幼年 水の町

著者 :
  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (173ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560095881

作品紹介・あらすじ

追憶のエッセイと掌編幻想小説
 クラスの「美少女」を授業中にスケッチする美術教師、カッパと呼ばれる子に誘われたお好み焼屋、ぬめぬめとした鮒が泳ぐ池に落ちる自分、「禿山の一夜」を園児に聴かせてイメージを描かせる先生、クリスマスに焼きりんごを作る母、縁側で落語の練習をする妹、逆さ蛍と渾名された優等生の美しすぎる母親に言い寄る教師たち、音楽の授業でピアノ伴奏をして見つけた和音のよろこび、飛ぶ夢、落ちる夢、夕食後、独りトランプをする父の顔を照らすカードの照り返し――こんこんと湧きあがる追憶は読者を不思議な想念と思索に誘う。水の町・深川に育った著者はじめての幼年をめぐるエッセイ集。
 そして、
 「何度聞くんだよ、失礼な。アタシャ、今年で八十五、いや六だったか」。すべての臓器が衰弱し、「いつ何があっても不思議はない」老女とその自宅ホスピスに介護補助員として通う女性の語りが交錯する掌編「スイッチ」に流れる静謐な味わい。
 女性は老女に一篇の詩を読み聞かせながら「夜明けに小川のせせらぎのような音を立てて流れる」隅田川に惹きいられてゆく。老女が亡くなって数週間後のある日、女性は隅田川の岸辺で不思議な少女に出会う。

感想・レビュー・書評

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  • 『突き落としたわけではない。が、なぜこんなにはっきり覚えているのだろう。そしてなぜ、罪の意識があるのだろう。自分の家で痛い思いをさせてしまったから? あるいはまさか、わたしが背中を突いた?』―『池の匂い』

    小池昌代の幼い自分自身に対する逡巡はどこか身に覚えのある戸惑い。在りたい自分と実際の自分の乖離。あるいは寄る辺なき孤独。自身の五感と行動のずれ。入力信号を解釈する脳と出力信号を決断する脳の不一致。それは大人となった今でもしばしば起こっていることだが、やり過ごせる鈍感さをいつの間にか身につけている。しかし鋭敏さの固まりである子供にはその矛盾をどう収めたら良いのかが判らない。いや大人も解っている訳ではなく無視するよう自分を騙すことが出来るようになっただけ。

    現実の世界にある不合理はまた無意識の世界にも忍び込む。英語のドリームには希望の響きがあるけれど、日本語の夢には非現実なことにいつまでもこだわる未練たらしい声が聞こえる。そして、そんな夢みたいなことばかり言って、と非難される。子供みたいに、と。子供は夢見がちと相場が決まっているらしい。ところで空を飛ぶ夢は誰でも見るものなのか。オースターもそんな小説を書いていたことをつらつら思い出す。しかしその「能力」は幼年期限定と判で押したように決まっているのは何故なんだろう。自分は未だに時々見るけれど。だからといって現実世界でも自分は飛べるんだとは感じたことはない、この詩人のように。

    『その下にはふてぶてしい肉体が広がっているにしても、驚くべき鋭敏さをまとった幼児の皮膚である。それはただの薄い表皮ともいえず、何か心のようなものと直結している』―『女以前』

    小池昌代の文章に漂う湿り気は、育った町に漂う空気、あるいは雨に濡れた木肌の放つ匂いや滑り気が醸成したもの、などとつい読み解いてしまいたい誘惑に駆られる。しかしそれはそんなナイーヴな仕組みではなく詩人の意図が介在することも理解する。その湿り気と女性性を詩人は意識的に重ねてみせるのだ。それは後年作家が獲得した感情に対する解釈を幼年期の自分の曖昧な感情に投影した結果なのだということ。その意図を理解した上でつい、小悪魔的な、と口にしてみるが、悪魔の前に付くこの一文字に幼年期の無意識の性的行為に繋がる意味を発見して驚く。しかしそれもまたどこまでも大人の理屈であって子供に意図がある訳ではないけれど。

    いや、本当に子供に意図はないのか。幼い自分には未知の現実ではあったろうが何も知らなかったと言えるほどに無知だったのか。詩人はそんなふうに踏み込んでみせる。人は女に生まれるのではなく女になるのだとフランスの知性は言ったけれど、人はやはり女になるのではなく生まれつき女なのではないか、と問うかのように。もちろん大人の理屈で定義される女と子供自身が持て余す肉体に宿る女性性とは同じものではないだろうけれど。その不一致を敢えて重ねて言葉にし直すのがこの作家の特徴であり小悪魔的な魅力でもあるのだと認識する。

    小池昌代の魅力を知ることになった「あたりまえのこと」という詩はこんな風に始まる。「男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。/それがまた、がぽがぽ、というような、えらくひどいあまりかた。」この何気ない出来事に触発された既視感を詩人はやり過ごさず幼年期の逡巡に結び付ける。この後の展開は大人の女である詩人によって再定義された感触が換気する感情へと読み代えられていくのだが、その詩が生まれる過程をつぶさに見せてもらったような気になる一冊。次は詩集を読むことにする。

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著者プロフィール

小池 昌代(こいけ まさよ)
詩人、小説家。
1959年東京都江東区生まれ。
津田塾大学国際関係学科卒業。
詩集に『永遠に来ないバス』(現代詩花椿賞)、『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『夜明け前十分』、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』(萩原朔太郎賞)、『野笑 Noemi』、『赤牛と質量』など。
小説集に『感光生活』、『裁縫師』、『タタド』(表題作で川端康成文学賞)、『ことば汁』、『怪訝山』、『黒蜜』、『弦と響』、『自虐蒲団』、『悪事』、『厩橋』、『たまもの』(泉鏡花文学賞)、『幼年 水の町』、『影を歩く』、『かきがら』など。
エッセイ集に『屋上への誘惑』(講談社エッセイ賞)、『産屋』、『井戸の底に落ちた星』、『詩についての小さなスケッチ』、『黒雲の下で卵をあたためる』など。
絵本に『あの子 THAT BOY』など。
編者として詩のアンソロジー『通勤電車でよむ詩集』、『おめでとう』、『恋愛詩集』など。
『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集02』「百人一首」の現代語訳と解説、『ときめき百人一首』なども。

「2023年 『くたかけ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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