戦略読書日記 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
4.02
  • (18)
  • (20)
  • (7)
  • (2)
  • (2)
本棚登録 : 327
感想 : 25
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480435910

作品紹介・あらすじ

経営センスは読書で磨く! 競争戦略の第一人者を唸らせた21冊の本から、優れた戦略ストーリー構想の基礎となる経営の本質を抽出。(出口治明)

感想・レビュー・書評

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  • 著者の「ストーリーとしての競争戦略」を読んで以来、
    著者の本はずーっと気になっています。
    (そんなには読めていないけど。)
    ちょっとボリュームが多いけど、読みやすい語り口で、
    示唆に富んだセンスをお持ちの著者の頭の中を知りたくて読んでみました。

    ※ストーリーとしての競争戦略
    https://booklog.jp/users/noguri/archives/1/4492532706#comment

    この本は、そんなユニークな著者のチョイスした
    本の書評(のようなもの)が読めるということで、
    とても楽しみにしていました。

    確かに選書がユニーク、何冊か読んだことがあったり、
    知っている本がチョイスされていましたが、
    ほとんどの本は聞いたことも見たこともないような本、笑。
    そして、古い(絶版されているものも結構あります)。

    それでも、著者特有の軽快な語り口で、
    長々と自分の書きたいことを書いている、
    そして時々「グッとくる」ようなコメントを残してくれる。
    まさに、自分が著者に求めているよな宝石が
    膨大に長い本の中に散りばめられています。
    (もうちょっとシンプルにしてくれよ、とは思いますが。)

    一番驚いたのが、単なる書評本ではなかったということ。
    実は「ストーリーとしての競争戦略」をガイドするための、
    ガイダンス的な立ち位置もあったということに読みながら気が付きました。
    ですので、まず「ストーリーとしての競争戦略」を読んで、
    理解を深めるためにこの「戦略読書日記」を読むのが一番、適切な読み方なような気がします。
    (「ストーリーとしての競争戦略」は読まなくても、
    まぁそこそこ楽しめるには楽しめますが、
    やっぱり読んだ方が5倍くらい楽しめます。)

    楠木さんの本が好きな人なら、この本もきっとヒットすることでしょう。

    【個人的に気になった(かつまだ未読の)本】
    ・「バカな」と「なるほど」:
    これは「ストーリーとしての競争戦略」にも紹介されていた本(多分)。
    改めて読んでみたい気持ちになりました。
    https://booklog.jp/users/noguri/archives/1/4569820360#comment

    ・おそめ:
    伝説の銀座マダムの本(ノンフィクション)らしい。
    銀座のクラブには特に興味がないけど、
    この本は面白そうだし読んでみたい。
    それにしても、楠木さん、守備範囲広すぎる。。
    https://booklog.jp/item/1/4101372519

    ・成功はゴミ箱の中に:
    マクドナルド創業者(と言っていいのかな?)レイ・クロックの自伝。
    この本は有名だから、前々から知ってたけど、まだ未読。
    https://booklog.jp/item/1/4833418452

    ・直球勝負の会社:
    この本は多分読んでないと思うけど…(記憶があいまい)。
    岩瀬さんの「ネットで生保を売ろう!」(超絶名著!)を読んだので、
    十分かと思っていたけど、こっちも読みたくなった。
    https://booklog.jp/item/1/4478008876

    ※ネットで生保を売ろう!
    https://booklog.jp/users/noguri/archives/1/4163738908#comment

    ・クアトロ・ラガッツィ
    これも完全に自分の守備範囲外。
    ライフネット生命創業者の出口さん推薦の本らしい。
    書評を読む限り、面白そう(でも読むの長くて大変そう。。)
    この本からグローバル化が学べるらしい。
    歴史からどう学ぶのか、とても参考になった。
    https://booklog.jp/item/1/4087462749
    https://booklog.jp/item/1/4087462757

  • 【星:4.5】
    「この著者はほんとオモロいおっさんだなぁ」というのが読み終えての感想である。内容以前に著者の話自体が面白く一気に読み終えてしまった。

    まず、この本を読む前に著者の「ストーリーとしての競争戦略」を読んだ方がいいだろう。そしていいと思えばこの本も楽しめると思う。

    内容はタイトルどおり著者がこれまでに読んできた本の書評である。ただ内容のまとめ的な普通の書評とは違って、著者の専門である競争戦略論など著者の興味がある事柄からの視点全開での書評となっているのが面白い。なお、紹介されている本は著者の専門とはあまり関係のない本が多い。

    こんな読書のしかたもあるんだなぁと感心しきりである。

  • 言葉のチョイスや表現が的確で面白い。楽しんで読める。
    スキルとセンスの違い、参考になった。
    読書に対する熱量。私も本を読んで、トリップしたいと思った。

  • 読みたかった感想は「日本の経営を創る」と「成功はゴミ箱の中に」。
    読みたくなった本は「プロフェショナルマネージャー」。

    年間300冊ほど読んで、普通の読書好きレベル、というご認識のようで、私など足元にも及ばない。

  • ストーリーとしての競争戦略が非常に面白く、同じ著者の本書を購入
    まさに芋づる式で読んだ本書だが、この本の面白さはトリップにあると思う
    著者が選定した本に書評を書いてるかのごとく、22冊の本と対話している様が想像できる
    たまにストーリーとしての競争戦略の話も出てくるが、著者の考えや視座の高さを感じられたり、具体から抽象への振幅の部分も自分に取り入れられる可能性があるように感じられ
    目線を合わせながら書いてくれている部分がまた共感を呼ぶし、個人的にも面白かった
    巻末の出口氏の解説もまた面白く、文章の構成の仕方が素晴らしい

  • 読後の満腹感の強い一冊でした。
    楠木健さんの本は初めて。タイトルとハードカバーの本の厚みに、大変なの選んでしまったかも!と思いましたが読んでみるとするする読める、惹き込まれる一冊。
    21冊の本を各章で紹介しながら自身の考えや経営という視点で解説してくれているのだが、もれなく紹介された本を読んでみたくなるような書評。一冊の本を読んだだけで、たくさんの本を読んだような満足感じさせてくれることに魅力を感じました。
    創業者の自伝などはもちろん、建築家の本、ダイエットの本、遣欧少年使節団の本などとてもビジネスの視点と結びつくとは思えない本も紹介することで各章毎にも飽きない構成になっていました。
    読むのに時間はかかってしまったけど、他の著書も読んでみたいと思ったので既にファンになってしまったようです。

  •  スキルと違って、センスは直接的には育てられない。しかし、育つ。定型的な教科書がなくても、仕事の中で磨くことはできる。自らセンスを磨くにはどうしたらよいのか。もっとも有効なのは、実際に経営者として戦略を作って動かすという経験をすること。要は場数を踏むことだ。モテるようになるためにはデートの場数を踏むに越したことはないのと同じである。
     理屈っぽくいえば、センスとは「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」を意味している。平たくいえば、「引き出しの多さ」。優れた経営者はあらゆる文脈に対応した因果のロジックの引き出しを持っている。しかもいつ、どの引き出しを開けて、どのロジックを使うかという判断が的確、これもまたセンスである。経験の量と質、幅と深さが「引き出し能力」を形成する。その典型的なモデルが、第7章に出てくる三枝匡さんである。彼の本を読むと、戦略をつくるセンスがその人の文脈に固有の因果論理の総体であることがよくわかる。
     戦略ストーリーをつくるのは経営者の仕事であり、経営そのものだ。自分で戦略をつくって、自分で動かして、成功したり、失敗したりを繰り返していくなかでセンスが磨かれる。しかし、誰もがそんな経験ができるわけではない。そこで、次善の策として擬似体験が大切になる。「擬似場数」といってもよい。
     擬似場数を踏むための方法にもさまざまなものがある。より本番に近い擬似場数は、センスのいい人の隣にいて、その人の一挙手一投足を観察すること。シャドーイング(shadowing)ともいう。昔からある「鞄持ち」の方法論だ。
    <中略>
     誰でもいいので、まずは自分の周囲の人でセンスがよさそうな人をよく見る。そして見破る。「見破る」というのは、その背後にある論理をつかむということだ。センスのいい人をただ漫然と観察したり真似するのではなく、なぜその人はそのときにそうするのか、「なぜ」をいちいち考える。これを繰り返すうちに、自分と比較してどう違うのか、自分だったらどうするか、と考えるようになる。自分との相対化が起こる。そうして自分の潜在的なセンスに気づき、センス磨きが始まる。擬似場数を踏むとはそういうことだ。
     センスのいい人のそばにいながら何年たっても進歩しない人というのは、人を見るだけで終わっていて、見破るところまでいかない。見破らなければ相対化できない。自分と相対化することで初めて自分に固有のセンスが磨かれる。
     といっても、センスのいい人がそう都合よく自分のそばにいてくれるわけではないし、鞄持ちをできたとしても見る対象がごく少数に限定されてしまう。もう一段さらに擬似的ではあるが、もっと日常的に手軽にできる方法があった方がよい。それが読書である。
     戦略のセンスを錬成する手段として、なぜ読書が優れているのか。情報源として本が優れているということではない。情報があらゆるメディアから送り出されてくる。しかしそうした情報の九十九%は「断片」にすぎない。繰り返すが、センスとは因果論理の引き出しの豊かさである。断片をいくら詰め込んでも肝心の論理は身につかない。
    <中略>
     論理を獲得するための深みとか奥行きは「文脈」(の豊かさ)にかかっている。経営の論理は文脈のなかでしか理解できない。情報の断片を前後左右に広がる文脈のなかに置いて、初めて因果のロジックが見えてくる。紙に印刷されたものでも電子書籍でもよい。あるテーマについてのまとまった記述がしてあるものを「本」と呼ぶならば、読書の強みは文脈の豊かさにある。空間的、時間的文脈を広げて因果論理を考える材料として、読書は依然として最強の思考装置だ。

    『元祖テレビ屋大奮戦!』井原高忠
     黎明期のテレビ局では、ヘッドフォンといえば電話機の交換手が使っているものと大差ない粗末なものだった。井原はそれが嫌でドイツのシーメンス製のものすごいのを買ってきたり、NASAで人工衛星の乗務員が使っているものを手に入れてくる。また、職場の仲間で意味もなく何着もユニフォームをつくる。それが背中にまでポケットのついたジャンパーだったり、オリンピックのブレザーみたいなものだったりと凝りに凝っていた。「格好をつける」ためなら金も手間も惜しまない。
     なぜそこまでするのかというと、仕事は「まずはテメエがその気にならないと駄目だから」。これが井原に一貫した論理である。『ストーリーとしての競争戦略』でももっとも言いたかったことなのだが、当の本人が「面白がっている」こと、これが優れた戦略ストーリーの絶対条件だ。自分で心底面白くなければ、人がついてくるわけがない。ましてや顧客がついてくるわけがない。当たり前すぎるほど当たり前の話だが、「まずはテメエがその気になる」という原則は、現実の仕事の局面ではわりとないがしろにされがちだ。井原は自分が面白いと思うことに徹底的にこだわる人だった。
     その一方で、「アーティスト」に典型的に見られることなのだが、自分の好きなこと、面白いと思うことにこだわるあまり、顧客の視点を見失い、結局のところ商売にならない、という成り行きも少なくはない。趣味と仕事は違う。趣味は自分一人で楽しめればよいが、仕事は価値の受け手である顧客がなければ成り立たない。自分がその気になって楽しくやらないと始まらないが、自分が楽しいだけで終わったら、ただの趣味である。その点、井原は自分自身の面白さにこだわりつつ、あくまでも「お客が実際に観て喜んでナンボ」という商売に執着する。

    『一勝九敗』柳井正
     柳生さんの思考は目の前で起こっている具体的な物事と抽象的な原理原則の体系と常時いったりきたりしている。この具体と抽象の振幅の幅がとんでもなく大きい。振幅の頻度が高く、脳内往復運動のスピードがきわめて速い。
     戦略ストーリーを構築する経営者の能力は、どれだけ大きな幅で、どれだけ高頻度で、どれだけ速いスピードで具体と抽象を行き来できるかで決まる。具体的な問題や案件の表面を撫でているだけでは、優れた戦略ストーリーは生まれない。最終的な意思決定は常に具体的でなければならない。しかし、その一方で抽象度の高い原理原則がなければ、しかもそうした原理原則きちんと言語化され、言葉で意識的に考え、伝えられるようになっていなければ、筋のよい戦略ストーリーはできない。
     原理原則はルールではない。ましてやマニュアルでもない。それを適用していれば自動的に答えが出てくるというものでは決してない。二三条にある原理原則は、武道でいう「型」のようなものだ。どんな状況で、敵がどんなふうに来ても、「型」ができていれば対応できる。柳井さんは大きな決断にしても、小さな決断にしても、必ず二三条に立ち戻って考える。だからブレない。

    『「バカな」と「なるほど」』吉原英樹
     戦略の目的は長期利益である。この一瞬だけ儲けましょう、という話ではない。だから競争優位を構築しようとする以上、それは持続的でなくてはならない。構築よりも持続のほうが何倍も難しい。だから、戦略論の行き着くところは常に「模倣障壁」の問題になる。ようするに、他社が追いかけてきても違いを維持するための障壁をいかに作るかという話だ。
     典型的な模倣障壁としては、規模の経済、特許、重要な資源の占有、ノウハウの密度などなどがある……ということになるのだが、僕にはこのロジックがどうも物足りなかった。いくら模倣障壁をつくっても、競合他社も儲けようとしてそれなりに必死になって追いかけてくる。模倣されるのが遅いか早いかの違いはあっても、模倣を阻止しようとする防御の論理には限界がある。「模倣障壁の構築が重要」と言った瞬間、ロジックとしてはずいぶん窮屈な話になる。
     従来の「模倣障壁」系の話に代わる持続的な競争優位の論理はないものか。僕はこのことをずっと考えていたのだが、ある日突然降ってきたのが吉原先生の『「バカな」と「なるほど」』(以下、カギかっこが多くて面倒なので「バカなる」と略す)の論理だった。これだ!「バカなる」こそが持続的競争優位の本命だ! と唐突に興奮した。
    <中略>
     ある人が何かを始めた。その時点では「バカ」なことに見える。しかしその人には先見の明があった。五年たってみると、その人に時代が遅ればせながら追いついてきた。振り返ってみると、「あの人には先見の明があった」と言われるが、初期の時点では競合他社は「バカ」なことをしようとは思わないから違いがつくれる。しかも、その「先見の明」が本格的な成果を引き出すようになるまで、誰も真似をしない。文字通り「先見」の明なので、その時点では周囲の人々は「明」だと思っていないわけである。だから「自分がやっているのに、他の人はやっていない」という状態が一定期間続く。多くの人が「明」に気づいたときには、その人にはすでに先行者優位を構築していた、めでたしめでたし……という話である。ようするに「合理性の時間差攻撃」とでもいうべき論理である。
     しかし、「バカなる」がこの種の時間差攻撃に基づいているのであれば、僕にとってはちょっと物足りない。もちろん先見の明で成功している企業は多い。たとえば、孫正義さんなどは先見の明大魔王かもしれない。しかし、先見の明といってしまえば、戦略は限りなくギャンブルに近づく。先見の明で成功した人一人の背後には死屍累々というのが普通である。これでは戦略をつくる人にとっての論理としては頼りない。孫さんだって百発百中というわけではない。数からすれば、ハズレのほうがずっと多いはずだ。
     そこで『ストーリーとしての競争戦略』では、合理性の時間差攻撃を使わずとも、「バカ」が「なる」に転化する論理を提示することを狙いとした。詳細についてはぜひ拙著を読んでいただきたいが、僕バージョンの「バカなる」は、部分と全体の合理性のギャップをつく、というロジックになっている。いわば「合理性の時間差攻撃」である。

    『スパークする思考』内田和成
     ノーベル賞を取った経済学者、ハーバート・サイモンが素晴らしい言葉を残している。「情報の豊かさは注意の貧困をつくる」。ようするに情報と注意はトレードオフの関係にあるという洞察だ。情報が増えれば一つひとつの情報に向ける注意量は必然的に減る。情報が減ればそれに向ける注意量は増える。なぜか。肝心の人間の脳はキャパシティがこれまでもこれからも大して変わらないからだ。
     インターネットがいい例だ。ネット上には大量の情報が存在している。しかし、情報はそこにあるだけでは意味がない。人間がアタマを使って情報にかかわって初めて意味を持つ。人間と情報をつなぐ結節点となるのが「注意」。人間が情報に対して何らかの注意を振り向けるからこそ、情報がアタマにインプットされ、脳の活動を経て、意味のあるアウトプット(仕事の成果)へと変換される。

    『最終戦争論』石原莞爾
     特定の文脈の中で戦略ストーリーを構想しようとする人にとって、歴史はまたとない思考の材料を提供してくれる。歴史は文脈に埋め込まれたロジックの宝庫である。歴史上の出来事はすべて「一回性」という特徴をもっている。その時空間の文脈の中でしか起きえない。その文脈でどうしてそのことが起き、なぜそのような結果をもたらしたのかを論理的に考察する題材として、歴史は最高に優れている。

     歴史を重視する石原の戦略思考を一言で言えば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」。将来の戦略を構想するうえでも、必ず大きく過去に遡って、歴史に埋め込まれた一回性のロジックを徹底的に突き詰める。傭兵や兵器といったきわめて実質的な因果論理を縦横無尽に駆使して、戦争とその戦略の本質に迫っている。歴史的考察から「持久戦争」と「決戦戦争」というコンセプトを帰納的に導出し、そこから論理的に構想を組み立てる。こうした石原のスタイルは戦略構想の王道といえる。
     歴史的な時間軸に基づいた戦略思考の重要性は企業経営でも変わりがない。現在は必ず過去とつながっているし、現在と切り離された未来もない。戦略というとすぐに「未来予測」となり、「この三年で何が起こるか?」とか「二〇二五年の産業構造は?」とか「二〇五〇年の世界はどうなっているか?」という話に目が向きがちなのだが、これは邪道である。しょせん未来のことは誰もわからない(今までだってわからなかった)。だから「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の思考が大切になる。

    『「日本の経営」を創る』三枝匡、伊丹敬之
     どうやったらモテるか。スキルでは解決がつかない。モテない人はスキルが足りないのではない。センスがないのである。もっといえば、「向いていない」。ようするに、センスとスキルでは「種目が違う」のである。教室で先生に習う「国語算数理科社会」は必ずしもセンスを教えてくれない。
     綜合力とか経営センスというのは、月光仮面のようなものだ。どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている。経営者としてのセンスがある人はとない人がいる。その違いは厳然としている。しかし、「じゃあセンスって何?」という話になると、誰も一言では説明できない。
     経営センスという月光仮面の正体を、三枝さんはさまざまな角度から言語化してくれている。その一つが「因果律のデータベース」が豊かなこと。経営を構成している多種多様な要素のうち、どこのボタンを押したら、どんなことが起きるのか、それが他の要素にどのように波及して、次に何が起こるのか。こうした因果律の引き出しの量と質が経営者に求められる資質だと三枝さんは喝破する。
     ただし、ここがポイントなのだが、経営における因果律は、自然科学が定立する法則とは異なる。「こうしたら必ずこうなる」という一般性、再現性がない。現実の経営における因果はその企業のそのときに特殊な文脈に埋め込まれている。会社が違えば同じアクションが違った結果を生み出す。同じ組織の中でも。時間が異なれば、以前とは違ったリアクションが出てくる。つまり経営における因果律はあくまでも擬似的にしか存在しない。置かれた文脈に応じてアウトプットが毎回変わってくる。ここに経営の難しさがある。
     三枝さんは、因果律の引き出しを豊かにするためには経験を積んでセンスを錬成するしかないと言う。仮説を現場で試し、失敗したらまた仮説を考え直して実行し、まただめだったらもう一回……と試行錯誤していく。仮説と現実のあいだを往復することで、自分のまずかった点と抽象化、論理化できて初めて応用が利くようになる。現実現場の文脈のなかでの具体的な経験に基づいているけれども、最終的には文脈を超えて応用が利くような「論理の束」、これが経営センスを形成している。
     柳井正さんも第2章で見た『一勝九敗』で同様のことを言っている。経験を積むだけでは意味がない。一つひとつの経験が論理化されていないと必ず同じ失敗を繰り返す。論理レベルに抽象化できていれば勘がはたらく。目の前に起こっている経験したことのないような事態にも、実は過去にやった同じ方法論が通用する。「勘がいい」とはそういうことだ。
     ようするに直観と論理は表裏一体、コインの裏表の関係にある。直観的な意思決定ほどその背後に深い論理を必要とする。抽象化や論理化という作業は、個別具体の経験を将来に応用するためのタグづけみたいなものだ、と三枝さんは言う。タグの量と質を向上させるためには、経営者として場数を踏むしかない。人間が年をとるほど賢くなるというのはそういうことだ。若者に「太刀打ちできない」と思わせるような人物は、因果律のデータベースが尋常でなく発達しているタイプの人である。

    「育成しようとしても直接的には育成できないのが経営人材」というスタンス、ここに三枝さんの話の妙味がある。経営人材は「育てる」ことはできない。当事者が自分で「育つ」しかないのである。だとしたら、経営は何をできるのか。これがミスミの経営者としての三枝さんのテーマである。経営人材を直接育成しようとするのではなく、経営人材が自ら育つための仕組みなり、土壌なり、文脈を社内に組み込む。ここに経営トップの仕事がある。

    『おそめ』石井妙子
     先だって東京大学の伊藤元重さんに聞いた話が面白かった。「仕事」に対応する英語の言葉は三つある。一つ目がlaborで、文字通りの「労役」である。遠い昔であれば、人々の仕事はガレー船の底で櫂を漕いだり、ピラミッドの石を運ぶという類の労役であった。レイバーは基本的には強制されてやる奴隷の仕事である。いやでもやらないと生命や安全が脅かされる。
     二つ目は、workだ。産業革命以降、大規模な企業組織が誕生した。人々は組織に属してそれぞれ決められた仕事をするようになった。これがワークとしての仕事で、タイピストや電話交換手という二〇世紀のミッドセンチュリーな香りのする職業がその典型的なイメージである。
     そして三つ目が、playである。たとえばイチローにと手の野球という仕事がこれに当たる。イチローは野球選手として仕事をしているが、彼を「ワーカー」という人はいない。いうまでもなく「プレーヤー」だ。

    『Hot Pepper ミラクル・ストーリー』平尾勇司
     リーダーとはようするに「ストーリーを語る人」だ、と平尾さんは言い切る。「この事業で何を実現したいのか」「実現した時の世の中は、この会社は、あなた自身はどうなっているか」「そこに向けての各自の役割は何か」「一人ひとりの仕事と人間的成長の中身は何か」をシンプルにつなげるストーリーを語る。それがリーダーの役割であり、リーダーだけができる仕事である。起こったことを後付けで説明するのは誰でもできる(僕のような学者でもできる)。しかし、これから何を起こすか、どうやって起こすか、未来への意思を物語れるのはリーダーだけしかいない。平尾さんは言葉の正確な意味での「ストーリーテラー」だった。
     戦略を実行する過程で新しいアイデアが現場から生まれ、もともとの戦略ストーリーが「創発的に進化」するということはありうる。「岡田奈奈恵の「3年契約受注営業」」はその典型だ。むしろ優れた戦略ストーリーであるほど、そうした創発的な進化を引き起こすものだ。
     しかし、だからといって、ボトムアップで衆知を集めれば戦略ができるわけではない。「創発的なアイデア」にしても、それをくみ取り、全体のなかに位置づける受け皿としてのストーリーが先行して存在しなければ、戦略の進化はありえない。原型となるストーリーをつくるのは厳然としてトップの仕事。その意味で戦略ストーリーはトップダウンでつくられるべきものだ。

    『成功はゴミ箱の中に』レイ・クロック、ロバート・アンダーソン
     標準化したシステムに乗せてフルスケールでぶん回していくという戦略ストーリーの強みは、失敗と成功の見極めが容易になるということにもある。少しずつ拡大していくという手法は、一見リスクがないようだが「もう少し待てばなんとかなるのでは」「いやいや、ここからが本番」と自分に言い訳がきいてしまう。そして気づいた時にはダラダラと損を重ねている。そこまで続けてしまうと、埋没コストが大きくなり、それが心理的退出障壁となり、失敗が泥沼化する。

    『映画はやくざなり』笠原和夫
     プロは一筋縄ではやっていけない。前にも出てきた話だが、仕事と趣味は異なる。趣味は自分を向いた活動だ。自分のためにやればよい。しかし、それでは仕事にならない。自分以外の誰かのため、人の役に立たなくては仕事といえない。仕事で自己実現を果たす。仕事で世の中に貢献する。いずれも結構なのだが、自分の内発的な動機と自分以外の誰かのためにならなくてはならない仕事の間にどういう折り合いをつけるのか、ここに問題がある。
     脚本家である笠原には、自分の基準で心底よいと思える、書きたいホンがある。しかしそれだけで突っ走ってしまえば、商売にならない。「作品」なのか、それとも「商売」なのか。このジレンマが商業映画のプロには終始つきまとう。
    <中略>
     小説や映画に限らず、どんな世界でもプロは需要と供給の狭間でこの種のジレンマに直面する。このジレンマを手練手管で克服し、その葛藤のなかから成果を生み出すことができるのが一流の仕事人だ。一見して矛盾するものを、矛盾のまま、矛盾なく扱う。笠原はそのことを身も持って教えてくれる。
     磯崎さんとは逆に、笠原和夫は軸足を「商品」に置く。しかし「作品」を忘れるわけでは決してない。会社は言う。「売れる映画がいい映画で、脚本なんて客が入るかどうかだけ考えて書けばいい」。しかし、その通りやっているだけではプロとはいえない。目の前の需要を全面的に受け入れてしまえば、結局のところどこかで軽んじられるというのがプロの世界だ。笠原はこのことを見抜いていた。会社のほうも、「お前ら、身勝手な「芸術」作るなよ」と言いながら、どれだけ骨がある奴かを観察しているものだ、と書いている。
     プロを志す以上、どんな仕事にもそういう面はある。すべてが矛盾なくぱっぱっと正しい方を選択できれば話は簡単なのだが、世の中そうは問屋が卸さない。だから、プロには二枚腰がいる。会社に反旗を翻してばかりいたら干されてしまう。それでも、たまには会社の意向に逆らってでも己の腕前の程をきっちり見せておく。そうしないと、プロとしての自分の真価や本領が相手に伝わらない。笠原は「これは映画屋の鉄則」と言っている。

     僕が自分の仕事で『映画はやくざなり』からもっとも影響を受けた部分は、映画の脚本を書くという仕事における「何をどういう順番で考え、モノにしていくのか」という仕事の順序の重要性だ。
     これまでも強調してきたように、優れた戦略の本質は因果論理の時間展開にある(だから戦略は「ストーリー」になっていなければならない)。「組み合わせ」だけでは優れた戦略になりえない。むしろ本質は「順列」にある。時間軸に沿った「物事の順序」が肝心だ。
    <中略>
     映画づくりもこれに似ている。「誰もが思いついていない目の覚めるような斬新なプロット」などそもそも存在しない、というのが笠原のスタンスだ。普通の人間が面白いと思うストーリーはすでに全て出尽くしている。どこを見渡しても、「日の下に新しきものなし」なのだ。
     笠原は「書く」という作業を仕事の最終段階と定めている。「書く」のはストーリづくりの最後にくる一要素でしかない。笠原は脚本を書くという仕事の「順列」を次のように定めている。ここに笠原の戦略のカギがある。
    ①コンセプトの検討
    ②テーマの設定
    ③ハンティング(取材と資料蒐集)
    ④キャラクターの創造
    ⑤ストラクチャー(人物関係表)
    ⑥コンストラクション(事件の配列)
    ⑦プロットづくり
     実際にプロットを書くのは最後の最後。まず考えるべきはコンセプトとテーマ。それができて初めて、資料を読み込み、背景となる土地に足を運び、人と会い……というハンティングに移る。そこからキャラクターを創り、キャラクター同士の人間関係を決めたうえで主な事件を配置し、いよいよプロットづくりにとりかかる。
     笠原はストーリーづくりの最初にくるコンセプトとテーマをきわめて重視している。笠原のいうコンセプトとは「戦略の凝縮した表現」。
    『総長賭博』というタイトルで新作を書けと命令されたとき、ヤクザ映画はすでにマンネリ化しつつあった。そこに新風を吹き込むにはどうするか。たまたま酒を飲みながらテレビで観ていた『アンタッチャブル』のメリハリがきいたリアリズムに笠原はヒントを得た。そこからセミドキュメンタリータッチのやくざ映画というコンセプトが生まれる。
     テーマとは、コンセプトに沿って客に伝えるべき映画の「観念」である、と笠原は定義する。最終的には人物のセリフや、モノローグや、ナレーションに落ちるわけだが、テーマをあからさまに表出するのは邪道で、客に以心伝心するモノでないといけない。

    『市場と企業組織』O・E・ウィリアムソン
    「ガツンとくる」「ハッとする」「ズバッとくる」というのは僕なりの論理の面白さの分類だが、読者の方々も自分にとっての面白さをパターン化して、どこに自分のツボがあるかを考えてみることをおすすめする。大勢のひとがあからさまに面白がることでなくても、読書や勉強に関して、自分で妙に面白いと思ったことが、誰にも一つや二つはあるはずだ。なぜそのことを面白がれるようになったのか、まずはその「論理」を考えてみることだ。
     面白さのツボがわかればしめたものだ。面白い論理との出合いを求めて勉強が進むようになる。「これ、面白そうだな」と自分の感覚に引っかかった映画を観るように、読書と向き合える。もちろん全部が全部面白い論理を提供してくれるわけではない。映画と同じで「ハズレ」もある。しかし、だからと言って一度論理の面白ささえわかってしまえば、勉強がイヤになることはない。習慣として持続する。
     繰り返し言う。知識の質は論理にある。知識が論理化されていなければ、勉強すればするほど具体的な断片を次から次へと横滑りするだけで、知識が血や肉にならない。逆に、論理化されていれば、ことさらに新しい知識を外から取り入れなくても、自分の中にある知識が知識を生むという好循環が起きる。
     読書や勉強に限らず、どんな分野の仕事でも、優秀な人というのは「面白がる才能」の持ち主だ。面白がるのは簡単ではない。人間の能力の本質ど真ん中といってもよい。時間をかけてでもそうした才能を開発できるかどうか、ここに本質的な分かれ目がある。

    『生産システムの進化論』藤本隆宏
     組織の持つ能力には事前能力と事後能力がある。事前の合理性と事後的な合理性といってもいい。実行とか試行が行われる前に、目的関数や制約条件が一通り吟味され、比較検討され、その結果として採用するオプションが選択され、意思決定が行われる。これが事前の合理性だ。
     これに対して、事後的な合理性の世界では、すでに何らかの理由で、あることが行われている。その後、事後的に目的関数などの情報が与えられ、合理的な行動としての意味づけが後づけでなされたり、活動の修正が行われる。進化論的な立場に立つ本書では、事前能力よりも事後脳力を重視し、そこに議論の焦点が置かれている。
     ポジショニングか能力かという話に戻る。ポジショニングは典型的な事前能力による差別化であり、経営者の意思決定によるところが大きい。それに対して、能力構築は事後的な合理性でしか説明できない。これは何も経営学の世界だけではない。世の中のいたるところで普通にある話だ。
     たとえば結婚。事前合理性で結婚するとなると、無数にいる結婚相手のオプションをあらゆる変数(身長とか体重とか髪型とか食べ物の好みとか趣味とか職業とか年収とか出身地とか……キリがない)ごとに比較しつつ、階層的に選択を繰り返して、もっとも適切な結婚相手を選ぶという話になる。いうまでもなく、こんなことは不可能だ。だから、普通は「とりあえずこいつと結婚するか」程度の、十分に合理的とはいえない理由で一緒になる。これが藤本さんの言う「ある制約により特定のシステムを取ることを余儀なくされる」状態に当たる。
     その結婚生活が幸せなものになるかどうかは、当然のことながら結婚の意思決定の後に延々と続く日々の生活のありようにかかっている。結婚生活の成否は事後能力によるところが九〇%以上といってもいいと思う。無理して事前合理性で押し切ろうとすると、かえって不幸な結婚になる。ちょっとうまくいかないと、結婚相手の選択が間違っていたという話になる。で、離婚する。また事前合理性をよりどころに再婚。すぐに破綻して離婚、という具合に結婚と離婚を繰り返すことになりかねない。
     就職とかキャリア形成もまた創発プロセスとして理解できる。事前合理性には限界がある。事前にあらゆる職業オプションを比較検討して、自分にとってベストな仕事を選択できるわけがない。

    『日本永代蔵』井原西鶴
     毎年年末に売掛金の回収で苦労しているのは事実なのだから、三井八郎右衛門を待つまでもなく、もっとうまいやり方を考えつく人がいてもよさそうなものだ。しかし、当時の商売人にとって「商売とはそういうもの」だから、(優れている商売人ほど)ますます掛金管理の腕をあげることばかりに血道をあげる。この盲点をついたのが三井の越後呉服店だった。だからこそ、「現金切売り・掛値なし」は戦略のイノベーションになりえた。
     その業界で既存の支配的な戦略やビジネスモデルのもとで「合理的」で「大切」なことであれば、みんなが必死に資源と努力を投入する。しかし、「今みんなが必死になってやっていること」の先には、戦略のイノベーションはない。裏を返せば、従来の支配的な戦略にとってカギとなる武器を完全に無力化する、ここに戦略のイノベーションの本質がある。これが(手前勝手な推測かもしれないが)、西鶴が記述した越後屋呉服店のケースから僕が引き出した洞察だ。

    『10宅論』隈研吾
     知的能力とは何か。「あの人はアタマがいい」と言うとき、ようするに何をもってアタマがいいと言っているのか。記憶力が抜群だとか、難しい数学の問題が解けるとか、ありとあらゆることを知っている(知識の範囲と量)とか、普通の人が知らない専門的なことを知っている(知識の希少性)とか、人によってさまざまだろう。
    「アタマを動かす」とはどういうことか。いうまでもなく、知的能力の基準は知的活動の定義に依存している。知的活動とは、ようするに「抽象と具体の振幅」だと僕は考えている。たとえば仕事がデキる人を指して「あの人は地アタマがいい」などと言う。こういう場合の「地アタマのよさ」は、抽象と具体の往復の幅広さと頻度とスピードを指していることが多いと思う。
     仕事は常に具体的なものである。具体的な成果が出なければ仕事にはならない。だから最終的には絶対に具体的なものに落とし込まれる。しかし、具体の地平を右往左往するだけでは、作業をしているだけで、アタマを使って仕事をしていることにはならない。具体をいったん抽象化して、抽象化によって本質をつかみ、そこから得られた洞察を再び具体的なものなり活動に反映していく。これが「アタマを使って仕事をする」ということだ。

     ローマの大浴場の用途を転換することで駅舎が生まれる。このことは建築における創造が具体と抽象の往復運動から生まれるということを如実に物語っている。前提として、ローマの大浴場やホテルの客室というきわめて具体的な実体がある。その本質は何なのかを突き詰めると、「大勢の人が日常的に繰り返し集まる場所」とか「浮遊した状態にある人のテンポラリーな場所」といった抽象概念に至る。こうした概念が具体化されて、駅舎やワンルームマンションといった「新しい建築物」が生まれる。
     ある文脈に埋め込まれていた具象を、その文脈から引き剥がし、それを新しい文脈に位置づける。ようするに、これが創造という営みであり、創造のプロセスである。このプロセスでいう「引き剥がし」が抽象化に相当する。
     建築における創造のプロセスが具体と抽象の往復運動だとすれば、具体的な事象を抽象概念へと引き上げる力、抽象を具体へと引き下ろす力、いずれも必要となる。二つの力の循環運動なので「ニワトリとタマゴ」といえばそれまでだが、一般的にはモノを上げる方が下ろすよりも大変になる。具体を抽象概念に引っ張り上げる。これがなければ具体へ下ろすこともできない。素人ながら、「いい建築家」というのはとりわけこの「引っ張り上げる力」が強い人たちなのではないかというのが僕の仮説だ。

    『直球勝負の会社』出口治明
     深い洞察からくる信念に根差した哲学があれば思考と行動がぶれない。だから意思決定も早くなる。細かい市場動向の調査や資本調達のシミュレーションなどせずとも、本質的な基準さえあれば、意思決定は拍子抜けするほど素早くできてしまうものだ。
     結論を出さずに「ちょっと持ち帰らせてください」ということになってしまう理由は、情報不足ではない。往々にして信念や思想の欠如が意思決定を遅らせるのだと僕は思う。未来のことはいくら情報を集めてもしょせん正確にはわからない。大きなリスクを伴う。難しい意思決定をスパッと下せるかどうかは、その人の信念と賢慮にかかっている。

    『クアトロ・ラガッツィ』若桑みどり
     ビジネスは絵画や小説のような純粋な創作活動とは異なる。普通の人に対して普通の人が普通にやっているのが商売だ。天才の創造性やウルトラC級の飛び道具は必要ない。大切なことほど「言われてみれば当たり前」。出口さんが『直球勝負の会社』で強調していたことだが、虚心坦懐に向き合えば、ほとんど全ての仕事はごく当たり前の論理に基づいている。
     たとえば、「相手の立場に立って物事を考える」。どんなビジネスにとっても必須の構えであることはいうまでもない。商売はまず相手を儲けさせなければ話にならない。相手を儲けさせて初めて自分が儲かる。ところが、これが実に難しい。手前勝手な供給側の都合でアタマがいっぱいになる。相手にとってどうでもいいことにのめり込む。前章で話した「プロクルステルスの寝台」だ。
    「グローバル化!」がかけ声倒れに終わっている会社の事例を眺めると、あちらこちらで「プロクルステルスの寝台」が顔を出しているのに気づく。グローバル化は相手のある話だ。常にこちらが出ていく先の国や市場や人々がいる。自分たちの都合で完結できる話ではない。
     ところが、「日本はグローバル化しなければならない」とか「今日本企業に必要なのはグローバル経営である」となると、なぜか主語の「日本」とか「日本企業」の内情ばかりに目が向いてしまう。グローバル化してどこの市場で誰を相手にするのか、どういう人たちと一緒に仕事をしていくのか、相手の目線での視線が欠落しがちだ。
     考えてみれば、鎖国体制の崩壊と開国以来、明治維新を経て現在に至るまで、日本は「グローバル化される」側にあった。グローバル化の受け手としての経験は豊富に持っている。グローバル化される側としての日本は、もはやベテランの域に達しているといってよい。
     日本が言語的にも、文化的にも、地理的にも、かなり独自性の強い国であるということが、グローバル化を困難にしていることは確かだ。しかし、それは同時に日本へとグローバル化してきた海外の企業の側にも大きな非連続性があったということを意味している。日本に入ってきた外国企業の成功や失敗の歴史に目を向けてみれば、多くの示唆と教訓を引き出せるはずだ。

    ――そこまでズルズル読みする原動力は何ですか?
    楠木 ま、ありていに言えば好奇心ということになりますけど、僕の場合、それは「知識欲」というのとはだいぶ違う。「森羅万象について知らないことを知りたい」という意味での知識欲はむしろ乏しい方ですね。知識や対象そのものよりも、その背後にある論理にむしろ関心がある。だから自然科学モノとか、ダメですね。ブラックホールが大きくなってるとか、超ひも理論とか。
    ――ポピュラーサイエンス系ですか。
    楠木 ときたま読むんですけど、科学的な知識がないから、自分では論理を追っていくことができない。だからサイエンス系ではトリップしにくい。僕は世の中に生きている人間が織りなしているロジックみたいなものを、追っていくのが好きなんですよ。たとえば角川春樹の面白さ。それはもう強烈で大変な人ですけれども、僕にとっての面白さは、彼の突飛な行動の背後にあるロジックにある。書いているものを読むと思考も行動もハチャメチャなんですが、そうでいながら、だからこそ、かもしれませんが、経営者としても大変な成果を出した人です。経営者として脂がのっているときに、彼が角川書店でやったことは戦略ストーリーとして最高ですよ。さらに俳人としての角川春樹がいる。僕のようなド素人がみても一目瞭然の大変な才能ですよね。こうした角川春樹のさまざまな顔がどういうロジックでつながっているのか。そこに僕の興味と関心がある。ま、凄すぎる人なんで、結局のところよくわからないのですけどね。

  • 面白い

  • 取り上げられた本の半分は、ビジネス書ではない。著者は、「アクター高峰秀子さんの自伝」を最も影響を受けた本として挙げている。ここには載せてないんですけど。。。挙げられたのは、軍人石原莞爾「最終戦争論」、銀座の伝説「おそめ」、井原西鶴「日本永代蔵」、天才建築家・隈研吾の処女作、ジェンダー美術史家・若桑みどりさんの晩年の作「クアトロ・ラガッツイ」など。こららの文面下に流れるものを捉え、引揚げられた。ビジネス書は好きでは無いが、紹介されたビジネス書も読んでみようと思う。

  • ちょっとくどすぎた

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著者プロフィール

経営学者。一橋ビジネススクール特任教授。専攻は競争戦略。主な著書に『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)などがある。

「2023年 『すらすら読める新訳 フランクリン自伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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