絶望を希望に変える経済学: 社会の重大問題をどう解決するか

  • 日経BP日本経済新聞出版本部
3.97
  • (38)
  • (41)
  • (16)
  • (8)
  • (3)
本棚登録 : 954
感想 : 61
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (523ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532358532

作品紹介・あらすじ

2019年ノーベル経済学賞受賞者による、受賞第一作!
     *
いま、あらゆる国で、議論の膠着化が見られる。多くの政治指導者がひたすら怒りを煽り、不信感を蔓延させ、二極化を深刻化させている。対立する人々は、話し合いをすることもままならなくなっている。ますます建設的な行動を起こせなくなり、課題が放置されるという悪循環が起きている。
     *
現代の危機において、経済学と経済政策は重要な役回りを演じている。たとえば・・・・・・
●成長を回復するために何ができるか。富裕国にとって、経済成長は優先すべき課題なのか。ほかにどんな課題を優先すべきか。
●あらゆる国で急拡大する不平等に打つ手はあるのか。
●国際貿易は問題の解決になるのか、深刻化させているだけか。
●貿易は不平等にどのような影響をもたらすのか。
●貿易の未来はどうなるのか、労働コストのより低い国が中国から世界の工場の座を奪い取るのか。
●移民問題にはどう取り組むのか。技能を持たない移民が多すぎるのではないか。
●新技術にどう対応するのか。たとえば人工知能(AI)の台頭は歓迎すべきなのか、懸念すべきなのか。
●これがいちばん急を要するのかもしれないが、市場から見捨てられた人々を社会はどうやって救うのか。
     *
だが、「経済学者」への世間の信用度は、「政治家」に次いで二番目に低い。どうしたら「良い経済学」の最新の知見を、もっと一般の方々に活用してもらえるようになるのだろうか。 
●いま社会が直面している重要な問題に今日の最良の経済学はどのように取り組んでいるのか。
●今日のすぐれた経済学者たちは世界をよりよくする方法をどう考えているのか。
●人間が望む幸福や幸せな暮らしを構成する要素を、経済学はどのように高めることができるのか。
     *
よりよい世界にするために、経済学にできることを真っ正面から問いかける、希望の書。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【感想】
    「経済学は役立たずの学問だ」

    自分が大学で経済を学んでいたときからそう言われている。
    その理由としては、予測が当たったためしがないからだろう。市場経済はあまりに構成要素が複雑すぎる。教室での授業のように、需要と供給という2つの変数だけで語りきれることなどまずないし、なんなら排除された要因のほうが大切だったりもする。
    また、経済の動きは人々の行動の結果として起こり得るものだが、人々の行動が徹頭徹尾効率的に達成されることなどあり得ない。前提条件が同じであったとしても、(もしそんなことがありえるならば、だが)一定の結果が返ってくることはない。結果的に予測ではなく「占い」に近くなるのが経済学だ。

    「21人の世界一流の専門家で構成される委員会、300人もの研究者が参加した12の作業部会、12のワークショップ、13の外部からの助言、そして400万ドルの予算を投じて2年に及ぶ検討を重ねた結果、高度成長をどのように実現するかという問いに対する専門家の答は、わからないというものだった。しかも、専門家がいつか答を見つけることを信じろという」

    以上は本書からの引用だが、経済学がいかに信頼できないかを物語る好例だろう。

    このように信頼されていない学問である「経済学」について、本書ではその信頼されない理由――悪い経済学の例を引き合いに出しながら、「誰もが希望を持てるような状況をつくること」を目指し洞察を深めていく。

    筆者が言うには、経済学と同じように「経済学者」も信頼されていない。
    その理由は3つある。

    1つ目は、一般の人々の意見と経済学者の意見がかけはなれていることにある。例えば、「NAFTAは平均的なアメリカ人の生活を向上させると思いますか」という質問に対して、経済学者は95%がイエスと答えたものの、一般回答者でイエスと答えたのは50%足らずだった。同じように経済学者⇔一般回答者のギャップを測るアンケートを繰り返した結果分かったのは、経済学者と平均的なアメリカ人の平均乖離は35ポイントにも達しているということだった。2つ目は、テレビなどのメディアに登場するエコノミストがポジショントークを繰り返すこと。3つ目は、経済学者自身が、経済の複雑性を語るときに慎重にならざるを得ず、含みを残した遠回りな意見ばかりになること。つまりはっきりとせずに分かりづらい回答を行うことである。経済学が「占い」と呼ばれるゆえんは、もしかしたら経済学者自身の責任なのかもしれない。

    こうした「信頼されていない」という現状を受け止めつつ、筆者は経済学についてのメジャーな論説とファクトを積み重ね、人々に「本当は何が起こっており、何が正しいのか」を説いていく。移民、自由貿易、経済成長、温暖化、格差など、一般の人々が特に喫緊だと感じている課題を丁寧に読み解いていき、勘違いしがちな部分に考察を重ね、経済学者と一般人とが再び「対話」できることを最終目標としているのだ。

    例えば、貧困層とユニバーサルベーシックインカム(UBI)の話。
    レーガン政権が、社会福祉を不正受給する「ウェルフェアクイーン」という言葉で貧困層をステレオタイプ化したように、いつの時代も、貧困に喘ぐ人への給付策には「彼らを怠惰にさせる」という批判が起こっている。しかし、給付を受け取った世帯が、必需品を買わずに浪費したり、働かなくなったりするというデータは一切存在していない。負の所得税を導入しても、一般的に懸念されているほど労働供給が減少するわけではない、とのデータも出ている。

    では、貧困層に対して積極的に支援を与える――極端な話UBIを導入すればいいのかというと、そう簡単にもいかない。UBIについての大規模な社会データは存在しないし、なにより、働かなくても済むだけの金を貰った人は、自らの生きがいのために仕事を続けるかは定かではない。

    この章の結論は、そうした給付水準の多寡とは別の地点に着地している。
    「今日のような不安と不安定の時代における社会政策は、人々の生活を脅かす要因をできるだけ緩和しつつ、生活困難に陥った人々の尊厳を守ることを目標としなければならない」。
    つまり、窮乏した世帯を救うには、お金を渡すだけでは足りないということだ。

    結局のところ、数々の怒りの原因は自尊心を踏みにじられていることにある。政府の支援プログラムが十分に活用されないのも、グローバル化の煽りを受けた人々が貧困に転落し富裕層を攻撃するのも、移民を排斥しトランプに迎合するのも、もとを辿れば、貧困層が自分自身を「国から尊重されていない」と感じるからだ。社会からの締め出しを食らった人々は、階層間の上昇が自分の力では何ともならないと悟ったとき、自分が蔑ろにされた原因を富裕層の仕業だと感じ、より攻撃的になる。
    彼らを人間として扱い、それまで払われたことのなかった敬意を払い、可能性を認めるとともに、極貧によって受けたダメージを理解する。そうすれば貧困者にも自己肯定感が溢れ、より積極的に活動するようになり。わるい経済学への認識をあらため、自分(と他人)の生活を向上させようと考えるきっかけになるかもしれない。
    希望は人間を前に進ませる燃料なのだ。

    以上は一例だが、筆者はほかにも移民、自由貿易、経済成長など、センシティブで複雑な事例をいくつも取り上げている。本書は450ページを超える大ボリュームであるが、中身はとても読みやすい。一般人の自分にも、卑近な例として思い当たる論題がたくさんあった。

    もし経済学に「わるい」イメージを持っていたら、本書を読んで「いい」経済学を学ぶ入口としてほしい。そのぐらい強くオススメする一冊だ。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 経済学者は何故信用されていないのか?
    経済学者がこれほどまでに信用されていないのは、経済学者の一致した意見がまずもって一般の人々の意見とかけ離れていることが一つの原因だ。
    それはなぜかと言えば、悪い経済学が大手を振ってまかり通っていることにある。鉄鋼とアルミへの関税、移民の流入、ロボットやAIの導入といった事例へ賛成か反対かのアンケートを行ったところ、経済学者と平均的なアメリカ人の平均乖離は35ポイントにも達した。
    また、テレビなどのメディアに登場するエコノミスト――たいていは民間企業のアナリストは、ほとんど自社の経済的利益を代表して発言しているので、彼らの意見にそぐわない不都合な証拠は、無視してよいと考えがちだ。

    最良の経済学は、多くの場合に控えめであるべきだ。しかしそうした、断定を避けて含みを残しながら、複雑な過程を省略して結論づけるような説明が、一般の人々の不信感を強めているのだ。

    ここに本書は挑戦したい。
    貿易、不平等、市場から見捨てられた貧困層などを、経済がどのようにして解決へと導くのか。多くの市民が勘違いしている問題について、その面倒くさい過程をしっかりと説明し、再び対話ができるようにすることを目標とする。


    2 移民
    移民について、人々はとあるバイアスを持っている。それは、移民は自分の国を捨てて豊かな国を目指し、豊かな国の賃金水準を押し下げ、そこの住人の生活を苦しくするというものだ。しかし、これには2つの間違いがある。

    1つ目の間違いは、国家間の賃金格差は、人々が移民になる決意をするかどうかと実際にはほとんど関係ないことである。
    そもそも、移住の理由の殆どは、高賃金を求めたからではなく、暴力や戦争によって祖国にいられなくなったからである。これは自国民でも同じであり、低賃金の農村から高賃金の都市に移住する人ばかりではない。
    移民反対論者は、経済的インセンティブだけが要因だと考えがちなのだ。実際には住居を変える、国を移るというのはあまりにもハードルが高い行動であり、例えお金を稼げるチャンスがあるとわかっていても、人はそうした不確実性を避ける。生まれ育った場所で貧困に喘いでも、人々は結局慣れ親しんだ土地を離れたがらないのだ。

    2つ目は、低技能移民は、移民自身と受け入れ国の両方の生活水準を押し上げることである。
    米国科学アカデミーは、「10年以上の長期に渡って計測した場合、移民が受入国住民全体の賃金に与える影響は極めて小さい」と結論付けている。それは単純な理由で、移民の流入が労働者の供給を増やすと同時に、移民が受入国で金を使うため、他産業の労働需要も増やすからである。
    労働市場には需要と供給の法則は簡単に当てはまらないのだ。


    3 自由貿易
    ストルパー=サミュエルソン定理によれば、貿易を行うとどの国でもGNPは拡大する。理論上では、貧困国では不平等が縮小し、富裕国では不平等が拡大するが、政府による再分配で格差を是正することができると言われている。

    しかし、発展途上国の多くの事例とかけ離れているのは自明だ。過去30年に多くの低~中所得国が貿易自由化に踏み切っているが、その国の低技能労働者の賃金は、高技能労働者や高学歴労働者の賃金に比して伸びが低かった。不平等が拡大したのである。
    一国内でも同様の結果が起こる、という研究がある。トパロヴァは、「同国」内で自由化を受けた主要産品の、製造地間の格差データを追った。その結果、貿易自由化の影響を強く受けたところ(関税が大幅に引き下げられた品目を製造する地域)ほど、貧困率の低下にブレーキがかかったのだ。
    ※といっても、やはり貿易それ自体は国全体にプラス効果をもたらす。この研究はあくまで、ある地区ではほかの地区より不平等が拡大する傾向がある、と述べているだけなので注意

    また、貧困国を待ち受けている経済性以外のハードルとして、国と企業の知名度が低く、取引の信用が無いことが挙げられる。国際貿易では、クオリティの高い製品やすぐれたアイデア、低い関税、ローコストの輸送だけではなく、「評判」や「ブランドネーム」もモノを言うのだ。

    様々な事例から分かっている、貿易自由化についての結論は以下のとおりだ。
    ①国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとってはきわめて小さい
    ②規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場開放を行うだけでは問題は解決しない
    ③貿易利益の再分配は口でいうほど簡単ではない

    解決策としては、打撃を被った産業や地域にもっと集中して支援を行ったり、強力な補償のために一般税収を充当したりして、特定地域を対象に減税などを行うことが挙げられる。


    4 選考
    経済学では、個人の好みは首尾一貫しているものだと考えられる。しかし、直接自分の利益にならないとわかっている行動を、単に仲間がやっているからという理由で行うのが人間だ。共同体の規範といった「集団的行動」がその典型であり、メンバーが共同体の掟に従う限りは、共同体は必要な時に支援を提供するが、同時に、共同体は反抗する勇敢なメンバーに天誅を与える。

    私たちの好みは、誰と一緒にいるか、どんな集団に帰属するかに強く影響される。多くは自分と同じ価値観の集団に帰属したいと思うが、そうした同類だけの孤島を形成すると、極端な好みや意見がどんどんエスカレートされていく。これを「エコーチェンバー」といい、インターネットがそれを増幅させている。

    人種・規範・ステレオタイプ。社会的文脈は否応なしに好みの問題に入り込んでくる。
    人は自らの考えを変えることを嫌うため、誰かに対して否定的な意見を抱いた場合、その誰かを責めることで自分を正当化しようとする。そうなった時点から対立は激化し、暴力的になりかねない。

    人種差別や反移民感情、支持政党の違いなどはコミュニケーションの断絶を起こすが、そうした問題の多くは、人生の初期段階で異なる価値観への接触が無いことに原因があると考えられる。学校で異なるバックグラウンドを持つ子どもたちが一緒に過ごせる環境を作るのが大切だ。
    接触が偏見を減らす効果を発揮できるのは、接触をする時点で集団同士が対等の関係にあること、共通の目的があること、集団間の協力が可能であること、監督機関や法律や慣習などの後押しが得られることが条件である。

    ●価値観についての4つの教訓
    ①差別的な感情を露わにする人を軽蔑したり見下したりするのは、感情を逆なでするだけ
    ②偏見は生まれつきの絶対的な好みとは違う
    ③有権者が人種や民族や宗教にもとづいて投票するとしても、その主張に熱烈に賛同しているわけではない
    ④差別や偏見と闘うもっとも効果的な方法は、差別そのものに取り組むことではなく、ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせること。


    5 経済成長
    経済学者が予想を試みた中で、経済成長ほどお粗末な成績だった分野はない。
    「21人の世界一流の専門家で構成される委員会、300人もの研究者が参加した12の作業部会、12のワークショップ、13の外部からの助言、そして400万ドルの予算を投じて2年に及ぶ検討を重ねた結果。高度成長をどのように実現するかという問いに対する専門家の答は、わからないというものだった。しかも、専門家がいつか答を見つけることを信じろという」

    現代の経済成長への関心ごとは、
    ・生産性の持続的な伸びは復活するのか(経済成長は無限に続くのか)
    ・GDPは本当の幸福や満足を与えてくれるのか
    である。

    経済成長はつねにGDPの数字でのみ語られる。
    では、無料のサービスや取引に計上されない「幸福度」は成長と呼べないのか?

    経済成長を予測することが難しく、経済学者の予測がお粗末な結果で終わるのは、あらゆる経済学者が、「人間の営み」という複雑な行動を、たった一つの変数に還元して語ろうとするからだ。また、私達にとって成長の成功はデータによって測るべきなのに、国同士を比較するような大規模なデータを集計することができないからだ。
    結局のところ、成長をけん引する要因をこれとはっきり特定するのは難しい。経済成長を促すメカニズムが何なのかということはわかっておらず、富裕国で再び成長率が上向きになるのかもわかっていない。

    最もメジャーな手法――イノベーションを創出するための優遇措置(減税など)で成長を達成できるのかというと、そうでもない。高所得者に対する減税は、それだけでは経済成長にはつながらない、という点で経済学者の大多数の意見は一致している。

    私達がなすべきなのは、モデルで考えることではなく、現実にリソースがどう使われているかを見ることだ。共産主義国家のように、ある国がスタート時点でリソース配分がお粗末だとすると、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。インドのように自国内に莫大な格差を持ちながら経済発展を続ける国は、なお再配分のメリットが大きい。
    しかしながら、配分による格差是正には一つの大切な前提がある。それは、成長を続けるにつれて改善の余地は狭まっていき、成長は必ず鈍化するということだ。
    鈍化後に遮二無二成長を追い求めるあまりに、非効率な配分、実現不可能な政策設定によって歪みを生み出し、現在の貧困を省みることなく富裕層を優遇することはあってはならない。成長とは目的ではなく幸福のための手段であり、最貧層の幸福にフォーカスすれば、成長率を0.1%上げるよりも簡単に、何百万人の生活を根本的に変えられるのだから。


    6 地球温暖化
    我々は排出量を削減するだけではいけない。もっと根本的に、持続可能な消費へと舵を切らなければならない。いくら再生可能エネルギーを駆使しても、消費されるためのモノを作るだけでCO2は増えるのだ。
    所得が10%増えると炭素排出量は9%減るという研究データがある。ここから50対10ルールが導き出される。すなわち、世界で最も排出量の多い上位10%は世界のCO2排出量のおよそ50%を占める一方で、最も排出量の少ない50%は、世界のCO2排出量のおよそ10%を占めるにすぎない。そして都合が悪いことに、温暖化の影響をもっとも受ける国は、赤道近辺に多く存在する発展途上国なのだ。

    炭素税が受け入れやすい選択肢でないことは、承知している。それでも、炭素税を政治的に受け入れられる形にすることは可能だと考えている。そのためには、炭素税は政府の歳入を増やすものでは無いことをはっきりと明確にし、税収をそのまま補償に充当し、最低所得層への補助金とする。こうすれば、エネルギー節減のインセンティブと習慣を、貧困層に与えることが可能になる。


    7 不平等
    無節操な自動化が労働者を深刻に脅かすということは、右派、左派を問わず大方の人々が本能的に感じ取っている。アメリカ人の85%が、自動化は「危険で汚い仕事」に限定すべきだと答え、共和党支持者も民主党支持者もこの点では変わりがなかった。
    地域ごとに産業ロボットの普及度を調べ、普及度の高い地域と低い地域とで賃金水準・雇用水準の変化を比較したところ、ロボット1台につき雇用が6.2人減り、賃金も下がったことがわかった。また、この現象は製造業でとくに顕著であること、高卒以下で定型的な肉体労働に従事している人が最も打撃を受けることも判明した。しかも、その分を埋め合わせるような需要の発生は無かったのである。

    技術革新は最上位層に途方も無い所得の伸びをもたらした。技術革新によって、グーグルやフェイスブックなど、「勝者総取り」のネットワークサービスが生み出されたからだ。これにグローバル化や硬直的な経済が合わさって、勝ち組と負け組の差がくっきりつくようになる。

    飛びぬけて高い所得にのみ適用される最高税率の引き上げは、最高所得層とそれ以外の層との所得格差の急拡大を抑える賢明な手段だと考えられる。それを解決するためには富裕税の導入が効果的に見えるが、実際には、富裕層によるロビー活動や、富裕層だからこそ簡単にできる税逃れによって実現が難しくなっている。

    1つはっきりと言えるのは、取りつかれたように成長を目指すのはやめるべきだということだ。成長の名を借りた政策はどれも疑ってかかるべきであり、成長の恩恵がいずれ貧困層にも回ってくるといった偽りの政策である可能性が高い。また、この不平等な世界で、人々が単に生き延びるだけでなく尊厳を持って生きていけるような政策をいますぐ実行しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう。


    8 政府は何をすればいい?
    多くの国は政府の介入に対して全般的に懐疑的だ。2015年の調査では、政府は「つねに」または「だいたいにおいて」信用できると考えるアメリカ人は23%に過ぎず、59%が政府を信用していないこと、20%は「政府には貧富の格差解消はできない」と考えていることがわかった。

    一部は経済学者の責任でもある。経済学者が何かにつけて政府の無駄や無用の政策を批判し、政府が無能な怠け者だというイメージを定着させている。すると、
    ①人々はいかなる政府介入にも反射的に猛反対するようになる
    ②政府で働こうと志す人が減り、優秀な人材が集まらなくなる
    ③市民が政府の行動に無感覚になり、大規模な汚職の余地を産むことになる
    といった悪いことが起こる。


    9 人間の尊厳と社会政策のありかた
    社会政策の設計においては、救済をすることと人々の尊厳に配慮することとのせめぎ合いに、どう対処するかということをつねに考えなければならない。要するに、助けてもらう人の尊厳を踏みにじってはならないのだ。

    ところが福祉プログラムの導入に当たっては、一定数の人から、「福祉は貧乏人をごく潰しにさせる」との批判が出る。「福祉は貧困を助長する」という見解は古今東西で人気があるが、給付を受け取った世帯が、必需品を買わずに浪費したり、働かなくなるというデータは一切存在していない。負の所得税を導入しても、一般的に懸念されているほど、労働供給が減少するわけではないとのデータが出ている。
    (※しかしながら、人々が全く働かずともよくなるほど多額のユニバーサルベーシックインカムを導入したデータは存在しない。何より予算のうえで実現不可能だ)
    総合すると、全ての貧困世帯を対象にするウルトラ・ユニバーサルベーシックインカムに、極貧層を対象にした子供の検診や教育を条件とする、より多額の給付を組み合わせるのがよいのではないか。

    ここで注意しておきたいが、UBIは貧困国では向いているものの、富裕国では上手く機能しない可能性が高い。発展途上国では、先進国ほど仕事と余暇が切り離されていない。その傾向は特に貧困層において顕著であり、UBIはそうした人々への支援として効果的に機能する。逆に、先進国の貧しい人々は、仕事を失うとともに自尊心を失っているため、「ただ生きるだけでなくプライドを持って生きたい」という願いの実現は、UBIには難しいかもしれない。

    窮乏した世帯を生産的な労働へと導くには、お金を渡すだけでは足りない。彼らを人間として扱い、それまで払われたことのなかった敬意を払い、可能性を認めるとともに、極貧によって受けたダメージを理解することが必要だ。
    貧しい人や恵まれない人への「軽蔑」「施し」の態度を辞め、一人の人間として見る。そうすることで、貧困者にも自己肯定感が溢れ、より積極的に活動するようになる。希望は人間を前に進ませる燃料なのだ。


    10 よい経済学と悪い経済学
    経済学は、活力の尽きることない世界を想定している。人は絶えず新しいアイデアを産み、高い賃金を得るためには国境を超えることも厭わない。発展途上国は「後発の利益」によって目覚ましいほどの成長を遂げ、貧困は次第に無くなっていく。
    もちろん、ものごとはそんなふうにはいかない。経済というものは、発展途上国か先進国かを問わず、どこでも硬直的なものだ。アメリカでは小さなスタートアップがインドやメキシコよりずっと早いスピードで成長し、ずっと早いスピードで退場させられる。成長した企業はアイダホからシアトルに拠点を移すが、アイダホの労働者はたやすくシアトルに移れるわけでもない。そもそも、移りたいと思っていない。家族・友達・思い出など、大切にするものがアイダホにはたくさんある。だがよい仕事がどんどんなくなっていって、この選択が大間違いだったことがはっきりするにつれ、彼らは怒りを募らせる。これと同じことが全世界で起きているのだ。

    彼らを救うべく、全世界でさまざまな政策が取られている。その多くは、よい経済学と悪い経済学の助けを借りて策定された。よい経済学は防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子どもの数を半減させた。一方、悪い経済学は富裕層への減税を支持し、福祉予算を削らせ、政府は無能で貧乏人は怠け者だと論じ、移民を批判し、不平等の拡大を招いた。
    こうした根拠のない考え方が、社会において有力になっている。私たちにできる唯一のことは、油断せずに見張り、問題を単純化せず根気よく取り組み、判明した事実に誠実であることだ。
    人間らしく生きられるよりよい世界を実現するため、私たち「誰も」が声を挙げなければならない。経済学は、経済学者にまかせておくには重要過ぎるのだ。

  • 著者は二人のノーベル経済学賞受賞者。

    原題は「Good Economics for Hard Times」とありますが、コロナ禍の今にあって、ちょうど米大統領選が佳境のころから読み始めたので、本書で取り上げられているテーマと、日々目にするニュースやSNSの投稿などとシンクロすることも多く、政治と経済の今についての理解を深めるには良書であったと思います。

    経済成長
    移民
    自由貿易
    地球温暖化
    社会保障
    格差

    お金だけで解決しないことや、さまざまなトレードオフが生じること、マクロな経済モデルの想定通りには行動しない人や企業、そうした複雑系の中で、良い方向に向かうための本質とは何かを二人の経済学者が力説されています。

    全体を読み通した上で、最後の最後にノーベル経済学賞受賞した経済学者が語る一文(最終章の最後の一文)がとても印象的でした。

    ”経済学は、経済学者にまかせておくには重要すぎるのである。”

  • これまでに読んだ経済学の本の中で最も面白かった。読みやすい文体で具体的な課題(格差、移民、貿易、貧困等)について書かれているので、経済学に関する予備知識がなくても読み進められる。多くの人に読まれてほしい。

  • 良書だった。
    格差、貧困の中にある人と真摯に向き合い、なぜ経済学、政府が失敗するのか。

    一つの答えとして、尊厳を持って相対すること。型にはめたプログラムと金銭ではなく、一人一人の人間に尊厳を持って向き合うことが示されていた。
    福祉の現場では、生活保護であれば金銭を支給する政府とその恩恵を享受する受給者という上下の分断が発生するが、それは本来の福祉の目的から遠ざかり、不経済を産むということ。

  • 貧困者、弱者を含めた社会問題を解決するには、そのような人々を差別したり切り捨てたりせず、人間の尊厳を保つよう社会システムを構築する政治が必要。

  • そのタイトルに惹かれて。

  • 強いて言えば現代日本に拡大しつつある「貧困と格差」という問題の中で、筆者の専門とする開発経済学の部分部分には触れてはいたように思う。
    人間が一見すると不都合な行動を取りうるというテーマは様々な学域で興味を引く議題として散見するが
    合理的経済人という鏡像からではなく、実際的な人々の営みを突き詰めるべくして膨大な規模や時間を費やした研究のもと、統一された正解というものは見出しがたいであろうからこそ学問として面白い。

  • 移民、関税、AIとライダット運動、温暖化、ベーシックインカムなどいろんな話題がデータをもとに書かれている。同じ著者の「貧乏人の経済学」より話題が豊富で面白かった。
    行動経済学系の本に登場する実験には結構飽きてきたが、本書のデータにはインドや途上国を被験者にした実験が多く目新しい。

  •  だがいまのところ、世界はユートピアともディストピアともかけ離れた状況である。経済的に繁栄する国や地域に絶えず惹きつけられるどころか、生まれ育った場所で貧困に喘いでも、人々はそこにとどまることを選んでいる。この状況を踏まえれば、国内・国外を問わず移動を奨励することが政策的に望ましい。ただし言うまでもなく、かつてのように強制したり、歪んだ経済的インセンティブを設けたりするのではなく、現在移動を阻んでいる障害を取り除くことが必要だ。
     国内外を問わず移動のプロセス全体を円滑化し、情報を効果的に提供すれば、人々はコストと見返りをよりよく理解できるだろう。国を離れた人と残った家族との間の送金を容易かつ安全にすることも役に立つ。失敗を恐れる気持ちが大きいことを考えれば、何らかの保険を用意することも考えてよいだろう。バングラデシュでこのやり方が効果を上げたことを思い出してほしい。だが何と言っても移民や移住を後押しし、受入国の住人の抵抗感を和らげる最善の方法は、受入国に溶け込みやすくすることである。住宅斡旋支援(あるいは補助金)、事前の求人・求職のマッチング、育児支援などがあれば、不安なく移住し、はやくなじめるだろう。このことは、国内・国外どちらの移動にも当てはまる。しっかりした定住支援が整っていれば、移住を躊躇していた人々の背中を押し、移住先でスムーズに生活できるようになるはずだ。ところが現在は正反対の状況にある。一部の難民支援組織を除き、移住した人々の定着を助ける措置は何一つ講じられていない。とりわけ外国に移住する場合、合法的に就労する権利を得ることが途方もなく困難だ。国内で移住する場合でも、住む場所を見つけるのに苦労し、雇用機会は潤沢に見えてもなかなか職にありつけないことが多い。
     もっとも、現在の移民政策が採用されたのは、必ずしも経済学を理解していないからではない。反移民政策は、一種のアイデンティティ・ポリティクスだと言える[アイデンティティ・ポリティクスとは、さまざまなアイデンティティ(性別、膚の色、民族など)を拠りどころとする集団が行う、自己の社会的承認を求める政治的行動を意味する]。政治が経済学を無視するのは昔からよくあることだ。たとえばヨーロッパからアメリカへの大移住期には、移民を受け入れたアメリカの都市は経済的に潤ったにもかかわらず、移民の流入は各地で敵対的な反応を引き起こした。市当局が支出を渋り、民族集団間の交流を促すサービス(たとえば公立学校)や低所得移民にとって重要なサービス(たとえば下水道、ゴミ収集)が滞るようになった。また移民が大量に流入した都市では、移民を支持する民主党の得票率が下がり、保守的な政治家、とくに一九二四年の出身国別割当法(この法律により無制限の移民受け入れは打ち切られた)を支持する政治家が当選した。有権者が移民の流入と彼らが持ち込む文化に否定的な反応をするのは昔から見られる現象で、かつてはカトリック教徒やユダヤ人も歩み寄りの余地がないと考えられていた。
     歴史は繰り返すとよく言われるが、二度目、三度目が前よりましになるという保証はない。だが一度目の経験は、移民に対する怒りにどう対応したらいいかを教えてくれるだろう。この問題は、第四章で再び論じることにする。
     この章を終えるにあたり、多くの人々がどれほど魅力的なインセンティブを示されても結局は慣れ親しんだ土地を離れたがらないことをもう一度思い出してほしい。この傾向は、人間の行動に関する経済学者の直観に反するものであり、経済全体にとって深い意味を持つ。本書でこれからみていくように、移動を嫌う傾向あるいはためらう傾向は、幅広い経済政策の結果に大きな影響をおよぼす。たとえば次の第三章では、国際貿易が期待するほどの利益をもたらさない理由の一部がこの傾向によって説明できることを示す。第五章では、この傾向が経済成長にどう影響するかを検討する。また第九章では、この傾向を踏まえて社会政策を見直すことを提案する。


     本章で取り上げた事例と分析は信頼できる研究者が行った最先端の調査研究から引用したものだが、そこから導き出される結論は、長年の社会通念とは相容れないように見える。経済学部で学ぶ学生はみな、貿易は大きな利益をもたらし、その利益が再分配される限りにおいて国民全員の生活水準が向上すると教わる。だが本章で指摘した次の三つの事柄は、このバラ色の貿易理論に水を差す。
     第一に、国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとってはきわめて小さい。第二に、規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場開放を行うだけでは問題は解決しない。移民を扱った第二章で論じたとおり、国境を開いただけでは人は移動しないのと同じで、貿易障壁を取り除いただけでは初めてグローバル市場に進出する国が利益を手にすることはできない。今日から門戸を開放しますと言うだけでは、経済は発展しないのである(それどころか貿易すら発展しない)。第三に、貿易利益の再分配は口で言うほど簡単ではない。貿易で打撃を受けた人々の多くはいまなお苦しんでいる。
     モノと人、そしてアイデアや文化の交流が世界を豊かにしてきたことはまちがいない。いいタイミングでいい場所に居合わせ、しかるべきスキルやアイデアを持ち合わせていた幸運な人たちは裕福になったし、ときにはとてつもなく裕福になった。持って生まれた能力と幸運をグローバルなスケールで活用する機会に恵まれたからである。だがそれ以外の大勢の人々にとっては、いいことばかりだったとは言えない。多くの人が仕事を失い、代わりの仕事は得られなかった。富裕層の所得水準が上がったおかげで新しく増えた仕事はある。たとえばシェフやドライバー、庭師やナニーなどだ。だが貿易によって労働市場の変動が大きくなったことは否定できない。ある日突然多くの仕事が姿を消し、何千キロも離れたところで新しい仕事が生まれる。貿易がもたらす利益と損失はひどく偏って分布しており、そのことが社会に暗い影を落とし始めている。いまや移民問題とともに政治の行方を決する要 因になっているのは、貿易の負の影響だと言える。
     では、保護関税は問題の解決に役立つのか。答はノーだ。関税の導入は、アメリカ人を助けることにはならない。理由は単純だ。ここまでの議論で私たちが主張したいことの一つは、移行期にもっと注意を払う必要がある、ということである。チャイナ・ショックで解雇された人の多くは、ショックに見舞われる前の生活水準を回復できていない。なぜなら経済というものは硬直的だからだ。彼らは別の産業や別の土地へ移って自立することができない。リソースも移動しない。
     だからと言って中国との貿易をいま打ち切るのは、新たな解雇を生むだけである。新たに負け組になるのは、おそらくはこれまで名前を聞いたこともない郡で生活している人々農村地帯の人々だ。なぜ聞いたこともないかと言えば、何の問題もなく暮らしているのでニュースにならないからである。中国が二〇一八年四月二日に発動した報復関税(一五%と二五%)の対象一二八品目は、大半が農産物である。米国の農産物輸出は過去数十年にわたって右肩上がりで増えており、一九九五年には五六○億ドルだったのが、二〇一七年には一四〇〇億ドルに達している。今日では米国の農業生産高の五分の一が輸出されており、最大の仕向先は東アジアだ。中国だけで、米国の農産物輸出の一六%を買っている。


     この章の包括的な結論は、こうだ。貿易によって大切な仕事を失い、ずっと続くと思っていた人生で変化と移動の必要に迫られた人々の痛みに配慮しなければならない。経済学者も政策当局も、富裕国では低技能労働者が貿易の不利益を被ること、貿易の恩恵に与るのは貧困国の労働者であることは知っていたはずだ。にもかかわらず、人々が自由貿易に敵対的な反応を示すことに戸惑っている。なぜなら彼らは、労働者は簡単に他産業への転職または移動またはその両方ができるという前提に立っていたからである。そして労働者にそれができないのはある程度は本人の責任だ、と考えていたからだ。現在の社会政策にはこうした発想が反映されており、「負け組」とそれ以外の人々の間に軋轢を引き起こす結果となっている。


     人種、宗教、民族、女性などに対する差別と偏見の嵐が吹き荒れるいまの世界で、私たちの提案は総じてあまりにもささやかだと思われただろうか。だがもしそう思われたとしたら、それは本章のポイントを見落としている。偏見あるいはその根っこにある好み(社会的選好)は、現代の病理の原因である以上に症状なのだ。いまの世の中はまちがっている、自分は不当に不利益を被っている、自分は尊重されず見捨てられているそう感じさせる多くのことに対する防衛反応が、差別や偏見の形で表現されることが多い。
     この考察から四つの重要な学びが得られる。第一に、差別的な感情を露にする人、人種差別に共感する人、あるいはそうした人に投票する人を軽蔑したり見下したりする(「嘆かわしい」など)のは、感情を逆撫でするだけである。差別的な感情は、この世界で自分は尊重されていないのではないかという疑いに根ざしていることを忘れてはいけない。
     第二に、偏見は生来の絶対的な好みとはちがう。いわゆる人種差別主義者と呼ばれる人にしても、差別以外の問題にも関心がある。たとえばインド北部では一九九〇年代から二〇〇〇年代前半にかけてカースト制度に基づく二極化が著しく、下位カーストの有権者は、自分たちのカースト出身者が率いる政党を支持するのがふつうだった。だが二〇〇五年あたりを境に、この傾向が変わり始める。有権者は、カースト政党を支持することに意味があるのかと考えるようになった。最下層のダリットを支持基盤とする大衆社会党の党首マヤワティはこの流れを読み、二〇〇七年のウッタル・プラデシュ州議会選挙では上位カーストの貧しい人々も含めて貧困層の味方であることを訴え、過半数を獲得している。狭い階級意識を脱して包容を訴えたことが勝因につながったと考えてよいだろう。
     最近では、アメリカでいささか驚くべき現象が起きた。医療保険制度改革法いわゆるオバマケアは、「あの黒人でケニア出身のイスラム教徒のオバマ」「実際にはハワイ出身のキリスト教徒が積極的に提唱した制度として、共和党色の濃い多くの州で忌み嫌われてきた。すでに述べたように、オバマケアの下では低所得層向け医療保険メディケイドの対象範囲が拡大されたが、共和党出身の州知事の多くがこれを拒否したという経緯がある。だが二〇一八年の中間選挙が近づいてくると、メディケイドの範囲拡大が争点の一つとなる。こうした背景から、共和党支持者の多いレッド・ステート三州(ユタ、ネブラスカ、アイダホ)が拡大を承認した。またカンザス州とウィスコンシン州では、メディケイドの対象拡大に賛成する民主党の知事が誕生した。これらの州の住民が突然民主党支持に回ったわけではない。彼らは相変わらず共和党の議員に、場合によってはかなり保守的な思想の持ち主にも投票している。だがメディケイドに関する限り、住民は自分たちの理解に基づいて自分にとってよいと考えたほうに漂 を投じたということだ。経済的判断がトランプに勝ったわけである。
     第二の点とも関連するが、第三に、たとえ有権者が人種や民族や宗教に基づいて投票するとしても、いやそれどころか人種差別を唱える人物に投票するとしても、その主張に熱烈に賛同しているわけではない。政治家が自分の都合のいいときに民族や人種のカードを切ることを、有権者はとっくに承知している。それでもそういう政治家に票を投じるのは、有権者が政治にすっかり白けていて、誰が議員になろうとたいしてちがいはないと諦めているからだ。このような状況では、有権者は自分と同じ集団に属す同類に投票する可能性が高くなる。つまり人種や民族に基づく投票態度は、無関心の表れに過ぎないとも言える。しかし彼らの考えを変えるのは驚くほどたやすい。カースト政治のはびこるウッタル・プラデシュ州で二〇〇七年に行われた選挙の際に、アビジットのチームは投票のおよそ一〇%をカースト政党から引き剥がすことに成功した。使った道具は、歌と人形劇と街頭演劇だけである。どれもたった一つの単純なメッセージを発信した。「カーストではなく開発を考えて投票しよう」。
     ここから、最後のいちばん重要な学びが得られる。差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことではない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。大きなことを公約し、大掛かりな政策を打ち出す政治家は、往々にして竜頭蛇尾に終わる。大きなことをやり遂げるのは容易ではない。私たちは政策論議に対する信頼を取り戻し、無能力を大言壮語でごまかすばかりが政治ではないのだと証明しなければならない。そして言うまでもなく、多くの人がいま感じている怒りや喪失感をいくらかでも和らげるためにできることを試みなければならない。ただしそれは容易ではなく時間もかかると認識している。
     第一章で述べたが、これが本書で私たちが始めた長い旅路である。旅の最初で取り上げたのは、多くの人が知っている問題―移民と貿易だった。だがこれらの問題でさえ、経済学者は十分な説明もなく留保条件もつけずに断定的な答を出す癖がある(移民はよいことだ、自由貿易はよいことだ・・・・・・)。これでは人々の信頼は得られない。
     しかもこれから取り上げるのは、経済学者の間でも異論の多い問題―経済成長、気候変動、不平等である。これまでの章と同じく、この先も私たちは問題をありのままの姿で捉える姿勢を貫きたい。ただし、これまで取り上げてきた問題と異なり、やや抽象的になったり、十分な証拠に基づかない議論になったりする可能性があることをお断りしておく。これらの問題は私たちの将来(そして現在も)を考えるうえで外すことはできない。経済成長、気候変動、不平等を取り上げずしてよい経済政策を語ることなど不可能である。
     これらの問題のすべてで、人々の好みが果たす役割は大きい。人々は何を必要とし、何を欲しがっているのか、そして何を好むのかを考えずに問題を論じることはできない。とはいえ本章で論じたように、欲しいものが必要なものだとは限らない。人間は、社会保障番号に引きずられてワインに値付けをするようなところがあるのだ。それに、必要なものが欲しいものとも限らない。たとえばテレビは必要なのか、欲しいのか。これらの要素はこの先の章でも、ときに暗黙のうちに、ときに明示的に、議論の中で、また世界の見方においても重要な役割を果たすことになる。


     本章でこれまで論じてきたことを総合すると、経済成長について何がわかったと言えるだろうか。まず、ロバート・ソローは正しかった。一国の一人当たり所得が一定の水準に達すると、たしかに成長は減速するように見える。技術の最先端にいる国、これは主に富裕国だが、これらの国々における全要生産性(TFP)の伸びは、謎である。どうすればTFPを押し上げられるかはわかっていない。そして、ロバート・ルーカスもポール・ローマーも正しかった。貧困国にとって、ソローの言う収束は自動的には起きない。これはおそらく、スピルオーバー効果が期待できないからだけではあるまい。貧困国のTFPの伸びが先進国より大幅に低いのは、市場の失敗が最大の原因だと考えられる。裏を返せば、事業経営に適した環境が整っていれば市場の失敗を是正できる限りにおいて、アセモグル、ジョンソン、ロビンソンも正しかったことになる。
     それでもなお、彼らはみなまちがっていた。一国の経済成長も一国のリソースも総和として捉え(労働力人口、資本、GDPなど)、その結果として重要なことを見逃してしまったからである。非効率なリソース配分についてわかったことを踏まえると、私たちがすべきなのはモデルで考えることではなく、現実にリソースがどう使われているかを見ることだ。ある国がスタート時点ではリソース配分がひどくお粗末だとしよう。たとえば共産主義経済だった頃の中国や極端な経済統制を行っていた時期のインドがそうだ。このような国では、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。中国のような国があれほど長期にわたって高度成長を続けられたのは、彼らが人材や資源まったく活用できていない状態からスタートし、それを最適活用できるようになったからだと考えられる。このようなことは、ソロー・モデルでもローマー・モデルでも想定されていない。彼らのモデルでは、成長するためには新しいリソースか新しいアイデアが必要だということになっている。これが正しいなら、無駄になっていたリソースの再配分が一段落すると、成長のためには新たなリソースが必要になるので、成長に急ブレーキがかかることになるのかもしれない。中国の成長鈍化の可能性について多くの分析がなされてきたが、とうとう現実に成長は減速しているし、これは将来も続きそうだ。中国の指導者がいま何をしても、この流れは止まらないだろう。中国はキャッチアップをめざしてひた走っていた時期にハイペースでリソースを蓄積し、あきらかに非効率な配分は是正された。したがって、現在では改善の余地が乏しくなっている。中国経済は輸出に依存しているが、世界最大の輸出国になってしまったいまとなっては、世界経済の成長より速いペースで輸出を拡大することはもはや不可能だろう。中国は(そして他国も)、驚異的なスピードで成長できる時代はもう終わりに近づいているのだという現実を受け入れなければなるまい。


     本章の結論は、こうだ。経済学者が何世代にもわたって努力してきたにもかかわらず、経済成長を促すメカニズムが何なのかということはまだわかっていない。富裕国で再び成長率が上向きになるのか、どうすれば上向くのか、ということははっきり言ってわからないのである。それでも、できることはある。富裕国でも貧困国でも、現在の甚だしいリソースの無駄遣いを断ち切ることは十分に可能だ。それをしたからといって恒久的な高度成長が始まるとは言えないが、市民の幸福を劇的に改善することはできる。さらに、いつ成長という機関車が走り出すのか、いやほんとうに走り出すのかさえわからないにしても、貧困国の人々は健康で読み書きができ多少なりとも先見の明がありさえすれば、列車に飛び乗れるチャンスは大きい。グローバル化で勝ち組になった国の多くがかつて共産圏に属していたのはけっして偶然ではなかろう。共産主義だった国は教育や医療など人的資源に精力的に投資した(中国、ベトナムがそうだ)。また共産主義の脅威にさらされていた国も、それに対抗すべく同様の政策を実行した(台湾、韓国が好例である)。したがってインドのような国にとって最善の政策は、手元にあるリソースで市民の生活の質を改善することである。教育、医療の質的向上を図り、裁判所や銀行の機能不全を解消し、インフラを整備する(道路建設、都市部の生活環境の改善など)。
     このことが政策当局にとって意味するのは、富裕国の成長率を二%から二・三%にする方法を躍起になって探すよりも、最貧層の幸福にフォーカスすれば、何百万人もの生活を根本的に変える可能性が開けてくるということである。次章以降では、成長率を押し上げる方法などわからなくても、よりよい世界に向けてできることはまだまだあることを論じる。


     デリーでもワシントンでも北京でも、排出規制を求める声に対して政府は腰が重く、成長を楯に行動に移ろうとしない。GDPの拡大はいったい誰を利するのか、という議論は後回しにされている。
     成長信仰については経済学者にかなりの責任があると言わねばならない。経済学の理論からしても、またデータを見ても、一人当たりGDPの最大化がつねに望ましいという証拠はどこにも存在しないのである。それでも経済学者は、リソースは再分配できるし、必ずされると基本的に信じているため、とにかくパイをできるだけ大きくするのだという罠に陥っている。このような姿勢は、過去数十年間に学んだ教訓を頭から無視するものだ。こちらについては、明白な証拠、エビデンスがある。ひたす成長をめざす過程で不平等は近年大幅に拡大し、どの国の社会にも重大な影響を引き起こしているということだ。
     
     
     絶望に向かわない人は怒りを募らせている。
     社会の梯子を上れないとわかったからと言って、人々がすぐに再分配を支持するかと言えば、そうではない。 先ほど紹介した社会階層の移動性について意見を聞く調査では、質問調査のあとで研究者 チームはランダムに選んだ回答者に移動性が思う以上に低いことを示すグラフを見せ、別のランダム に選んだ回答者には思う以上に高いことを示すグラフを見せた。すると前者は、ふだんは共和党贔屓 の人も、現政権に対する不信感を示したのである。
     このような不信感は、制度に対する反抗という形で現れることもある。インドのオリッサ州で行わ れたある実験では、会社が給与を裁量的に決めていると感じた場合、そうでない会社に比べ、従業員 の手抜き、サボり、欠勤が増えることが確かめられた。また、会社の目標実現に協力しなくなること もわかった。労働者が賃金格差を容認するのは、あきらかに実績と連動している場合に限られる、と 調査は結論づけている。
     アメリカでは、怒りが別の形で現れている。 多くの人がアメリカの市場システムは基本的にフェア だと認めているため、何かほかに捌け口を求めざるを得ない。そこで仕事に就けないと、エリートど もが共謀して本来自分に来るはずだった仕事を黒人かヒスパニックか、でなければ中国の労働者に回 してしまったのだろうと恨む。こんな奴らが動かしている政府を信用できるわけがない。政府は再分 配をしきりに口にするが、どうせカネはみな「他の奴ら」に行ってしまうのだ……。
     経済成長が止まってしまうとか、成長しても平均的な人間には利益が回ってこないという状況では、 スケープゴートが必要になる。これはアメリカにとくに顕著な現象だが、ヨーロッパでも起きている。 標的にされるのは、いつも決まって移民と貿易だ。第二章で論じたように、移民反対論には二つの誤 解が潜んでいる。まず、流入する移民の数を過大に見積もっている。 次に、低技能移民が賃金水準を押し下げると思い込んでいる。
     国際貿易が拡大すると、富裕国の貧困層が打撃を受けることは第二章で論じたとおりである。すると当然ながら貧困層は貿易に反感を抱く。それだけでなく、国の制度や指導者層も敵視する。デビッド・オーターらは二〇一六年に発表した論文で、チャイナ・ショックの影響を強く受けた選挙区では、穏健な候補者が落選し過激な候補者が当選する傾向が見られたと指摘する。もともと民主党色の強かった郡では、中道派の民主党候補者を退けてリベラル寄りの候補者が当選し、共和党色の強かった郡では、穏健派の共和党候補者を退けて保守的な候補者が当選したという。貿易の影響を強く受けた郡の多くは伝統的に共和党を支持していたため、こうした傾向の影響により、多くの選挙区で保守色の強い候補者が当選する結果となった。この傾向は、二〇一六年の大統領選挙の前から見られたという。言うまでもなく、保守的な政治家は何によらず政府の介入に反対する(とくに所得再分配には大反対だ)。したがって、貿易で最も打撃を受ける人々には何の埋め合わせも行われないことになり、不平等を一段と深刻化させることになった。たとえば、貿易の影響を強く受けた州で保守的な共和党議員が過半数を占める場合、メディケイドの対象範囲拡大を拒否するケースが相次いだ。すると、医療サービスを受けられない貧困層はますます貿易に反感を抱くことになる。
     大勢の人が、自分たちが暮らしている社会は思うよりずっと不平等で、上に行くチャンスはほとんどないのだと気づき始めるにつれて、こうした悪循環が社会に広がっていくだろう。この人たちはもはや政府を信用せず、それどころか敵視する。
     ここから、二つの結論を引き出すことができる。一つ目は、取り憑かれたように成長をめざすのはやめるべきだということだ。レーガン=サッチャー時代の成長信仰以来、その後の大統領も成長の必要性をつゆ疑わなかった。成長優先の姿勢が経済に残した傷跡は大きい。成長の収穫を一握りのエリートが刈り取ってしまうとすれば、成長はむしろ社会の災厄を招くだけである(現にいま私たちはそれを経験している)。すでに述べたように、成長の名を借りた政策はどれも疑ってかかるほうがいい。成長の恩恵がいずれ貧困層にも回ってくるといった偽りの政策である可能性が高いからだ。成長は少数の幸運な人々に恩恵をもたらすだけだとすれば、そのような政策がうまくいくと考えることのほうを恐れるべきである。
     二つ目は、この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳を持って生きて行けるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題である。


     この数年間で私たちは、こうしたことが先進国でもいたるところで起きていることに気づいた。経済というものは、発展途上国か先進国かを問わず、どこでも硬直的なものだということである。もちろん、両者の間には大きなちがいもある。たとえばアメリカでは、小さなスタートアップがインドやメキシコよりずっと速いスピードで成長する。そして成長できなかった事業はさっさと退場させられ、創業者は新たなアイデアか新たな仕事探しを迫られる。一方インドや、インドほどではないがメキシコでも、企業は大々的に成長もせず有望な展開も見込めないまま、漫然と存続する。だがアメリカのこのダイナミクスは、顕著な地域格差を覆い隠しているのである。たくさんの企業がアイダホ州ボイシから撤退し、繁栄するシアトルに拠点を移している。だからと言って、ボイシで解雇された労働者が物価の高いシアトルへたやすく移れるわけではないし、そもそも移りたいとも思っていない。家族や友達、思い出、生まれ故郷への愛着など、大切にするものがボイシにはたくさんありすぎるからだ。だから彼らはとどまる。だがよい仕事がどんどんなくなっていって、この選択が大まちがいだったことがはっきりするにつれ、この人たちは怒りをつのらせる。こうした現象が、東ドイツでも、フランスの大都市圏周辺でも、ブレグジット賛成派の多いイングランド中心部でも起きているし、アメリカのレッド・ステートでも、ブラジルやメキシコの多くの地域でも起きているのである。富裕で才能に恵まれた人たちはあっという間に経済的成功の階段を駆け上がるが、それ以外の大勢の人々は取り残されたままだ。アメリカ大統領にドナルド・トランプを、ブラジル大統領にジャイル・ボルソナロを、イギリスにEU離脱を選んだのはこうした世界であり、いま何も手を打たなければ、もっと多くの災厄を生むことになるだろう。
     それでも開発経済学者としての私たちは、過去四〇年が良くも悪くも変化の時代だったことも理解している。共産主義の崩壊、中国の台頭、世界の貧困の大幅な削減(半分に、さらにその半分に減った)、不平等の爆発的拡大、HIVの急増と急減、乳幼児死亡率の大幅低下、パーソナル・コンピュータと携帯電話の普及、アマゾンとアリババ、フェイスブックとツイッターの浸透、アラブの春、権威主義的国家主義の蔓延、差し迫る環境危機―これらはすべてここ四〇年で起きたことだ。アビジットが経済学者になる小さな一歩を踏み出した一九七〇年代末の時点では、まだソ連が大国として存在し、インドはいかにソ連のようになるかを模索し、極左は中国を崇め奉り、中国国民は毛沢東を信奉し、レーガンとサッチャーが福祉国家への挑戦状を叩き付けようとしていた。そして世界人口の四〇%が貧困の中で暮らしていた。あれから多くのことが変わったし、その多くはよい変化だったことを認めよう。
     とはいえ、すべての変化が意図されたものだったわけではない。よいアイデアの中にはひょんなことから生まれたものも少なくないし、悪いアイデアにしてもそうだ。変化の一部は偶然に起き、予想外の結果をもたらした。たとえば、不平等の拡大は経済の硬直性と背中合わせである。引き金となった出来事の時と場所がちがっていれば、またちがった結果になっていただろう。現に発展途上国では格差拡大から高級住宅需要が伸び、建設ブームが起きて都市部の未熟練労働者の雇用機会が拡大し、貧困の削減につながっている。
     だがもちろん、意図せざる変化ばかりではなかった。政策によって実現したことがいかに多かったかを過小評価すべきではない。中国とインドの市場開放、イギリスやアメリカが先鞭をつけた富裕層に対する減税予防可能な死亡を防ぐためのグローバルな協力、環境より経済成長を優先する選択、通信や輸送網の発展による国内移住の推進、都市部の住環境整備の失敗による国内移住の減退、福祉国家の衰退、発展途上国における近年の社会的移転の進行はどれも、良きにつけ悪しきにつけ政策の結果である。政策というものはやはり強力だ。政府には大きな善を成し遂げる力がある一方で、深刻な害をもたらす力もある。このことは、大規模な民間援助や寄付などにも当てはまる。
     これらの政策の多くは、よい経済学と悪い経済学(広くは社会科学)の助けを借りて策定された。社会科学者は多くの人々が気づくよりはるか前から、ソ連型統制経済のばかげた野心を批判し、インドや中国には自由企業制を導入すべきだと主張し、環境破壊の危険性を訴え、ネットワークの威力を見抜いていた。抗レトロウィルス薬を発展途上国に提供して何百万人もの命を救った賢明な篤志家は、よ社会科学を実践したと言えるだろう。よい経済学は無知とイデオロギーに打ち克ち、防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子供の数を半分に減らした。一方、悪い経済学は富裕層への減税を支持し、福祉予算を削らせ、政府は無能なうえに腐敗しているから何事にも介入すべきでないと主張し、貧乏人は怠け者だと断じて、現在の爆発的な不平等の拡大と怒りと無気力の蔓延を招いた。視野の狭い経済学によれば、貿易は万人にとってよいことで、あらゆる国で成長が加速するという。あとは個人のがんばりの問題であり、多少の痛みはやむを得ないらしい。世界中に広がった不平等とそれに伴う社会の分断、そして差し迫る環境危機を放置していたら、取り返しのつかない地点を越えかねないことを見落としているのである。
     自らの理論によってマクロ経済政策を変えたジョン・メイナード・ケインズは、『一般理論』の最後にこう書いている。「いかなる知的影響とも無縁だと信じている実務家たちも、故人となった経済学者の思想に囚われていることが多い。天からの声を聞くと称する常軌を逸した指導者も、その支離滅裂な考えはほんの数年前の似非学者から借用しているものだ」。思想の力は強い。思想は変化を導く。よい経済学だけで人々を救うことはできないが、よい経済学なしでは、私たちは再び過去の過ちを繰り返すことになるだろう。無知と直観とイデオロギーと無気力の組み合わせから生まれるのは、もっともらしく、ひどく有望そうで、まずまちがいなく期待を裏切る答でしかない。残念ながら歴史が繰り返し教えてくれるとおり、最後に勝利を収めるのは良い答のときもあるが悪い答のときもある。たとえば、移民を受け入れていると必ず社会を破壊することになる、という主張が目下のところ勝利を収めている。だがこの見方を裏付ける証拠は何もない。根拠のない考えに対して私たちにできる唯一のことは、油断せずに見張り、「疑う余地はない」などという主張にだまされず、奇跡の約束を疑い、エビデンスを吟味し、問題を単純化せず根気よく取り組み、調べられることは調べ、判明した事実に誠実であることだ。こうした警戒を怠ったら、多面的な問題を巡る議論は極度に単純化あるいは矮小化され、政策分析も行わずに安直な見かけ倒しの解決に帰着することになるだろう。
     行動の呼びかけは、経済学者だけがすべきものではない。人間らしく生きられるよりよい世界を願う私たち誰もが声を上げなければならない。経済学は、経済学者にまかせておくには重要すぎるのである。

  • なぜ未熟練労働者の賃金が移民の流入で押し下げられないのか。

    ①新たな労働者の流入によって労働需要曲線が右へ移動するから。
    なぜなら、その人々がお金を使うから。
    その結果として賃金は押し上げられ、労働者の供給拡大の影響を打ち消す。
    よって賃金水準も失業率も変化しない。

    ②機械化の進行を遅らせるから

    ③雇用主が流入した労働者を効率的に活用するべく、生産方式を再編成するから。


    雇用主は企業内の賃金格差があまりにも大きくなることに否定的。
    なぜなら労働者の不満が溜まり生産性が上がらないから。
    だから賃金が安いからと言って移民に仕事が取って代わられる訳ではない。

    高技能移民は賃金水準を押し下げる可能性が高い。
    なぜなら外国出身の有資格者を相場より安い賃金で雇えるとなれば、企業はそっちを優先する

    貿易は国民全員の生活水準を向上させるのか?

    ①国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとっては極めて小さい。

    ②規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場解放を行なうだけでは問題は解決しない。

    ③貿易利益の再分配は口で言うほど簡単ではない。

    減税により経済成長が起こる証拠はない。
    とくに所得上位10パーセントに対する減税は効果ない

    イノベーションは無からは生まれない。
    経済的なインセンティブがないと生まれない

    ヨーロッパが植民地を開拓していた時代に初期入植者の死亡率が高かった国は、今日でもうまくいっていない。
    なぜなら、そのような国にはヨーロッパ人は入植せずに搾取的な植民地を建設し、強権的な制度を導入したから。
    対照的に、植民地にならずほぼゼロからのスタートとなった国々(ニュージーランドやオーストラリア)ではヨーロッパ流の制度が構築され、それが近代資本主義の基礎となった。
    入植者の死亡率が低く今日では事業環境の整った国は、そうでない国よりはるかに豊かになる。

    産業集中度の高い部門ほど、労働分配率は下がっている。(増えた利益を株主に分配するため)
    賃金がGDPと同じペースで増えない理由は産業集中の進行である程度説明がつく。

全61件中 1 - 10件を表示

エステル・デュフロの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×