武器としての「資本論」

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  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492212417

作品紹介・あらすじ

なぜ「格差社会」が生まれるのか。
なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか。
資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法がわかる。
ベストセラー『永続敗戦論』『国体論』著者によるまったく新しい「資本論」入門!

経済危機が起こるたびに「マルクスの『資本論』を読もう!」という掛け声が上がる。でもどうやって読んだらいいのか。「資本論」の入門書は数多く刊行されている。しかし「資本論」を正確に理解することと、「資本論」を現代に生かすこととは同じなのか?
本書では「資本論」の中でも今日の資本制社会を考える上で最重要の概念に着目し、それが今生きていることをどれほど鮮やかに解明するかを見ていく。

【他の「資本論」入門書との違い】
◎マルクスの「資本論」そのものの解説ではなく、「資本論」の「キモ」の部分だけを紹介。
◎「資本論」の中でも最重要な「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」を切り口に、なぜ今のような格差社会が生まれているのか、どうすれば「乱世」を生き延びられるのか、を考える。

【本文より一部抜粋】
実は私たちが気づかないうちに、金持ち階級、資本家階級はずっと階級闘争を、いわば黙って闘ってきたのです。
それに対して労働者階級の側は「階級闘争なんてもう古い。そんなものはもう終わった」という言辞に騙され、ボーッとしているうちに、一方的にやられっぱなしになってしまったというわけです。(第11講より)

感想・レビュー・書評

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  • 「資本論」は古くなっていない。今こそ読まれなければならない。と著者は熱く語ります。難しい言葉をできるだけ避けて、そのエッセンスから導かれる「現代の課題」を明らかにして、その「処方箋へのヒント」を書こうとしています。経済学者ではなく、政治・社会学者としての「資本論入門書」でした。

    例えば、「商品によって商品の生産」がなされるようになった近代以降の現代では、やがては「優秀な遺伝子が欲しい」という欲望に勝てなくなり、そういう「商品」をつくるだろうと予測しています。倫理とか、愛とか、がそれにブレーキをかけるだろうというのは幻想だというのです。

    例えば、新自由主義が蔓延している現代では既に「寅さんがわからない」若者が増えているといいます。「資本による包摂の深化」により、『資本論』は「私たちの知性と感性、魂までもが資本主義のシステムによって呑み込まれてゆく事態を見通していた」というのです。(←わかりにくよね。わかりやすく解説していますが、うまくまとめられない。でも、寅さん映画に共感出来ないという人が万が一これを読んでいたならば、是非本書を読んで反論を試みて欲しい)

    「 AIが働いてくれるから、人はもう働かなくてよくなる」のか
    いや、「資本主義のもとでは絶対そうはならない」
    と、おそらくマルクスは言うだろう。これは現代の若者も同意できるのではないか。
    その仕組みは「商品と労働の二重性」「特別剰余価値の獲得」から来る。
    それに関連するのですが、「本源的蓄積の持続性」もそこからやってきます。必ず資本家は労働価値のダンピングを行う。脱正規化、アウトソーシング、外国人労働力の受け入れ等々がそれに当たります。「働き方改革」も「資本」の要請です。ここまで来て「人口の再生産」ができなくなってきているから唱えられた訳です。

    マルクスは「資本は、増えることによって人々が豊かになることが目的ではない」と喝破します。「増えることそのものが資本の目的なのです」。つまり資本主義は、人々を豊かにすることが目的ではない、というのです。
    「だって、うちの社長さんは社員の幸福を願っているし、社会への利益還元活動にも積極的だよ」
    と、異論を唱えても、マルクスは「それは貴方の幻想だよ」とバッサリするでしょう。マルクスさん、そんなに敵を作らない方がいいよ、と私は心配しますが、結果的にはその「厳しさ」が必要だったと私は思っています。反対に言えば、未だにこういう反論があること自体が、現代にマルクスが必要とされている証左なのかもしれない。

    処方箋は何か。

    現代は新自由主義の時代だと、白井さんは言います。
    「新自由主義とは、実は「上から下へ」の階級闘争なのだ」(デヴィッド・ハーヴェイ)
    わたしたちは、知らないうちに「上から」の階級闘争を仕掛けられて負けていた、とのことです。
    マルクスは革命を失敗して、ロンドンで「資本主義とは何か」を明らかにするために「資本論」を書き始めました。よって「資本論」に「階級闘争」の具体的記述はありません。
    決して、資本家を全員牢屋に入れたら革命が成就するわけではありません。でも、ロンドンに来る前は革命の闘志であり指導者だったので、それ以前のマルクスを読んできた人は、暴力革命がマルキストの資格みたいに考えている人もいました。
    現代は、革命を起こすべき労組も選挙も暴力革命も難しくなっています。上からの階級闘争の成果ですね。どうすればいいのか?結局、労働者階級による階級闘争の成功しかない。ただこれもダメ、これもダメ、と書いていて、全然明らかになっていない。

    それがかえってホッとします。秘密の言葉を見つけたらゲームオーバーになるなんて、夢物語です。資本論には、現代も通用する「世界の構造を理解するための処方箋」があります。そうやって努力して、世界を理解するための技術を磨いた後にこそ、労働者階級の勝利を導くための処方箋があるのかもしれない。

  • 【感想】
    『資本論』は、資本主義経済を批判的に考察したマルクスの著作である。
    資本論が刊行されてから150年近く経つ今、当時よりも一層ラディカルに資本主義が進行している。もちろん弊害も多発しており、そうした「現代社会の暗部」にフォーカスを当てながら、マルクスの論を再考していくのが本書の目的だ。身近な例を持ち出しながら資本主義の欠点を挙げ、その問題は150年以上も前にマルクスによって記されていたことを振り返りつつ、今後の人間の在り方を洞察していく。『資本論』の解説本というよりは、現代社会に潜んでいる資本主義の欠点を具体的にピックアップし、それに資本論はどういう答えを出していたかを紹介する「教本」という位置づけが正確かもしれない。

    この本の核となる部分は「どうして資本主義は瓦解するのか」いう問題であるが、マルクスは「労働時間のありかた」にその理由を見出し、2つの「剰余時間」を定義している。
    ①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
    ②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)

    資本主義の大きな特徴は、市場競争と技術革新により生産性が上昇し、身の回りの物が一層廉価で便利になっていくことである。
    しかし、技術革新は人を幸せにしない。なぜかと言えば、技術革新は特別剰余価値を増幅するためのプロセスにすぎないからだ。
    特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣していくことで、ゼロに限りなく近づいていく。特別剰余価値が低下していくと、資本家は①と②の追求によって何とか利益を生み出そうとする。歴史を紐解くと、産業革命から近代までの手段は①の追求であった。しかし、違法労働問題や人口数の減少から、物量による効率は次第に求められなくなる。現代以降はもっぱら②の追求がメインであり、イノベーションにさらなるイノベーションを重ねて利益を得ようとしてきた。
    しかし、これらはどちらも破滅に向かうステップである。①は言わずもがな、②もやがて人に不幸をもたらしていく。「生産性が上がった」とは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならないからだ。

    この洞察は直感的に納得できるものだと思う。現在の社会では、マネジメントスキル、PCスキル、ライティングスキル、英語力など、一昔前までは必要とされていなかった様々なスキルが求められている。労働者が自らの価値を高める、と言えば聞こえはいいが、スキルが普遍的になればなるほど、労働に占める希少性が安売りされていく。昔は1時間かかっていた仕事が10分でできるようになっても、絶対的な給料が6倍になっていなければ、労働価値のデフレが発生しているのだ。

    結局のところ、イノベーションは人を便利にするが幸せにはしない。

    ではイノベーションの追求の代わりに人間にできることは何かというと、筆者は、かなり面白い結論に至っている。「食にこだわる」ことである。
    資本論を話しておきながら「ごはん」とはどういうことだ、と思うかもしれないが、これがなかなか真っ当な理由である。人が感じる「最低限度の生活」を譲らない、という方針だ。

    市場の取引は等価交換によって成り立っているが、「価」の基準は人によって異なる。毎日ファストフードでOKという人もいれば、3日に1回寿司を食べねばやっていけない人もいるだろう。「価」の範囲は下から上まで幅が出るが、イノベーションによる特別剰余価値の減少を甘んじて受け入れ続ければ、次第に労働者の価値は下がっていく。

    必要性の水準がどんどん低くなって、やがて「そんなに贅沢しなくても、毎日カロリーメイトでいいじゃないか」と言われたとき、「それはいやだ」と言えるかどうか。これが階級闘争の原点になるのだ。
    食とは、人間に根差した基礎的な文化である。人間を根本から規定する土台である。そして、人間の基礎価値を信じることが、資本制社会への行き過ぎた迎合を止めるトリガーになるのである。

    筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」

    私はこの一節を読んでいるとき、老後2000万円問題を思い出してしまった。今までは退職金+年金によって、老後の人生を不自由なく楽しむことができたのに、時代が流れるにつれ受給額がやせ細り、最終的には「年金制度なんて頼らずに、自分で2000万円貯蓄していないとゲームオーバーです」と言われるようになった。「これっぽっちの贅沢」がいつの間にか「大きな贅沢」と見なされて、譲れない部分が次々と侵されていった例だ。人々は「それはいやだ」という声を挙げるも、もはや手遅れになりつつある。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――
    本書は真っ赤な表紙に小さなタイトルという装丁で、そのタイトルも「武器としての『資本論』」であり、何だか難解そうな印象を受ける。しかし、手に取ってみるとこれがかなり分かりやすく、大学の講義を受けているみたいでスルスルと読めてしまった。剰余価値のほかにも、「物質代謝」や「包摂」といった概念によって、現代社会に通ずる問題を非常に明瞭にあぶり出している。是非オススメの一冊である。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 資本制社会のありかた
    マルクスが考える資本制社会
    →「物質代謝の大半を商品の生産・流通・消費を通じて行う社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」

    「物質代謝」とは、ある物質を作り、それにより別の物質を使っていくサイクル。例えば石炭やガスを燃やして電気を作り、電気が工場を動かし、工場がパソコンを作り、消費者がパソコンを買うような循環のこと。言い換えれば、物がめぐりめぐるプロセスのことが「物質代謝」である。

    このプロセスが、「商品による商品の生産」によって稼働する、つまり労働力という商品を使って別の商品を生産していくのが資本制社会である。そして、「大半」の範囲が際限なく拡大し続ける(昔は商品で無かったものもどんどん商品化されていく)のが、資本制社会の宿命だ。


    2 商品
    富と商品は違う。
    お金による商品交換の原理は「無縁」。取引関係の中では、相手と関係を持つ必要がない。後腐れなく、関係はその場で切れる。一方、共同体の中では無縁の商品交換はできない。贈与、手伝い、育児など、共同体における価値取引は関係性とは切り離せない。
    しかし、資本制社会が発達するにつれ、共同体の外の原理が共同体を飲み込んでいく。これをマルクスは「包摂」と呼んだ。


    3 包摂
    資本制社会は余剰価値を生産し、生産性を不断に高め続けなければならない。やり方を変革していけば行くほど、資本による包摂の度合いも高まっていく。生産工程が細分化され、労働者一人ひとりは決まりきった作業をやらされるようになる。
    やがて資本制社会は、生産の過程、労働の過程を飲み込むだけでなく、人間の魂、全存在への包摂へと向かうようになる。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになるのだ。


    4 資本の増大と余剰価値
    資本の目的はとにかく増大することだ。「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではない。増えることそのものが資本の目的。

    資本が増えるとは、「価値増殖していく」ことである。

    機械化が進めば人は働かなくて良くなる、と言われ続けていた時代から何年経とうとも、人の仕事は楽にならず、より大変になっている。

    商品には「使用価値(質)」と「交換価値(量)」の二重性がある。使用価値とはそのままの意味で、使用に値する自然的属性のこと。交換価値とは、その商品に投じられた人間労働を通して、その価値を表示できるという「抽象的人間労働の結晶」のことである。
    労働力についても同じであり、労働力は「具体的有用労働(質)」と「抽象的人間労働(量)」という二重性を帯びている。

    資本制社会において商品は全て等価交換される。では、なぜ労働力によって余剰価値が生産できるのか?
    それは、「労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きいから」である。
    「労働力の価値」を、マルクスは「労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている」「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」と規定している。労働者が搾取されすぎて死んでしまうほど低くはなく、かといって金持ちになって働かなくてすむようになるほど高くもない水準ぐらいが「労働力の価値」だ。もちろん、人によってこの水準は変わる。


    5 余剰価値
    マルクスは、労働時間を「必要労働時間」と「剰余労働時間」に分けた。「必要労働時間」とは、「賃金に相当するだけの生産を上げるのに必要とされる時間」であり、言い換えれば自分のために働く時間である。一方、働かされているのに支払いを受けられない労働時間が「剰余労働時間」である。
    マルクスいわく、「奴隷労働にあっては、奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するにすぎない労働部分、したがって、彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」「賃金労働にあっては、逆に不払労働さえも、支払労働として現れる」。
    賃金労働は奴隷労働とは真逆で、資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるのだ。

    マルクスは余剰価値の生産方法を2つに分けている。
    ①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
    ②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)

    技術革新が人を幸せにしない理由は、技術革新は特別剰余価値の獲得にあるからだ。特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣することで、特別剰余価値はゼロに近づいていく。剰余価値を求めることこそ資本の本質であり、その運動を続けることこそが資本そのものなのである。

    20世紀の終盤になって、相対的剰余価値の生産が行き詰まってしまった資本主義は、グローバル化に活路を見出す。これは労働力商品の価値の引き下げであり、絶対的剰余価値の追求への回帰である。

    近代になって生産力が向上したが、生産性が上がったとは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならない。現代社会においては、それが大きな問題として人類の前に立ちふさがっている。

    イノベーションによって生まれる剰余価値、すなわち資本主義の発展のキモにあたる部分は、結局、安い労働力を時間的差異と空間的差異を活用してダンピングした結果に他ならないのだ。


    6 階級闘争
    マルクスは「資本主義の破局的帰結をどうやって避けるのか?」という疑問に対して、「階級闘争によって」と答えている。

    マルクス「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する。それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」
    パシュカーニス「等価交換の廃棄こそコミュニズムが進むべき道である」

    人によって必要最低限の暮らしについての基準が異なるように、等価交換の「価」は、実際には人によって上下する。

    生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。実はそこに階級闘争の原点があるのではないか。「これ以上は耐えられない」という自分なりの限界を設けて、それ以下に「必要」を切り下げようとする圧力に対しては徹底的に闘う。そして闘争によって求める「必要」の度合を上げていく。それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということである。これが階級闘争の原点だ。

    筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」

    新自由主義は資本主義文化の最新段階であり、その特徴は、人間の思考・感性に至るまでの全存在を、資本のもとへ実質的包摂することにある。したがって、そこから我が身を引き剥がし、ベーシックな感性――例えばうまいものを食べ、量ではなく質の点で豊かさを享受するなど――の部分を大切にする必要があるのだ。

  • 以前勤務していた米国では、講演やプレゼンテーションの最後に「何か質問は?」と問われて、聴衆から手が挙がらないことはまずない。必ず質問が出る。Q&Aの時間もはじめから十分に取ってあって、講演者は出来る限りの回答を示す。もちろん愚問もあるけれど、質問によって新たな論点や視点が生まれて「この講演者は次回からこのネタを取り入れそうだな」と思わせるような場面も多々あった。
    一方の日本。まずもって手が挙がらない。そもそもQ&Aの時間を取っていないし、講演者側から「質問は受け付けたくない」という要望が出される場面を見たこともある。

    いまの資本主義に限界があることを示唆して、労働者が立ち上がる必要性を「階級闘争」というほぼ死語である言葉を敢えて持ち出してまで主張する本書を読みながら頭に浮かんだのは、この日米の差異。
    象徴的なのはサンダース旋風。この旋風のユニークな点は、サンダース個人の政治家としての資質に拠っていることではなく、若者を中心とした社会的活動の声を上述の講演者よろしくサンダースがうまく吸収して自身の論点を拡充することによって支持を広げたことにある。そして、この動きはサンダースという政治家を介した「階級闘争」と言えるように思う。もちろん、この闘争もまだ道半ばなので、今後どうなるかは分からないが、少なくとも闘争の芽は確実にある。翻って、質問を受け付けず、旧態依然とした首相交代劇を繰り広げる日本。著者が指摘する「階級闘争」が進むまでには相当な時間がかかるのでは。そんな思いが強く残った。

  • 【薄々感じている資本体制】
    あらゆるモノ、コトが商品化されていく世界、それが資本体制です。

    一度商品化されるとそれを提供する側は、利潤を高めるため、無駄を削ぎ落とし効率的に生産しようとします。
    もう一つの利潤を高める方法として、労働者を長時間働かせることがありますが、現代ではこれは国際的にできないので生産性を上げるしかありません。
    ただ、生産性の上昇が労働者の給料上昇につながるわけではありません。(多少は上がるでしょうが、微々たるものです)それにもかかわらず、労働者はPDCAを回して、生産性を上げようとします。資本側にうまく啓蒙されています。
    会社が潰れたらあなた方労働者は困るでしょ。働くところがなくなったら、どうやって暮らしていくのですか?という論法です。

    あらゆるモノ、コトが商品化されていく中、何を買うにもするにもお金が必要になってきます。お金を得るため労働者は労働力という商品を提供し買い取ってもらいます。しかし、これが等価交換になっていません。資本の増加分も労働者側が提供しています。つまり、労働者がもらう給料以上に労働力を資本側に提供しているということです。
    労働者側にもヒエラルキーがうまくつくられています。
    資本側としては、資本の歯車として単純に労働を提供して資本を増やしてもらえばそれでいいのですが、それだけでは資本を増やす分まで働くのは割に合わないと考える労働者も出てきます。そこで、役職という褒美、ヒエラルキーを与えることによって、積極的に資本を増やす活動をする労働者には役職を与えヒエラルキーの上位へ移動させます。これもよくできたシステムです。


    なぜ、労働者は労働力を提供しないと食うに困るのか?

    労働力の提供以外何も持っていないからです。
    完全なフリーな状態なのです。労働力を自由に使える状態なのです。身分制度が無くて自由に仕事を選択できるようになった自由人であり、逆に労働力として大多数を占める存在になってしまいました。圧倒的にフリーな労働者が増えすぎたのです。
    資本体制は資本を増えすことだけが目的のため、労働者を豊かにすることは目的ではありません。年貢ではないですが、生かさず殺さずの給料が労働者には与えられるのです。労働者の給料は実際に稼いだお金ではなく、労働者が生きていくことができ、健康的に労働力を再生できる最低レベルに落ち着くのです。そして、モチベーションをあげるために役職ヒエラルキーを設けているのです。

    しかも、生産性向上という本来、資本側が担う業務も、役職を与えられた労働者自ら行うようになっているのです。資本を増やす、利潤を高める一つの方法である生産性を上げることも労働者側で実施しているのです。
    当たり前にように労働者側で行っていますが、本来、資本を増やす作業であるため、資本側がコントロールして生産性を上げる方策をとらなければならないことですが、完全に洗脳され、労働者側で実施することになっています。

    そろそろこの不条理なシステムに反旗を翻してもいいのではないでしょうか。

  • 書評・白井聡「武器としての「資本論」(東洋経済新報社刊) - 内田樹の研究室
    http://blog.tatsuru.com/2020/06/12_1352.html

    『武器としての「資本論」』書評 マルクス読み直しを生き生きと|好書好日
    https://book.asahi.com/article/13395328

    武器としての「資本論」 | 東洋経済STORE
    https://str.toyokeizai.net/books/9784492212417/

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「女性だけでなく全顧客を軽蔑」した発言の真意 | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
      https://toyoke...
      「女性だけでなく全顧客を軽蔑」した発言の真意 | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
      https://toyokeizai.net/articles/-/589169
      2022/05/20
  • まず真っ赤な装調に圧倒される。現代の新自由主義を見るのに「資本論」は決して古くはなく、改めてマルクスがそこまで現代の状況を読んでいたことを平易な言葉で解説された著者にも感心した。資本主義が終わるのは歴史的必然性ではあるが、これまでの延長線上での階級闘争で変わるわけではない。特に現在のように人間の生存が脅かされるような状況こそ変革の契機はあるが、逆の可能性もある。頭を使い、過去の経験から学び、賢くなることが必要である。一方、私たちの考えも「包摂」されているので常に自己点検は必要である。

  • 《『資本論』のすごいところは、一方では国際経済、グローバルな資本主義の発展傾向というような最大限にスケールの大きい話に関わっていながら、他方で、きわめて身近な、自分の上司がなぜイヤな態度をとるのか、というような非常にミクロなことに関わっているところです。そして、実はそれらがすべてつながっているのだということも見せてくれます。言い換えれば、『資本論』は、社会を内的に一貫したメカニズムを持った一つの機構として提示してくれるのです。》(p.3)

    《商品は、交換から、しかも共同体の外での交換からのみ生まれるのだということ、これはマルクスの決定的な発見だったと言えます。》(p.55)

    《共同体の外で生まれた商品は、次は中に持ち込まれるという。つまり共同体の内部でも商品が流通するようになる、とマルクスは言っています。(…)元々は共同体の外のものだった商品交換の原理が、共同体を呑み込んでいくことになるということです。》(p.58)

    《デヴィッド・ハーヴェイという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。(…)彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。》(p.69)

    《「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。》(p.168)

    《では労働力のダンピングには、どこに差異があるのでしょうか。(…)もちろん耐えたくて耐えているのではなく、仕方がないから耐えているわけですが、それはつまりその場にいながら、その場にいないものとして扱っているということ、言ってみれば、差異のある空間をその場に作ってしまうということでしょう。》(p.210-211)

    《世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。そういう問題ではない。マルクスに立ち戻って言えば、スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値の次元です。
    人間という存在にそもそもどれくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に浸され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。》(p.278-279)

    《意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。》(p.280)

  •  武器としての「資本論」。 昨年出版された際に丸善で平積みされている際の真っ赤なカバーと強いメッセージ性を感じられるタイトルですごく気になっていた本。 気になった瞬間には、ちょっと難しそうだな、と自分の弱さが出てしまって手が伸びなかったのですが、今年のゴールデンウィークまとめ買いの際に改めて購入した本。 難しかったけれど、読んでよかった。

     マルクス「資本論」という難しい書籍を、著者独自の観点で解説してくれている本。 第1講 「本書はどんな『資本論』入門なのか」 の部分にわかりやすくまとめられているので、いきなりですが抜粋引用です。

    ===========
     私なりの『資本論』の読み方、「自分がマルクスから何を学んできたのか」についてまとめてみたいという気持ちがあって、機会を作ってもらうことになりました。
     (中略)「『資本論』はこういうふうに書かれていて、こういう議論がされています」と懇切丁寧に、順番どおりに説明をしていく誠実な入門書ということであれば、もちろんいろいろあります。
     (中略)ただ「これを読んで、『資本論』を読む気がするかな?という疑問があるのですね。
     (中略)そこに私がやるべきことがあるのではないか、と思い至ったのです。 本書で私が「ここが『資本論』のキモです」という話をして、それをきっかけに読者のみなさんにぜひ『資本論』を読んでいただきたい。

     (中略)マルクスが創造した概念を通じて見ると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見え方がガラっと変わってきます。
     (中略)ですから、「こんな世の中をどうやって生き延びていったらいいのか」という知恵を『資本論』の中に探ってゆく。 マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。そう思っています。
    ===========

     もうここだけ読んだだけで、筆者の熱量が伝わってきますよね。 またこの営みは、こうして読書レビュを継続している自分の営みとも(レベルは違い過ぎますが)なんとなく似ています。 自分が読んだ本を自分なりに咀嚼し、人に読んでもらいたくて発信する。 
     ひと様が、これで読んだ気になってくれた/省時間化の観点でひと様のためになれたのならうれしいし、共感してくれて当該本の読者になってくれるのなら、それもまたうれしい。 自分のわずかな努力でも、なんらかひと様に影響を与えられ、結果的に世界が良くなる方向へ寄与できるのなら、うれしい。(だいぶ遠謀)

     ブレイディみかこさんが課題提起された本をたくさん読んだり、格差社会の本をいくつか読んできたりしていたので、「新自由主義(ネオリベ)」が巻き起こしてきた最近の現状について「それってなんだかおかしくないか? 目を覚ませ」という課題認識にはなんとなくは理解できるぐらいまでは学んできたつもり。
     そういう状況で本書を読めたので、やはり、改めて勉強になった、そう思った本。 



    以下、抜粋引用となります。(あくまで自分が気になった部分の抜粋であること、ご理解ください)
    =======
    P55 商品は、交換から、しかも共同体の外での交換からのみ生まれるのだということ、これはマルクスの決定的な発見だったと言えます。

    P66 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
     (中略)人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。

    P69 日本でも「一億総中流」と言われ、「もう階級なんて言葉は古くなった。いまの日本にそんなものはない」と言われていました。ところが1980年代あたりからその動きが反対側にターンし、90年代以降、格差の拡大が露骨な流れになっていきます。無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していったのです。この構図はもちろん、他の先進資本主義国にも当てはまります。

    P71 だが、新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。 制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。

    P89 マルクスが『資本論』で論じたのは、生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になること(形式的包摂)、そしてさらに、生産過程の全体が資本によって組織化されること(実質的包摂)でした。おそらくは「包摂」の概念の射程は、もっと広大なのです。 それは、「包摂」の深化に終わりは設けられないからです。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになる。

    P135 19世紀の工場法を見れば、今回の「働き方改革」のような体制側による労働者の救済措置は今に始まったものではなく、昔からあったことがわかります。それは資本主義のある種の必然であって、あまりに搾取しすぎると、搾取する相手がいなくなってしまって、資本主義は成り立たなくなるのだということです。

    P228 東京の都心部全般に言えることですが、とりわけ銀座などは資本主義の極致の街です。資本主義化が進み過ぎて、再生産ができなくなっている。
     (中略)そういう街から子供が駆け回る風景が消えるのは、当然のことでしょう。東京都民はそのさみしさをかみしめるべきなのです。自分たちでは自律的に再生産できない、一見華やかに見えて実は破壊的な街、よそから人を盗んで栄えている街なのだということ。その冷厳なる事実を、子どもの歓声が聞こえないという現実によって日々確かめるべきなのです。

    P257 先ほど見たように、『資本論』は「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する、それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」と述べています。
     さながら今の日本を見ているような表現ですが、「本当にひどい世の中になり、人々がいよいよ我慢ならなくなって、立ち上がり、革命を起こすのだ」ということです。しかし実際には世界の多くの国では、そう簡単に革命には至らない。

    P277 資本の側は、「そんな贅沢しなくていいじゃないか」とささやいてきます。「毎日カロリーメイトだけ食べたって、別に十分生きていけるよ」というささやきは、いくらでも聞こえてくるし、確かにそれで生きていけないことはない。
     そのとき「それはいやだ」と言えるかどうか。 そこが階級闘争の原点になる。

    P279 人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に浸され、魂までもが資本に包摂された状態です。
     (中略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。
     (中略)この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結だと私は思います。
     それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。 どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。 そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。
    =======

  • これまでサラリーマンとして生活を送っている中で漠然と感じていた疑問の正体をわかりやすく解説してもらった気がする。

    終盤に、行き詰まった現状を打破するためにまずは社会生活を送るために最低限必要な豊かさの水準を素直にケチらず再設定すべしというような記述があったが、そこはいまいち腑に落ちなかった。それよりは、個々人が可能な範囲で自給自足を楽しみながら取り組むことが、資本主義に依存しない社会をつくる上で必要なんじゃないかと思う。

    それと印象的だったのは、資本主義が教育をダメにしているという主旨の主張。確かに、学生が客の自覚を持ったり、教員が学生や保護者に阿ることは良くないことだが、教育機関が教育の質を向上させる上で競合との差別化をモチベーションとすることも重要なのではないかと思われる。

    師弟がともに学ぶ関係なら良いのか?
    継続して模索したい。

  • マルクスを誤解してるとしか…。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。思想史家、政治学者、京都精華大学教員。著書に『永続敗戦論─戦後日本の核心』(太田出版/講談社+α文庫)、『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)など。

「2022年 『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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