済州島四・三事件: 「島のくに」の死と再生の物語

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  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582454376

感想・レビュー・書評

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  • 済州島の歴史から、植民地支配解放〜4・3事件にいたる政治情勢、抗争の展開、そして民主化を経て、真相解明と名誉回復への動きと、非常にわかりやすく、ていねいに解説してある。観光開発への抵抗が、4・3事件の真相究明運動へつながっていったことなど、ほかの本では学べなかったことも多く、勉強になりました。

  • 韓流ブームといい、リゾートの島・チェジュ、という。
    「四・三」事件というのは、1948年の4月3日の日付に起きた事件のことだ。
    この日に済州島人民遊撃隊が蜂起する。蜂起自体は短い時間で鎮圧されてしまうのだが、
    それからも「事件」は続く。「四・三」に起きたのではなく、「始まった」事件。
    そして約28万人の済州島民のうち3万人近くが殺されたともいわれる。

    済州島で半世紀前に、このような大虐殺が行われたこと。
    そして、それが広く知られ、当事者が口を開くまでに、半世紀の時間を必要とした。
    この本は、そんな衝撃的なことを教えてくれる。自身の無知を含めて。
    朝日新聞の書評で、評者の赤澤史朗・立命館大教授は
    「大量虐殺は隠蔽や報道統制を伴うことが多く、たとえ隣国で起こっても
    事件が伝わらないことがある」と書き出している。

    歴史は、実際に起きた<こと>を書くにしても、
    それを書くに当たって、いかに客観を心がけたとしても、書く人間の
    その<こと>に関しての立場から自由にはなりえない。

    済州島(さいしゅうとう/ チェジュ-ド):《(Cheju-do)朝鮮半島の南西海上にある大火山島。面積1840平方キロメートル。古くは耽羅(たんら)国が成立していたが、高麗により併合。1948年、南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起(四・三蜂起)の舞台となった。付近海域はアジ・サバの好漁場。周辺の島嶼と共に済州道をなす》-----『広辞苑』第五版

    という叙述は、済州島を記すには客観であるが、「四・三」と書く途端に、やはり一つの立場になる。

    少し、本書に聞くと、蜂起は次のような経緯で決定されたという。
    「第一に組織の守護と防衛の手段として、第二に単選・単政(単独選挙・単独政府)反対の
    救国闘争の方法として、適当な時間に全島民を決起させる武装反撃戦を企画・決定した」(「報告書」)。

    45年の太平洋戦争の終結、解放から朝鮮半島の国連の統治形態問題が
    米ソの対立の中でネジレを生む。

    その前段で前の年、47年の三・一節の発砲事件とゼネストがある。
    これ以前、済州島は南朝鮮社会の左右への両極化にまだ巻き込まれていなかった。
    三・一節28周年を記念して開かれた集会後に街頭に出たデモ隊に
    軍政警察が発砲し、十数人の死傷者を出した。
    そのきっかけは、騎馬警官が乗った馬に6歳くらいの幼児が蹴られたのが発端で、
    騎馬警官はそれに気付かなかったのか、その場を立ち去ろうとしたが
    デモを見物していた群集から非難の言葉を浴びながら追い立てられ、
    当惑した騎馬警官は警察署に向け馬を駆った。
    署に詰めていた警官たちは、この様子に仰天して一斉射撃に及んだ。
    騎馬警官を追う群集が警察署を襲撃するものと勘違いしたらしい。
    15歳の少年を含む民間人6人が死亡し、6人が重傷を負った。
    島でのゼネストが3月10日に断行される。

    ゼネストを機に、米軍政と島民の関係に亀裂が生じる。
    米軍が調査に入った結果、島は左翼とその同調者の拠点、と見られた。

    「西青」という西北青年会という暴れ者が、島を圧する手先として使われる。
    西青は、北朝鮮での社会改革を嫌って南朝鮮に渡った、いわゆる「越南青年」によって
    組織された反共右翼団体だ。これが米軍政や警察とともに虐殺事件を起こしていく。

    そして、それが日本の植民地の時代を終えながらも、
    大戦後の世界状況が動いていくなかで、米国とロシアの影、
    国内的には李承晩政権の発足という緊張の中で行われた。

    北と南が38度線を境に戦争状態に入るのは、もう少しだ。
    この戦争が、済州島のこの「反乱」を、「北」の飛び地のように見せた側面も強いのだろう。
    李承晩以来、南側でできた「反共」を旗印とする政権・体制の中で
    島はさらに虐殺の場となり、島人たちにとっては口をつぐまざるをえない長い時間を迎えることになった。

    その事件を検証し、虐殺された人々の名誉回復が行われるようになったのは
    この10年余りのこと。光州事件や植民地時代に「親日」であった人たちへの歴史検証とともに
    済州島に光が当たってきたわけだ。

    先ほどの赤澤書評に戻ると、この「筆者は、
    左翼の武装隊指導者の行動には、地域の自治の伝統に基づく抵抗運動の流れから
    逸脱した部分があったと考えているようだ。お互いに暴力が揮われる中で、虐殺された
    住民の約8割は軍などによって殺されたが、その1割少々は左翼の武装隊による
    犠牲者だったと本書では指摘している」と書いているように、
    かなり抑えた筆致ではあるが、重たい本であった。

    それにしても本書で教えてもらったのは、済州島の歴史であり、日本とのかかわりだ。
    済州島が置かれた物理的な場所から、まずは海とのかかわりがあり、
    陸からの時代としてモンゴルの遺産も残る。そして王朝時代には流刑地でもあった。

    日本、中でも大阪と済州島との深い関わりについても。植民地時代に大阪と島を直通で結んでいた
    「君が代丸」では33年前後に年に3万人近い済州島民が大阪に渡った。
    そして大阪では東成区や東淀川区などの市周辺に集住した。その集落の数は137地区とも言われた。
    さらに大戦終末期には、済州島は本土決戦の要塞としての作戦地域ともなった。

    戦後、解放された大阪在住の島民の多く(7割余り、5万人)も島へと引き揚げたが、
    深刻な食糧難、コレラ、さらに「三・一節事件」などに嫌気して47年までに3000人余りが日本に舞い戻り
    さらに「四・三」以降はもっと多くの人たちが島を捨てて日本、大阪へ向かった。
    ただ、その時期にはすでに密航の密出国・入国で、正確な数字がない。

    「在日」を考える場合、戦前に日本へ渡ってきた、連れて来られた人を含めて考えても
    戦後に戻った人々との数の差が、よく分からなかったのだが、
    今回考えてみると、それは「四・三」の政治難民としての流入の「暗数」だったのか、と
    合点がいったような気がする。



  • 済州島には近い内に行く事になるので、事前の勉強と思って手に取った。こうした残酷な事件が韓国近代史の中で起こったという事も驚きだが、その真相究明に保守団体の露骨な抗議があった事も一つ分かってはいたがやるせない。韓国という国の暗い側面。

  • 第二次大戦後、日本の目と鼻の先で大量虐殺が行われていた。
    しかも最近まで韓国内でもタブーとされており被害者は罪人扱いを受けていた。
    被害者の名誉回復のためにも歴史を知り反省するためにも事実を伝えることが大切です。

  • 済州島4・3事件について、済州島の由来にはじまり、事件後50年以上を経てようやく金大中政権時に過去清算立法の一部として、真相究明と犠牲者の承認が公的にされるようになるまでの、内容的にはかなりの重量となるものを手際よくまとめている。「4・3武装蜂起は、陸地からやってきた軍政警察や右翼の横暴に対する自衛的かつ限定的な反攻という側面と、単独選挙阻止に見られる民族統一運動という、2つの側面をもっていた」。とあるように、独特の地盤を形成してきた独立心の強い島民たちに南労党が親和・浸透し、3・1節事件やゼネストを皮切りに警察・極右集団・米軍政当局の弾圧が強まる中で、中央党の支持を待たずに武装決起、多数の良民を含む島民約1万4000人が殺害(2003年までに申告された被害者のみ)されるという大事件となった経緯が整理されて書かれてある。ただ米軍政当局についてはかなり重要な動きがやや大ざっぱで、この分量では仕方がないかもしれないけれど多少残念。

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著者プロフィール

立命館大学国際関係学部教員。政治学・朝鮮現代史。主な著書に『韓国現代史』岩波新書、『済州島四・三事件』平凡社、共編著に『ろうそくデモを越えて』東方出版、『在日コリアン辞典』明石書店、『エティック国際関係学』東信堂など。

「2012年 『危機の時代の市民活動』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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