- Amazon.co.jp ・本 (462ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560084892
作品紹介・あらすじ
ぎいぎいと、軋む心の声を聞け
不況にあえぐアイルランドの田舎町で、ある男の他殺体が見つかり、ひとりの幼児が何者かに連れ去られる。殺人と誘拐という不穏な旋律に、後悔、怒り、嫉妬……人生の苦い思いを語る21人の「声」がポリフォニックに絡み合う、傑作長篇。
「ボビー」:おれは毎日、実家の父フランクを訪ねる。父が死んでいることを願って。そんな息子の心中を知る父は、鼻で笑っておれを迎え入れる。むかしからずっとそうだった。父の冷淡さに疲れ果て、愛する母は失意のうちに亡くなった。そしていま、職を失った息子を父は嘲笑っているだろう。家の門扉に設えられた鉄製のハートが、今日もぎいぎいと軋みながら回っている……。
作家はアイルランド出身で、雇用問題を専門に扱う弁護士として行政機関で働いていたが、3年間休職して執筆活動に入る。出版社に原稿を持ち込むものの、断られること47回。しかし、最終的に出版社の目に留まり、本書が刊行されるや、アイルランド最優秀図書賞、ガーディアン処女作賞を受賞、そしてブッカー賞候補にも選ばれ、昨年にはEU文学賞(12人の受賞者のうちのひとり)も受賞している。
感想・レビュー・書評
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ひとつの時間のあらゆるシーンは同時に起こっているーー。
映画編集技術とはまるでトラルファマドール星人やヘプタポッドの目を獲得するような能力である。「まだ起きてないことを反映し、すでに起きたことを先取りする」とは、まさにこの小説のなかで起きている現象そのものだ。
横顔と横顔、男性と女性、父と子、現実と夢。それらが反映し合い、先取りし合う末に区別がつかなくなり、ついに連続性が失われた時、我々もまたその境地に到達することができる。こんな体験は読書でなければなかなか味わうことができないと思う。夢中になって読んだ。
あと、作中に出てくる『彼方』という小説、ユイスマンスが書いたものなんですね。ウェルベックの『服従』にもユイスマンスが大きく取り扱われていたけど、現代作家にとってユイスマンスって何か特別な位置づけがあるんだろうか?読んだことないので読んでみたい。 -
難しいなあ。感想。書籍化されてすぐ読もうと思って、(図書館)貸出が混んでいて、それきりだったという。確か丁度、主演のジェームスフランコがセクハラで映画界から閉め出されて、なんか自分の中で勝手に問題作と処理して数年。読んだ感想は、フランコより、本の主人公より、作者が一番狂ってるな、って感じ。多分戦争の余波で世の中喪失感に溢れてて、必死に虚構の世界に現実味を持たせようとあがく。それが現在の基準(ネットの世界に現実を求める)になってしまい、我々はそれを選んで生きるしかなくなっているのが、現在であった。
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■禿げ頭の頭皮にモンティとリズの顔を彫り込んだ異様な風采の男ヴィカー。父に死なれ母に去られたヴィカーはひとりハリウッドにやってくる。そこでヴィカーは映画の海に飛び込んで映画の波にもみくちゃにされる。海面に顔を出してやっと息継ぎができたのもつかの間、また深淵に引きずり込まれる。そしてヴィカーは過去の、現在の、そして未来の映画すべてを同時に感得しながら、波に呑まれ映画の海底へと沈んでいく……。
■多数の映画作品に言及される本書は、そんなヴィカーの冒険譚として読めば映画好きの読者には楽しめる、ハズ。ぼくはそうだった。
■しかし結局作者は何が言いたかったのか? 何を暗示し何を表現したかったのか?
……全然わからない。読後はムニャムニャ感がいっぱい残る。だから今後本書に出てきた映画を観た場合、映画の内容が頭に入らず『ゼロヴィル』ばかりを思いだしそうで………それが今のうちからもうイヤなんだよなぁ~。 -
時間があるときにもう一度読んでみるつもり
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書籍についてこういった公開の場に書くと、身近なところからクレームが入るので、読後記はこちらに書きました。
http://www.rockfield.net/wordpress/?p=7788 -
読み終えてしまった。。。
エリクソンの小説はどれも面白くて、いつも終ってしまうのを惜しんでなるべく少しずつ読む。後半なんてちびちびと読み進める。
だから、まず読了後に思ったのは「あぁ、終ってしまった」というがっかりと寂しさ。
このエリクソンもとっても良かった。すごく面白かった。
映画を観ているように読むことができたし、映画のような面白さがある小説だった。
やっぱり柴田元幸さんは翻訳が巧いよなぁと改めて思った。柴田さんが翻訳しているからエリクソンは面白いのではないかと思う。
アンジェラ・カーターの『花火』を読んでいた途中でこの『ゼロヴィル』に移ったから尚更そう思った。
柴田さんの翻訳というところで読んでみようと思ったりするくらい私は柴田さんも好き。
物語は映画を中心とした話。
『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーを剃った頭に刺青した主人公ヴィカー(Vikar)。映画に取り憑かれた映画自閉症の彼の物語。
ヴィカーとは対照的に私は全く映画に疎いけれど、何の問題もなく読むことができた。
私は『陽のあたる場所』すら観たことがないし、作中に出て来る数々の映画のうち『ある愛の詩』くらいしか観たことがないけれど、そして俳優や女優にも疎いけれど、面白く読むことができた。いつもと同じようにエリクソンの世界にすっかり呑み込まれた。
『ゼロヴィル』は、エンターテインメント性が高く、『Xのアーチ』に比べたらずっと軽やかで明るい。エリクソンの他の小説と比べて光を感じる小説だった。
エリクソンの他の小説を思い出そうとすると私の頭の中に浮ぶ画はどれも夜。けれども『ゼロヴィル』は暗闇ではなく、夜明けの白い画が浮んでくる。
シーンとしては夜や暗闇の方が多いし、内容はやっぱりいつものように現実と現実ではない世界が複雑に絡み合って、芯は深く重く、ハッピーとは言えない。現実にはあり得ない物語的な小説なのに、あまりにも現実的過ぎる。私は哀しみを感じたし、切ない気持ちにもなった。
それでも、読み終えてこの小説のことを思う時は朝の白い感じや薄い水色の空の画が浮ぶ。
兎にも角にも、とても面白い小説だった。
『陽のあたる場所』と『裁かるゝジャンヌ』くらいは観ようと思った(苦笑)
余談だけれど、読み初め、ふと「村上春樹さんが書きそうだな」と思ったりした。若かりし日の村上さんが若い頃の情熱で今の熟練さを持って書いたらこんな感じのものを書きそうだな、と。『ゼロヴィル』の特殊な断章形式だったり主人公ヴィカーのキャラクターだったりがそう思わせたのかも知れないし、村上さんの語りが翻訳小説風だからそう思ったのかも知れない。しかし読んでいくとやっぱりエリクソンでなければ書けない、エリクソンの世界があって、どうして村上さんを思い出したりしたのだろう?と不思議になるのだけど。 -
神話を描けばいいのか反神話を描けばいいのかすら見失って、ぐじゃぐじゃになってしまった時代の映画の夢の映画の夢の…
これはとてもいいエリクソン