得た情報を身体に刻み付ける。今のところ味覚・触覚を記録する媒体はないが、カメラや録音機のようなデジタル化ができないのが舌触り・手触りのよさかなとも思う。(p.103)

     五感といわれるように、人間は多様な感覚を保持しています。見せる講演があるのなら、聴かせる、さわらせる講演があってもいい。視覚以外の感覚を再評価・再認識する姿勢も忘れてはならないでしょう。「聴かせる、さわらせる講演は反近代ではなく、脱近代を志向する」と、僕は自分を鼓舞しています。(p.200)

    「これは何だろう」と考え、袋の中の動物フィギュアを手探りした感触は、長く深く身体に記憶されます。手を動かし能動的に獲得した情報は、体験として残るのです。視覚は量なり(より速く、より多く)、触覚は質なり(より深く、より長く)。これは全盲生活30年を経て、無視覚流にたどり着いた僕の素直な心境です。(p.229)

  • 『わが盲想』のモハメド・オマル・アブディンもそうだったが、著者も同音異義語を巧みに使う。アブディンの場合はそれが単にオヤジギャグであったりするのだが、広瀬の場合それは、「無視角、無資格、無死角」「健常者、見常者」など、造語まじりの同音異義語で新しいものの見方を提示している。また同音ではないが、「見常者」に対して「触常者」、「見識」に対して「触識」などの概念を示すことで、視覚中心のマジョリティの文化に対して、そうでない文化が存在すること、そしてそれは見常者も享受する価値のあるものであること訴える。そしてその具体的方策をどのように実践しているかを語る。その語り口は新たな世界を切り開いている者のそれで、読んでいるこちらもわくわくしてくる。

  • 国立民族学博物館准教授であり、また全盲の研究者である。
    著者の生い立ちと共に現在の研究テーマを素人の私たちにもわかりやすく解説している書である。
    今まで、目の不自由な方、当事者が、特にどのようにして勉強をしてきたか、また就学中は将来のことをどのように考えてきたか等、現在の自身に到るまでの人生を聞く機会がなく、興味を惹かれた。
    著者は30年ほど前に京都大学で学んでいる。当時は今ほど障がい者に対するサポートもなく、大変な努力をして勉強をしてこられたのだと思う。しかし自身の一般的には負と思われる障害ということを、研究テーマにして民博の仕事を推し進めていくパワーには敬服させられる。
    近年はパソコンの普及、その読み上げソフト等により、点字を習得せずとも楽に社会とコネクトできるようになり、点字習得率が落ちているという。
    しかし著者は「目から得られる情報量の多さとは別の、人間が聴覚や触覚から得られる情報の余情を感じる能力、想像力の大切さを説いている。
    現代人はあまりにも多くの情報を瞬時に得られ、しかしそれによって失ってしまった感覚も多いのではないかと痛感した。

全11件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

自称「座頭市流フィールドワーカー」。
1967年、東京都生まれ。13歳の時に失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。2000年、同大学院にて文学博士号取得。専門は日本宗教史、触文化論。01年より国立民族学博物館に勤務。
現在はグローバル現象研究部・准教授。「ユニバーサル・ミュージアム」(誰もが楽しめる博物館)の実践的研究に取り組み、“さわる”をテーマとする各種イベントを全国で企画・実施している。
『目に見えない世界を歩く』『さわって楽しむ博物館』『それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける!』(編著)『知のスイッチ』(共編著)など、著書多数。

「2021年 『ユニバーサル・ミュージアム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

広瀬浩二郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×