世界史を変えた植物 (PHP文庫)

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569901558

作品紹介・あらすじ

一粒の麦から文明が生まれ、コショウが大航海時代をつくり、茶の魔力が戦争を起こした。人類を育み弄させた植物の意外な歴史に迫る!

感想・レビュー・書評

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  • 『世界史を大きく動かした植物』 稲垣栄洋著 : 読売新聞オンライン
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20180910-OYT8T50031/amp/

    世界史を変えた植物 | 書籍 | PHP研究所
    https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-90155-8

  • 植物って自分は動かないけど、人間を動かしてるんだな。

    めちゃくちゃ世界史好きにはハマりました。
    点と点が繋がることが多く、すごく読んでて気持ちの良い本です。

    高校の時に世界史を勉強していたのですが、「綿織物が人気だからどうしたんだ?」、「胡椒とか近くで作ればええやん」「アメリカ大陸からトマト、唐辛子とか見つけたけど、教科書に書くくらい大事なこと?」とか根本を理解しないまま暗記していました。
    そういった学び直しにも持ってこいですし、何より普段自分たちが食べている、身の回りの植物に面白い歴史があるという気づきが、ちょっと生活を色付けしてくれると思います。

  • コムギ、イネ、トウモロコシ、ジャガイモなど、今当たり前にある植物と人類の歴史の関わりを、物語風に書いた本。世界史だけでなく食文化や栄養学にもつながるところもあり、読み応えがある。背景知識がなくとも十分楽しめた。

  • 米や茶、大豆など植物ごとに章として取り上げ世界史のなかでの役割を解説していく本。
    植物に絞ってその歴史を解説してくれるため、前提知識を持たなくても読みやすい本だと思う。
    裏を返すと、ある程度知っている場合、角度を変えて似た内容を何度も読むこととなってはしまう。
    銃・病原菌・鉄でだいたい読んだ内容という部分もあった。
    史実を述べてるから当たり前ではあるが。

  • 切っても切れない植物と人類の関係について。
    人は特定の植物を求めて海を渡り、新大陸を見つけ、ついには近代社会が発展していったのだ、と理解することができます。
    特定の植物を巡って戦争が起こったり、法整備がされたり、はたまた思想が磨かれたり。
    植物を通じてよくも悪くも世界が繋がっていき、私たちが生きる現代文明が作られたのだと思います。
    実はあの植物が…!?という驚きと発見に満ち溢れているので、どの章から読んでも楽しめます!

  • 内容は興味深いものだったが、繰り返しの内容が多い。通読よりは気になるトピックを選んで読むのがよさそう。

  • めちゃくちゃ面白い!植物あってこその人類の繁栄がいろんな植物、時代で語られています!単子葉植物って双子葉植物より後に進化したスーパー効率化植物だと知りませんでした…。

  • この本は世界史を植物という観点から見た本です。歴史には必ず戦争がつきものですが、以前は戦争というものは、イデオロギー等から生じるものだと思っておりましたが、人間が食べるもの(植物)に関するものが原因となっているのは興味深い観点です。

    実際に人間が口にする、小麦・米・胡椒・ジャガイモ・茶等だけでなく、人間が身につけるもの(綿、絹等)も植物であると考えると、人間は植物に依存して生きてきたのだなと改めて実感しました。

    これからも様々な切り口で歴史を俯瞰していくことは楽しいことだと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・イネ科の食物がケイ素を体内に蓄えるようになったのは、600万年前ほど前のことであると考えられている、これは動物にとっては劇的な大事件であり、この進化によってエサを食べることのできなくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられている。(p23)イネ科植物の葉は固く消化しにくい上に栄養分も少ないという、動物のエサとして適さないように進化した(l25)

    ・小麦の祖選手と呼ばれるのが「ヒトツブ小麦」という植物である、私たちの歴史で最も偉大な発見をした、それが種子が落ちない突然変異を起こした株の発見である、種子が熟しても地面に落ちないと自然界で植物は子孫を起こすことができない致命的な欠陥であるが、人類にとっては異なった。種子がそのまま残っていれば収穫して食糧にすることができた。これは食糧を安定に確保することができることを意味して、これこそが農業の始まりであった(p30)

    ・多くの植物が種子の中に炭水化物だけでなく、タンパク質や脂質を含んでいるが、イネ科植物の種子はほとんどが炭水化物である。タンパク質や脂質を種子に持たせるためには、エネルギーを必要とするので親の植物に余裕がないとダメである。厳しい草原に生きるイネ科植物にそんな余裕はない、そのため光合成で得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、芽生えは炭水化物をそのままエネルギー源として成長するというシンプルなライフスタイルを作り上げた(p35)

    ・胃袋に入る量には限界があるが、農業によって得られる富には歯止めがない、農業をすればするほど人々は富を得て力を蓄えていった、農業は過酷な労働を必要とするが一度農業を知ってしまった人類に、農業をやめてのんびり暮らすという選択肢はない。こうして農業の魅力によって人類は人類となっていった(p38)

    ・縄文時代中期の100キロ平方メートルあたりの人口密度は、西日本では10人未満であったのに対して、東日本ではその数十倍(100-300人)であったと推計されている。豊かな落葉樹林が広がる東日本は、大勢の人口を養うのに十分な食糧があった。人口を支える食料が不足する西日本では稲作は急速に広まったが、十分な食料がある地域では労働を伴う農業は受け入れられなかった(p44)終了を多くできないヨーロッパでは、広い面積で農業を行うしかなかった、日本の田んぼは、手をかければかけるほど収量が多くなる、やみくもに面積を広げるよりも、手をかけて稲作が行われた(p62)

    ・17世紀の江戸時代の日本では、コメの場合、種子の量に対して、20-30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物であった。今では110-140倍もの収量があるのに対して、小麦は20倍前後である。さらにコメは栄養価に優れている、炭水化物だけでなく良質のタンパク質、ミネラル、ビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。唯一足りないのは、アミノ酸のリジン、そのリジンを豊富に含んでいるのが大豆である。そのため、米と大豆を組み合わせることで完全栄養食になる。ご飯と味噌汁は栄養学的に理にかなっている。小麦の場合は小麦だけではタンパク質が不足するので、肉類を食べる必要がある(p49)

    ・コメ本位制の良い面がある、自然災害や飢饉が起きる江戸時代において、経済活動があまりにも貨幣や金に重きを置いてしまうと、お金はあっても人々が飢えてしまうことも起こり得る。一方コメが経済の中心であれば、諸藩は経済を活性化させるために食糧増産に取り組むことになる。しかし次々に田んぼを作っていくことは、無制限に貨幣を印刷しているのと同じことで、新田開発によりコメが大量に生産させることにより、やがてコメ本位制の経済は不安定になっていく(p59)

    ・ポルトガルに大航海時代の先を越されていたライバル国のスペインは、ポルトガルの東回り航路に対抗して、西廻り航路を目指すコロンブスを援助した(p68)コロンブスが新大陸に到達した2年後の1494年にカトリック教皇によってスペインとポルトガルの間で交わされたのが、トルデシリャス条約である。西経46度37分の東側で発見された土地は全てポルトガル、西側はスペインが領有することになった。こうしてアフリカはポルトガル、アメリカはスペインを手に入れることになる。しかし他のヨーロッパの国からすると面白くない裁定であり、オランダやイギリスがカトリックから離れてしまうきっかけにもなった事柄である(p69)

    ・スペインによる貿易制限を受けていたオランダは、頼みの綱のポルトガルがスペインに併合されると香辛料の入手が困難になった、そのため独自に香辛料を入手する必要があった、複数の商社が競い合って胡椒を入手しようとしたため現地での胡椒の価格が高騰した、オランダ国内では競い合って売ったので価格は下落した。そのため、オランダは複数の商社をまとめて大規模な会社を作り、貿易の権限を独占させた、それが東インド会社である(p73)

    ・人間の味覚は生きていく上で必要な情報を得るためのもの、苦味は毒を識別する、酸味は腐ったものを識別する。甘味は人間が進化する前のサルがエサとしていた果実の熟度を識別するためのものである、ところが舌には辛味を感じる部分はない。唐辛子の辛さ(カプサイシン)は、舌を強く刺激し、それが痛覚となっている、辛さは「痛さ」である。唐辛子を食べると食欲が増進するのは、痛みの元となる唐辛子を早く分解・消化しようと胃腸を活性化させるためである。さらにエンドルフィン=脳内モルヒネも分泌して、疲労や痛みを和らげる役割を果たし、結果的に陶酔感を覚えて忘れられない快楽を感じてします(p88)

    ・日本の食卓では、アジア・アフリカと異なり、それほど唐辛子が広まらなかった。日本には食材の鮮度を重視し、素材の味をいかに引き出すかという独特の食文化がある。そのため、辛味一辺倒で食材の味がわからなくなる唐辛子はあまり必要とされなかった(p93)

    ・牛はジャガイモを食べることができないが、豚はジャガイモをエサとする。こうして豚のベーコンやハム、ソーセージもまたジャガイモとともにドイツの食卓を彩っていく。そしてジャガイモはそれまで穀物を食べていたヨーロッパに肉食を広めていく要因にもなっていく(p107)ジャガイモが食糧になったことで、それまで人間が食べていた大麦やライ麦などの麦類を牛のエサにすることができ、冬の間も新鮮な豚肉・牛肉が食べれるようになった(p112)

    ・パンがなければお菓子を食べればいいじゃない、というマリーアントワネットの言葉も、実際にはルイ16世の叔母である、ヴィクトワール内親王の言葉とされている。しかも正確には「ブリオッシュを食べればいい」であり、現在では高級なパンであるブリオッシュも、当時はパンの半分の価格の食べ物だっとされている。マリーアントワネットは、国民を飢饉から救うために、ジャガイモの普及に尽力した人物であったことは明らかである(p109)

    ・ジャガイモが航海食として用いられると、壊血病(ビタミンC不足による)は少なくなった。ジャガイモはビタミンCを豊富に含むため壊血病を防ぐことができる。しかもジャガイモは貯蔵性に優れている(p113)ジャガイモは味が淡白だが肉の旨味と合わせると美味しくなる、日本でジャガイモが普及するのは明治になって肉食が行われてから以降のことである(p115)

    ・中央構造線沿いは磁場が少なくパワースポットも分布している、九州の阿蘇山、宇佐神宮、天岩戸神社、四国の石鎚山、近畿南部の高野山、伊勢神宮、中部地方の豊川稲荷、秋葉神社、諏訪大社、関東の鹿島神宮など、この地域にそって栽培地域が分布している(p116)

    ・インドではカレーはとろみがなくスープ状である、しかしイギリス海軍では船の揺れに対応するためにカレーにとろみをつけるようになったと言われている(p122)

    ・グリーンの野菜サラダも赤いトマトを彩りとして添えると急に美味しそうに見える、人間は赤い色を見ると副交感神経が刺激されて、食欲が湧いてくる(p129)りんごの色は赤紫である、紫色のアントシアニンと、橙色のカロチノイドの2つの色素を巧みに組み合わせて赤い色を出している。これに対してトマトは、リコピンという真っ赤な色素を持っている(p130)

    ・世界で最も多く栽培されている作物は、トウモロコシ、ついで小麦、イネである、4位がジャガイモ、5位が大豆であり、それについで生産されているのがトマトである(p134)

    ・19世紀のアメリカでの裁判では、植物学者はトマトは果実であると主張したが、連邦最高裁判所では「トマトはデザートでなく、野菜である」という判決が出た。植物学的には果実だが、法律的には野菜だと判断された。当時のアメリカでは野菜には関税がかけられていたが、果実は無税であった。そのため税金を徴収する役人は野菜であると主張し、輸入業者は果実であると主張した。日本語の果実は「木の物」という言葉に由来するので、果実は木になる実である。トマトはりんごや柿のように木になることはないので、果実ではない。日本の農林水産省では、木本性の食物を果実、草本性の植物を野菜という、トマトは草本性の植物なので、日本では野菜に分類されている、従ってフルーツとして食べられる、イチゴ・メロンも日本では野菜である(p138)

    ・アメリカで南北戦争が始まると、北軍は南部の経済的拠り所を抑えようと綿の港からの輸出を封鎖したが、意外にも南軍も綿の輸出を制限するようになった。綿が輸出されなければイギリスが困る、そうしてイギリスに援助してもらおうと画策した。それを阻止したかったリンカーンは、奴隷解放宣言を出した、こうして戦争の目的が奴隷解放であることを内外にアピールしてイギリスがアメリカ南部を支援することを難しくさせた。こうした戦略も功を奏して、北軍の勝利で終わりを告げた(p148)

    ・明の初代皇帝、洪武帝は貴族や富裕層の飲み物であった茶を庶民に広めるために、手間をかけて固形に固めることを禁止し、茶葉で簡単に飲むことができる「散茶」を広めた。そのため中国では抹茶は廃れてしまった、抹茶は日本に渡って生きながらえた、抹茶は日本のわび・さびと結びついて茶道という独特の進化をとげた(p156)

    ・収穫した葉を寝かせておくと酸化酵素の働きで酸化する、こうして赤黒く色づいた葉から得られたのが紅茶である、一方、すぐに加熱して酸化酵素の働きを不活性化させると変色することなく緑色が保たれる、こうした加熱した葉から作られるのが緑茶である、中国からヨーロッパまでの海路を運ぶために痛みにくい紅茶が出荷されるようになった(p137)

    ・イギリスでは街のコーヒーハウスは男性達の社交の場であった、そのためティーパーティはコーヒーハウスにいくことのできない女性達の間で広まっていった、やがてコーヒーハウスの代わりに女性達のためのティーガーデンが作られていく。すると男女の出会いを求めて男性達もティーガーデンに行くようになり、コーヒーハウスは次第に廃れていった(p159)

    ・イギリスでは赤痢菌など水が媒介する病気の心配があったので、農業労働者達は水の代わりにビールなどのアルコール類を飲んでいた。しかし工場で働く労働者達は、ほろ酔いで働くわけにはいかない。茶は抗菌成分を含むので十分に沸騰していない水で淹れても病気の蔓延を防ぐことができる。しかも眠気を覚まして頭をスッキリさせてくれる、労働効率を上げる最適な飲み物であった(p160)

    ・イギリスへの反発(ボストン茶会事件、独立戦争)から、アメリカの人々は紅茶の代わりにコーヒーを飲むようになる。これが紅茶の味に似せて、浅く焙煎したアメリカンコーヒーである、日本でアメリカンコーヒーというと薄いコーヒーを意味することが多いが、実際には焙煎の浅いコーヒーである(p162)

    ・イギリスの産業革命によって大量に工場生産された安価な綿織物は国内では消費できずに植民地であったインドに輸出され、ついには伝統的な織物業を壊滅させてしまう。主産業が壊滅したインドで麻薬の原料となるケシを栽培し、そこから作りだした麻薬のアヘンを清国商人に打った、こうしてイギリスはインドで生産したアヘンを清国に売り、自国で生産した綿製品をインドに売ることで、茶の購入で流出した銀を回収するという三角貿易を作り出した(p164)

    ・アッサム種が育つ熱帯では病害虫が多いので、抗菌作用のあるカフェインの含有量が多い。緑茶はアミノ酸の旨味を楽しむ飲み物であるが、紅茶はカフェインの苦味を楽しむ物であり、アッサム種は紅茶に向いている、イギリスはこうして中国に頼らずに紅茶を持久することに成功し、インドは世界一の紅茶の生産地になって経済を復興させていった(p168)

    ・コーヒー豆を輸出するということは、植物の種子を手渡しているのと同じである、輸出先でコーヒーを栽培されてしまったらコーヒーを輸出できなくなるので、オスマン帝国ではコーヒー栽培を独占するためにコーヒー豆の目が出ないように煎ってから輸出をしていた。(p178)

    ・イギリスのコーピーハウスが男性の社交の場だったのに対して、フランスのこーぴーハウスは男女ともに集まることのできる場所であった。時間的な制約もなく、肩書きも関係なく自由な討論が行われた、そんなコーヒーハウスでフランスの思想家たちは、理性による思考を重んじる啓蒙思想を語り、科学者達は科学的で合理的な施行を語った(p184)

    ・日本人が飲んできた番茶に含まれるカフェインの量は、一杯当たり10ミリグラム、高級な煎茶は20ミリグラム、コーヒーは60ミリグラム、日本に伝えられた茶は、もともと寒さに強くカフェイン量の少ない中国種である。カフェインの苦味よりもカテキンの渋味が際立つ、そのためカテキンの渋みを抑えて、日本人の好きな新鮮な青臭い香りや、旨味を引き立たせた日本茶が作られてきた、そのため私たちが飲むお茶に含まれるカフェインの量も抑えられてきた(p192)

    ・サトウキビ栽培の重労働には奴隷が使われたが、消耗品に過ぎなかった、短期間・重労働をさせて使い物にならなくなってもアフリカから次々に補充の奴隷達が運ばれ(三角貿易)サトウキビ栽培だけでなく、綿花栽培にも応用されていった。1451年から奴隷制が廃止される1865年まで940万にものぼるアフリカの人々が奴隷としてアメリカに運び込まれた(p204)

    ・大豆などのマメ科の植物は、窒素固定という特殊な能力によって空気中の窒素を取り込むことができる。そのため窒素分の少ない土地でも育つことができる、しかし種子から種子から芽を出すときにはまだ窒素固定できない、そんため窒素を固定するまでの間、種子の中にあらかじめ窒素分であるタンパク質を蓄えている(p215)

    ・とうもろこしのデンプンからは「果糖ブドウ糖液糖」という甘味料が作られ、さまざまな食品に入っている(p254)

    ・万葉集の頃、花といえばウメであったが、平安時代になって遣唐使が廃止されると人々は日本の文化に芽を向けるようになり、サクラを歌で読むようになり、古今和歌集(905年)ではサクラを詠むことが多くなった(p260)

    2022年3月13日作成

  • 習った世界史の人物や国がたくさん出てきてワクワクする

  • 面白かった。
    誰かに話したくなる。

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著者プロフィール

稲垣 栄洋(いながき・ひでひろ):1968年静岡市生まれ。岡山大学大学院農学研究科修了。農学博士。専攻は雑草生態学。農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、静岡大学大学院教授。農業研究に携わる傍ら、雑草や昆虫など身近な生き物に関する記述や講演を行っている。著書に、『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な野菜のなるほど観察録』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『身近な野の草 日本のこころ』(ちくま文庫)、『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか』『イネという不思議な植物』『はずれ者が進化をつくる』『ナマケモノは、なぜ怠けるのか』(ちくまプリマー新書)、『たたかう植物』(ちくま新書)など多数。

「2023年 『身近な植物の賢い生きかた』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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