土星の環:イギリス行脚[新装版]

  • 白水社
4.54
  • (8)
  • (4)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 156
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560097786

作品紹介・あらすじ

〈私〉という旅人は、破壊の爪痕を徒歩でめぐり、荒涼とした風景に思索をよびさまされ、つぎつぎに連想の糸をたぐる。解説=柴田元幸

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • サフォーク州を徒歩で横断した「わたし」は、旅の果てに力尽きて入院する。ノーフォーク州ノリッジにあるその病院は、トマス・ブラウンの頭蓋骨が眠るとされている場所だった。旅の記憶と本の記憶が交じり合い、連想が連想を呼ぶメランコリックな旅行記小説。


    旅の話とブッキッシュな歴史の話がシームレスに繋がれ、脱線に次ぐ脱線をくり返していく。特に6章の橋→竜(ボルヘス『幻獣辞典』)→西太后へとモチーフをするする転換させ、あたかも居合わせたかのように西太后の生涯を語ってみせるくだりは、既読のゼーバルト作品からは感じたことのない陽気さがあって新鮮だった。大英帝国の罪を告発するコンラッドとケイスメントの伝記などもあるが、全体的にストレートなユーモアを感じられる小説になっている。ディティールを膨らませて連想を転がしていく語りの楽しさは私にトマス・ブラウンを教えてくれた澁澤にも近く、もっと似ていると思ったのはキアラン・カーソンの傑作『琥珀捕り』だ。
    散歩をしながらその風景にまつわる知識を無尽蔵に引きだし、幻想のなかにまで歩いていってしまう、〈フラヌールの文学〉というジャンルがあるのではないかと思う。『変身物語』を下敷きにしてアイルランドとオランダを語る『琥珀捕り』もそうだし、多和田葉子の『百年の散歩』も典型的なものといえるだろう。エッセイとフィクションのあいだに揺蕩う、このジャンルの小説が私は大好きだ。商人と盗っ人の守り神、ヘルメスを水先案内人にした『琥珀捕り』に対し、『土星の環』はタイトル通りサトゥルヌスに導かれ、破壊と喪失をめぐるメランコリックな思索の旅になっている。
    カーソンとゼーバルトが大きく異なるのは、『琥珀捕り』は一貫した庶民目線で書かれ、民話や昔話の再構成が大きな縦軸になっているが、『土星の環』は民衆蜂起や革命を取り上げながらも貴族趣味に寄っているところだ。王族や没落貴族に対するシンパシーが、そのまま失われた時代への追憶として語られる。「この世に慣れることができなかった」と呟いたアシュベリー家の人びとへのしっとりとした共感は、どこかナルシスティックな余韻を響かせる。
    自己陶酔的に感じてしまうのは、既読の『移民たち』『アウステルリッツ』がほぼ全篇「~~と○○は言うのでした、と××は語った」式の間接話法で語られていたのに対して、本作は一人称の語り手「わたし」の存在感が大きいせいもあると思う。だからといって別に語り手が暑苦しく自説を語るとかではなく、夢と現実のはざまを縫うような語りの術は健在なのだが、行動の主体も回想の主体も「わたし」だということが、ゼーバルト作品のような繊細な世界観ではそれだけでエゴを感じさせてしまうのかもしれない。
    『壺葬論』に記された「パトロクロスの骨壺に残された紫色の絹の切れ端」に思いを馳せてはじまった連想の旅は、死者を惑わせないよう美しい絵画に「喪のための黒絹の薄紗」がかけられていく場面で幕を閉じる。他のゼーバルト作品と同じく、やはりこれも喪の旅であり、”既に終わってしまった世界”を悼む葬列だったのである。「この世界は既に終わっている」という滅びの感覚と彼の貴族趣味は無関係ではない。没落貴族というのは生きた廃墟にほかならないのだから。

  • これが紀行エッセイなのか小説なのかはたまた詩なのか判然としない。
    ともかくゼーバルトの他の著作と同様、たくさんの写真が、みっちりと埋まった活字のあいだにさし挟まれる(これがページをめくる楽しみでもある)。
    はっきりとした足場もない。真偽もない。ただ密林のような文章のなかに分け入っていくしかない。

    イギリス各地を旅行するのかと思いきや、著者が実際に歩くのは東部の一部地域だけ。しかも荒廃した、戦争の傷跡や、廃墟や、風化した自然などばかりを訪ねる。

    「土星」は、ヨーロッパでは憂鬱質(メランコリー)を支配する星と考えられていた。土星の環というタイトルは、メランコリーから逃れられず、出口もなくその周りをぐるぐると巡っている、という意味なのだろうか。

    しかし不思議と読むのをやめられないのは、次から次に、じつにさまざまな時の層が重層的に折り重なってきて飽きないからだ。その結果、過去も未来もあったものではない、じっさいは荒涼たる地理に、時間が流れ始める。
    そして有名無名の死者たちの声が聞こえ始める。コンラッド、シャトーブリアンもいる。

    こうして本書のなかでは必ずしも時間は未来に向かっては流れない。過去に向けて。またある過去からある過去へ唐突につながっていく。
    ふと思い当たったが、これは天体の運行のイメージに近いのかもしれない。

    終盤に出てきたいちばんわかりやすい例。こんなふうに日付だけで時が接続される。

    例えば真似して書いてみると、今日は12月12月だから、1098年12月12日、第1回十字軍、マアッラ攻囲戦が終結、
    1913年12月12日、ルーブル美術館から盗まれ行方しれずになっていた「モナ・リザ」がフィレンツェで発見される、
    1988年12月12日、岩波書店が「ちびくろサンボ」を絶版にする、などなど。

    こんな時の遊びが散りばめられてもいる。

  • ①文体★★★★☆
    ②読後余韻★★★★☆

  • イングランド ノーフォーク州を徒歩にて旅する。その風景の寂れた、枯れた姿にかっての栄華が立ち現れる。いく先々の土地から飛躍する思いの数々に読む方は目眩を起こしそうだ。列車から中国の太平天国の乱へ、コンラッドからコンゴへの、オーフォードの政府の研究施設のくだり、零落した貴族の跡地や侘しい宿泊施設。ゼーバルトの筆の進むままに、時代や場所が入り乱れ、あたかも迷路のように彷徨って、読み終わった今もそこから抜け出せないような感じだ。

  • 2020の最大の収穫!

全5件中 1 - 5件を表示

著者プロフィール

W.G.SEBALD
1944年、ドイツ・アルゴイ地方ヴェルタッハ生まれ。フライブルク大学、スイスのフリブール大学でドイツ文学を修めた後、マンチェスター大学に講師として赴任。イギリスを定住の地とし、イースト・アングリア大学のヨーロッパ文学の教授となった。散文作品『目眩まし』『移民たち 四つの長い物語』『土星の環 イギリス行脚』を発表し、ベルリン文学賞、ハイネ賞など数多くの賞に輝いた。遺作となった散文作品『アウステルリッツ』も、全米批評家協会賞、ハイネ賞、ブレーメン文学賞を受賞し、将来のノーベル文学賞候補と目された。エッセイ・評論作品『空襲と文学』『カンポ・サント』『鄙の宿』も邦訳刊行されている。2001年、住まいのあるイギリス・ノリッジで自動車事故に遭い、他界した。

「2023年 『鄙の宿[新装版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

W・G・ゼーバルトの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×