かつては岸 (エクス・リブリス)

  • 白水社
3.76
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感想 : 15
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560090343

感想・レビュー・書評

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  • 韓国南部の架空の島、「ソラ」を舞台とした連作集。
    著者はニューヨーク生まれの韓国系アメリカ人である。

    島はおそらく、済州島をモデルとしていると思われる。
    登場人物たちの人生の背景として、朝鮮戦争や「えひめ丸」の事故、移民や占領統治といった現実の事件が描き出されもする。
    だがそれらは、いずれも、事実を丹念に追う重厚な筆致ではない。
    素早いタッチの水彩画のような、あるいは海に浮かぶ蜃気楼のような、美しいけれども、あわあわとした、どこかつかみ所のない世界である。

    描かれる人々は、死や別れ、障害や孤独など、それぞれに重いものを抱える。誰も彼も、一様に寡黙で内省的である。
    多くは、我と彼の思いは行き違う。どぎつい悪意も鋭すぎる憎しみもないけれども、思いはすれ違い、人々は漂い続ける。

    アメリカ人未亡人と半島出身のウェイターを描く表題作「かつては岸」。米軍軍事演習の事故に巻き込まれたらしい息子を捜す老夫婦の物語「残骸につつまれて」。ベテランの海女と日本人移民の少年の交流を描く「彼らに聞かれないように」。
    人生の一コマをフレームに切り取ったような詩的な8編のうち、1編を挙げるとすれば、「わたしはクスノキの上」だろうか。妻を突然亡くした初老の男。娘のミーナは比較的遅くできた子でまだ8歳だ。一家は広い牧場を切り盛りし、ミーナも動物とふれあう毎日を楽しんでいたが、母の死でそんな暮らしも立ちゆかなくなった。牧場を売ろうと決めた男。一方で、ミーナは母の死を受け入れきれず、幻を見、森をさまよう。
    幼い子供の抱える切なさにはどこか、空想がもたらす救いも混じる。よかれと思った道を選びながら心許なさに男は悩む。そんな2人の対比が鮮やかである。

    生きていくことはときに淋しく悲しいことだ。けれど同時に美しい。
    そんな人々の営みが蜃気楼のような島に浮かぶ。

  • 人は生まれながらに死ぬ定め。宇宙の時間の流れの中では人の一生など瞬きの長さもない。そんな言葉をしばしば耳にする。そう聞くと、絡み合ったものが一瞬にしてすっきりと片付いたような心持ちになるが、同時に何かを失ったような思いも残る。その何かは目に見えない程に小さくてとても軽い。わざわざ息を吹きかけずとも空気の流れに乗って飛んで行ってしまいそうな位に。それなのに、その何かはとても大切なもののように思われて仕方ない。

    例えばそれを円周率の果てしない数字の並びに例えて考えてみる。だいたい3でも事足りることもある。断然、慣れ親しんだ3.14であり充分に正確であるようにも思える。それでもプログラミングではpiと指定しないと気持ちが悪いようにも思われる。しかしどんなに足掻いても円周率の持つ無限性は失われる。どれ程数字を並べてもπというギリシャ文字が示すものとの間には本の少しの違いがあり、数字を書き下した時点でそれは失われる。その感覚に似ていなくもない。

    しかし問題は無限の持つ不可知性ということではないと考え直す。失われたことを定量化できなくても、失われたことが解ってしまうという感覚なのだ。もちろん些細なことかも知れない。そこに拘泥していては周囲の時の流れから取り残されてしまう。それでも失われたものの正体も判らないまま、それを懐かしんでいたい。そんな思いに搦め捕られる。

    ここに登場する人々は誰もがそんな失われたものに拘泥する。自分の大切に思う人が亡くなった喪失感を克服しくぐり抜けた先で味わう埋めようの無い非存在。頭が理解する理屈と、理解してしまうことによって決定的になってしまう喪失。その理不尽さが短い物語によって繰り返し語られる。それ故、物語の中で時が流れても事態は一向に解決するようではない。そもそも何が問題であったかさえ明らかになることはない。あたかも問題が定義されれば解は与えられてしまうと信じるが故に、定義することを敢えて避けるかのように。答えを求めている訳ではないということを解らせるように。

    そうであれば、これらの文章を前にして頭を働かせることは正しいことではないだろう。先達が言う通り、語り得ぬことについては黙さねばならない。無口な人々の物語を前にして、改めてそんな言葉を思い出す。

  • どれも瑞々しく静謐で、韓国を舞台にしてこういう書き方もあるんだなーと新鮮な気がした。気になったところがひとつ。タエホ、ハエミという名前の人が出てくるのだけれど、これはそれぞれテホ、ヘミなんじゃないだろうか。韓国の人の名前の発音とアルファベット表記は一致しないこともあるので、せっかくすぐれた短編集だし、ハングル・ネイティブの人にちょっと確認して欲しかったかも。

  • 文学

  • 韓国系アメリカ作家の作品。舞台は韓国南部の架空の島で、アメリカ人も登場しますが、むしろ日本人の方がはるかにたくさん出てきます。どの作品も、ちょっとした心の闇とまではいかない、モヤモヤとしたものを抱えた登場人物がそれをうまく解消できず、生活にも影響を及ぼしてしまうという感じの作品です。表面は静かですが、その下にドロドロとしたものが渦巻いていて、読後に何か引っかかるものを残します。

  • 藤井光訳は米国の外国ルーツ作家を訳すが、ポール・ユーンは韓国系。アメリカ人の若者として淡々と先祖のルーツをたどるように、第二次大戦や朝鮮戦争などを織り込んだ短編集。日本への言及も多いが、視点はフラット、いや好意的といった方がいい。舞台は済州島をモデルにした架空のソラ島、韓国南部でソウル等の都会のダイナミズムとは切り離された僻地感、南国らしいのどかさを感じさせる。印象的だったのは文章の静かさ、繊細さ、ファンタジックな趣。韓国といえば韓国映画を想起するのだが、あんな激烈さやくどさは皆無だ。
    そういえば韓国小説って読んだことがない。隣国なのにおかしなものだ。先日翻訳大賞を受賞した「カステラ」から読んでみなくては。

  • 日本人が書いたわけでもないのに日本で起こった出来事が連想させられる本。

    1つ印象に残っている話は、昔馴染みの男と再会して一緒になろうと思っていたら、金品を盗まれたという話。オチが残酷。

    それにしても風景の描写がすごかった。なんであんなに書けるんだ?

  • [ 内容 ]
    「かつては岸」:島のリゾートホテルに滞在するアメリカの未亡人と、その給仕を務める半島出身のウェイター。
    それぞれ大切な家族を亡くした二人が抱える悲しみは、やがて島の岸辺で交錯する。
    「残骸に囲まれて」:1947年春。アメリカ軍による軍事演習が続くなか、島のそばに爆弾が投下される。
    行方不明の息子を探して、老夫婦は日本軍が遺棄していったトロール船に乗り、海に向かう。
    「彼らに聞かれないように」:今も現役で海に潜るベテランの海女アーリム。
    彼女のもとを、近所に住む日本人移民の息子が訪ねてくる。
    日本占領下の記憶を抱えるアーリムと、事故で片腕を失った日本人の少年は、世界や国籍を越えて心を通わせていく。
    「そしてわたしたちはここに」:関東大震災で孤児となり、日本から島の孤児院に送られた美弥。
    太平洋戦争後も島にとどまり、朝鮮戦争の野戦病院で働いている。
    そこに、かつて孤児院での日々をともに過ごした淳平が負傷兵として運び込まれたことをきっかけに、彼女の日々に変化が生まれていく。
    新世代の韓国系アメリカ人作家による、“O・ヘンリー賞”受賞作を収録したデビュー連作短篇集。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • 八篇の短篇を収める短篇集。全篇の舞台となるのが、韓国有数のリゾート地済州島を思わせる「ソラ」という名の島。時代は、日本の支配下にあった第二次世界大戦当時から、観光業で栄える現在に至る期間を扱っている。

    著者は韓国系アメリカ人。1980年、ニュー・ヨーク生まれというから、戦争当時済州島であったことは、話に聞くか資料で調べたのだろう。冒頭に置かれた表題作「かつては岸」は、2001年にハワイ、オアフ島沖で起きた「えひめ丸」の事故を脇筋に、次の一篇では1947年春、竹島(独島)であろうと想像できる無人島で操業中の韓国漁船を米軍機が訓練中に誤爆した事故を主たる題材にとるなど、多くの主要な登場人物の人生に戦争(訓練も含む)が影を落としている。

    この若さで、あの時代の戦争を自分の小説の重要なモチーフにすることに、戦後生まれの読者としては意外な感を覚えるのだが、支配、被支配の関係から言えば、支配されたほうが記憶にとどめているのは当然のことで、第二次世界大戦で破れた日本軍が去ったと思ったら、朝鮮戦争が勃発し、今度は米軍が侵攻してきた韓国にあっては、戦争当時のことは、済んだ話として済ませるわけにはいかないのだろう。とはいえ、作者は韓国系ではあっても、アメリカ人である。露骨な日本批判や反米思想が声高に語られるということはない。訳者もあとがきで触れているように、全篇にたゆたっているのは「揺るぎない静謐さに満ちた世界」である。

    どこへ行くにも一時間という、本土とは隔絶した小さな島が舞台。島という限られた場を舞台に決めることで登場人物は限られ、人の出入りも少ない。全篇に古いモノクロームの映画を見ているような静かな時間が流れている。「作者による註」にアリステア・マクラウドの名が挙げられているが、カナダ、ノヴァスコシア州を舞台に、独自の世界を描き上げるマクラウドの小説にも通じる、孤独で、寡黙ながら日々の楽ではない暮らしを篤実に生きる人々の間に生じる心の交流と、酷薄とすら思えるすれちがいを、感情を露わにすることを抑制したストイックな文体で書きとめてゆく。

    作者は過去と現在という二つの時間を操ることで、忘れていた事実の思いがけない想起や、日々の仕事に忙殺され見過ごしてきた互いの間に広がる溝の深さへの突然の気づき、といった、ある意味些末とも言える「事件」を梃子として、静かに見えた日常に皹を入らせ、葛藤を生じさせる。その手際は若さに似合わぬ老練なテクニシャンぶりを見せる。特に、基調となっているのは時間の経過による「喪失」という主題である。

    時代を第二次世界大戦、朝鮮戦争の頃に採ることで、戦中戦後の混乱による戦災孤児、戦病者、脱走兵といった過酷な運命に翻弄される人物を主人公、或は準主人公とすることが可能となり、短篇小説という限られた枚数の枠のなかに劇的な緊張を持ち込むことができる。しかも、直接に戦争を描くのでなく、幼少であったり、老齢であったりすることで、戦争という暴力的な力によって心ならずも自分の人生を歪められ、自分に、家族に、肉体的、精神的欠損を生じさせられたことに、抗うこともできなかった人々が慎重に選ばれている。

    鮫によって食いちぎられ、片腕になった少年、爆風によって目を奪われた少年、母に死なれた子、と「喪失」を象徴するモチーフが頻出する諸篇は、一見すると陰惨なようにも思えるが、苛酷な状況下で生きる本人が、それを所与として生きているので、その一所懸命さに心揺さぶられはするものの、読後感は悲哀のなかにも仄かな救いを感じるものが多い。たとえば、「残骸に囲まれて」の老夫婦は、互いに長年言葉を交わすことを忘れていたが、洋上に浮かぶ無数の損なわれた遺骸の中から一人息子の遺体を探すという辛い仕事を通じて、心が一つになってゆく。

    一つの島を舞台とすることで、つながる連作ならぬ短篇集だが、硬質の抒情性を漂わせた作品世界と独特の余韻を残す結末に共通するものがある。凛とした個性を感じさせる新進作家である。ひとつ気になるのは、訳のせいなのか原文がそうなのか分からないのだが、平易な言葉で綴られ、決して難しいわけではないのに、文意が通じず、意味の分かりづらい箇所が散見された。同じ訳者による『アヴィニョン五重奏』の方は、なかなかの出来だと思っているので、実際のところは、どうなのだろう。

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著者プロフィール

1980年ニューヨーク生まれの韓国系アメリカ人作家。ウェスリアン大学卒。本書所収の短篇「そしてわたしたちはここに」で2009年度O・ヘンリー賞を受賞。

「2014年 『かつては岸』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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