土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560027318

作品紹介・あらすじ

何世紀もの破壊の爪痕をめぐる。

感想・レビュー・書評

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  • 「いかなる新しい形の上にも、すでにして破壊の影が差している。どんな個人の一生も、どんな社会秩序の歴史にも、ひいては世界全体の歴史すら、けっしていやましに大きく美しい弧を描いて進むのではなく、ひとたび頂点に達したあとは、かならずや闇のなかに落ちていく。」

    眠りにつく時間には、空が白みはじめるようになってきた季節。すこしかなしい。旅行へいっても、活動時間がまるで一般的でないので、へとへとに困憊してしまう(夜型人間ホテルなんてものがあったらなぁ)。そんなわたしには、だれかの旅の話を聴いたり写真を眺めることが、旅のひとつのかたちでもある。妬ましいきもちから解放されたことも、歳を重ねる美点のひとつ。
    兎にも角にも。ゼーバルトを読んでいると、表情筋がいそがしい。語られる物語の虚実のあわいを泳ぐのはとても楽しい。茫洋たる知識の海。渺渺たる幻想を浮かべる空。その海なり空なりを、きちんと信頼しているから。そしてその旅程は、なんと面妖で燦爛たることどもで満ちていたことか。
    「この橋といえばね、こんな話があったんだけど...」なんて山田五郎さんみたいに(ちょっぴり憂いを帯びた声で)語りかけてくれる。これこそ、リアルな旅ってもんじゃない? 終わるころにどうしようのない寂寞が訪れるのも。破壊され損なわれたものたちがいまもなおぐるぐるとわたしのまわりを渦巻いている。きっとこれからもずっと。
    アンナが夢のなかでみた風景は田中一村の絵のようだった。田中一村といえばね、店の常連さんのご近所に住んでいたことがあったんだけど...云々




    「だが、とブラウンは言うのだ、あらゆる認識は見通しのきかぬ闇に囲まれているのだ、と。われわれの知覚するものは、無知の深淵のなか、濃い影を蓄えた世界という殿堂にまばらに灯った明かりにすぎない。われわれは事物の秩序をさぐるが、だがその内奥の本質を捉まえることはできない、とブラウンは言う。」

    「この世界をばらばらにならないように繋ぎとめているのは、ひとえにこの燕が空中に軌跡を描いているからだ」

    「なぜならばうるわしき未来を思い描いた瞬間に、既に破局にむかっているというのが世の常であるのだから。」

    「ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と」

  • いやあまったく頭に入ってこなかった。
    これを読む上での基礎教養が不足していると反省。

  • 絶版で、中古は10K円超えなので、手が出ない。Kindleで英語版を読もうと試みたが、内容がまるで頭に入らない。別に自分の英語能力に自信があるわけでもないが、ここまで英語読めなかったっけ?と。図書館で日本語版を借りて読んで、これでは英語で読んで理解できなくても無理はないと思った。でも、一度日本語で読めば、英語も多少は読みやすく感じるかもしれない。この淡々として入り組んだ文章、美しい諦念が心地よく、手元に置いておきたい。英語版も再挑戦しよう。

  • このような書物は、何と呼称すればよいのだろう?
    もちろん、旅をしながらのエッセイではあるのだが、著者がその旅で訪れた場所から連想されることが、ひとつの物語のようになっていて、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る。
    その連想されていることが、特に後半の歴史上の出来事についての記述は、思わず襟を正して読むような内容であり、著者の深い学識に裏付けられた、人間社会への大いなる警鐘となっているように感じられる。
    異色の旅の記録である。

  • で、実は夜寝る前にちょっぴりゼーバルト「土星の環」を服用し始めています。途中で切るのが難しいこの本をどこで切るのかをも楽しみながら…
    (2014 03/12)

    レンブラント
    夜服用のゼーバルト。レンブラントの死体解剖教室の話が出てきた。生徒達は解剖している死体を見ていると思いきや、実はちょっとずれた解剖図の方を見ているとか、この解剖は公開で行われ、見せ物というか処刑的な意味合いも残っていたのではとか。この絵は実際に自分はオランダで見たからなあ(自慢?)…
    ゼーバルトの脳のような靄がかかっている…これから春の嵐?
    (2014 03/13)

    鰊と人間
    ゼーバルト「土星の環」第2章から第3章へ。第3章ではいきなり?鰊のいろんなある意味グロテスクなトピックがたくさん。鰊の卵が全部成体になったら地球の質量の20倍になるとか、浜辺にうちあげられた鰊が何層にも重なったとか、鰊の死後少したって発光するとか…特に莫大な数の生と死をこれでもかと強調するのですが、これは例えば前の第2章に出てきたドイツへの空襲となんかオーバーラップする。そしてどちらもそれについて語る人がいない…
    神にとっては鰊も人間も同じなのかも。
    うむ。
    (他にもいろいろある本なんだけど…)
    (2014 03/16)

    土星と燕
    「土星の環」ですが、こんな文から。
    そのたびに幼い私は想像したのだ、この世界をバラバラにならないように繋ぎとめているのは、ひとえにこの燕が空中に軌跡を描いているからだ、と。
    (p71)
    バラバラなエピソードだらけで成り立っているようなこの作品を繋ぎとめているのも燕だとすると…あ、タイトルの「土星の環」というのもそうなのかもしれない。バラバラな元衛星の破片を環にしているのは土星の引力。この作品において、燕や土星の役割を担っているのは、書き手である作者の意識であるし、読み手である読者の意識でもある。うむ。
    (2014 03/18)

    コンラッドと太平天国の乱
    「土星の環」5・6章は標題に挙げた通り、コンラッドと十九世紀後半の清朝の話がメイン。コンラッドもコンゴ行きくらいまでなので、どちらも「イギリス行脚」というには遠くてか細い糸でしかつながっていないけど、そのまた細いところをたどっていくのがゼーバルトらしいかな、と。
    眠いんですけど…

    「土星の環」引用とダニッチ中心の折り目構造
    まずは後回しになっていた引用から。
    砂はすべてを征服する。
    (p11)
    最初の方の文(ここはフロベールの夢の話)だけど、今小説半ばまできて、ある意味全体を貫いている文ではないか、と思う。でも、この小説中の文の全部がそうである、と言えなくもないところがなんというか…文こそが砂と言ってしまおうか…
    良かれ悪しかれ、人はそこで自分の役を演じるほかはないのです
    (p114)
    これはコンラッドの言葉。演じる、というのが、なんか心にしみて頷ける。自分探しとかいっても、何かに演じることを押し付けられているんだな、と。
    で、標題後半。第6章は崖から海に落ちる町(今みたらハードカバーの表紙にシルエットが映っていた)ダニッチを境に、東洋と西洋が鏡に映ったような折り目構造になっていたことに気づく。同じ19世紀後半。蚕を崇めた西太后と、蚕のようだと比喩されるスウィンバーンと。スウィンバーン(英国詩人)はある時フビライの大都を鮮明に夢見るが、それは北京に反映される。フビライの大都の夢と言えばコールリッジ(でしたっけ?)ですが、この時代の西洋のオリエンタリズムの流行りだったんでしょうか。ただの幻想?で留まらずに東洋に入り込んだのが前半で描かれた19世紀後半の中国だとすれば…
    そして真ん中には海に落ちていくダニッチの塔が…
    (2014 03/24)

    円環と死
    それは同じ節を鳴らしつづける蓄音機のようなもので、機械の故障というよりは、機械に組み込まれたプログラムの致命的な欠陥なのだ。
    (p177)
    比喩の面白さでこの部分を引きましたが、このp177のところは半ページくらいは引用したいところ。で、この比喩が何を表しているのかというと、なんか前に来たことあるような風景や出来事、昔の人物なのに異様になんかその生を自分が生きたのではないかという感覚、それに襲われること。ゼーバルトはそれを死とも表現しています。この小説はそれに満ち溢れている。
    ちょっと立ち止まれば、誰にでも体感できること。
    (2014 03/27)

    砂嵐
    「土星の環」ですが、まずは柴田氏の解説にもあるこの言葉を。
    この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。
    (p207ー208)
    ここは昨日読んだ、作者が初めての客だったアイルランドの民宿の夫人の言葉。うむ、と頷くほかはないですね。どうしてこうなってしまったのだろう…
    今朝読んだところでは、作者が遭遇した砂嵐…砂といえば、この小説の冒頭に出てきましたね。さっきの失敗の人生が一粒の砂になり砂嵐となって舞っている感じ、かな。
    そして砂はどこにでも入り込む。
    (2014 03/31)

    鰊と蚕(「土星の環」読了報告)
    本当は3月中に読み終えているはずだった、ゼーバルト「土星の環」をやっと読み終え。今日は9章の残りと10章。9章ではイギリス東部を襲い、ゼーバルトの住まいの隣の庭園の木々を根こそぎ倒していったハリケーン。この小説中一番の巨視的視点にたった、まるで銀河の最遠方の縁に来たような、そんな気にさせる部分。
    一方、10章は何故か?養蚕の話。なんで養蚕が出てくるのかよくわからないままに読み進めていくと、蚕がそれを利用しているはずの人類自体を逆に表しているようにも感じてくる。この仕組みは3章の鰊のところと同じだなあ、と思っていると、鰊のところで出てきた教育映画への言及があって、これまた合わせ鏡の術だなと思う。ただ、10章と1章、9章と2章、みたいにきれいに対称構造になっているわけではなく、いろいろずれを含んでいるのがこの小説のらしいところ。例えばさっきのハリケーンの部分は、ダニッチの海に崩れていく街と対応しているのかな、とか。
    ま、とにかく、自分は解説の柴田氏と違って、この鰊と蚕のところがなんかこの小説の代表なのかなと感じた。後は砂。最後はまるで小説世界全体が流砂に埋もれていくようなこんな文。
    …トマス・ブラウンは、どの頁であったかもう見つからなくなってしまったが…
    (p276)
    最後に、柴田氏の解説からの引用を。
    悲惨と滑稽もまた、つねに「ほとんど一体となって生い育つ」のである。
    (p281)
    エピグラフにあったミルトンの詩から導き出された文章。(「土星の環」というタイトルはベンヤミンとソンタグを意識しているとのこと)
    (2014 04/05)

  • イギリス南東部サフォーク州を徒歩で巡る旅。破壊と退廃の土地を踏みしめ、過去の記憶を遠大にかつ微細に掘り起こす。まるで蜘蛛の糸で織られた繊細なタペストリー。薄紗の織目に絡まる褥に馳せるゼーバルトの想念はあまりに強い。破壊の断片は過去と未来を土星の環のように循環する。遠心力からの逸脱の先の中心に何があるのだろう。わからぬまま思考し続けることが人間の宿命なのか。「この世にとうとう慣れることができなかったと」

  • 最近読んだ本のなかで、一番美しい本でした。
    『アウステルリッツ』も良かったけれど、『土星の環』はさらに良かった。
    紀行文の体裁と、話を雑談のようにずらしていくゼーバルトの方法がマッチしているように感じました。

    イギリス行脚とはいうものの、『闇の奥』で有名な作家コンラッドの半生や中国の西太后の最後など、連想は世界を駆け巡っています。
    ときにはクロアチアによる民族浄化作戦やベルギーによるコンゴ収奪など、文明の残酷な顔を暴きつつ、滅んでしまった人、街、自然がノスタルジーとともに見事に表現されていました。
    容赦ない運命の力に押しつぶされるものたちのエピソードが、土星の環の衛星のかけらのように、本書を構成し、彩っています。

    この本は、著者がイギリスを徒歩で廻っているように、
    ゆっくり味わいながら読むのがいいと思います。
    性急に答えを求めたり、カタルシスを求めて読むと、
    逆に本書を読む楽しみを減じてしまうでしょう。
    (自分も恥ずかしいくらい時間をかけて読みました・・・)

    余談ですが、『闇の奥』、いまだに読んでなかったな…。

  • 管啓次郎先生が「読売新聞」2012年8月5日付で
    紹介していました。(読書委員が選ぶ「夏の1冊」)
    【痺れるほどの寂寥感を味わってください。】

    (2012年8月5日)

  • 全然よくわかりませんでした。

  • 永い彷徨は、唯一、残された解決策だ。

    高校の教室。机。目の前の黒板。教師が高いところから声を上げる。昨日の宿題はやってきたか、と。
    何を覚えたって役には立たないよ、と生徒たちは声をそろえる。でも、役に立てる場所にだって立った事はなかった。
    毎日繰り返される授業が嫌だった。そのたびに、晴れや、曇りや、雨や雪を見ていた。
    窓際の電気ヒーターが眠気を誘う。寒い日の午後だった。雪が、降っているような気分で、目と鼻の境目を強く押す。
    教師は、もう一度大きな声で何か言った。大切なことだったかもしれない。けれど、教室で放たれた言葉に、どんな需要があるというのだろう。
    チャイムが鳴り、廊下へでる。もう一度、目的地を確認するように立ち止まる。水場の窓からは、懐かしい、と思い出すことになるグランドの景色。
    夕焼けを、思い出すことになる。赤い部室に寝転んだ先輩の横顔を。それから、砂利道を自転車で帰る、スカートが風で揺れる様。
    汚い川に跳ねる鯉が、夕焼けに反射する。その景色。

    衰退する景色は、湿っぽく暗い。文明に置いてかれる街並みは、再び、立ち止まるための契機かもしれない。それでも、立ち止まれはしない。
    永い彷徨に終わりはないだろう。

    「やがて店は開くだろう。そこから家に電話して、車で迎えに来てもらえばいい。」

    やがて、高校のチャイムは鳴る。再び授業が始まる。どこかへ戻る手はずは既に整っているはずだ。

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著者プロフィール

1944〜2001年。ドイツ生まれ。「アウステルリッツ」で全米批評家協会賞、ブレーメン文学賞を受賞。将来のノーベル文学賞候補と目されながら、交通事故で急逝。

「2014年 『鄙の宿』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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