集合住宅と日本人: 新たな「共同性」を求めて

著者 :
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (301ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582544336

作品紹介・あらすじ

"コミュニティ"から"ガバナンス"へ。日本人の「共同性」の特質をあぶり出し、政治学の立場から都市居住と民主主義を考察する気鋭の論考。

感想・レビュー・書評

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  • 自分、管理嫌いのゲーテット・コミュニティけしからん派だったのだが、なるほど新しい視点をもらった。すごく面白い。”私的政府””管制””統治”というものものしい言葉を、あえて誤解を恐れず用いて、ぬるい情緒的住宅論に鋭く切り込んだ意欲作。

    [more]<blockquote>P9 たとえ知性に裏打ちされた信念なるものがあったとしても、それを自身のうちにただ蔵しているだけでは無意味なのであって、それを言い表す勇気があってこそ、その信念は初めて光り輝くものとなるのだ。

    P9 現代社会とは、おそらく一生涯出会うことのない多くの他者とも『共同性』を形成することを前提とする社会

    P62 西欧社会では明文化された契約によって、集団は「ピラミッド型」や「ツリー型」と称される組織化がなされるのが一般的であるが、これに対して契約などない我が国社会では、顔見知りとなった人間同士が数珠つなぎとなって集団を形成するため、誰かが形容したように「ぶどうの房型」の組織となる。【中略】教義そのものが、その時々の「話合い」によって醸成される「空気」に従うべきとでもいうもので、確固たる規範の存在しない無規範であることが原則といえよう。また論理がないことから、このように醸成された空気はたやすく絶対と化し、反論は許されない雰囲気ともなる。

    P66 平たく言えば、「コミュニティ原理主義者」のいう主張とは「他者と仲良くすること」に尽きてしまうものであろう。【中略】だいたいにおいて「コミュニティ原理主義者」が人と争わないのか、というとそうではない。集団の空気に異論を唱えるものを排斥しようとする態度は常にあるし、すべての人間との親和性などは念頭に置いていない。【中略】百歩譲って”コミュニティ”が持続的で良好な「共同性」を作ることが必然だとしても”コミュニティ”を繰り返し口にするだけでは、その形成が進展するはずもなく、口で唱えることで「良いことをした」と錯覚する人たちが自己充足を果たす意味しかないだろう。

    P99 ソーシャル・キャピタルは、【中略】内部結束型(Bonding)の閉鎖的な共同性ではなく、橋渡し型(Bridging)に拠る水平型のネットワークが重要だと考えられている。すなわち顔見知りにより醸成される『特定化信頼』よりも、見知らぬ人をも対象とする『普遍化信頼』を重要視する。

    P104 ”ガバナンス”という政治的共同性と、”コミュニティ”という相互交流を別物とした考え方に通じている。

    P121 田園都市構想との最大の相違点は、ハワードが宅地の公有によって開発利益をすべて出資者に還元するのでなく居住区内のサービスや施設に充てることによって居住区の長期にわたる良好な維持を念頭に置いていたことと比べると歴然としている。すなわち、田園調布は、当時の東京電鉄総帥の五島慶太によって敷設された田園都市線の利用客確保と相俟って、宅地開発を鉄道開発と一体化させることを目論んだデベロッパーの懐に開発利益がすべて入ってしまう原型となったことであった。

    P128 行政の支援をひたすら待ち続け、参加意欲をもつものに限定された”コミュニティ”ができたと喜ぶことが、その”まち”の「活性化」に本当につながるのだろうか。それよりも、道路や公園などの共用の施設や空間のみならず、居住区全体を住民主体の『私的政府」の管制化におくことが必要なのではないか。

    P154 面白いのは、居住者の欲求と現実である、分譲マンションは通常、竣工前に居住者の募集を開始する。この段階では「居住」(予定)者は、たとえばラウンジやシアタールームといった『共用施設』をぜひ利用したいという希望をもって購入することだ。そして竣工後、実際に入居してからは利用しないという実態である。

    P179 つまるところ。住民運動に透けて見えるのは、自分たちの住宅を既得権とし、それ以後に建設される住宅のみに規制を掛けるべきだと言う身勝手さ、あるいは、外野からワーワー騒ぐだけで主体とならない無責任さであろう。だからこそ、住民運動はしばしば「住民エゴ」と評されてしまうのだ。その原動力は、自らに降りかかる不都合な課題を外に押しやろうとする、いわば「拒否権」の発動であり、あとの問題解決を行政やデベロッパーに委ねる、まるで『駄々っ子』のような依存心さえ透けて見える。このような他律的態度は、“まちづくり”に求められるべき住民の自主性からは程遠いといえるだろう。

    P214 近頃は「NIMBY」なるフレーズも徐々に知られるようになってきた。”not in my backyard”の略で、自分の裏庭には邪魔者を置かせないというアメリカで横行する利己主義的な態度を指す。

    P221 「コミュニティ=話し合い」ではなく、「ガバナンス=熟議」により、論争どころか異論の表明さえ許さぬ雰囲気を排し、反対意思が積極的に表明できる場の醸成を重視するのだ。ときに自治が非人道的で凶暴な権力と化すのは、野党や異論を許容しないファッショ(全体主義)へと転じるからである。このような事態に陥らないためには、自らが少数派である場合には多数決によって結果的に斥けられることの痛みを、あるいは、自らが多数派である場合には多数決によって結果的に他者を斥けることの痛みを「責任」として感じることが求められるのだ。

    P234 自分たちでコントロールすることを厭い、他律を好む傾向はわが国の「お上」意識に通じている。それは、居住区という自らの領域内にある街路や公園などを、各個人とは別物の「お上」の所有物ととらえてしまえば、あとは全く関わらなくて済むという意識である。【中略】個々の住宅の保安を頑強にして、その精度をあげて行くことは居住者の欲求には答えうるであろうが、結局は居住者がセキュリティ機器に対して「お上」に対して抱くのと同じ依存意識をもち、その他律意識を増幅させていく危険性もあるのだ。

    P235 人間とは生来凶暴性を持つものであり、それを「去勢」する役目を追ったのが宗教であったのだ。しかし、そのような凶暴性を「去勢」する必要がないぐらいに、日本人は温順であって、宗教も根付かなかった。というよりも「日本教=コミュニティ」による『共同性』が芥川龍之介のいうように外来の宗教をすべて作り変えてきた。

    P248 我が国にゲーテッド・コミュニティが存在しなかった、より根本の理由をあげるならば、非常に雑駁な見方であるが、日本という国家そのものが四囲を大海原という天然の要塞で守られた国家単位のゲーテッド・コミュニティであったからではないか。

    P274 ある集団で「常識」と思われていることは、ともすれば当該集団でしか通用しないドグマ(独断)である場合が多い。その「常識」がどのような価値基準に基づくのか。その価値基準を裸にして、当該集団以外でも通用するのか否か精査することが『コンプライアンス』ではないか。
    </blockquote>

  • 本書は建築専門家や自治体などが、ともすれば安易に唱和する、近隣の相互交流としての「コミュニティ」を批判し、「現代社会という一生涯出会うことのない多くの他者と築くべき共同性」を提唱する。
    確かにコミュニティさえしっかりしておれば何とかなる、といった精神主義的な議論が散見されることは事実だし、時には建築設計者がプライバシーを半ば否定するかのごとく強引な仕掛けをおこない、それが住民から拒絶されるような、独りよがりもあるかもしれない。
    その意味で曖昧模糊とした「コミュニティ」から、より強制力や制限に軸足をおいた「ガバナンス」へと共同性のありかたを変えるべきではないか、という議論には賛同できる部分もある。
    しかし、わかりにくいのは「コミュニティ」が「空気」として少数者の排除に転じる可能性を指摘しながら、新たな共同性を導入する重要な契機として「保安」をあげている点だ。
    著者は「過防備」を問う声に対する反論として、「たしかに『体感治安』が過剰になっている部分があるかもしれないが、『安心』は依存心、あるいは慢心へつながる。(中略)人々の『自立』を妨げる意味において深刻であろう」と述べるが、「犯罪不安社会」(浜井浩一)などが指摘する根拠なき体感治安を前提とし、絶え間ない警戒と相互監視を行ってまで得なければならない「自立」とは一体何なのだろうという気がする。
    後半では中世ヨーロッパや中国と比較し、「日本に城郭がないのは四方が海という自然の城郭に囲まれているから」などという陳腐な日本人論が展開される。どうやら著者は城郭が象徴する保安意識こそ近代人の自治=自立に必須な要素として認識しているようなのだが、そもそも近代化とは
    城郭の向こう側にいる他者と語り合える共通の基盤を構築することだろう。著者は建築設計者がなぜ「オープン」な空間に価値をおくのか理解できない、というが、建築を含めてモダニズムの掲げる主要な価値の一つに「オープネス」があるのは至極当然ではなかろうか。

  • コミュニティからガバナンスへ。
    居住者の同意に基づく共同性から公共性へ。

    三島由紀夫の提言「民主主義の美名のもとに人間の生き方や国の政策に関する意志決定を自分で行おうとせず、個人と社会と国家のとりあえずの目的を経済成長のみに置き、精神の空虚を物質的繁栄で糊塗する態度」
    家族を中心とした儒教の教え「修身・斉家・治国・平天下」
    利己主義でなく、共同性の制限のかかった自由・・・家族で育まれるべき。
    戦前の「家」制度の復活の是非

    家と国家の中間共同体の充実と信頼が必要。(フクヤマ)
    家のハコ、中間共同体のハコ。
    終身雇用、年功序列による会社主義・・・企業内組合(横断的な物ができない)、福利厚生の充実(住宅ローン・社宅)
    →非正規雇用、能力主義、福利厚生の減少。
    →隠蔽主義が白日の下に。

    地縁に基づく「世間」の消滅→監視・道徳の低下→安心社会の崩壊
    集合住宅の中間共同体としての可能性:民主主義の学校
    共有部分がある→共同住宅  共有部分がない→長屋住宅
    物理的な接合:分譲マンション等
    共有性の高さにより居住区まで含まれる概念:集合住宅

    室町時代の農業技術の進歩、人口増加、公領荘園制から地頭による統一支配に代わり、集落が形成される。自衛のための惣村と自治体制。
    寄り合いと掟と検断。商品貨幣経済、市。町は村から派生するが、入れ替わりが激しいので独自の共同性。
    江戸時代の士農工商の住居の分離により武士による消費社会としての都市の形成。土地では武家6割、町人2割、社寺2割だが、人口の半数は町人。→長屋住まい。大家と店子。地主の町衆による自治の色強い。
    明治期の地租改正で農村にも地主、都市にも地主が高額納税者として政治に関与。東京の7割は借地だった。
    明治後期から大正の工業化と都市化の進展により労働者が大量に都市に押し寄せる。木造アパートメントによる土地の有効利用。六畳一間で便所、炊事場は共通、銭湯に通う。アパート文化。
    大正期、関東大震災後にコンクリート製のアパートメント。同潤会アパート。
    昭和初期、1934年同潤会江戸川アパートメント「東洋一のアパート」
    戦後、高度経済成長期、モルタルの木賃(関西では文化住宅)風呂。便所などが個別についたもの。
    1970年代以降、鉄筋コンクリート造りのアパート。遮音性、個室空間。
    共有性はどんどん失われてきた。1962年に建物区分所有法により分譲マンションの供給が本格化。ただし、共有部分に関する共同管理の団体の設立は1983年の改正まで義務づけられていなかった。
    区分所有の排他的権利にのみ注目が集まる。共同管理の煩雑さよりもプライバシーや匿名性の確保を強調。意識は極めて低い。
    日本の分譲マンション戸数505万個、1300万人。東京では5世帯に1世帯は分譲マンション暮らし。
    隣組の呪縛。江戸時代の5人組に由来。町内会・自治会→コミュニティ
    戦時中の協力体制のイメージ。個人の自由を著しく阻害、制限する物。
    日本人の共同意識(柳田国男)「各自が合理的な判断力をもって、いっしょになって検討をつくし、共同の結論を出すという行き方に欠けるこ所があって、とかくおおぜいのおもむく所にいわれなく同調し、感情が合理的判断をおおって、たやすく共同化してしまう。」
    コミュニティ原理主義=他者と仲良くすること・和気藹々。逆に排他的。

    建築・団地による個別化⇔コミュニティ施設
    必要な施設で無く余暇的位置づけ。一部の利用者。機能していない。
    「都市の魅力とは農村における人間的なわずらわしさの解放であり、コミュニティなる連帯は都市の農村化を推進することになる。そして農村への憧れは自然への幻想につながる。」(梅棹忠夫)
    白川郷の「結ゆい」・・・屋根の葺き替えの必要性。個人の自由は制限されている。(辞めたくても辞めれない)

    分譲マンションの共用施設は利用者少ない。
    コーポラティブ方式:共同で建設する集合住宅。
    「自ら居住するための住宅を建設しようとする者が、組合を結成し、共同して、事業計画を定め、土地の取得、建物の設計」、工事発注その他の業務を行い、住宅を取得し、管理して行く方式」
    実費、透明性、自由度が高い、住居者全員と顔見知りになれる。
    →一時的なもの。5年で急速に低下。ネガティブな側面も。
    農村をモデルにした閉鎖的なコミュニティでなく、都市に見合った共同性。
    制限ーガバナンスーによって共同性を維持。

    まちづくり・・都市計画のハコづくりに対するアンチテーゼ。
    ハワードも田園都市構想。過密化し環境の劣悪な都市と農村の結婚。
    レッチワースの自治は土地の共同所有に基づく。
    アメリカ版田園都市においても共有施設の共同所有、および負担。
    私有公園の共有と制限。制限約款と私有財産。私的政府によるガバナンス。プライベートピア。
    田園調布の開発・宅地の公有によって得られた開発利益を出資者のみでなく、居住区内のサービスや施設にあてるハワードの田園都市とは異なる。売り逃げ。高い相続税による土地の細分化。関東大震災により古い武家屋敷の火災の危険性の指摘。一部の地主による土地の所有→一億総地主。都市計画の不在。参加の不在。私的共有の不在。ガバメント組織の不在。
    ニュータウン:単なるベッドタウンではなく職住近接を目指す。
    少子高齢化による公共施設利用率の低下、ショッピングセンターの撤退。
    →行政による建て替えや修繕、イベントや親睦会の頻繁な開催。
    営利目的の民間企業や非効率な公的機関でなく、私的な住民による統治はレッズワースをしても難しい。

    ゲーティドコミュニティ
    富裕層、退職、セキュリティのための囲い込み。
    高層タワーマンションも?
    共有性ではない。共有施設の利用少ない。宿泊施設等の個別利用は多い。道路を含めた土地の私有と自治が管理をうまくまわす。
    司馬遼太郎は「土地公有」を主張。国や公的機関の公有(律令制や封建社会、共産主義)でなく、私有の延長線にある共有。
    町内会や自治会の実体:GHQによる隣組の解体・強制加入ではない。
    近隣政府(ネイバーフッドガバメント):日本都市センター
    住民運動、住民エゴ・・反対はするが、主体的な活動ができない無責任さ。既得権により新しい権利を制限している。
    騒音おばさんとゴミ屋敷:他人から構われない自由の裏返し。制限を伴う住民自治の不在。→法令、条例による統制になるが、一般的、抽象的なものになりがち。非効率、現状に合わない。問題は個人でない主体がないこと。
    都市計画における住民参加(公聴会)等の不在。選挙だけ?
    行政は市町村区単位で実施される。
    ★流動的な住民はどのような自治を持つのか。在日外国人はどうか。→民主主義のための実効性のある行政単位(意見や利害を効率よく聞ける場)を考えるべき。地域の代表だけでいいのか?
    大地主は都市計画の一貫性を有する。町屋の保存。借地。
    利便性と景観・郷愁とは相反する問題。主体の不在。利害関係にあるのは誰か。→全員参加の強制力、制限力、政治力も責任が必要。ボランティアでは全体としてみると無責任になりがち。

    分譲マンションには管理組合と管理規約が用意されている。
    形だけでは不十分。仲が良いだけのコミュニティとは意味が違う。
    「民主主義を現実的に機能させるためには、なによりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場があたえられねばなりません。」丸山真男

    顔の見える範囲での全員参加の「タウン・ミーティング」
    対話集会はタウンミーティングではない。関係性ができれば、第三者的で暖かみの無い法よりも強制力がある。
    分譲マンションの管理:自主管理、一部委託、全部委託
    20戸以上では自主管理は不可能?

    CEO最高経営責任者:経営のプロの意味、日本では社長を意味する。
    市政マネージャーの考え方。市長に求められる条件。
    ・・・選挙に勝つこと。握手をすること。暖かみがあること。?
    アメリカの集合住宅では同様に「プロパティマネージャー制」の導入。
    日本のマンション管理士(2001)は権限が少ない。アドバイスのみ。

    直接民主制、住民投票のみで良いのか。
    住民投票の結果は参考であり、実行の担保とされるだけ。
    無視して実行することもできる、責任が無い。拒否権の発動のみ。
    →対案のない無責任な結論になりがち。
    →熟議されても、日本人は他人の意見に迎合しがち。
    手続きのみでは、逆に強引な結論を正当化してしまうこともある。
    まず、裏で1:1で個人的に慎重に意見を聞くことが重要。
    表面的でなく、本当のところを集約する努力が必要。

    全員参加の直接民主主義、エリートに委託する間接民主主義、戦前日本やギリシャのアゴラにおける一部の人間による制限政治。

    アメリカでは、住民の要請により憲章を受け法人化してはじめて地方自治体が設立される。未法人化地域は7-8割にも達する。はじめからある訳ではないので、受益と負担を選択する。エリートへの信用のもとに良きようにはからわれている公益ではなく、自ら考えて選び取る公益。
    具体的な公園、道路の共有意識、プライベートの延長線にある公共性。

    都市人の理想は「警戒」と「自立」
    ゲーティッドコミュニティは城壁を築く。分譲マンションも可能。しかし、居住区では法制上不可能。警備員は居住区では雇用する主体がいない。町内会は全員参加の強制力を持たない。アメリカでは保安上の必要性が全員参加のコミュニティを形成する。
    日本では道路や公園の「上地」・・・居住者に維持管理の費用、手間を負担させないように、デベロッパーは自ら上地する。
    共用施設は他律的になると荒廃する。安易な依存心は油断につながる。
    司馬遼太郎はしばしば宗教を「人間を飼い慣らすシステム」と表現した。
    「コミュニティがあれば防犯は大丈夫」という主張はナンセンス。自警団。
    自ら警戒することが重要。
    過防備都市→建築系、都市工学系の工学者はオープンな建造物や居住区を標榜することが多い。
    オープンな居住区はゲーティッドコミュニティの内側にある。城壁の仲のオープン。もともとは、都市そのものがゲーティッドコミュニティ。日本のオープンさが特殊。→人間関係重視の世界観。自然と一体の世界観。日本自体が海に囲まれたゲーティッドコミュニティという見方もできる。
    日本の歴史は外圧の危機感によってしか動かない。
    ・律令国家→随政権の脅威
    ・武家政権(御成敗式目)→蒙古襲来の脅威
    ・明治維新→ペリー来航
    ・第二次大戦等→朝鮮を介したロシアの脅威

    リアリズムを持った共同性。
    京都人の都市人としての共同性。
    「町」の自治、自衛。町衆と借家人は厳然たる違い。町衆による自治。
    木戸によるゲート。警戒心の強い人間関係とそれを緩和するための共同性の技術。

    個人の自由と集団の共同性によるその制限との折り合いをつけることが課題。民主主義は少数者を切り捨てる傾向、全体主義的な衆愚政治に陥る傾向、および全体性を見失い何も決めれなくなる傾向。
    法は国家権力を抑制するためのもの。私個人を律するものではない。
    法に合わせた正義は本末転倒。コンプライアンスは特殊性の棚卸し。
    個人と個人、個人と組織の関係に関する法律。

    すべては個人の関係性の延長にある。顔見知りから観念上の関係まで。その社会、あるいは世間をうまく規定、再編することが必要。
    集団の共同性と排他性をどう考えるか。
    弱い関係性の人間から最も多くの情報が得られる。
    都市の人間関係は弱い関係。必要に応じた関係。警戒心に基づく関係。
    集合住宅デモクラシーの推進。

  • 政治学を専門にする著者が最小単位の政治体・自治組織として集合住宅を捉え、社会を形作る上で必要な「共同性」と日本人を論じている。無批判に取り入れられるコミュニティー概念を不明瞭でイリュージョンだとする一方で、”ガバナンス”を通じた共同性獲得の場として集合住宅の可能性を探っている。(建築学専攻)

    配架場所:工1B・建築
    請求記号: 322-0:T.7

    ◆東京大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    https://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2002474924&opkey=B148057578613920&start=1&totalnum=1&listnum=0&place=&list_disp=20&list_sort=6&cmode=0&chk_st=0&check=0

  • コミュニティとガバナンスの違いに迫ることから、
    日本の集合住宅にあるべき共同性を提案している。

    ちなみに僕は建築学生です。

    内容に関しては、面白かったです。
    やはり建築だけを学んでいると出会わないような視点を持ちこんでいると思うし、
    いろいろな実例は勉強になりました。
    空間に落とし込むのは難しいと思いますが、コンセプトは面白いと思います。
    借りて読んだけど、買って手元に置いておきたい。

    そして、「日本教」にはまりこんだ国民を
    いまだに引っ張り出せていない文系の学者や政治家は何をしているのだ。何をしていたのだ。
    と、お互いになすりつけ合うと、まさに日本教徒みたいだなぁ。

  • この本は特定多数の人に向けて書かれている批判の書だ。その矛先は都市工学や建築工学といった「理系的」にまちづくりに関わっている人たちに向けられている。
     要約するとこうだ、理系的に関わっている人は地域性や人の繋がりを絶対視して反論を受け付けない。何かあれば楽観的なコミュニティ論を持ち出してきて「住人たちの繋がり」に希望を託す。コミュニティという概念自体曖昧な上に、そのことに無自覚で共同性を謳うその姿はさながら「コミュニティ信仰」である。
     確かに「理系的」にまちを作ろうとする人たちは往々にして、夢見がちだ。ゲーテッド・コミュニティを批判し、開放的な町並みの風景を評価する人は、実はその町並み全体がゲートで囲まれていることを知らない。監視カメラだらけの過防備都市を危惧する人たちは、日本が海というゲートによって、かつては囲まれていたということに気づかない。建築・都市が夢見た「ユートピア」、その言葉は幻想という意味も孕んでいるということから目をそらしている。
     建築を学んでいた僕は田園都市レッチワースを知っているけど、そのスゴは半分くらいしか学んでいない。そして、コーポラティブハウスは結局は共同性は作れていない。それが「理系的」建築工学の限界なのだ。どんなに優秀なモノづくり人であっても、人の生活までは造れない。
     著者の論法はこうだ、今まではなんとかやってこれたけど、犯罪とかグローバリゼーションとかネオリベラリズムとか、日本も欧米みたいになってきた。海というゲートも役立たずになった。だから欧米に倣わないと、日本の共同性は姿を消してしまう。ガバナンスで私的政府で直接民主制なのだ。
     さて、この意見に工学畑の人たちはどう答えるのだろうか、実は彼らも気づいてはいるんだけどネ、自分の首を絞めることになるからなかなかネ。

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著者プロフィール

政治学者。博士(学術)。(株)都市ガバナンス研究所代表。立命館大学政策科学部非常勤講師。
1968年京都市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了(政治専攻)。
長らく政府系金融機関にて〈まちづくり〉に関わり、現職の〈まちづくり〉シンクタンクでは、京都を中心に開発事業や町家再生の企画、行政の政策協力等で活動中。また、政治の原点は〈まち〉にあると思い定め、長らく学究活動にも邁進。これまで学習院大学法学部非常勤講師、放送大学教養学部非常勤講師、日本政治学会年報委員等を歴任。単著に『デモクラシーを〈まちづくり〉から始めよう』(平凡社)、『社会をつくる自由』(ちくま新書)、『集合住宅と日本人』(平凡社)、『集合住宅デモクラシー』(世界思想社)。共著に『排除と包摂の政治学』(木鐸社)、『都市と土地利用』(日本評論社)他。訳書にベンジャミン・R・バーバー『ストロング・デモクラシー』(日本経済評論社)、エヴァン・マッケンジー『プライベートピア』(共訳、世界思想社)、エドワード・ブレークリー&メーリー・スナイダー『ゲーテッド・コミュニティ』(集文社)他。

「2015年 『消費が社会を滅ぼす?!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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