バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く

著者 :
  • 日本実業出版社
3.54
  • (5)
  • (7)
  • (14)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 319
感想 : 15
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784534059031

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • アメリカや日本式のエッセイでは、自分の支持する意見をまず最初に書き、その論拠を三つ示し、最後で自分の支持する立場を再度結論として提示する方法がとられている。
    しかしこれは、[正反合]の「反」と「合」が抜け落ち簡略化されたものにすぎない
    それに比べてバカロレア小論文の特徴は、反対意見の尊重。

    マルクスは「資本論」で、労働する人間が「外部の事物を自分の活動の器官として用い、その器官を自分自身の器官に付加することによって、自分自身の身体を拡張する」
    つまり、穴掘りや採集に道具が使われているなら、それは労働となる。

    カントにとっては、自然法則は決定論的な世界であり、道徳法則は自由意志を前提とする世界であり、両者を調停し、一つにまとめることはできない。
    しかし、スピノザにとっては、人間を自然法則の例外とし、その自由を認めることはありえない。神に起源をもつ必然性の国家の中に、人間独自の秩序は存在し得ない

    法律が正義であることを何が保障するのか。
    モンテスキューは「法の精神」において、理性に照らし合わせて、個別の法律正当性が判断される。

    権力の行使が法律に基づいて行われたとしても、その法律が自然権に背くものであれば、権力の行使と正義の尊重は両立されてない。
    自然権とは「人間のうちには、属する社会に完全には隷属してしまうことのない何かがあること」を指し示すもの。

    正義とは「合法的であり、公平であるもの」byアリストテレス

  • 思考の型をもつことと、型にはまることは別。まずはこの理解が必要。

    そして、答えがそもそもないといわれる時代、自ら問いを探すためのヒントが満載で、有益だと感じた。なぜ、どうして、だとどうなるのか、それ以外では、など手法はさまざま。もちろん著者が説くように、フランスのやり方を日本に単純に導入すればよいのではないし、フランスにも問題はある。

    それこそこの本で書かれている、教育の根本の役割、自由と民主主義を守るための人づくりという大きなテーマを読者がもらったのだろう。そのうえで読者個々が問いを探すことを求められているのでは、それがこの本の意味ではないか、と感じた。

  • フランスで行われている高校生のバカロレア試験のことは聞いたことがあり、哲学の問題を長い時間かけて記述式で書く、なんて、すごい!というようなキラキラ目線で遠くから見ている感じでした。まさに本書で語られている誤解の理解でした。この試験がフランスでも十全に機能している訳じゃない、こと、そして、今回のかコロナ禍の影響も含め修正が加え続けられているここと、など、リアルにバカロレア試験を近くに感じる事ができました。それでもフランスにおいて、この哲学を巡る試験が重要とされている意味を、「思考の型」を学ぶこと(もう、表紙にサブタイトルでバーンと書かれていますね…)が、「市民」をつくるためのは必要だから、という大きなコンセンサスがあるからです。ロシア、中国に代表される専制民主主義の台頭によって、ますます、難しくなる従来の民主主義の在り方が問われている今、このコンセンサスの有無は、社会の強さの指標になる気がします。型①、問題のテーマを見分ける。型②、問題の形(「はい」「いいえ」で見分けられるかどうか…)を見分ける。型③、問題の言葉を定義する。型④、問題に「はい」「いいえ」で答える。型⑤、問題を問いの集まりに変換する。型⑥、解答の方針を決める。型⑦、構成案を作る(導入→展開①②③→結論→別解の可能性)。(これも表紙カバーにバッチリ記載されているのですが、やっぱり読まないと理解出来ない…)よく、自分で考える力を育むには、国語の力が必要だ、という話を聞きますが、たぶん、本書で語っているのも思考の文法みたいなものなのだと思いました。今年の参議院選挙まであと一週間、ますます一方通行の主張が交差し、まったく議論が深まっていない夏です。民主主義をベースにした市民社会の行く末も危うい気がします。先ずは自分の哲学的思考を鍛えなくては、と思う読了直後。

  • フランスでは哲学が必修科目となっていることは周知のことだが、その目的やバカロレア試験でどんな問題が出題されているのかまで知る機会はなかなか無い。そういった意味では、哲学教育の目的からバカロレアでの出題形式、解答の仕方に至るまで細かく解説されており、とても興味深い内容だった。

    特にアメリカ式のエッセイや日本の小論文には見られないが、バカロレア試験の小論文では重視されている「反対意見の尊重」という視点が新しいと感じた。哲学教育を通して、与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、それとは異なる情報も等しく扱い吟味する姿勢を持つ。これは様々な情報が錯綜する現代において必要なスキルであると感じた。

    著者も日本で哲学教育を行うべきとは考えてないと述べているように、哲学を学ぶ必要は高いとは言えないが、バカロレア試験で重視されているような批判的思考を身につけることは生きていく上で必要だと思った。

  • 231116-5

  • 私なりの拙い言葉で言い換えると、

    「問いのツリー構造を作って(問いがツリー構造になっていることを理解して)、テーマを重層的に考える(捉える)」。

    こういった物事の考え方(捉え方)を、長年の勉強と経験を積んだご自身の専門分野であれば自然と出来ている人は少なくないと思います。また、自分が門外漢の分野(=他人の専門分野)にも同じような重層的な積み重ねがあることを“なんとなく”理解することまでは出来るかも知れません。

    本書で論じられているのは、そのもう一歩先。
    ハッキリとその道のプロと呼べる人がいるのかも分からないような問いでも、そうした構造を模索する方法はあって、フランス革命を経たかの国では、それが民主主義の大前提として現代社会の在り方に直結していると考えられていることです。

    嘘か誠かはともかく、「日本は市民革命を経験していないから、民主主義が根付かない」という論を聞くことがあります。
    そういった歴史的背景の違いは本書エピローグでも留意すべき点として触れられていますが、「その民主主義を実現するために、やること充分にやってんのか?」という問い(及び、その問いが持つツリー構造)の投げかけとしては面白かったなぁ、と。

  •  フランスでは高校の卒業試験で、バカロレア哲学試験というのがあるという。フランスの高校では、哲学を勉強するんだね。

     そういえば、前に内田樹の本でそういう話、読んだ。

     戦後、フランスでも高校で哲学を学ぶことの是非が検討された。

     高校で哲学やんなくていいんじゃない?って。

     そのとき、議論に一石を投じたのが内田氏が師と仰ぐ、エマニュエル・レヴィナス。

    「子どもにはミルクを与えるべきだ。ステーキを与えるべきではない」
    と、逆説的な発言をして、かえって哲学を学ぶことを促したとかいう話だ。この場合、もちろんステーキは哲学を表している。

     お前らに哲学はまだ早い、といわれたら、子どもの側はかえって、そんなおいしいものがあるなら食べさせろとなるよね、という故事。

     実際のところ、フランスと日本で高校生に特段の差があるわけではなく、哲学の授業といっても、よほどのエリート志向の子でもないかぎり、そう身を入れてやるものではないようだ。

     哲学のバカロレア試験で問われるのは、
    「労働はわれわれをよい人間的にするか?」
    とか
    「権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?」
    といった、あぁまさに哲学、という問題だ。これに対して、フランスの高校生は2時間かけて答えるのだという。

     なぜ哲学を学び、こうした試験にこたえられるようにするのか。

     そこに、「市民」となるための思考の型を学ぶことが期待されているからだ。

     前述のような問題について、「私はこう思う」なんてエッセイは求められていない。

     学術論文が、序論、方法、結果、考察という型にのっとって書かれるように、哲学のバカロレア試験でも一定の型にのっとった解答が求められる。

     型の例としては「はい」と「いいえ」両方の立場から考え、最終的に自分はどちらに与するかという展開があげられていた。両方の立場から考えるのにも、歴史的背景であったり、知識を前提とした論理的な組立が求められる。

     印象に残ったのは「はい」と「いいえ」それぞれの立場から考えるということは、自分とは異なる立場の人の身になって考えることだという話でね。

     現代社会において、「市民」に求められるのは、他者の思考を理解し、そことコミュニケーションをはかる能力だというのが考えさせられた。

     日本の政治、社会状況ってそういうのができてないとか、わかってないなぁということいっぱいあるから。

     政権をとったら次の選挙まで何をしてもいい、という感覚は、「権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?」という問いに対して、「はい」と「いいえ」の立場に立って、歴史的な経緯をみながら考えた経験があれば、言えないし、そんなふうにはふるまえないだろうなぁと思う。

  • 「市民」を育てるために哲学を必修させるというのは、とてもいい理念だと思う。(フランスの歴史や文化という文脈があるからこそ出来ている。)
    バカロレア試験の問いは「はい」「いいえ」で答えられる、クローズドクエスチョンが主流なようだ。本来哲学ではこういったクローズドクエスチョンは危険な問いであると、私は認識している。答えは「はい」か「いいえ」のどちらかであるというバイアスがかかってしまうからだ。
    本書で紹介する「思考の型」(バカロレア試験の解答方法)は、「はい」と「いいえ」両方の論拠を示した上で、答えなければならない。この、両方の論拠を示すということが非常に重要な鍵である。両方の立場に立つことで問題をより本質的に捉え、批判的に考えることができるのだ。そして、両方の立場になって考えるということは、民主主義において基本的な姿勢である。そういった姿勢の「市民」を育てることにこの哲学教育は意義をもっているに違いない。
    クローズドクエスチョンはバイアスに囚われるという危険があるが、この「思考の型」の手順を踏めばその危険を回避することができそうである。むしろ、「はい」「いいえ」という答えやすい形から議論を始められるため、問題に取っ掛かりやすいという良さもありそうた。

  • フランスのバカロレアの哲学の試験でもちいられる「思考の型」についての詳細な解説。抽象度が高すぎて、とても高校生には答えられそうにないように感じられる問題だが、時間をかけて習う「思考の形」を、テンプレートとして使うことで、安定した回答を作り出すことができる。同時に「思考の型」を用いることで、人生のあるいは、社会の漠然とした問題に対し、バカロレアの問題文の形式で問いを作成し、さらに複数の問いに分解していくプロセスを用いることによって、思考の型を用いた問題解決を実践していくことにもつなげていけそうだ。

    最も重要な事は、これが自ら考え意見を表明し、行動することができる「市民」を養成するための教育の形だということだ。
    日本社会は「市民」であることを求められていないと感じる。だから、こうした思考の型は必要ないと考えられているのだろう。

  • ふむ

全15件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1976年生まれ。京都薬科大学准教授。専門は20世紀フランス思想史、哲学教育。本書に関係する論文としては以下のものがある。「カンギレムとヘーゲル―概念の哲学としての生命の哲学」(『主体の論理・概念の倫理―20世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義』上野修、米虫正巳、近藤和敬編、以文社、2017年)「規範化される生から規範をつくる生へ――カンギレムと八〇年代のフーコー」(佐藤嘉幸、立木康介編『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』、水声社、2021年)。

「2023年 『カンギレム『正常と病理』を読む 生命と規範の哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

坂本尚志の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×