- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560083215
感想・レビュー・書評
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あらゆることが「何かのために良く」「何らかの形で有用で」なければいけない、経済的、功利主義的な現代において、走るということ、人生の意味を哲学者が考察する。
「道具的価値(=仕事)」とは。
目的達成のための手段として価値があるもの、例えばダイエットのために走る、ストレスから解放されるために走ること。ここにおいてランニングには道具的価値がある。
しかし道具的価値だけしかもたないなら、それ自体には価値がないことになる。
一方「内在的価値(=遊び)」とは、子供が純粋にそれをやりたいがために繰り返す遊びのような、それ自体ゆえに重要なもの。何かによって他の何かが得られるとか、所有できるから価値がある、ということではなく、本来備わった価値である。
ランニングには内在的な価値がある。と著者は言う。
『道具的な価値に支配される人生は、追いかけること、あることを他の何かのために追いかけることで費やされる人生だ。』
価値を追い求めるのではなく、価値あるものの中に浸り、人生で見つけられるかぎりの内在的な価値を愛すること。
ランニングは、人生における内在的な価値の理解を具現化してくれる。
人生を「骨折りがいのあるもの」にするために、ただ走るためだけに走る。
例えば楽しいことが多ければ人生は幸福なのか、という意味での著者の答えはNO、だ。
「楽しみ」(fun)の語源は「馬鹿にする」(fonnen)であり、1700年代より以前は「だます」とか「かつぐ」という意味の動詞として使われていた。
苦労から気をそらせる気晴らしとして、「楽しみ」とは要は道具的価値しか持たないのだ。
『人生における喜びは、活動の成果ではなく活動そのものに専念している瞬間、目的ではなく行為に専念する瞬間に存在する』
子供時代には誰もが知っていたその価値が、成長の過程で忘れ去られていく。走ることは、そのことを思い出す場なのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
哲学者が走る: 人生の意味についてランニングが教えてくれたこと
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(哲学者とオオカミ」の続編。オオカミを飼ってた頃の一緒にランニングを指定た思い出。オオカミが死んで、その子どもたちの世代になり、自分がランニングで一緒に走れなくなってから、またマイアミマラソンで完走した時の体験談。なかなか面白い。村上春樹さんがランニングについて書いてる話しなんかも引用されたりする。