- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582824896
作品紹介・あらすじ
セクハラや差別が跡を絶たないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫る。「週刊読書人」論壇時評で注目の、気鋭のデビュー作。
【詳細内容紹介】
足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない。「足を踏まれた!」と誰かが叫び、足を踏んだ人間に抗議するのは当然である。しかし、自分の足は痛くない私たちも、誰かの足を踏んだ人間を非難している。「みんなが差別を批判できる時代」に私たちは生きている。だから、テレビでもネットでもすぐに炎上騒ぎになるし、他人の足を踏まないように気をつけて、私たちは日々暮らしている。このような考え方は、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ、PC、政治的正しさ)」と呼ばれている。けれども、世の中には「差別はいけない」という考えに反発するひともいる。ポリコレはうっとおししい……正しさを考えるだけで息が詰まる……ハラスメントだってわざとやったわけじゃない……。セクハラ、パワハラは無くすべきだし、ヘイトスピーチを書き込んではいけない。それは大前提だ。しかし、ポリコレへの反発・反感が存在するのにはそれ相応の理由があるはずだ。みんながポリコレを自覚して、合理的に行動すれば、差別はなくなるのだろうか。もっとも人間はそんなに賢い生物ではないかもしれない。セクハラや差別が後をたたないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。本書は反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫っていきたい。
【目次】
まえがき
??みんなが差別を批判できる時代
(アイデンティティからシティズンシップへ)
第一章 ポリティカル・コレクトネスの由来
第二章 日本のポリコレ批判
第三章 ハラスメントの論理
第四章 道徳としての差別
第五章 合理的な差別と統治功利主義
第六章 差別は意図的なものか
第七章 天皇制の道徳について
あとがき
感想・レビュー・書評
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日経9月7日書評に掲載の本。
ポリコレをめぐる言説の考察。
「ポリティカル・コレクトネス」とは、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。しばしば、「うざい」とか「うんざり」とか否定的な意味合いを込められる。
差別はしてはいけないこと。
だけど、無自覚に差別をしてしまう自分は絶対的に存在する。
そんな自分を認めつつも、人の尊厳を傷つけず、人を思いやれる人になりたい、と思う。
だから、ポリコレ的視点で、自分の言動を常に見つめることは必要だな、と思う。
いっぽうで、行動経済学が示しているとおり、人間は常に賢い行動をとるわけではない。また、厄介なのは、差別する側にも一定の合理性があることだ。
本書の立場は、ポリコレへの反発から問題点をあぶり出し、それを乗り越えることを目指す。
民主主義は同質性を求めるので、異質な者を排除しようとすること、多様性を認める自由主義とは経済成長がないと折り合えないこと、など目を見開かせる記述が多い。
ただし、差別問題について、明確な結論まではたどり着けてない、かな。
差別はそれだけ根深い問題、ということ。
文字が大きくて1ページあたりの文字数が少ないので、サラッと読めるかと思ったが、読み進めるほどに難しくなり悪戦苦闘した。でも、さらにしっかり読み込んで、理解を深めたいと思った。 -
差別を批判するロジックを「アイデンティティ」「シティズンシップ」に整理し、その変遷と現状を説明している。文章は分かりやすく、代表的思想と人物を紹介するにも読者が辿りやすく工夫した説明なので、ここをもっと知りたかったらこれを読めばいいわけね、というのが一目でわかる。差別だポリコレだ、というその時その時の風潮になんとなく流されるんじゃなくて、ちゃんと考えてその行きつく先の話をしていきませんかという意図が伝わる。おもしろい。
思想や立ち位置というものをきっちり整理して示してくれるので、自分の考え方がどのあたりにあるのか、ということも分かって良かった。近年のいろいろなポリコレ騒動にも触れられていて、この話は疑問に思っていたけど、どうも私は土俵の違うことをごっちゃにして分けて認識できていなかったんだな、などと思ったりして。
ただ著者の主張である「ポリコレの汚名をあえて着る」というのが、いまいちくみ取れなくて申し訳ない。他の本も読めばわかるかも?
読んでいて、自分はシティズンシップ的な「市民」の理念っていまいち共感できないのだな、と思った。人間に価値と優先順位を付けるということについて明確に否定し、納得させられるような説明にあったことがないし思いつかないから、私自身は差別がいけないことだと言い切ることに不安がある。
他の本でも読んだけど(その本ではビンカーは批判されていたが、生得的にせよ、後天的学習にせよ、不都合な男女の「違い」が存在することに異論はないはず)、人間の自由意志も自律的な思考・行動も疑問視されつつあり(全く意味がないわけではないだろうが)、どうしたってバイアスが存在するのは当然のことで、そこから功利主義につながるのは至極当然だ。私も、シティズンシップ的な空虚な平等概念よりは合理的でよほど納得できる。以前哲学系のオープンチャットに入った時に高校生ぐらいの子たちが功利主義の管理社会を肯定していてちょっと驚いたのだが、現在の状況においてもうスタンスとして「あり」になってきているのかもしれない。
でも十二国記の天命システムしかり、合理的な制度がうまく機能するかどうかと言うと全くそんなことはないわけで、この本でも中国がまさにその道をガンガン進んでいって早速歪んでいく様が指摘されている。
シティズンシップの論理にのっとった差別の是正はどうしたって不合理でコストが必要で、人間はその論理が求めるスペックに耐えうるほどの強さもない。合理性を上回って平等を推し進めるための社会を貫く哲学も今はない。それを作り出すためには人間を管理し、「教育」しなくてはならない(いったい誰が?)、そうなればシティズンシップは終わる、というすごい話。
「なにかしら相手の行為を『不快』に感じたとしても、相手の『責任』を追及するまえに一度その『不快』さを言語化してみるべきだろう。そして、相手がなにか『不快』をアピールしているならば、その相手が『不快』をどんな論理で正当化しているか、よく吟味すればよい。そこに論理の飛躍や矛盾はないか」というのがその辺りでの著者の主張なんだけど、私は論理的かどうかが共通の判断基準として機能するという希望は現状としてはついえているような気がして、どうなのかなと思う。
結局のところ人間は論理で物事を判断するようにできていないし、左にしろ右にしろ、この本でも指摘されているような言い落とし技法みたいなものを使った言論が多くて、どうにかして都合の悪いところはごまかしていこうという方向性ばっかりで嫌になってしまう。むしろ都合の悪いところをきりきり締め上げるようにして詰めていけば、あたらしい地平が見えそうなのに。もしかしてそれこそ著者の言う「ポリコレの汚名をあえて着る」というところなのか!そうか。そうであれば、これは解決策ではなく解決策を探るための姿勢としての提言か。それは手放しに賛成できる。
「飛躍にはその人の本質がある」といったのは誰だったか、忘れたけど、そうやって批判ではなくお互いを明らかにしていく、境界線上のホライゾンじゃないけど、分かりあうことのないお互いが手を合わせられる境界線を探すという作業。そういうことができればよいのだろうか。 -
差別はなくならない。
そのことを認識することから始まるってこと。
「不快」な感情が他者への無意味な自己責任論になる前に、その「不快」さをまず言語化してみよ。
という本かな。難しかったけど面白かった。再読して良かった。 -
民主主義(アイデンティティポリティクス)と自由主義(シティズンシップ)という概念がそもそも「対立する」ことすら知らなかった身としては目から鱗だった。差別(ハラスメントなども含む)は、人が多様であるが故にいかに避け難いか、そしてポリコレを大義と出来るか否か、についての論考。現在の「分断」の深淵を垣間見ることが出来る一冊だと思う。と同時にこの本は自らを「左派」と自認する人々にとって踏み絵のようなものでもある。人間も世界も恐ろしく複雑だ。
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差別がいけないことなのは大前提として、それがなくならない背景に何があるのかを経済・政治・社会・心理などの様々な分野から紐解いていく。
過剰とも言えるほどのポリティカル・コレクトネスが跋扈する現代だからこそ、自分たち(シティズンシップ)の立場を再認識する必要がある。
ただ、いわゆる「ポリコレ棒」を振り回すネット界の正義の味方たちには、この本の主張は届かないんだろう。。 -
《いまや、新しい左翼は、みずから忘却していた階級闘争によって復讐されている。しかし、保守派によるポリティカル・コレクトネス(リベラルな言説)に対する非難・攻撃は、古い左翼(階級闘争)と新しい左翼(差別問題)の分裂を期せずして修復する機会を提供している。ならば、ここではそのようなポリティカル・コレクトネスに着せられた汚名そのものを肯定してみてはどうだろうか。そうだ、私たちはポリティカル・コレクトネスを大義とする、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある、と。格差と差別に対する闘いはどちらも平等を求める闘いであることにかわりないのである》(p.77)
《社会のメンバーの「安心」のためにヘイトスピーチを規制するというロジックには、「市民」の「尊厳」に依拠するかに見えて、「秩序ある社会」の「見かけ」を維持したいという欲望の存在が指摘できるし、そこにはすでに社会全体をコントロールしようとする「統治」の論理が忍び込んでいるのではないか。くわえて、シティズンシップが前提としてきた、「自律」的な「市民」「個人」というモデルが崩れ去ったからこそ、現在、それに代わる「統治」のロジックが優位に立ちつつあるのだ》(p.228) -
基本的にはロールズの正議論に則り、「正体が無知のヴェールに包まれた状態」におけるものに立脚していたいものの、生得的な違いなどにより、平等ではない事実(女性のほうが感情的だったりすることを裏付けるデータだったり、人種によってIQ平均値の統計的な差異が認められていることなど)により、それが上っ面な正義でしかないことが明らかになってきた。また、女性の平等を求めたとしても、それに見合う効能とコストがあるのかと指摘し、棄却するような功利主義(それぞれの正義や道徳の対立を効能とコストの観点から回避する)も台頭している。また、過剰に平等を求めた先に、自分の内在する暴力性(Aを言うなら、BはどうやとかA’のことはいいのか)を過剰に取り上げることが多くなり、発言するのも気が引けるようなそんな堅苦しい世界になっているようにも感じる。
でもそれでも、中国のようなアーキテクトによって人間をコントロールしようみたいなものや差別に対抗するには、道徳や正義を発揮する必要がある。非常に脆弱で曖昧な主観的なそれに立脚することのみが人間としての矜持とすら今この本を読んだ後に感じる。この本を読む前まではこの昨今の生きづらさや発言のしにくさがめんどくさく、鬱陶しいものだと感じていた。もっと自由に生きたほうがいいに決まっているとすら思っていた。どちらかといえば、功利主義的な人間(だからIT企業で働いている)だし、性質の違いがあるのだから完全な平等は成立しないと思っていたが、そんな事実や主義も勘案したうえで、平等を求めること、そのポーズの意義を最後の天皇の章で感じたように思う。
データ分析やIoT、DXなど数字で語ろうとする機会は非常に多いし、それが有用である側面もわかりつつ、道徳心や正義にこだわることは大事なんじゃないかと思わされた。 -
最初は理解が追いつかないところがあったけれど、自分も意外と凝り固まった考え方をしていることに気がつかされた。
おはようございます。
いいね!有難う御座います。
吉原裏同心シリーズは、今回で32作目になります。
佐伯泰英さんの本は、最...
おはようございます。
いいね!有難う御座います。
吉原裏同心シリーズは、今回で32作目になります。
佐伯泰英さんの本は、最初に「居眠り磐音江戸双紙」を読んでから「鎌倉河岸捕物控」を除いて全ての作品を読んでいます。
佐伯さんには、感謝をしています。
居眠り磐音が出てからは、他の時代小説も字が大きくなってきましたし、多くの作家が書くようになりました。
一時は、時代小説ブームが到来したと言われ、書店に行くと一番いい所に時代小説が並んでいました。
わたしも、大活字本だけでなく文庫本も読めるようになりました。
本当に感謝しています。
やま
そうなんですね。
大きな文字の本が今後もっと増えてくるといいですね!
そうなんですね。
大きな文字の本が今後もっと増えてくるといいですね!