ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する

  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492444696

作品紹介・あらすじ

なぜ私たちはあの人の論破にだまされるのか。
事実と物語は混ぜるな危険!
陰謀論とフェイクが溢れる世界で生き抜く「武器としての思考法」。

文明を築くのに一役を買ったストーリーテリング。その伝統あるストーリーテリングが近い将来文明を破壊するかもしれない。
ストーリーテリングアニマルである私たち人間の文明にとって、ストーリーは必要不可欠な道具であり、数え切れない書物がストーリーの長所を賛美する。
ところが本書の著者ジョナサン・ゴットシャルは、ストーリーテリングにはもはや無視できない悪しき側面があると主張する。
主人公と主人公に対立する存在、善と悪という対立を描きがちなストーリー。短絡な合理的思考を促しがちなストーリー。社会が成功するか失敗するかはそうしたストーリーの悪しき側面をどう扱うかにかかっている。
陰謀論、フェイクニュースなど、SNSのような新しいテクノロジーがストーリーを拡散させ、事実と作り話を区別することはほとんど不可能になった。人間にとって大切な財産であるストーリーが最大の脅威でもあるのはなぜなのか、著者は説得力をもって明らかにする。
「ストーリーで世界を変えるにはどうしたらいいか」という問いかけをやめ、「ストーリーから世界を救うにはどうしたらいいか」と問いかける書。

スティーブン・ピンカー、ダニエル・ピンク絶賛!

感想・レビュー・書評

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  • ストーリー(物語)に、なびきやすい脳を持つ人類たちのためのワクチン的な一冊。
    人類はストーリーなしでは生きられない。
    この世界はストーリーで溢れている。
    本や映画やドラマはもとより、宗教や歴史、ニュース、あとは、広告、会社の同僚のおしゃべりまでストーリーだと思う。
    外から自分の中に侵入するようにやってくるストーリーに影響されたりされなかったりして人間は日々生活しているのだ。
    ただ、人間には脳の癖があって、自分を善人、対立するものを悪人として組み上げるストーリーに耽溺しやすい気がする。
    世界中で頻発している対立も、そのせいに思う。
    私自身も、うっかりすると、そういう構造に飲み込まれて世界を認識してしまう。
    物事をフラットに見るって、実は人間には難しいのかもしれない。

    タイトルは煽情的だが、翻訳本らしく、ユーモアとペーソスが散りばめられていて面白かった。

    【ストーリーテラーを決して信用するな】

    語る人には本人が意識してようとしていまいと意図がある。
    自分ができることは、歪んだ世界を見ていることを常に意識すること。
    自分の中の歪みにも気づくよう努力すること。
    自分自身もストーリーテラーである。

    この本で学んだことと雑感が混じっちゃってます。


  • 大袈裟な表現をすれば世界の真理を垣間見たと言うことか。何故、小説や映画は犯罪物が多いのか?何故、ニュースは毎日気の滅入る話題ばかりなのか?ナラティブという化け物が導く人間のサガのため。
    この本の執筆のキッカケのひとつはアメリカにでかメガフォンが現れたと言うくだりは笑ってしまった。
    考えれば良くわかる理屈なのに、こんな考え方をしたことがない我々に目を開かせてくれる良書だと思う。

  • 【感想】
    ドナルド・トランプがバイデンとの大統領選挙に破れたとき、ネットは嘘と陰謀論の地獄絵図だった。それはTwitterやFacebookだけでなく、有料サイトのコメント欄も同じだった。例えばNewsPicks。これは年1万円近くも払わないと読むことのできないビジネスメディアで、様々な起業家や有名会社の重役がコメンテータとして参加している。知性に富んだエリート世界でも、大統領選挙の結果が「捏造されている」というコメントが堂々と登場し、多くのイイネを集めていた。

    これは全く不思議なことではない。トランプがここまで人々を惹きつけたのは、大統領にふさわしい人間だったからではない。むしろ真逆であり、高慢、強欲、虚栄心といった人々をワクワクさせるシンボル全てを持った、人類史上最強の「ストーリーテラー王」だったからだ。

    本書はワシントン&ジェファーソン大学英語学科特別研究員のジョナサン・ゴットシャルによって書かれた「物語を語る本」である。
    本書で筆者は、二つの事実を繰り返し主張している。一つ目は、「人は語らずにはいられない」ということ。二つ目は、「人が語る内容の全てが、誰かを『なびかせる』ためのストーリーになっている」ということだ。

    そもそも、「ストーリー」とはどのようにして私たちの生活に入り込んでいるのか。
    小説、ドラマ、映画、アニメ、SNS……。人が時間を割く娯楽の多くは、情報の提示だけで終わらない。ドラマであればそこに必ず物語がある。SNSであれば、短文を通じて他人の人生の一部が見える。当たり前すぎて意識すらしていないが、誰かが発したメッセージの裏には、必ず語り手の意図とストーリーが存在している。

    ドラマのストーリーを思い浮かべてみてほしい。
    ドラマ、いわゆる「フィクション」の基本要素は「困難との対峙」である。ハッピーなだけの物語は人を惹きつけない。では困難を生むのは何かというと、それは主人公の行く手を阻む悪者である。フィクションはときに、悪者を無理にこしらえて善と悪の社会的対立を浮き彫りにするが、これは「対立」という典型的な要素が一番ウケるからだ。両者のぶつかり合いが主人公に困難を与えるが、それを受け止め前に進み、最後に劇的な解決をすることで、物語は幕を閉じる。この起承転結に興奮と感動を覚え、人々はフィクションに引き込まれていく。

    こうした「娯楽要素」は、人々の脳に強力に作用する。だが、それが強力すぎるあまり、物語の裏にある「仕込まれたもの」が、我々を無意識のうちに方向づけてしまう。 

    例えば歴史書。歴史書は歴史的な事実を実直に網羅した学術書が多いが、そんな中庸的な本でも、出てくるのは戦争や飢餓といった社会的動乱の記述が多い。さらには、ストーリーテリングの他の形態と同じく、最も成功し、ベストセラーランキング入りしやすいのは、無秩序な過去に普遍的な物語の文法、つまり悪人との生死をかけた戦いに巻き込まれた善人の図を当てはめた歴史だ。
    哲学者のアレックス・ローゼンバーグは歴史を「集団を結束させて他の集団と敵対させがちなフィクションの一形態である」とみなしている。「歴史家が語る物語は、おそらく人間の文化のどの分野よりも悲惨と死にどっぷりと関わっている。(略)人間の歴史の大半を作っている涙、痛み、苦悩、殺戮、時には絶滅の軌跡の責を負うべきは、歴史家が語る心を奪ってやまない物語の性質である」「同じ民族、言語、宗教の集団は、それぞれが持つ、自分たちは虐待、差別、虐殺による抑圧を受けたという歴史的ナラテティブに動員され、他の民族、言語、宗教の集団に対する虐待、差別、虐殺による抑圧を行ってきた」と彼は述べる。

    物語の中に含まれている「当たり前の要素」は、世界を「私たち(善)」と「彼ら(悪)」に分断してしまう。しかも、物語は善悪を対比によってくっきりと区別する。まるで悪者が受ける惨事や屈辱が自業自得で、正義の受ける苦痛が陰謀であるかのように。

    極力主観的な要素を排して語られる「歴史」がこの有様なのだから、他のジャンルは惨憺たるものだ。トランプは自らを主役に抜擢して「劇場」を演じ、世界を支配できる地位にまで上り詰めた。コロナは殺傷能力ではなくストーリーによって、人類を危機に陥れた。政治、科学、ビジネス、宗教といったあらゆる分野は、一握りの真実と多数のフィクションの組み合わせによって発展を遂げている。

    厄介なのは、ストーリーは太古からその物語性を通じて、語り手の動機を正当化させる試みに用いられてきたことである。プラトンの「国家」に代表される「支配者と奴隷」の神話、ホロコーストといった人種差別、アメリカ例外主義……。私たちは国民、宗教、民族といった複合体を一つのものに縫い合わせるため、ストーリーを効果的に使ってきた。
    この露骨な嘘を打ち壊したのは何だったのか?それは皮肉にも、「カウンターヒストリー」という新たなストーリーだった。輝かしい太陽の光を浴びていた歴史は、突如暴力と略奪の人類史に反転し、虐殺された者、虐げられた者から見た歴史になった。
    要は語り手が変わったのだ。しかし、その本質は同じで、片方において編集過程で削除されたことが、他方においては拡大されただけである。

    ストーリーが適切に使われれば世界は幸福になるだろうが、今の時代、悪用する事例の方が目立っているし、副作用のほうが大きい。だから筆者は述べているのだ。「物語の語り手を絶対に信用してはいけない」と。

    では、そんな「ストーリーの魔力」にどうやって抗えばいいのか?筆者はここで「エビデンスの重視」を主張している。フィクションに対抗しうるのはファクトだ。科学的な見地から主張と結果を明確に峻別し、他人のポジショントークに対しては猜疑的なスタンスを取る。

    だが、私個人としては、この「エビデンスの重視」すら、ストーリーの力を止められないと思う。エビデンスは現実を切りとったものであり、答えではない。それをどう解釈し、どういうストーリーに変えるかは、語り手の意思に左右される。もっと言えば、ある確かな事実を引用していても、それが悪意を持って使われれば、真逆の結論を生んでしまう。
    加えて、エビデンスは時間がかかる。実証実験が実を結ぶのに時間がかかるのは致し方ないが、ストーリーは結果が出るよりも前に、人々の心に浸透してくる。コミュニケーションのスピードが上がった現代において、噂は事実よりもずっと早いのだ。

    ――――――――――――――――――――――――
    以上が大まかな概要である。
    とても皮肉なことだが、本書の内容は「ストーリーとして抜群に面白い」。筆者が作り上げたおとぎ話、過去の哲学者からの引用、共産主義国がストーリーをプロパガンダとして活用した歴史、そして陰謀論のまん延まで、語り口が非常にユーモラスで、示唆に富み、いつの間にか没頭してしまう。まさにプラトンのやったような「ストーリーを持ってストーリーランドを制す」を地でやっているのが本書だ。「ストーリーの恐ろしさ」をここまで上手く体現するのか、と思わず唸ってしまった。紛れもなく傑作であり、読んで損無しの一冊だ。
    ――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    0 物語の支配力
    私たちが一生の間たえまなく行うコミュニケーションには、何よりも重要な主目的がある。それは、他人の心に影響を与えること――考え方、感じ方、ひいては行動、を自分になびかせることだ。コミュニケーションを行うとき、私たちは必ず、空気のように実体のない言葉を使って、たとえわずかでも他人を動かし、世界を自分に都合よく再構成する。
    「なびかせる」とは必ずしも悪意を持った行動ではない。ホモ・サピエンスは「すばらしく親切な種」でもある。友人や行きずりの他人との日々の交流は、善意に満ちあふれているか、少なくとも中立的だ。私たちが少なくとも自分と同じくらい相手のためを思って他人をなびかせようと努力するのは、この親切さの一つの証しだ。かつてはおとなしかった人類という種が地球の覇者となったのは、高度な言語によって、他の動物よりも巧みに協力できた点に負うところが大きい。要するに、私たちは寄生するためではなく共生するために、他人をなびかせようとするのだ。

    私達の会話は断片的ではない。物語がある。物語が他人の心に影響を与える唯一にして最強の方法だからだ。物語の善をもたらす大きな能力が共感、理解、慈善、平和の促進に向けられる分には、これはすばらしいことだ。しかし、心をなびかせるストーリーテリングの魔力は、分断と不信と憎しみの種を蒔くのにも優れている。

    物語の語り手を絶対に信用してはいけない。
    だが、私たちは信用してしまう。いまやビジネス、教育、法律、医学、自己啓発、その他もろもろの分野で、人を変えるストーリーテリングの力をもてはやす世界的な風潮が強まっている。しかし、この本能に組み込まれた素直な愛着が、合理的な論証よりも強く、確かな事実よりも抗いがたい力を物語に授けてしまっている。そして、物語は往々にして、悪い方向に人をなびかせる。


    1 ストーリーテラーが世界を支配する
    大学教授である筆者は学生たちにあるアンケートを取った。「10段階で評価すると、君たちの人生で物語の重要度はどれぐらい?」そのあと学生たちに物語世界――リアリティ番組、SNS、インスタ、ポッドキャストなどに費やす時間を計算してもらった。
    結果を平均すると、「物語の中で1日5時間以上も費やす」という推定値が出たのだ。これは他のどんな活動に使う時間よりも多い。勉強、宗教活動、スポーツの練習、食事、友人付き合いに使う時間を上回っていた。使用時間で考えれば、学生たちの人生における物語の位置づけは2や3ではない。10だ。物語は彼らの人生で最も重要ということになる。

    では、人々は何故虚構がこんなにも気になるのか?
    それは、心が物語に適するように進化したからだ。そもそも物語は、宗教や道徳の規範から狩りや結婚に関する具体的なアドバイスまで、あらゆる情報を保存し伝承する手段として生まれている。神経科学者のアントニオ・ダマシオは次のように書いている。「こうしたすべての知恵を理解できるようにし、伝達可能にし、説得力を持たせ、実行させるにはどうすればよいか――要するにどうやって定着させるかが問題となり、解決法が見つかった。その解決法とは、ストーリーテリングだ」。

    物語の恩恵を受けるのは聞き手だけではない。物語の語り手は私たちにたくさんのものを与えてくれるが、私たちからも大きな見返りを得ている。
    世界中の部族のストーリーテラーが高い社会的地位を享愛していることが、人類学者によって明らかにされている。例えば、オンライン学術誌 『ネイチャー・コミュニケーションズ』の最近の調査によれば、フィリピンの狩猟採集民アイタ族の中で、優れたストーリーテラーはさまざまな恩恵に浴している。平均的に、物資に恵まれ、伴侶を獲得する機会が多く、集団内の人望が厚い。アイタ族は漁と狩りの腕のある者に生活の糧を頼っているのに、そうした技能よりもストーリーテリングの能力のほうが尊ばれている。
    スタンフォード大学のメディア研究者、クリフォード・ナスとバイロン・リーヴスは、意識下でメディアと現実を混同することを「メディアの等式(メディア=現実)」と呼んだ。ナスとリーヴスは、人間の脳は人や事物のリアルなシミュレーションにあふれた環境に対処するようには進化しなかったと指摘している。私たちの脳は、はるか昔の石器時代に進化をほぼ完了した。だから、真に迫った人間の画像や物語仕立ての人生のシミュレーションを目にすると、脳は反射的にそれらを現実そっくりにとらえて処理する。加えて、データによれば、人は文字や口承のみのストーリーテリングにもほぼ同じようにだまされるという。

    物語に没入しているときは知的な防御が緩む。ナラトロジー(物語論)を研究しているトム・ヴァン・ラエルらが述べたように、「ナラティブ・トランスポーテーション(物語への移入)は、慎重な評価と議論なしに持続的な説得効果をもたらす心理状態である」。言い換えれば、優れたストーリーテラーは主張の内容を精査し評価する脳のプロセスを巧みに回避する。理性の吟味を経ずに情報や信念(それも往々にしてきわめて強い)を植え付けることができるのだ。


    2 ストーリーテリング技術
    この10年で、「ストーリーテリング」はビジネス界で「イノベーション」や「ディスラプション」さえひょっとしてしのぐ最大のバズワードになった。「ニューヨーク・タイムズ 』紙は物語の「ほとんど抗いがたい力」を礼賛し、MBAプログラムはカリキュラムにストーリーテリングを採用し、企業は最高ストーリーテリング責任者を雇い、マーケティングの権威セス・ゴーディンは「世間に広まる物語を語れなければ、時流に乗ることはできない」と太字で強調している。ビジネス・ストーリーテラーが物語を称揚するのは、それが喜び、価値、つながりを提供できるからだが、それがトロイの木馬として人の心という守りの堅い要塞にメッセージをひそかに持ち込めるからであることも明らかだ。

    ストーリーテリングを他のなびかせる道具よりも懸念すべきなのは、ストーリーテラーが道徳性に欠けているからではなく、ストーリーテラーのほうが概して力があるからだ。
    ストーリーテリングには他の情報伝達手段に比べ、科学的に実証された優位性が多数ある。第一に、最も基本的なことだが、他の情報伝達手段と違って、私たちは物語とその伝え手を愛する。第二に、物語はスティッキーである。他のコミュニケーション形式に比べてナラティブは頭に入りやすく、情報が記憶に残りやすい)。第三に、物語ほど注意を釘付けにするものはない。第四に、優れた物語は人に話さずにはいられない。つまり、物語に込められたメッセージは、ネットワークを通じて口コミで広まる。第五は、物語が他のコミュニケーション形式に対して持っている最も重要な優位性、すなわち物語が強い感情を生み出すことである。

    物語の目的はひとえに感情である。そして感情は人間の意思決定の主要要素であることがわかっている。
    さまざまなタイプの研究者が行った研究に共通するのは、説得に関しては、たいてい理性より感情に訴えるほうが勝つことだ。言い換えれば、受け手に要点を理解してもらうだけでは足りない場合が多い。良くも悪くも(悪いほうが多いのだが)、受け手に要点を感じてもらうためには、物語を使わなければならない。

    「語らず、示せ」。メッセージがあからさまな物語には、間接的なメッセージがそれとなく込められた物語ほどの説得力がないことが、研究で明らかにされている。意味を作り上げるのはすべて私達に任されているということだ。
    ストーリーテリングのプロセスの最終段階を、心理学者は「振り返り的省察」と名付けた。振り返り的省察とは、物語の消費者が本を閉じ、あるいは映画館から出て、物語の思想や情報を自分がもともと持っていた世界観に統合する瞬間を指す。その研究によれば、話が終わった後も私たちをストーリーランドから離さないだけの魅力と考えさせる余白があるとき、物語は最も説得力を持つ。
    語ることは私たちに意味を与えるだけだ。示すことは私たちに自力で意味を見出すように誘う。そうすると意味は私たちのものになる。優れたストーリーテラーはこんなやり方で心理的にカッコーの托卵に相当することを行う。私たちの心の中に産みつけた概念を、あたかも私たちのもののように感じさせるのだ。


    3 何故多くの人間が陰謀論にハマるのか?
    共和党支持者の3分の1が、エリートたちが牛耳るディープステイトが存在するというQアノンの説は「ほぼ正しい」と信じている。今ではコロナウイルス陰謀論を支持するアメリカ人が急速に増えている。
    陰謀論が流行る理由は「面白い」からだ。対して陰謀論を暴く検証記事のほとんどは、事実に基づいているが、面白くはない。
    例えば月面着陸という「本当の物語」は、すべてハリウッドのセットであのぎこちない動きを捏造したのだという考えよりも大きな驚異を与え、英雄的で、気持ちを鼓舞してくれる。しかし、月面着陸の実話はすばらしくはあっても、受け手の現実世界での行動を活性化しない。それは月面着陸が歴史に属するからだ。すでに終わったことだから、受け手に称賛以外何も求めない。
    ところが、NASAがさまざまな卑劣な理由から着陸を捏造したのだという月面着陸陰謀物語は、受け手にはるかに強い要求をする。この陰謀論をはじめ世の中で流行った陰謀論は、突き詰めればすべて悪の存在を主張している。陰謀物語は道徳上のホラーストーリーなのだ。そしてほとんどが現在形で書かれている。月面着陸やJFK暗殺の陰謀が起きたのははるか昔かもしれないが、それらを画策した闇の勢力は「今」も壮大な悪に関わっている。そして、すべての陰謀物語が、信者に最大の道徳的義務としてなんらかの行動を起こせと呼びかけている。

    陰謀論と伝統的宗教の原理主義的な特徴は極めて類似している。どちらの現象も、それを否定するエビデンスを鉄壁のように跳ね返すという特徴があり、自らの欠陥を否定し、明らかに齟齬がある事象をナラティブの力で強引に説明しようとする。

    私たちは生まれ持ったストーリーテリング心理の構造のせいで、(1)典型的なよくできた物語にならない、もしくは(2)よくできた物語にはなるが不適切なほうの感情、つまり不活性化する感情を喚起する問題全般に、うまく対処できないのではないだろうか。

    例えば、地球温暖化への対応がなかなか進まない理由は気候変動が物語として非常に出来が悪いからだ、という有力な説がある。研究者によれば、明確に定められたヒーローと悪者が登場し、明確で今そこにある危険をドラマ化して私たちを夢中にさせるのが、最もよくできた物語だという。氷河が1滴ずつ退行していくペースで展開する地球の現象は、それとは程遠い。そして、問題は人々を不活性化――地球温暖化を解決するという物語は、あまりにスケールが大きく議論が抽象的になってしまう――させてしまうことにある。要するに、ノれないのだ。


    4 ニュースなどない、あるのはドラマのみである
    データサイエンティストのデヴィッド・ロビンソンは1万2000本のフィクションのあらすじを統計分析にかけ、次のような明快な結論に達した。「人間が語る平均的な物語をあえて要約するなら、事態が悪化の一途をたどった末、最後の瞬間に好転するといった感じになるだろう」。
    ニュース番組ですらこの公式に可能な限り従っている。ニュース番組は現実世界の問題を取り上げた物語に圧倒的に偏っており、最後に一つ「ほっこりする」物語を入れ、視聴者に希望を持たせて終わる。

    なぜ、幸せにはかくも関心が薄いのか。その答えは何であれ、ナラティブ心理にサドマゾ的な嗜好があることを示唆している。
    例えば歴史。歴史は全体として、良かった時代をほとんど除去し、死や疫病、貧困といった負の側面に注目している。
    テレビで流れているニュース番組も同じだ。ニュースは時代と文化を問わず、ネガティブな要素を選別原理としている。ニュースビジネスの歴史を見れば、実はニュースそのものの市場などほとんどない。あるのはドラマの市場だけだ。そして、ハッピーなニュースはドラマにならない。

    物語とは総じて、道徳的である(普遍的な原則を表しているという意味で)のではなく道徳主義的である。困難な問題なしには面白い物語を書くのが難しいように、物語の道徳という強い重力から語り手が逃れるのはきわめて難しい。無理すれば軌道を飛び出すことは可能だし、それを試みた語り手たちはいる。しかしたいていは、普遍文法という安心感のある常道を外れたとたんに、ほとんど誰もついてきてくれなくなる。

    物語の道徳主義的な側面は、集団感の分断を生じさせる。物語は共感装置だ。小説などのストーリーテリング装置は、主人公の目線を通して「彼ら」を「私たち」と一体化させてくれる。
    しかし、共感は良いものとは限らない。身近な者、自分と似ている者、より魅力的、あるいは弱くて脅威を感じにくい者に共感を覚えるほうがはるかにたやすい。アメリカの白人は黒人も白人と同じくらい大切だと頭では思っているかもしれないが、黒人よりも白人のつらい境遇に対してのほうがずっと共感を寄せやすいものだ。この点で、共感は偏見とまったく同じように私たちの道徳的判断を歪める。
    つまり、集団の外にいる人々よりも集団の中にいる人々に共感するほうがずっとたやすいため、物語が生み出した共感の主な効果は「私たちと彼ら」の境界線をぼやかすことではなく、それをくっきりと際立たせることであるかもしれない。
    悪辣きわまりない暴力に手を染める人々は共感力の低いサイコパスだと私たちは考える。そういう場合もあるが、必ずしもそうとは限らない。例えば自爆テロ犯は共感に浸り切って死に赴く。同胞の苦しみと困窮に強い共感でつながっているからこそ、敵を罰する動機が生まれ、それが正当化されるのだ。自爆テロ犯の強い憎しみの裏には強い愛がある。その憎しみと愛はすべて、物語によって――実際の歴史古代の宗教神話、悪の陰謀物語への耽溺によって吹き込まれた。


    5 現実vs虚構
    人々は抽象的なコマ割りのアニメーションにも、多種多様な反応と解釈を見せる。映画を観るとき私達は物語を体験しているのではなく、実は止めようのない一連の脳の反射作用によって物語を創作している。
    もしこの心理が、コマ割りのアニメーションの解釈よりも重要なものに働き、かつ、妥当性のある真実がそこに含まれているとしたら、人々はその「自分だけの解釈」を死守するために戦うだろう。

    「自分だけの解釈」という言葉を聞いただけでは、われわれはナラティブを所有していると勘違いするだろう。実際はその逆で、ナラティブがわれわれを所有している。
    人間の心は物語の空白を忌み嫌う。だから世界で無秩序な出来事が展開すると、手近な出来合いのナラティブの鋳型を取り出し、無秩序の上に力まかせにかぶせる。あるいは頼りにしている情報源に、お気に入りのナラティブを自分に代わってかぶせてもらう。どちらにしても、お気に入りのナラティブの型通りの複製が手に入る。そこからはみ出すものはつぶされるか切り捨てられている。こんなふうに、私たちはナラティブの鋳型をそのナラティブが真であると証明するエビデンスの捏造に使う。人々はナラティブを合理的に形成したと思いこんでいるが、実際には全てが終わったあとに、めぼしい要素だけを拾い上げ、間違っていなかったと「合理化」しているだけだ。


    6 ポスト真実の世界を生き抜くには
    ポスト真実の世界はエビデンスの力が奪われた世界だ。ポスト真実の領域の深みにはまっていくのは恐ろしい。なぜなら、エビデンスの重視こそが物語の支配を弱め、私たちを暗黒時代から解放してくれたからだ。啓蒙思想には、世界が論理的な原則に従って動いており、たとえ真実がつかみにくく確定しづらくても、原則に通じた人々のコミュニティがしっかりしたテクニックと手法を使えば真実を特定しおのずと語らせることができる、という楽観的な感覚があった。これが本格的な科学の発明だった。
    今、私たちは共有された現実の世界を立ち去ろうとしている。そして真実が最も優れたエビデンスの裏付けではなく、最も優れた物語あるいは最も力のあるものが後ろ盾となっている物語を基準に決められる、夢の国に入りかけている。

    私たちがどこまでこのポスト真実の時代を生き抜き、一緒に現実世界に戻れるかは、科学をはじめとするしっかりした実証主義が権威を取り戻した世界に私たちが戻れるかどうかにかかっている。そのためには、真実を語る主要な機関が変わらなくてはならない。学術界とジャーナリズムは民主主義にまさに不可欠な役割を担っている。ジャーナリズムは世の中で日々起きていることについての真実の物語を語り、大学システムには、経済システム、ジェンダーの取り決め、人間心理の輪郭、気候変動の裏にある変数、芸術の機能などについて最も厳密で信頼のおける評価を私たちに提供する責務を負った、学識豊かな科学者と学者がいる。
    もしジャーナリズムと学術界がなすべき仕事をしていれば、民主主義の物語戦争で調停役を果たせる。

    そのためには、特に学術界が、イデオロギー上のバイアスに関して注意を払わなければならない。歴史家のリベラル派と保守派の比率は33.5対1にまで差が開いている。科学者たちが左に寄り過ぎれば、それは当然、彼らの立てる問いや好む解釈に影響を与えてしまう。

    人間はもはや物語なしには生きられない。しかも、物語の中に含まれる毒を抜き出すのは困難だ。
    現実よりも痛快でわかりやすく描かれた物語に入り込み、退屈で道徳的にあいまいな現実の世界より仮想現実のほうが暮らしやすいからという理由でそこから出ようとしない性向を人間が持っていることを、私たちは個人レベルでもっと自覚する必要がある。特に、私たち一人ひとり、他人の語る物語だけでなく自分が語る物語についても、道徳主義的に単純化されてはいないかと疑う心を育てなければならない。

    「物語の語り手を絶対に信用するな」。その語り手とは、あなた自身のことでもあるのだ。

    物語を憎み、抵抗せよ。
    だがストーリーテラーを憎まないよう必死で努めよ。
    そして平和とあなた自身の魂のために、物語にだまされている気の毒な輩を軽蔑するな。本人が悪いのではないのだから。

  • 「物語」が持つ力のダークサイドをアテネの盛衰、ルワンダの虐殺、トランプ現象などと重ね合わせ、プラトンの「国家」を引き合いに紐解く。啓蒙書や歴史書、小説は言うに及ばず、ニュースも私たちを〝なびかせる〟ドラマの一部に過ぎない。現代はそこにソーシャルメディアやAIが加わり、事態はより複雑に、深刻になっていると説く。確かに、と思う。陰謀論やディープフェイクの横行には辟易しているし、「物語とストーリーテラーが力を増し、事実とエビデンスが弱まっていく」一途の世界は本当にゾッとする。自分の読書嗜好や歴史認識、SNS依存度などについても改めて見直してみる気になった。ポスト真実時代の今こそ読むべき一冊。

  • 『幅広い分野の研究者が共同で科学的手法を用い、「物語に関わる脳」を研究している。その結果は率直に言って不穏なものだ。研究成果を見ると、物語の名手はフォースの使い手に似ていなくもない。物語の語り手は私たちに魔法をかけて心の中に入り込み、私たちの物の感じ方を変え、それによって考え方を変え、お金の使い方、投票先、関心の対象を変えている。善をもたらす強力な物語の力を真のジェダイが操るのであれば、すばらしい。しかし人をなびかせる物語の力は、ダークサイドにも使われる』―『序章 物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう/必要不可欠な毒』

    基本的に、ジェットコースター本と勝手に呼んでいるエンターテイメント系の本は読まないようにしている。もちろん以前から読まなかった訳ではない。読書の魅力に嵌まった切っ掛けはシャーロックホームズだったし、一時は週に何冊もミステリー系の本を乱読していた時期もあった。例えば赤川次郎の三毛猫シリーズや三姉妹シリーズなどかっぱえびせんのように読めてしまう軽いタッチのもの。もう少し本格的な早川の赤い背表紙のクリスティを順番に読んだりもしていたし、氷室冴子の少女小説を片っ端から読むなんてこともしていた。そういう読書をしなくなったのは社会人生活の中で他に読まなければならない文献やテキストが増えたせいだが、10年程愉しみの読書から遠ざかっていたら、そういう本が読めなくなったという事情もある。

    遠ざかってから、改めてかつて好きだった作家の本を読んでみると、ジェットコースターに乗った時に味わうような、勝手に身体が動かされている感じ(本書によるとナラティブ・トランスポーテーションというらしい)が気になった。そんな時に出会ったのが柴崎友香の小説で、よく「何も起こらない小説(例えば、柴崎友香の「きょうのできごと」を基に映画を撮った行定勲監督もそう言うけれど)」などと評されている作家の、日常の細かな変化を丁寧に描写する感じに妙に心惹かれたりしたのを切っ掛けに文芸系の小説をまた読むようになった。

    昨今のフェイクニュースの話に限らず、そういう自分の読書体験からも、人は情報や他人の言葉に踊らされ易い、ということは理解していたつもりではある。あるいは文献を読む際によく言われる「人は自分の知りたいことしか読み取らない」という経験から、情報の受け止めというのは主観的であり恣意的であることも解っていたつもりだった。だからこそ本書に興味を持ったのだが、読んでみると概ねその感覚が再確認されただけではなく、事態はより深刻であるという感覚に襲われた。

    『無意識に働きかけるメッセージという分野そのものが、1950年代のフロイト学説という多分に理想主義的な(そしてかなりあやふやな)土台の上に築かれていた。学界と企業とCIAの研究者たちは何十年もかけてサブリミナル・メッセージの効果を実現しようとした。多数行われた実験に、成功例は一つもない。では、この概念を証明したジェイムズ・ヴィカリーの有名な実験についてはどうか。彼が後に、売名のためにデータを捏造したと告白したことはあまり知られていない。要するに、ヴィカリーが経営の苦しかった自分の会社を救うために考案した手法は、ただの詐欺だったのである』―『第2章 ストーリーテリングという闇の芸術/隠れた説得』

    ピーター・フォークの刑事コロンボ・シリーズに「意識の下の映像」という作品があって、コマ送りされるフィルムによる映像に数コマ紛れ込ませた映像で意識下に影響を与え特定の行動をさせることで殺人を行うというトリックを取り上げた回がある。結局それと同じ手法でコロンボが犯人に証拠の隠し場所を教えさせるというオチが着くのだが、子供の頃、それで「サブリミナル効果」という言葉を覚えた。この効果の逸話で、上映している映画に清涼飲料水を飲めと書かれた映像を知覚出来ない程短く繰り返し挿入したところ、その商品の売店での売り上げが増えたという話があり、なるほどと思ったものだったのだが、それが眉唾だったとはね。

    この話の教訓は、二重の意味合いがある。一つ目は、サブリミナル効果(米国では法律で使用が禁止されているし、日本でも放送局が使用してはいけないことになっている)のように人の心を簡単に操ることは出来ないということ。試しにネットで調べて見たら、WiKiを始めとして色々な資料がその効果を謳っている映画館での実験は再現できていないということを教えてくれる。一方で(二つ目は)、そういう反証もあるのにやっぱりサブリミナル効果を映画館の実験通りに受け止めている人も(自分を含めて)大勢いて、その話を「ありそうだな」と一度判断してしまった人の心理を変えさせるのは簡単ではないということ。それって結局、この本の主題でもある「物語」によって巧みに誘導されているってことを意味しているのだろう。因みに、映画館での「言葉による誘導」実験はかなり疑わしい成果しか上げられなかった一方で、映像による意識下への働きかけ効果というのはあるらしい(とはいえ、当前だが、個人によって映像から何を感じ取るかは異なるらしいけど)。映像や音や言葉の受動は脳の広範囲に入力として入って行く以上、人は大脳皮質の前頭葉だけで考えているのではないということを肝に銘じておかなければならないと思うことしきり。そんな反省に立てば、例えば柴崎友香の小説を読んで気持ちが落ち着いたり、知らぬ間に何かをあれこれ考えている感覚を是とすることもまた、一つの誘導に載っただけのことであるかも知れない。因みに、本書によれば、こういう思考のことを「振り返り的省察(retrospective reflection)」と呼ぶらしい。直訳的に言うなら「遡行的反響」。ああ、あれってそういうことだったのか、という感覚だね。

    『このような「対立する被害の歴史」を語ることが、「歴史の傷」の上にかさぶたができて癒えるのを阻んでいる。中東やバルカン半島のような場所で対立を煽る歴史の衝突について述べた後で、リーフは過激な提案で締めくくっている。「この本で結局言いたいのは、時には――ひょっとすると多くの場合は――記憶よりも忘却のほうが良いということだ」』―『第5章 悪魔は「他者」ではない。悪魔は「私たち」だ/歴史的ナラティブをめぐる権力闘争』

    だからといって何もかも疑い、何も信じない、ということは出来ない。よしんば他者の居ない無人島で生きていくにせよ、人は起こったこととその原因を因果律で結び付けて(例えば、北風が強く吹くと大きな魚が捕れる、という風に)考えるだろう。つまり、それが本当の原因かどうか科学的に(例えば、その季節には回遊魚がその孤島の近くを周遊する習性があるのだ、と)証明されるまで判断を保留する、なんてことはしないだろうということ。だからといって、そういう因果律を一つひとつ覚えるのを止めて全てを忘れてしまった方がよいっていうのは、やっぱり頂けない。態度保留を強要することは出来ないけれど、結局は、反証に対する柔軟性という態度を、理想としては、保つことが大切なんだろう。ただしその理想は至極当たり前のことのように理解できるけれど、実践するのもまたとても困難であると容易に想像がつくことでもある。

    『メルシエとスペルベルは、理性とは客観的な真実を判断するよりも、社会的な競争において剣と盾の役割(議論で攻撃する剣、攻撃を受け流す盾)を果たすために進化したツールであるという見解を示している。このように見ると、例えば確証バイアスのような脳のバグと思われるものは、実は正しく機能している脳の特徴である。また、ホモ・サピエンスは合理的な動物ではなく合理化する動物であることになる。合理化とは、私たちが自分の推論は理にかなっていると自分を、そしてできれば自分以外の世の人々を説得するために使うフィクションだ』―『第6章 「現実」対「虚構」/あなたがナラティブを所有しているのではない。ナラティブがあなたを所有している』

    人は合理的(理性的)である、のではなくて、合理化する習性がある、というのは、けだし正鵠を射た言明だね。

  • タイトル以上にインパクトがある内容でした

  • 物語思考の中で出てきた本

  • 人間は物語が大好きという事を、その大好きな物語の形式面やストーリーの種類を特定した点が秀逸と思いました。
    何と、ほぼ全ての超人気ストーリーには、多様なものがあるのではなく、ある同じ共通の建て付けはあるという衝撃の分析。
    他方でそのストーリーにのらない方法の語りで、いかに重要なものとか事実を力説しても、聞き手の人間は興味を持たずに、伝播することもないという事実も指摘されています。
    これは人間の特徴でもあり、人間による認知というものの限界を示していると思いました。
    生成AIが爆発的な人気が出ていますが、AIであれば人間が興味を持たない重要な事実やストーリーも根気よく分析してくれるのであれば、様々な新たな発見が多く生まれる気がします。楽しみです。

  • おもしろい

  • ナラティブって言葉は最近ストーリーとはひと味ちがう文脈で使われますね。
    でも著者に言わせると、「あなたがナラティブを所有しているのではない。ナラティブがあなたを所有している」ということのようです。どういうことか。

    中略

    私たちは自分のストーリーを紡ぎ、家族や同僚の時に架空のストーリーを描き、死んでいく。
    他人に迷惑かけるかどうかは関係なく、自分の都合の良いように。

    人間は合理的(理性的)なのでない、合理化しようとするのだ、という筆者の言葉はとても重く響きました。ストーリーorナラティブの恐ろしさを念頭に抱きながら、生きていこうかなと。

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著者プロフィール

ジョナサン・ゴットシャル
ワシントン&ジェフーソン大学英語学科特別研究員
ジョナサン・ゴットシャル(Jonathan Gottschall)
ワシントン&ジェファーソン大学英語学科特別研究員。著書にニューヨーク・タイムズ紙エディター選に入った『The Storytelling Animal』(未邦訳)、ボストン・グローブ紙のベストブック・オブ・ザ・イヤーに選出された『人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える』(松田和也訳、青土社)がある。ペンシルヴァニア州ワシントン在住。


「2022年 『ストーリーが世界を滅ぼす』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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