- Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560027325
作品紹介・あらすじ
ドイツが第二次大戦で被った惨禍は、戦後の文学によって表現されることがなかった。鬼気迫るアメリー論、ヴァイス論を通して、「破壊の記憶」を検証する。
感想・レビュー・書評
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ゼーバルト・コレクションのラストにこの評論を読んだのは計らずも大きな意味を持つこととなった。彼の小説や散文には一様に薄いヴェールで包まれたような、時空を捻らせたような目眩ましがしかけられている。この歪みにこそ一見沈着に見せかけて実は強い憤り、隠しきれない魂の揺さぶりが表出される。それは何なのか。あからさまに叛骨のポジションで糾弾する。戦後ドイツ文学のタブーを破る。いくらでも返り血を浴びる覚悟だ。これほどまで文学の使命を抱えている作家を敬わずにいられない。この渾身の魂を受けてまた彼の作品に向かいあいたい。
(ラストかと思いきや、その後『鄙の宿』が刊行されました。これにてゼーバルト・コレクション完結とのこと。) -
なぜドイツ人は、ドイツ作家は、第二次大戦中の連合軍による戦略的空爆について口を閉ざすのか。歴史的資料や作品をひもときながら、発展したドイツの土の下に眠る「廃墟の記憶」を掘り起こすエッセイ。
大江健三郎を引用しながら、被爆者の沈黙との類似点を指摘しているのも興味深い。 -
「大都市ほぼ軒並み、小都市も多数が破壊されるというおよそ看過すべからざる、今日に至るまでドイツの相貌を決してきた事実は、一九四五年以降に書かれた作品においては、まったき沈黙、不在として遇されてきたのである。文学のみならず、家庭の会話から歴史記述にいたるまで、事態は同様であった。勉強熱心で知られるドイツの歴史家たちは、このテーマについては口裏を合わせたように、私の知るかぎり一冊の包括的な研究どころか、基礎研究さえ表わしていない。わずかに軍事史家、ヨルク・フリートリヒが、自著『戦争の法則』の第八章において、連合軍の壊滅作戦の展開と結果を詳述しているのみである」
連合軍によるドイツ空爆がもたらした凄惨な被害・廃墟について客観的な記録であれ創作物であれ人々の公然とされる記憶であれ、まがい物やお茶を濁す程度のもの以上の記録がほとんどないのではないか、またそれはなぜかということについての講義と、ナチスの時代を描いた3人の作家についての小論で構成している。3人とは著者が意外なほど感情的になって唾棄している日和見主義者のアルフレート・アンデルシュと、葛藤の和解と忘却を拒否して覚えているという拷問を自分に課したジャン・アメリーとペーター・ヴァイスについて。3人ともここで初めて知ったけれど、なかなか興味深く描かれています。
専門の著者が調べるかぎりはまともなものがほぼ無いというレベルで、終戦直後のドイツの無残な廃墟の記録が希少であり、不自然に封じ込められ踏み越えられた「被害者」ドイツとしての屈辱や悲しみ苦しみ恐怖、痛みの経験はどこに回収されたのか、あるいはまだどこかに燻っているのか? ドイツが受けた過剰とも言える「報復」は自分たちが引き起こしたことだと納得しているのだろうか? 答えは出していないけれど、著者は一面で復興と経済活動へと昇華されたとして以下のように記していて、この部分が著者の不吉な予感のようなもののように思えた。それが当たっているかは別として。
「しかし、奇跡の経済復興には、これら多少とも歴然とした要因に加えて、純粋に精神的な次元の触媒があった。それこそが、ひた隠しにされた秘密、すなわち自分たちの国家の礎には累々たる屍が塗りこめられているという秘密を水源とする、いまなお涸れることのない心理的なエネルギーの流れだったのである――いまなお結束させているものは、その秘密にほかならない」
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ドイツ人は日本人から見たら戦争責任に対する意識は高いが、逆にその分、被害者としての面が抑圧されていることを知った。