虐殺のスイッチ ――一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか? (ちくま文庫 も-19-3)
- 筑摩書房 (2023年7月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480438812
作品紹介・あらすじ
ナチスのホロコースト、関東大震災朝鮮人虐殺事件・・・・・・普通の人が大量殺戮の歯車になったのはなぜ? その理由とメカニズムを考える。
感想・レビュー・書評
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森達也『虐殺のスイッチ』ちくま文庫。
様々な国や時代で起きる虐殺。
虐殺が起きるメカニズムを解き明かすノンフィクションかと思ったら、森達也がこれまでに手掛けた『A』シリーズを事あるごとに引合いに出す自己満足的なエッセイのような作品だった。
最近は日本国内でも、毎日のように殺人事件のニュースを耳にする。殺人だけでなく、我が子を虐待する親や同級生を過激な虐めで死に追いやる学校生徒。まるで人間の持つ良心という抑止の箍が外れたかのようだ。大昔、『ススムちゃん大ショック』という永井豪の漫画があったが、まさにそんな状況だ。
世界に目を向けても、ロシアによるウクライナ侵攻、北朝鮮のミサイル発射実験、中国によるアジア諸国の領海侵犯と、直ぐにでも虐殺に発展するような危機が渦巻いている。
思えば、今の時代、世界の警察を自認するアメリカの自作自演とも言われる同時多発テロとその後のイラク戦争から虐殺という悲劇への緊張が高まったようにも思う。結局のところ、アメリカのイラク侵攻、ロシアのウクライナ侵攻は人間の権力志向の最たる結果だ。
森達也は、集団化と同調圧力が虐殺に向う2つの鍵だと言うが、これに人間の権力志向を加えるべきではないか。
カンボジアのクメール・ルージュの大量虐殺、オウム真理教による地下鉄サリン事件を中心にした虐殺、関東大震災の朝鮮人虐殺、ナチスのホロコースト、ベトナム戦争、インドネシア政権による虐殺、ルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺。歴史に見る数多くの虐殺事件のスイッチは様々だが、集団化と同調圧力の2つが鍵を握る。
そもそも戦争と犯罪、紛争とを全く区別せずに虐殺で括って論じているところが気に食わない。
本体価格780円
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タイトルからSF作家伊藤計劃の「虐殺器官」を連想し、手に取ってみた。作者は映画監督・作家の森達也。関東大震災直後に朝鮮人と間違えられた行商人らの虐殺事件を描いた「福田村事件」が、今年公開されている。
善良な人々が善良な人々を殺す。虐殺を司る器官 (強いて言えば脳)が人間に備わっているわけではないだろう。何故、どうやってそうなってしまうのか。我々は考え続けなければならない。
大量虐殺の防止を目的とするNPOの創設者が、良識ある人々が虐殺に手を染めるまでを8段階の過程で示してる。
1. 人々を「我々」と「彼ら」に二分する
2. 「我々」と「彼ら」に「こちら側」と「あちら側」に相当する名前を付与する。
3. 「彼ら」を人間ではない存在(例えば動物や害虫、病気など)に位置付ける。
4. 自分たちを組織化する。
5. 「我々」と「彼ら」のあいだの交わりを断つ。
6. 攻撃に備える。
7. 「彼ら」を絶滅させる。
8. 証拠を隠蔽して事実を否定する。
この中で1と2は普通にある。さらに3~5は、ネット社会ではムーブメントを起しやすい。それ以降はもう「ヤバい」状況である。
虐殺のカギは「権威」からの指示と集団からの「同調圧力」だという。そして、虐殺のスイッチは、人が「個」を失くした時には、たやすく"ON"になってしまう。暴走が始まる。本当に恐ろしいことである。 -
読むべき本。
読んでよかった本。
まもなく森達也の映画「福田村事件」が公開される。福田村だけでなく、他の土地でも同様の事件が起こったことが最近の新聞記事に掲載されていた。
関東大震災で6000人の朝鮮人がら虐殺されたことはよく知られている。その時、訛りのある地方出身者が同様に虐殺された。その一つが「福田村事件」だ。
普段は善良な隣人がなぜ大量殺人の歯車になるのか。
その謎を解こうとする本だ。
先日「キエフ裁判」という映画を見た。ウクライナのバビ・ヤールでのユダヤ人とウクライナ人の大量虐殺を指導したドイツ兵の裁判記録だ。ドイツ兵士たちは(アイヒマンがそうだったように)一様に、命令に従っただけで、自分には逆らう権限は無かったと証言する。彼らは粛々と裁判を受け、皆礼儀正しい。
映画の後半は、一般市民の証言だ。生々しい耳を覆うばかりの虐殺の目撃談。何千人もの人間を、抵抗しない子どもも女も次々と踏みつけ銃殺し掘った穴に生き埋めにし、手榴弾を放り込む。
先ほどの礼儀正しい人たちがなぜこんなことをできるたのか?
ハンナ・アーレントはこれを「凡庸な悪」と呼んだ。
アイヒマンは「私の罪は従順だったことだ」と言った。
グレゴリー・スタントンの
「良識ある人々が虐殺に手を染めるまでの過程」にはこうある。
①人々を「我々」と「彼ら」に二分する。
②「我々」と「彼ら」に「こちら側」「あちら側」に相当する名前を付与する。
③「彼ら」を人間ではない存在(例えば動物や害虫、病気など)に位置付ける。
④自分たちを組織化する。
⑤「我々」と「彼ら」の間の関わりを断つ。
⑥攻撃に備える。
⑦彼らを絶滅させる。
⑧証拠を隠蔽して事実を否定する。
これはどこででも起こりうることだし、現に起こったこと、そして今まさに起こっていることだ。
人間は個である限り、他者の痛みを想像できる。
しかし、「不安や恐怖を刺激された時、一人でいることが怖くなり、集団の一部となろうとする。」
現代ではSNSという仮想空間が集団の擬似的意思となって人間を個から集団の一部にする。集団の相は、「ちょっとした刺激で突沸や接触凍結」を起こし一瞬にして変化するという。
「集団」と「刺激」これがキーワード。
この二つが合わさったとき、「虐殺のスイッチ」が入る。
森達也は言う。都合の悪い歴史から目を逸らす限り、
「断言する。ならば僕たちは、同じことを繰り返す。」 -
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2023年9月 『福田村事件』から見えてくる人間の愚かな性(さが)|大阪・梅田の太融寺町谷口医院 谷口恭の「はやりの病気」
http://...2023年9月 『福田村事件』から見えてくる人間の愚かな性(さが)|大阪・梅田の太融寺町谷口医院 谷口恭の「はやりの病気」
http://www.stellamate-clinic.org/blog/2023/09/20239-1520677.html2023/10/23
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《映画『福田村事件』のサブテキスト的一冊》と、版元がつけた惹句にある。私は未見だが、森にとって初の劇映画である同作の公開に合わせた文庫化なのだろう。
歴史上くり返されてきた、正義の名の下に行われる虐殺について考察するエッセイだ。
オウム真理教のドキュメンタリー『A』『A2』のころから、森達也のスタンスは不変だ。多くの人の命を奪った集団を悪・狂気として糾弾するのではなく、「普通の人」たちが起こしたこととして捉える。
それを引き起こす「虐殺のスイッチ」とは何なのかを、自らの取材経験を踏まえて考察している。 -
2023/9/17読了。
虐殺のスイッチは全ての人が持っている。
引き金となるのは、集団化とその結果としての過剰な同調圧力、あるいは過剰な忖度。
何が過剰なのかは集団が決める。自分では決められないし、恐らくその集団の中にいると同調圧力に屈しているとか、忖度をしているという実感すらない。
私は大丈夫、集団に左右されたりしないなどと思わないようにしよう。
国のため、会社のため、チームのため、家族のため…
私の所属する集団はあらゆるところにある。
集団の形によって、虐殺も形を変える。
ナチスのホロコーストや日本の南京大虐殺から、会社やクラスの中でのいじめまで。
ある意味、常に引き金に手をかけている状態。
だからこそ考えよう。自覚しよう。
無自覚なままに思考停止しないように。 -
人の気持ち。仕事で、部下は上司を忖度し、具体な言葉がなくとも「こう思っている」とある種勝手に想像し実行。上司は、部下がそう思ってるので「その通りにしたらいい」と背中を押され満足感にひたる。このサイクル。人はあらぬ方向にいってしまう。
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なぜ人が人を殺せるのか。
死刑の問題、戦争の問題。虐殺はなぜ起き続けるのか。
ここのところずっと考え続いている問題に丁度マッチしていたので購入した。
答えは簡単には見つからない。
即効性のある処方箋もたぶん無い。
それでも個人個人が考え続ければきっと変わる。
完全な悪も完全な善も存在しない。
その通りだと思う。
自分もそうだ。
他人も多分同じだと信じている。
休日1日で読んでしまったが、また読んでみたい本として心に残った一冊でした。 -
福田村事件きっかけで読んだ。人はそれぞれが優しくて善良でも集団になると残酷になるというのは日常でも実感できるところ。働いていると他人に対してもそう思うし、自分もそうなってるなと思う。ホロコーストを決定した会議にヒトラーは出席しておらず、戦艦大和の特攻も昭和天皇の言葉を読み取った部下が実行したもので、いずれも明確な指示の記録はないらしい。これも会社では誰がやりたいのかよくわからないけどなんだか進んでいるという事態に合うことがあるし。自分は人一倍流されやすい自覚があるので胸が痛かった。
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なぜ人類の歴史に虐殺が存在するのか。森さんのライフワーク的テーマを、“虐殺”という切り口から語っている。人はもっと優しい。それを森さんが言い続けなければいけないほどに世の中は変わらない、悪化しているのだろう。優しいからこそ、なにかのスイッチで虐殺に加担する、そのメカニズムに警戒しなくてはならない。