私のフォト・ジャーナリズム (平凡社新書)

著者 :
  • 平凡社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582855586

作品紹介・あらすじ

人に出会い、撮り、伝えることとは何か-。パレスチナ、エル・サルバドル、アフガニスタン、フィリピン、山谷、南アフリカ、アマゾン、コソボ、シルクロード…紛争地、辺境に生きる人を撮り続け、たどり着いた写真/報道の可能性。人種や宗教に分断された現代世界と、そこに生きる人々の希望を写し出す。

感想・レビュー・書評

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  • 「撮る」という行為の一方向性について、特に人間を撮る場合のそれについてもやもや考えていたときに、大学時代の先輩が薦めてくれた本。
    30年にわたり世界中の紛争地に生きる人々を撮影してきた著者が、何を想い何にカメラを向けてきたかを記す一冊。
    「時には、撮影に迷ったことも、自己嫌悪に陥ったことも、機材を投げ出して帰りたくなったこともある。そんな自分の苦悩や喜びを、そのままに書き記した」(著者公式サイトより)そうで。そうした葛藤を抱きつつも「伝え」続けたまなざしを辿るにつれ、私の中のもやもやも晴れていきました。

    photograph is to frame, and to frame is to exclude(Susan Sontag)という、写真の基礎を認識した上で、「事実かそうでないかではなく、そこから何かを感じ、私たちは何に目を向けるべきなのかが問われている」という著者。
    現実(真実、ではない)を切り取るだけでなく、自分の哲学(信念?)を世に問う覚悟が伴わないと。撮る側の主体と意識が問われる・・・その覚悟がなければ、現実に負けるわけですね。
    その意味で、「フォトジャーナリスト」は「フォトグラファー」とは決定的に違うんだと理解しました。
    (ただ、映像の世界で考えると、自らのパーソナルな主観・世界観を表出することが最優先順位にあるドキュメンタリーと、可能な限りは客観性や中立性をつねに意識におかなければいけないジャーナリストとは、本来は水と油の関係のはず。その意味では長倉氏は「フォト・ドキュメンタリスト」なのか?まぁ言葉遊びの感もあるけれど。)


    そして撮影者の哲学・まなざしに、被写体への誠意、被写体に「捉まる」覚悟があって欲しかったんだなぁ自分は、と気付きました。
    長倉氏の場合、被写体へwith all due respectで向き合い、相手のまなざしも正面から受ける。問いを持って撮るから、snapshotに留まらない被写体への距離の近さがある。撮影それ自体は一方的行為だけれど、まなざしの交換が成立している点が、相手を人としてきちんと扱っているように感じられて、魅力なのかなと。
    逆に言えば、被写体を、”Someone like us, who also sees"ではなく、”Someone to be seen"として固定してしまうような中味のない写真に、反感を抱いていたんだと。相手の尊厳のためにも。
    その線引きだって、結局は自分の信念に基づくしかないんだろうけれど。写真に何を求めるかによっても違うしね。

    フォトジャーナリストになる覚悟も意思もないけれど、一億総カメラマンな時代なので、自分のまなざしにも気をつけなければいけないと自戒。
    特に海外に行くとシャッターを切る指が軽くなりますが、人を撮る場合"Someone like us, who also sees"であるという基本的意識を、忘れないように。
    自分は何を撮りたくて今、シャッターを切るのか。なかなかその都度自覚するのは難しいけれど、何事も簡単にできちゃうことに伴う責任かなとも想います。

    写真が趣味、という方にはお勧め。一緒にSusan Sontagの著書や、「それでもドキュメンタリーは嘘をつく」なんかも読むとバランスよくなるんではないかと。

  • 読めない漢字はあるものの、読みやすかった。
    著書自身が「戦争」を肌で感じ、経験し、現場の様々な立場の人々との対話を通して、自身の考えが変わり、自身のフォト・ジャーナリズム論を確立していく。
    そして、人間の本質を追い求めていく中で名言がたくさん出てきた。中でも、印象的なのは
    「人間は持ちすぎるとよくないのかもしれないね」
    お金がないから娘を助けることができない貧困や地球の未来のために自然と共に生き続ける先住民たちを読み、日本に生まれたことで贅沢な生活をしている自分に気づくことができました。

  • 私が尊敬する報道写真家・長倉洋海さんのフォト・ジャーナリズム論。いや、フォトを取り去って、ジャーナリズム論でもよい。自分のこれまでの取材歴を語りながら、伝えるとはどういうことか、を追及している。それは、人間とは何か、という究極の問いにもつながっている。世界各地の戦場を撮った素晴らしい数多くの写真の裏にある考え方を知ることができる。

  • 著者は、30年に亘り世界各地で写真を撮ってきたフォト・ジャーナリスト。
    これまでに訪れたのは、白人帝国から黒人国家として独立したジンバブエ、百万の難民が苦しむソマリア、イスラム教シーア派民兵と政府軍が戦うレバノン、ソ連軍の侵攻したアフガニスタン、アメリカが内戦に介入したエル・サルバドル、アパルトヘイトが支配した国南アフリカ、バルカンの火薬庫コソボなどの世界の紛争地のほか、アマゾン、シルクロードなど50ヶ国近く。アフガニスタンでは、9.11同時多発テロの前々日に自爆テロに倒れた英雄マスードと100日ほど一緒に暮し、その写真集は世界にも広く知られている。
    著者は、フォト・ジャーナリズムとは「ニュース写真ではなく、記事の補足写真でもなく、写真そのものが語り出すもの、あるいは写真から思ってもいなかったイメージが引き出されるようなルポルタージュフォト・・・人間生活全般に渡る幅広い興味をそそり、人間の機微を表現し、さらには人間の本質に迫るようなもの」であると言う。
    そして、「テレビのように用意された答えを差し出し、「こうです」と押しつけるのとは違って、写真には、すべてが提示されていないからこそ、それを補うための想像力が必要となる。・・・写真の一瞬に込められた意味を想像すること。その瞬間の前と後、あるいは、写っていないものにまで思いをめぐらせること。さらに写っているものに、どう自分を重ね合わせ、何を感じ取るかということ。想像力を伸びやかに働かせることで、私たちは周りに流されずに、「いまの時代」を自分なりに感じ取ることができるはずだ」と語る。
    インターネットで、24時間、世界で起こっている戦争や事件の情報を得られる今の時代だからこそ、TVニュース等で報道されるほんの一面以外の事実に想像を巡らせ、その意味を感じることが求められるのではないだろうか。そのために、著者の目指すようなフォト・ジャーナリズムの存在価値は、決してなくなることはないであろう。
    一瞬を捉えた一枚の写真に賭けるフォト・ジャーナリストが、その一枚の裏で何を考え、何を感じているのかが綴られた一冊である。
    掲載されている50枚の写真も印象に残る。
    (2010年12月了)

  • 戦場カメラマンになったころの著者は名声を望んでいたのだと思う。
    やがて、被写体との関係から人間の本質に迫ろうというスタイルに変化していく。そこが、長倉氏の写真の魅力なのだ。

  • フォトジャーナリストである筆者の撮影した作品に特別な思い入れがある訳ではなかったので、単なる自叙伝のようなものとして読んだ。そして、ロバート・キャパの文章なども読んでいたので、自ずと比較しながら読むことになった。

    本文自体は大変読みやすいものの、写真家の文章としては特別に優れているとは感じられなかったのは、『わたしのフォトジャーナリズム 戦争から人間へ』というタイトルによるところが大きい。フォトジャーナリストとして生きるようになった過程は筆者に初めて触れる人でなければ必要ではないかもしれないし、マースードへの思いはとても興味深く読んだが、「これが私のフォトジャーナリズムだ」というのならば、改めて書く必要があったかは疑問だった。

    大半の記述よりも、むしろ、この本の終盤に出てくる「伝えるためのメディア」としての写真や、テレビの映像とは違ってすべてが提示されない写真だからこそ想像力を働かせる必要があるという指摘。そもそも、どんな迫力があるテレビ映像でも、決定的な一枚(の写真)でも、想像力を働かせることがなけれ心をすり抜けてしまうだけだという言葉に、映像をはじめとする様々な情報に絶えずまみれるせいで想像力を働かせることができなくなっている私たちの問題点を再認識させられたのはよかった。

  • パレスチナ、エル・サルバドル、アフガニスタン、フィリピン、山谷、南アフリカ、アマゾン、コソボ、シルクロード…。世界各国を駆け巡ったカメラマンの軌跡です。彼の写真と文章にはかなり私、影響を受けております。

    僕は長倉洋海さんにはいままでに3回あったことがあって、写真展にも足を運んだことがございまして。今回紹介する本は長倉氏による自身の記録と今まで彼が撮影してきた写真がところどころにはさまれています。

    初めて氏の世界に触れるにはいいテキストだなと思います。僕は彼の写真や文章はほぼ全てに目を通しているので、海外の戦場に関しては特に目新しい写真はないのですが、国内は山谷で労務者と一緒に生活をしながら撮影したといわれる写真には思わず目を奪われましたね。その写真は一日の仕事を終えて路上で一杯やっている諸先輩方の写真なのですが、これがまたなんともいえないものがありましてね。

    おそらく撮影されたのはいまから2~30年ほど前の山谷だと思うのですが今でもここは時が止まったままなのでしょう。僕が海外に目を向けるきっかけとなったのは氏の写真によるところがかなり大きいんだとこの記事を書きながら改めてそう思いました。

    でも、彼がフォト・ジャーナリストになったのはかなりのリスクを現在でも背負っているからであって、彼のマネをしようと思っても出来ませんが、自分の中で少しでも外の世界を見てみようと思う気持ちさえあれば。またいつか戦場以外でこういうところにいけるかもしれない。そんなことをふっと考えてしまいます。

  • 写真家長倉さんの最新のいろいろがわかる1冊。今までおもに子ども方面から長倉さんの写真を眺めていたけれど、マスード方面にも足を踏み込みたくなりました。

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著者プロフィール

1952年北海道釧路生まれ。写真家。同志社大学法学部卒、通信社勤務を経て1980年以降、フリーランス・フォトジャーナリストとして世界の紛争地を精力的に取材した。今日まで南洋から東南アジア、中東、シルクロードを踏破し、直近ではシベリアの少数民族ネネツなど極寒地の人々と暮らしを撮った。代表作にアフガニスタン抵抗運動の指導者マスードに密着取材した「マスード 愛しの大地アフガン」により国際的に高い評価を受け国内では第12回土門拳賞を受賞した。他に「エルサルバドル 救世主の国」(講談社出版文化賞)など著書、写真集多数。

「2020年 『女、美しく わが旅の途上で』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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