- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480438423
作品紹介・あらすじ
イリノイのドーナツ屋で盗み聞き、ベルリンでゴミ捨て中のヴァルガス・リョサと遭遇……話を聞き、考える。名翻訳者の傑作エッセイ。解説 岸本佐知子
感想・レビュー・書評
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岸本佐知子さんのエッセイを全部読んでしまったので、面白いエッセイストを探している。
これは、岸本さんが解説を書いているので「面白いのかも」と期待して手に取った。
パラパラとページをめくって、ザックリ雰囲気をつかんで、まずは岸本さんの解説から読んだ。
面白いと、その箇所のページまで記載している"盗み聞き"の2話は確かに面白かった。
生活には困らないが裕福でもない高齢者たちの、毎日きまって交わされているらしい勝手気ままな会話の盗み聞きで、
一つは、コーヒーショップに集まる親父たちの会話。
「鹿狩りに行って誤ってほかのハンターを撃ってしまった。」
「市民の寄付で集めた金を警察がいくらか横領した。」
「ボケ老人の金を騙し取る家庭が増えているから、自分はボケる前に自分の金は自分で使ってしまうのだ。」
といった、身近のちょっとヤバイ話。
もう一つは、スイミングに通う老婦人たち。
「あんたは毎日水泳するわりには随分太っているわね。」
「美は内面よ。大事なのは内面なの。」
といった、大阪のおばちゃん達のボケとツッコミを聞いているみたいな話。
盗み聞きで耳に入って来る会話って、普段は黙っていて言わないけど「そうだよネ」とか「絶妙な言い分けだ」と思ったりして面白い。
勝手に期待値を上げ過ぎたようで、350ページ中"盗み聞き"の20ページ以外は正直楽しめなかったので、★2つにしました。(ゴメンナサイ)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1992年から一年半にわたって雑誌に連載された在米翻訳家による十八編のエッセイ。おおむね1990年前後、著者の50歳前後の出来事を題材としているようだ。執筆当時、著者がすでに九年住んでいたアメリカ・イリノイ州のシャンペンという小さないなか町が拠点となっており、これにアメリカの他の都市や、ベルリン滞在記が加わる。約350ページ、5パート。各パートに2~4章の構成。
前半は喫茶店や美容室、プールのジャグジーといった市井の人々が集う場所からアメリカ市民一般の何気ない言動を伝え、のどかな人間観察記といった様相である。
後半以降は、黒人の女性ホームレスたち、ナチスドイツ時代を生きのびたユダヤ人、アメリカ先住民、移民といった、社会的弱者ともいえる人びとが主な対象となり、彼らの証言からそれぞれの人生をたどる。
インタビュー形式も含めて、多くの人々への聞き取りが含まれるのも本書の特徴だろう。
全体に落ち着いた文章で、コミカルさやユーモアは目立たない。また、後半で紹介される人々のシリアスな来歴はあっても、そこまで深刻な雰囲気に傾くでもない。折に触れて垣間見える著者自身の人生がユニークで、著者の過去に興味が沸くのだが、深入りせず素通りしてしまうのが残念だ。
全体に、良くも悪くも印象に残らず。解説を書いた岸本佐知子さんのエッセイが好きで、岸本氏が推すのならという気持ちも手伝っての購読だったが、個人的には刺さらなかった。 -
ため息がでるほどにすばらしいエッセイだった。
本書の著者である藤本和子氏といえば、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』や『西瓜糖の日々』で知られる。
私もこの藤本氏の翻訳に、だいぶ遅れて感電させられたひとりだ。とにかくかっこいい。おそらく、これほど翻訳の文体に痺れることはもう、この先いちどもないだろう。
本書もまるで歌を聴いているよう。
イリノイで暮らす自身の話にはじまり、ホームレスのためのシェルターで働いた経験や、ベルリン滞在記などももちろん面白いのだが、身近なあるいは遠い知人から聞き書きをするとき、その人になりきるとき、彼女の文章はぐっと魅力を増す。
やはり彼女が一時期女優をしていたこととも関係があるだろうか。地の文から当の人物の声へと移行する瞬間がたまらなく良いのだ。まるでじょじょに相手の魂が憑依してくるかのよう。
とくにお気に入り。
ひとつは、「葬儀館そしてアイダ/イザベル」。葬儀屋を営む黒人女性と、高齢の美しい黒人モデルの話。
そしてネイティブ・アメリカンの陶芸家、それから別のネイティブ・アメリカンの人たちと暮らす中国系の女性へのインタビュー。
それからソロモン・ペレル/サリー・ペレルという、ユダヤ人でありながらナチスの党員だった男性の話。彼のことは『ヨーロッパ、ヨーロッパ』という映画になっているらしいがこれはものすごい人生だ。未見だけれど、
「たとえばソロモン少年がベルリンへ行きヒトラー・ユーゲントになり、制服を着た場面。ひとけのない洗面所で、彼は鏡に自分の姿を映してみる。それからひどくおずおずと右手を中ほどまであげて、小さな声で「ヒトラー万歳」の敬礼の稽古をする。幾度かそれをくりかえしているうちに元気がでてきて、手も高くあがり声も大きく出せるようになった。いつしか、うきうきした気分にさえなって、思わずタップダンスを踊ってしまう。」
このくだりを読みながら映画の一場面がありありと脳裏に浮かび、思わずうっかり涙が出た。
いま誰かからおすすめのエッセイを聞かれたら迷いなく本書をすすめる。 -
『平原のくらし』
①トウモロコシのお酒
これは異邦人のはなし。と言えば仰々しいが、土足文化で、家の周りをぐるりトウモロコシ畑に囲まれて暮らし、東京を大都会として気に入り、都会でしか住めないとかつて言っていた「わたし」は、ここでどこか地に足がつかないまま暮らしてきたのだと気づいていく。
その、異邦の地で生きる人々の、それぞれの葛藤が面白いのだけど。
彼女にとって「トウモロコシ畑」が、実生活のシンボルになったように、人の実際的な暮らしには、確かな暮らしにはシンボルがいる。生活にぐっと重みを与えるもの。風に飛ばされないように半紙を抑えている文鎮のようなもの。
そう、じぶん、はとても軽くて脆いものなのかもしれない。
でなければ、未来への不安に押しつぶされそうになったり、過去の後悔を引きずるようなことはしないだろう。だから、小さなとき、迷子になって感じた、あの「心細さ」は生涯消えないのかもしれない。
収穫のため、コンバインでなぎ倒された、トウモロコシは、生々しく、その生の痕跡をとどめている。農作物と収穫とは、いつだって人の営みにぴったりとよりそっている以上、象徴を孕んでいる。
びっくりしたのは、アメリカ国内のトウモロコシ畑の約半分が、バーボンウィスキーの醸成に使われるとのこと。嗜好品であって、小麦や卵などの、もっと必需品に近いとされている農作物もあるなかでだ。言ってしまえば、必要のないものを、その国土の少なからぬ割合を割いて、作っているのだから、まったく人間らしさに溢れた現状でもある。
そこに、アーネスト・アダム(正直な神の御子)と名乗る、大学出の万屋。十九人のこどもがいる、地中いっぱいに根を張って生きているような人間との出会いが、こどもはいるし、ここに住んでもいるけど、まだここでの暮らしに確かな実感のない、“根無し草”のわたしと対照的。
それで、トウモロコシという、この地の作物をお酒にしたらこの土地で生きる濃さのようなものが出るかと思案する“わたし”は、目下、格闘中。それがいい。農作物を収穫して、それから、時間をかけてお酒を作る、ということは、その土地での時間の経過と、そこでの生き死にを頂くということでもあって、それは土に触れるという事でもある。
「その地に埋葬して初めてその地はその人々のものになる」と言うのを聞いたことがある。
今日も、この世界のいたるところで異邦人が生きているのだろう。
わたしたちは、特に、この島国で生きているわたしたちは、忘れがちだけれども、わたしたちも、根本的には異邦人なのだ、と思う。
➁盗み聞き
「そこにはいつも死の影が落ちている」がとてもいいな、と思う。
折しも、これを読んでいるときに、台風が来ていて、ハザードマップの真っ赤な場所に住んでいるわたしは、その同居人と、「台風がくると毎回きまって、川を見に行くあれ、あの人たち、なんなんだろうね」と話していた。「死にたいんじゃない」とこれは、まだこの話に興味を示していない同居人。「ほら、年を取るってことは、それだけ死に近づいて、死がいよいよ現実味を帯びてくるわけじゃない。だから確認したいんだよきっと。飲み込まれたら確実に助からない、死ぬかもしれない、現実的な死の濃くなった川をさ、見に行きたいんだよきっと」というと、なるほどね、と流される。ほらね、死から遠い人は、現実味がないから、氾濫する川なんか気にならない。無視してられる。それがこの問への証明のようになった。
やっぱりわたしも、信じられなけれど、もし七十代とか、そこら辺まで生きていたら、きっと会話の内容も、日々考えることも、七十代のそれになるんだろうなと思う。
ーあたしも、いつまでもこうしちゃいられない
とは、前章で、夏の終わりを感じとった“わたし”の言葉の再登場。今回はジャグジーに健康を目的に使っている高齢の婦人にまじっての言葉。その語感は、もうみんな行っちゃったよ、と、長くお昼寝をしすぎて、遊びに取り残されてしまったこどもの焦りのような、響きみたいだ。
他人の“のっぴきならない”を滑稽に、面白おかしく聞き、不謹慎にも楽しむ、と言うのが、“盗み聞き”の本質なのである。盗み聞く方は、いつだって、差し迫った何かには捉われていない。耳に入ってくるとうような消極的な聞き方ではない。それで、ここでは、やっぱり、わき、なのだ。
浸かっていたジャグと同じ。いつまでもそこにはいられない。ただ、他人の能動を聞き受けるしかない。
このエッセイ贅沢だなぁと、と思ってしまう。茶うけにでもしてくれ、ここでひとつ笑いなどいかが、と。面白い、楽しい、それで、楽ちん。それ以上でも、それ以下でもない、それは、たにんのこと、なのであった。
③断片アメリカーナ
雑ネタがふんふんと読めた。 -
『天空の城ラピュタ』のドーラみたいな口調の文章だと思った。ふらふらせずどっしりしている。アメリカで見聞したことの話が良かった。ホームレス用のシェルターに住む女の人達がいちいち「すみません」って言っていなさそうなところが、いいなあと思う。
ベルリンで、ニューメキシコで、いろんな人がいろんな口調でしゃべる。藤本さんは人の話を聞くのが好きなのが、よくよく伝わってくる。でも藤本さんが人の話を聞きたい理由は書いてない。身体を動かすのが好きとか、みかんが好きとか、そういうことと同じなんだろうか。 -
イリノイ州はトウモロコシ畑のなかの家に住む翻訳家・藤本和子さんが、人に会い、話を聞いたエッセイ。全篇を貫くテーマは「住処」、もっと言うと「故郷」についての味わい深い物語ではないのかと思った。
著者が出会った人たちの背景は多様で魅入る。ドーナツ屋に集う野球帽の男たちの話。ホームレス用の緊急シェルターに出入りする女性たち。生きるためにヒトラーユーゲントに入団したユダヤ人の引き裂かれたアイデンティティ。先住アメリカ人の陶芸家の人生観。ナヴァホ族の保留地で働く中国人女性。
艱難の末に住処を見つけた人たちが語る話を読むうちに、「故郷とは具体的な土地ではなく記憶の内に宿るものだ」と誰が云ったか忘れたが、そんな言葉を思い出した。物語る。その行為のなかに宿る人の居場所。それが故郷である。その物語る人の話に耳を傾けた著者の営みと息遣いが伝わってくる真摯な一冊だった。 -
青山ブックセンターFBショップお勧め本から。
約30年前のエッセイ本だが、そんな昔を感じさせない。
世界を見る、知るということでは今が旬でもある。
というものの読み始めは、正直読みにくかった。
著者の後書きや岸本佐知子さんの解説を元に再読すると、すんなり受け入れられたのがあれ不思議。
日本人という固定した視点ではない、様々な国を俯瞰してみることができる著者に敬服する。 -
1990年代のアメリカの市井の人々の日常を綴った面白いエッセイ とだけ思って読み進めたら大間違い。
中盤以降、テーマはさまざまなれどどんどん広く深くそしてますます面白くなっていく。
眼差しの先には、常に社会のメインストリートから外れた、外された人たちがいる。
彼ら彼女らの口から溢れる言葉を丁寧に記録している。ハッとさせられる言葉にいくつも出会えた。 -
岸本佐知子の情報あり