私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

著者 :
  • PHP研究所
3.94
  • (11)
  • (15)
  • (7)
  • (3)
  • (0)
本棚登録 : 238
感想 : 13
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (157ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569761633

作品紹介・あらすじ

親鸞を長編小説に描き、深くその教えに触れた著者が、『歎異抄』を平易かつ滋味深い言葉で訳す。構想25年の珠玉の書、ついに文庫化。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【読もうと思った理由】
    元々、光文社古典新訳文庫の歎異抄を読了したが、解釈の部分での(自分自身の)理解が低いと感じ、納得感が得られなかった。なので、別の著者が書いた、違う視点からの歎異抄を読み、より俯瞰的に歎異抄を知りたくなった。そんな中、ベストセラー作家の五木寛之氏が歎異抄を書いているのを知り、読んでみようと思ったのが経緯。

    【歎異抄とは?】
    浄土真宗の開祖・親鸞の言葉を、弟子の唯円が親鸞の死後に書き纏めたもの。唯円が師の言葉を纏めようと思った理由が、親鸞の教えが歪められ、異なった考えとして伝わっていくことを憂い、歎じて(嘆かわしく思って)、それを正すために書いたもの。

    【五木寛之氏が私訳とつけた意味】
    著者まえがきに『「私訳 歎異抄」とは、私はこう感じ、このように理解し、こう考えたという主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない。そのことを十分承知の上で、あえて「私」にこだわったのだ。』と記載されている。上記のように、まえがきで事前に筋を通してくれる計らいに、好感を持て購入に至る。

    【歎異抄を理解するのが難しい理由】
    善人よりも悪人こそが救われるという「悪人正機」、自力による修行を否定し、阿弥陀如来の本願力にひたすら身をゆだねることを説く「他力本願」の思想などなど。これまでの常識を覆す革新的な親鸞の教えは、その新しさゆえに死後大きな誤解にさらされる。

    【それでも歎異抄が人気の理由】
    常識的な日本人の宗教観や倫理観とは相容れない表現が続出し、読む者をなかなか着地させてくれないところが、長年人々を惹きつける理由と言われている。

    【感想】
    もちろん、全ての考えに納得感がある訳ではないが、一冊目読了時よりは、幾分か腑に落ちた感があったので、そこは2冊目を読了して良かったと率直に感じた。あと、司馬遼太郎氏をはじめ、数々の著名人がこの本を薦める理由を少しは分かったかもしれない。それは、一冊目読了後よりも2冊目の方が多少なりとも著者の考えを理解出来たことが、この先また何度も読めば、現在の理解力のその先にある、別領域へ自分を連れて行ってくれるかもしれないという期待感を、もたらしてくれるくれる稀有な本(思想)だということなんだろうと思った。

    【納得感があった部分】
    (悪人正機について)
    「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない」という親鸞のことば。
    いやいや、普通は逆でしょう!と一般の感覚を持った人であれば思うはず。

    そこで五木寛之氏の私訳は、いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないとのこと。我々人間は、ただ生きるというだけでも、他の生き物の命を奪わないと生きていけない、根源的な悪を抱えた存在だ。我々は全て悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない存在なのだ。

    上記のように言われれば、腑に落ちた。現在の世の中では、鶏・豚・牛などを自分で屠殺している人は少ないだろう。肉を食べるためには屠殺せざるを得ない。他の生き物の命を頂いて生きている(生かされている)のを、上っ面ではなく、心から理解出来たことが、この本を読んで得た最大の収穫だ。

  • 現代語訳で読みやすかった。言っていることは単純だけど、なぜかじわっと来るところあり。

  • 原典は読めなかったが五木寛之の私訳のおかげで読むことができた。念仏を唱えることの重要性を思い知らされる内容だった。要は信じることが大事ということか。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」全てはこれに凝縮されるようだ。

  • 2015.1記。

    親鸞と言えば「他力本願」と授業では習う。なんとなく、自分で悟るのではなく、ひたすら祈って連れて行ってもらう、というイメージがある。が、実際の親鸞の言葉のニュアンスは一筋縄ではいかない、と感じた。

    「浄土にいくために必要」、と師に言われてその命令に従うのは浄土に行きたいと願う「意志」の表れであり、「他力」ではない、と親鸞は説く。少しでも善行を積めば浄土により近づけるのではないか、との考えも「意志」の表れであり、他力ではない、とも説く。

    意志あるいは願望の排除を生活において徹底するのは並大抵のことではない。リターンを全く意識せずにただ他力にすがる、これは実はかなり難しいことではないだろうか。

    こうした「意志を持たないという意志」という一見相矛盾するあり方について考える、というのが「思想としての親鸞論」のとっかかりであろうか、といったことを思った。

  • #英語 Tannisho (Lamenting heresies/Lamenting the Deviations) by Hiroyuki Itsuki

    私訳は my own translation ? translation mine?

    英語にすると「歎異抄」の意味や、これが唯円によって書かれた背景が非常にわかりやすい

    目次
    ・まえがき
    ・私訳 歎異抄
    ・歎異抄 原典
    ・親鸞とその時代(解説 五味文彦)←注目!

  • 誰かを通してではなく、原文と自分が向き合うこととしたい。

  • 親鸞といえば悪人正機と他力本願、ということくらいは日本史の授業でならったけれども、こちらが思っている以上に他力本願だった。
    「薬があるからといって毒を飲むことはない」に納得。

  • 唯円の書き残した親鸞の教え。すっきりとした現代語訳で読みやすい。

  • 2015/09/26

  • 経典読んでボロボロ涙が止まらなかったのは、新約聖書とこれ。
    どんなに愚かでも、全ては愛。

全13件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1932年、福岡県生まれ。作家。生後まもなく朝鮮半島に渡り幼少期を送る。戦後、北朝鮮平壌より引き揚げる。52年に上京し、早稲田大学文学部ロシア文学科入学。57年中退後、編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞、2010年『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞受賞。ほかの代表作に『風の王国』『大河の一滴』『蓮如』『百寺巡礼』『生きるヒント』『折れない言葉』などがある。2022年より日本藝術院会員。

「2023年 『新・地図のない旅 Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

五木寛之の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×