オカザキ・ジャーナル

著者 :
  • 平凡社
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本棚登録 : 131
感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582836820

感想・レビュー・書評

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  • オカザキ史上“伝説の”2大連載エッセイ、初の単行本化! 『朝日ジャーナル』の「週刊オカザキ・ジャーナル」に加え、『広告批評』に掲載された、宗教人類学者・植島啓司との往復通信「コトバのカタログ」を完全収録。

    20年前のエッセイとは思えない!

  • オカザキさんの作品に、そんなに啓蒙されたわけではないけれど、読むとやはり、90年代から現在まで、「どっこいそれでも」わたしたちは時代に生きている、感を感じずにはいられません。

  • まんが

  • 初読

    91~92年朝日ジャーナル連載のオカザキ・ジャーナル、
    92~93年広告批評連載の植島啓司とのfax通信コトバのカタログ
    を収録、2015年に発売。
    当時の岡崎さんは27~30歳。

    大人だなぁと思うところと、今の私の年齢から見ると若いなぁと感じるところと。
    アンアンの読者ヌード、懐かしい。
    ああーそういえばこの感じだったかなぁ
    確かに「綺麗じゃないから嫌」って言ってたわ。
    けれど、それだけではないモヤっとした感じ。
    あった、あった。

    ・アンドロギュヌスといっても無性の性と両性の性があるんじゃないでしょうか?

    ・ぼくの考えるエロスとは、生物学上のセックスとはまったく違う何か、反対語だと言ってもいい。
    過剰であり逸脱であり、きわめて精神的。
    確かに性的な欲望に不可分に結び付いてる、だけどそれだけじゃない。

  • 20年ほど前、平成の初め頃に「朝日ジャーナル」で連載してたのと「広告批評」に連載してたのを集めた本が図書館にあり、借りてきて読む。年明けから世田谷で「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」をやっていたので、そういう関連の出版か。

    表題作「オカザキ・ジャーナル」は、「朝日ジャーナル」に1991年初頭から92年半ばにかけて連載されたもので、朝ジャの休刊にともない連載は終わったらしい。岡崎が「泣いて変えてもらった」という、この連載の候補タイトルが「平成ハルマゲ丼」だったところに、時代を感じる。このとき岡崎は27歳~28歳。

    併収の「コトバのカタログ」は、毎月のテーマをもとに岡崎と植島啓司が交わしたFAX通信を「広告批評」誌で1992年半ばから93年末まで連載していたものという。テーマは17。顔、エイズ、ライブ、スキャンダル、ヌード、92年、神様、結婚、うわさ、名前、お金、時間、エロス、権力、年齢、メディア、言葉。このとき岡崎は28歳~30歳。

    印象に残ったのは、漫画の性表現規制にまつわる事柄を書いた「インチキ魔女裁判」@オカザキ・ジャーナル。

    ▼まぁこの問題では「女が単なる性の道具としてあつかわれる」ことがかなり重要視されてるみたいだけど、でも、ポルノに限らず他者をていのいい「モノ」として見たりあつかうのは日常茶飯な訳だし、"自分がモノ"になるという自我崩壊のプロセスとゆうのも気もちの良いものだと思うのだが。(p.43)

    ちょっと似たようなことを、テーマ「ヌード」@コトバのカタログのやりとりの中で植島が書いている。

    ▼ヌードを撮るというのは、単なる裸を撮るというのとは違い、ひとつの理想の実現だった、と彼[『ザ・ヌード』のケネス・クラーク]は言う。だけど、その「理想」というのが、多様化し、分散化した現在では、もうなんでもよくなっちゃった。それが当人の「理想」だと言えば、誰も文句が言えない。もはや普通じゃいやなんだよね、みんな。
     …(略)…
     さて、最後に、ポラロイドに戻りたいのだけど、自分のヌードを撮りたくない人なんてこの世にはいないよね、きっと。「きれいなうちに」というのもあるけれど、ともかくモノとしての自分を確認しておきたいというのもあるわけだし。(pp.188-189、植島啓司→岡崎京子)

    その前のファックスで、植島はこんなことも書く。

    ▼これまでは見る人のためにヌードはあった。写真を撮られるということは、相手の思うままになるということを意味していた。しかし、今は事情が違う。見られる人間が主人であって、われわれは見させられているのです。(pp.183-184、植島啓司→岡崎京子)

    漫画の性表現とヌードの話はちょっと違うけど、"モノ"である自分と向かいあう(かもしれない)ところは、似てるような気がした。その"モノ"に、勝手に意味というかお話(エロいとかワイセツとか)をくっつけられるのはムカつくなーと思うし、うらがえせば、"自分というモノ"を単なる"モノ"と見ることはなかなかできなくて、何か意味をつけたくなるのかもなーと思った。

    あと、免疫がらみの本を読んでいたこともあって、「エイズ」がテーマになったFAX通信で、植島がこう書いていたのが、今では…と思った。

    ▼いよいよ、これまでの病気に対する考え方を再検討しなければならない時期にきているのかもしれません。敵は外部にあって、身体の内側に進入しようと時機をうかがっている、それに対して、人間はあらゆる免疫機構を駆使しながら対決する、そういう考え方ではダメだということでしょう。もしかすると生きるということ自体が病気なのかもしれませんしね。どうせぼくらは死ぬ存在なんだし。だから、ガンもエイズも、単に生きるスピードの問題なのかもしれません。(pp.159-160、植島啓司→岡崎京子)

    岡崎京子はだいぶ前に交通事故に遭ったあと、どうなってはるのかとずっと思っていたが、本の奥付には、「現在療養中」とあった。

    (5/1了)

  • 914.6

  • 顔の性的な性格から、マスク=顔パンツ説を提案したりとか。面白かった。

  • 2015/2/13購入

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著者プロフィール

著者経歴 80〜'90年代を代表する女性マンガ家。既存の「少女マンガ」ではない、リアルなセックス描写80〜'90年代を代表する女性マンガ家。既存の「少女マンガ」ではない、リアルなセックス描写と巧みなセリフ回しで、愛や暴力、トレンド&カルチャーが描かれたマンガを生み出してきた先駆的存在。『ヘルタースケルター』で2003年文化メディア庁マンガ部門優秀賞、'04年手塚治虫文化賞・マンガ大賞受賞。主な作品に『pink』『ジオラマボーイ☆パノラマガール』『リバーズ・エッジ』『エンド・オブ・ザ・ワールド』など。


「2015年 『恋とはどういうものかしら?新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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