- Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560097588
作品紹介・あらすじ
どんな眼からもぬぐい去れない靄がある
異郷に暮らし、過去の記憶に苛まれる4人の男たちの生と死。みずから故郷を去ったにせよ、歴史の暴力によって故郷を奪われたにせよ、移住の地に一見とけ込んで生活しているかに見える移民たちは、30年、40年、あるいは70年の長い期間をおいて、突然のようにみずから破滅の道をたどる……。語り手の〈私〉は、遺されたわずかの品々をよすがに、それら流謫の身となった人々の生涯をたどりなおす。〈私〉もまた、異郷に身をおいて久しい人だ。個人の名前を冠し、手記を引用し、写真を配した各篇はドキュメンタリーといった体裁をなしているが、どこまでが実で、どこまでが虚なのか、判然としない。
本書は、ゼーバルトが生涯に4つだけ書いた散文作品の2作目にあたる。英語版がスーザン・ソンタグの称讃を得て、各国語に翻訳され、ドイツではベルリン文学賞とボブロフスキー・メダル、ノルト文学賞を受賞した。
堀江敏幸氏による巻末の解説「蝶のように舞うぺシミスム」から引用する。「作家の極端なぺシミスムが読者にかけがえのない幸福をもたらすとは、いったいどういうことなのか? ゼーバルトの小説を読むたびに、私はそう自問せざるをえなくなる」。
感想・レビュー・書評
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四つの長い物語、という副題がつけられているが、1人の人間の生を覆い尽くすほどの時間を凝縮した4つの短い物語が収められている。
ドクター・ヘンリー・セルウィン(すべてを壊しても記憶は残る)
パウル・べライター(どんな眼からもぬぐい去れない靄がある)
アンブローズ・アーデルヴァルト(わたしの穀物畑には涙ばかりがなっている)
マックス・アウラッハ(彼ら黄昏どきに来たりて生命あるものを捜し求む)
それぞれの名前がそのままタイトルになっている。4者の共通点は移民であること。そしてどのエピグラフも死や絶望を連想させること。
語り手はゼーバルトのほかの小説と同様、ここでももはや存在しない人、あるいは世を捨てたきらいのある人、そして精神が錯乱しかかった人を求めて旅をする。これでもかというくらいに。
その歩調が、文体と相まってあぶなかしい。ふと真っ暗な深淵へと(平気な顔して)転落していきそうだ。
そして、まるで地の霊が、死者が、「私」の口を借りて語りだしたかのように、それが「私」自身の言葉なのか、あるいは死者が実際に語った言葉なのか、その境目はいつまでたっても判然としない。
そうした、まるで霧の中を歩むような文章の脇に豊富な写真が掲載されているのはおなじみだが、この写真と文章との関係というものがずっと気になっていた。いささかなりとも両者には関連性があるのだろうかと。
と、本作で興味深い一例を見つけた。というのは、アンブロース・アーデルヴァルトの物語に、「金閣寺」の写真が登場するのだ。そしてこの「水上の楼閣」についてはこのように本文で言及されている。
「日本ではその独身の参事官が京都の近辺にすばらしく美しい水上の楼閣を持っていてね、アンブローズはなかばこの参事官の従者、なかば客人というかたちで、この水に浮かんだひと気のない家で二年を暮らしたのだって。これまでのどんなところよりもそこの生活は心が休まったと、そう言っていたのを憶えているわ。」
少なくともこの写真については、ずいぶんなデタラメが書かれていることがわかる。金閣寺が参事官の所有物で、あんなところで2年も暮らすなんて!
仮にすべての写真がこうしたデタラメな物語でつなぎ合わされているのだとすれば、本書だけでなく、ゼーバルトの小説に漂う憂鬱や絶望、諦念はいったい何なのか。そこまでして創造されるこの雰囲気とは何なのか。そんな疑問が、解決の糸口も見出せないまま立ち上ってくる。
もっとも、芸術は”解決させない”ために存在するのだろうけれど。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
再読。移民たちと「私」の間に設定された距離と抑えた筆致とによって、概念ではなく実際に生きていた個々のユダヤ系のひとびとに、読者の意識を自然に向かわせる構成が上手い。その一方で、それらしくも胡散臭くもあるモノクロ写真を挿入したり、本当らしく思われない記述を混ぜ込んできたり、たえず「これはお話です」と読み手の気を削ぐつくりにもなっている。
このような書き方でゼーバルトが何を狙っていたのか、そのこころみはわたしに対して成功したのか気になってしまう。本書を読んだことで自分の中に不可逆的に変化してしまった部分があるにもかかわらず、変わってしまった自分にはその変化を決して捉えることができないような気持ちがする。 -
「時間とは心のざわめきにすぎないのです。」
異郷で暮らした、死者たちへの祈りのよう。ぼやけてしまった個性と抽象化された輪郭を携え、そしてあるときふと過去が想起されてきたときに、もはやじしんがもうそれを保てなくなってしまう。再構築できない自我のかわりになにかを育んでいるかのようだった彼ら。
それらの過去が語られるにつけてなんだかまるで、身の皮を剥がされるがごとくの恐怖と絶望をかんじた(そしておきまりの少しの幸福のひかり)。この感覚の奥底にはなにがあるのだろう、わたしじしんの? そうゆうものをずっと探しつづけているのかもしれない。そしていまもその 塊 が、ヒステリー球みたいにのどの奥にはりついている(そしてほんとうにときどきある)。けれどやめることなどできない、"それ" の正体を探そうとしつづけることを。
butterflymanは、過去を捕まえにくるのだろうか、それとも哀しみを?? 捕られて生きるもの、護りながら死を選ぶもの。あるいは囚えられていたすべてを、解放してくれる者なのかも。
胡散臭くったってなんだっていいじゃないか。だから、このまま、どうか、語りつづけて
「語ることは、だから叔父さんにとって苦しみであるとともに、自分を解き放つこころみでもあった。一種の救いであるとともに、容赦なく破滅にたため落とされることでもあった。」
「おざなりにされた自然そのものが、人間の課した荷の重みにやがてうめき声をあげ、じわじわと崩れ沈んでいくのが時とともに感じられる」
「あの光景を見たとき、わたしは生まれてはじめて知ったのだった。人の心は、矛盾したふたつの憧れを持つものなのだ、と。」
「わたしたちの知っていることはあまりにもわずかです。それに比してたしかなのは、心の苦しみに終わりがないことだ。」
「両親が受けた苦痛、わたし自身の心痛を感じまいとして、わたしが無意識意識にどんな壁をつくろうが、自分の殻に籠ってとりあえずの心の均衡をどんなにうまく保とうが、成長期の不幸はわたしの裡に深く根を下ろしてしまっていた、そしてのちになってくり返し芽吹いては邪悪な花を咲かせ、毒葉を生い繁らせて、この歳月、わたしの上に濃い暗い蔭を落としているのです。」
「記憶とは鈍磨の一種なのだろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだ──時の無限のつらなりをふり返るというより、あたかも、天を衝いてそびえている摩天楼のはるかな高みから、地の底を見下ろしているかのように。」
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何回も読もうとして挫折。
読書会課題になりようやく読了。 -
①文体★★★★☆
②読後余韻★★★★☆ -
たくさんの言葉で語られようとするある人物。彼らはみな、遠くからきて、ある日死を選ぶ。
こんなふうに書くと興味深いミステリー感が漂うけれど、この本が魅力をぐっと増すのは謎に分け入って考えるのは読者自身ということ。
たくさんのエピソードが次から次へと、まさに記憶の断片が移り変わり結びついていく。合間合間に示される写真は妙に懐かしくてじっとみていたくなるけれど、その写真すら真実とは限らなくてどんどん不思議な記憶に分け入っていく新しい感覚の読書でした -
長短とり混ぜた四つの物語.生まれた国を出て知らない国を知った国にして生涯を終える移民の心情に寄り添って,手記やら新聞やら伝聞やら本人から聞いた断片など,細部にこだわったり突然違った話に変わったり,まるで不確かな記憶がさまようように物語られる.あちこちにあたかも事実のように散りばめられた写真たち,現実にある場所と語られる内容の乖離,あったことが本当かどうかは読むうちにどうでもよくなり,ただ,移民たちの還るところを求めて彷徨っているかのような姿が印象に残った.