文字逍遥 (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社
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本棚登録 : 165
感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (443ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582760460

作品紹介・あらすじ

漢字はその構造のうちに、古代の人々の思惟や生活の仕方を豊かに伝えている。想像を絶するほど広大な漢字の歴史世界をはるかに見渡し、そこに隠された精神史の諸相を鮮やかに捉えた達意のエッセイ集。

感想・レビュー・書評

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  • 読了。ちびちびと読んだ。難しかったが、面白い。

  • 左と右、左手と右手を意味しているのは分かりますが、
    工と口は何か分かりますか???
    工は○○○で、口は○○○を表現したものです(^^)/
    気になる方は読んでみてください。

    少々読みづらいですが、後半は一気に読めました。

  • 漢字は線によって構成される、とはじまる書中「漢字の諸問題」の小題「線の思想」に、「すなわち横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味を持つ。これに対して縦画は、異次元の世界をも貫通するものである。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である」と。

    白川静の遊字論  -2009.05.25記

    白川静の「文字逍遥」平凡社ライブラリの冒頭には「遊字論」が置かれ、「神の顕現」と小題された一文にはじまる。
    松岡正剛によれば、この「遊字論」の初出は、彼が嘗て編集していた雑誌「遊」での連載ということだ。

    「神の顕現」 ―白川静「文字逍遥」より-
    遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
    遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
    それは神の世界に外ならない。

    この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。
    神とともにというよりも、神に依りてというべきかも知れない。
    祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、
    またその限られた場における祭祀者の特権である。

    遊とは動くことである。
    常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。
    動かざるものは神である。
    神隠るというように、神は常には隠れたるものである。
    それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。

    神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。
    「左」は左手に工の形をした呪具をもち、「右」は右手に祝詞を収める器の形である口-サイ-をもつ。
    左右とは神に対する行為であり、左右颯々-サツサツ-の舞とは、神の在り処を求め、神を楽しませる舞楽である。
    左右の字を縦に重ねると、尋となる。

    神を尋ね求める行為として、舞楽が必要であった。
    それで神事が、舞楽の起源をなしている。
    祭式の諸形式は、この神を尋ね求める舞楽に発しているのである。
    隠れたる神の「隠」の字、左偏の部首阝は山をたてざまにした形とされ、神が天上に昇り降りする神梯-シンテイ-であったこと。
    神はその神梯を陟降-チョクコウ-して、地上に降り立っては「身を隠したまうて」人々の住む近くに住みもするが、
    その神梯の前に神を祭ることを「際」という。

  •  白川文字学の大家、白川静の随筆集。つい最近お亡くなりになられた方で、有名な著作に辞書三部作『字統』『字訓』『字通』がある。学生身分では流石にこれらの辞書には手を出せないので、『文字逍遥』はその入門書として考えるとよい。昨年大学のとある教授が力説していたので試しに買って読んでみた。
     文字学にはあまり詳しくは無いので、はたして白川氏の説が研究者の間でどこまで認められているかは知らない。例えば手元にある『新漢語林』(鎌田正 米山寅太郎、大修館書店、2005)によれば、「言」の説明は白川氏と同じだが、「曰」は異なっている。おそらくまだ議論の途中なのだと思う。白川さんも亡くなったばかりなので。しかし、おおむね説得力はあるように思える。さらに言えば『説文解字』よりは筋が通っているように思える。それほど強い情熱をこの本から感じ取ることができた。実際あの年齢まで執筆や講演を続けた精力は尊敬に値すると思う。昔の人って凄いよね。
     内容に関して、個人的には古代の文化はエロとグロ(もちろん今使われる意味とは違う)に本質があると思うので、かなりの部分共感できた。ただし、如何せん語彙が難解で、字体も様々な上に幅広い古典的知識が要求されるので、読了までおよそ一ヶ月かかった。そしてその一割すら理解することができなかったと思う。分かったことは、この本は電車の中で読む本ではなく、家で辞書とコンピュータを手元に一行一行読んでいく本だということだ。文庫なのに千円以上するので、読むときは覚悟を決めること。いつか必ず再戦を臨みたい。
     ところで一つ気になったのは、藤堂氏と一体何があったのだろうか。藤堂氏の話題が出るたびに語調が変化し、非常に攻撃的になっていく。そこが真に面白かった。通説と異なる説を挙げて大変な批判を浴びたことは容易に想像し得るが、相当悔しかったのか、もう少し冷静に対処してもよかったのかなとは思う。
     しかしながら、『詩経』は一般教養なのですかね。本文中に引用されている詩を父親に見せたら説明をしてくれました。何よりも先ず、父は偉大です。

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