武道的思考 (ちくま文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
4.10
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本棚登録 : 103
感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480435903

作品紹介・あらすじ

「いのちがけ」の事態を想定し、心身の感知能力を高める技法である武道には叡智が満ちている! 気持ちがシャキッとなる達見の武道論。解説 安田登

感想・レビュー・書評

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  • まだまだ期待を込めて星4つ
    次の作品でこの作者の最終評価をしたい‼️

  • 身体で考える。
    「わからないはずのものが、わかる」 。
    先を見る、後も見る。

  • 著者は神戸女学院大学の名誉教授で武道家であります。「武道的思考」というタイトルですが、武道の動きでカラダの仕組みや思考について語っています。何気ないカラダの動きを、武道というフィルターを通じてわかりやすく解説をしています。

    ペンネーム:朝鍛夕錬

    https://bit.ly/3ypAQB7

  • これまでに刊行された多くの著者の本とおなじく、著者のブログに発表された文章をまとめた本です。

    タイトルは「武道的思考」ですが、著者が道場主を務める合気道や、それにまつわる身体論などの話題だけがあつかわれているわけではなく、現代の日本社会にかんする時評的な性格の文章も含まれています。

    「生き延びるチャンスをどれだけ高めるか。傷つけられ、生命力を失うリスクをどれだけ切り下げるか。そのシンプルな目標に全身全霊を集中させる。それが「武道的」という構えだろうと思います」と著者は語っており、このような原理にもとづいてさまざまな問題についての著者の思考が展開されています。

    武道を中心にして、あまり話題が拡散することなく集中的に著者の考えがまとめられている本としては、『修業論』(2013年、光文社新書)があり、本書はどちらかというと肩の凝らないエッセイです。ひとつのテーマを掘り下げていく本もおもしろいのですが、本書では著者の考える「武道的思考」が自由闊達に展開されていて、たのしんで読むことができました。

  • ーー武道の目的は、端的に「生き延びる」ことです。(p.397あとがきより)
    ーー「武士は用事のないところには行かない」(同上)

    コロナ禍の今、重く響く言葉。
    身体の感度が鈍ったところに、災難はやってくる。

  • 「武道的に思量する」、「武道的にふるまう」ことについて書かれた「文庫版のためのまえがき」がなかなか素敵であると思いました。本編のひとつひとつの話はなかなか深いところまでは理解できていないかもしれませんが、あーなるほどというときが来ることを信じて、日々精進します。

  • びっくりした。読み終わってびっくりがまだ体に残っている。順に読んでいって、最後の方に衝撃的なことが書かれている一行があり、なんだこれ、それまでの論理もぶっ飛ぶくらいの衝撃を受けてしまった。

    書こうと思っていた感想も忘れてしまった。
    とにかく武道的思考だった。

    なんとなく、日本に漂うムードについて、景気は良くなったけど、まだ、戦後は続いているのではないか?くらいのことを感じていたのだが私も、甘かった。まさか日本が「まだ」戦いの中にいるとは気づかなかった。

    これは、言われないと気づかない。
    言われたらもう、そうとしか思えない。

    何がよかったって、これだけはっきり言ってくれる大人はいなかった。これがファーストコンタクトだっただけで、もちろん他にも語っている人がいるのかもしれないけれど、ここまで理詰めでしっかりと、感情的な話ではなく、説明してくれる大人を私は知らない。だからこの人を信頼したいと思うのかもしれない。

    内田さんは、70年安保闘争に関わっていたことがあった。そのときの原動力は、正直にならない大人たちへの怒りだった。それが、今のスタンスに繋がってるんだろうな。大人が嘘をつくことに、とても怒りを覚える人(世代)なんだろう。その怒りがどこから来ているのか?というのを、とても冷静に分析しているのがかえってその怒りの強さを表しているような気がする。

    それを受け止めたいと思った。なるべく純導体でありたい。

    そんなふうに思えた。なんというか、生きる背筋が伸びる本だった。こんな大人でありたいと思った。お手本のような本。そしてすげーんだな日本ってと思った。内田さんもだけど、すげーんだな、日本。そう思わせたのはやっぱり、内田さんがすごいのだろうけど、それを内包する日本は、やっぱすごい。

  • まずは個人的なことから。

    先日車のナビゲーションシステムが壊れて修理に出している間に、どうしても出かけなくてはならない用事ができました。
    行く先はもちろん、今まで行ったことのない、土地勘のない場所です。
    でも特に何の不安も感じず出発しました。
    なぜならそういうことは、免許をとった当時は普通のことだったからです(当時はカーナビなんて全然普及していなかったし、あっても精度が低すぎて到底信頼はできなかった)。
    グーグルマップで事前に道順を確認し、100均で道路地図も用意して準備は万端。
    いざ、ゴー!(パケ放題的な契約でない僕は地図アプリをカーナビ代わりに使うなどということはできず、近隣までたどり着いてから場所の特定に使用する算段)
    で、しばらく走ると案の定道に迷う。
    「どこかで早く曲がりすぎたかなあ」と、使い道があってよかったくらいの余裕な気持ちで道路地図を開く。

    が、しかし、
    そもそも自分が今いる場所の見当がつかない。

    こんなこと今までで始めての経験です。
    道には迷っていたとしても、自分が走ってきたルートからだいたいの現在地くらいは予測できる。
    それが僕の常識でした。

    でも今回は違う。
    現在地が分からない。
    仕方がないので地図を順繰りにたどっていく。
    で、たぶんこの辺だろうという当てをつける。
    かなり自信ない。
    しかも、いま自分が向いている方角がよく分からない。
    「東西南北くらい勘でわかるだろ!」
    と方向音痴の知人をさんざん馬鹿にしていた僕は果たしてどこにいってしまったのか。
    しばらく意地になって地図をにらみつけてはひっくり返し、てなことをやっていたけれど、約束の時間もあるし、けっきょく折れてグーグルマップさんを呼び出す。

    見当つけていた場所から随分ずれてる…。
    その後は潔く負けを認めてグーグルマップさんのお世話になりながら、順当に目的地へ到着。
    めでたし、めでたし。

    と随分話が長くなってしまったけれど、この話を聞いた10代の人たちは何て言うんだろう?
    きっと馬鹿にされるんだろうな。
    「最初からグーグルマップ使っておけよ」って。

    でもねえ、おっさんはねえ、一昔前まで感覚的に東西南北がどちらの方角かくらいは分かったし、事前にある程度地図を頭にいれておけば、自分が進んだ体感からだいたい現在自分がどこにいるかくらいのことは鳥瞰的に位置把握することができたのよ。

    で、ここからようやく本の感想に入るのですが(笑)、「なんとなく自分の位置を地図上で把握できていた当時の僕」と、「カーナビや地図アプリを当たり前に駆使してすんなり目的にたどり着く現在の私」とでは、どちらが「生きる力」に秀でているのでしょうか。
    後者である。とは言い難いですよねえ。
    実際にカーナビやアプリがないと目的地にたどり着くこともままならないわけですから。
    でも僕自身がそうであるということは、現代社会に生きる一定数の人は「生きる力」が減退していることや失われていることについては無自覚だし、無反省だということを意味しないでしょうか(それとも僕だけが特殊?)

    たとえば僕の周りでは近年「教育のICT化」っていう言葉飛び交っておりますが、それによって失われてしまうかもしれない力のことが、どれだけ「クール」かつ「考量的」に議論されているのでしょうか。

    英語を学ばせたり、プログラミングさせたりも悪くはないと思いますし、現代社会でそれをさせておきたい気持ちも十分に分かりますが、子どもたちには「生きる力」を身につけさせたい。
    そう強く思いました。

  • 『武道的思考』 内田樹45

    武道的思考=危機的状況の中で生き延びる知恵と力を開発すること

    生きる知恵とは、生き延びるチャンスを増大させるものをいかに多くすることができるかという問いでしか考量できない。(中略)目の前の世界が自分に固有の仕方で経験されているということです。他の誰にも感知されないような意味を世界から引き出すということです。疎遠な世界を親しみに満ちた世界に書き換えるということです。

    非文節的な世界に分節線を引き、そこに意味を賦与する仕事、世界に踏み込んでゆく仕事はほかの誰によっても代替されない。(中略)そして、そのようにして、自分で分節した世界だけが、私たちの本当の居場所なのであります。

    そうした中で、他の誰にも感知されない有用性を探ることもブリコロール性の一環であり、学びも同じで、それを学ぶことの意味や有用性を知らない状態で「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる。

    他人が私に抱いている幻想や洞察を込みで「そういう人間です」という風に私は名乗るようにしている。だって、「他人がそういう人間だと思っている人間」としてしか社会的に機能しようがないのだから。


    他人を出し抜いて利己的にふるまうことで自己利益を得ている人間が、この世に自分のような人間ができるだけいないことを願うようになる。そして、その願いは呪いとしてまっすぐ自分に向かう。他人を出し抜いて利己的にふるまう人間は、その様な人間は社会にいない方が良いと考え、結果的に自己同一性の部分で自滅する。

    継続は力なりというのは本当である。継続するうちに何かいいことがあるのではない。そうではなくて、継続している自分を正当化するために、私たちはいいことを創作し、ねつ造するので、続けているうちに、気が付くといいことづくめになってしまうのである。

    強く念じることは叶う。強く念じるということは細部にまで想像することである。数値的なことではなく、手触りや内臓の愉悦として妄想する。そういう想像のストックは膨大になり、ある時それと同じことがわが身に起きた時、それを宿命の手に捉えられたこととして確信するのである。想像していたことが実現するのではなく、想像していたから実現するのである。真理というものはあらかじめ存在するのではなく、構築するものである。宿命もそうである。それは自由に空想する人の身にのみ到来するのである。

    老いと成熟を隔てるものがある。それは自分自身が経てきたすべての時間を深いリアリティをこめて記憶しておくことでる。身体実感や脳内を駆け巡った妄想や焦慮や不安込みで記憶しておくことである。その時々感じたこと込みで記憶のアーカイブを増やしていくことで、同じ人間の中で、共存していく。成熟とは、年を取るごとに人格のアーカイブが増えていくことである。

    傷つきやすい身体だけが、傷ついた身体からの呼びかけを感知できる。弱さというのはアウトプットではなく、ある種のアウトプットを生み出す傾向の事だからである。

    生物学に「平方根の法則」がある。百個の粒子があれば、その平方根すなわち十個の粒子は例外的な振る舞いをするのである。生物が巨大な理由はここにある。生命体が生き延びる為に必要な精度を高める為である。緊張すると、運動の精度が下がるのは、揺れ動く粒子の数が減少することで、不確実性が増し、動きの精度が落ちるからである。敵と対峙したとき、相手の身体と自分の身体を「同体」として再構築した場合、その身体の構成粒子数は倍になる。この二つの身体を複素的身体としてリラックスした状態に持っていくことができれば、運動制度は私一人が高度しているよりも飛躍的に高まる。巨大な共身体を構築する能力が戦場における殺傷能力と同根のものであることについて社会的合意があるかた、かつて戦場の殺傷能力の高さと政治的統治能力が相関しているとみなされたのである。

    きれいごとをリアルかつクールに演じきれる人間が一定数いないと、社会は保たない。
    国家は私的幻想にすぎない。しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが、私たちが生き延びるためには必要である。

  • 武道的なふるまいとは何か。それは、何か起こってから「対症」するのではなく「予防」の心構えである。本書は、このような「予防」の本質が、今まだ為されていない事象や自分という主体に現時点で属していない身体感覚に対して「どうしたらいいか知っている状態」にあると説いている。知り得ないことを知っているというのは、主体だと仮置きされたものの「外部」を主体化する過程で起こり、言い換えると、対立していたもの(自己と他者)を対立させたまま両立させる術に他ならない。これがなぜそれほどまでに武道的な意味で力を発揮するのかというのを、筆者は福岡伸一ハカセの本で出会った「平方根の法則(100個の粒子のうち√100=10個は例外的な振る舞いをする法則)」にヒントを得て説明している。他者を自己に取り込んだ方が身体の制御精度が上がるというアイディアは、極めて武道、とりわけ筆者の合気道の身体感覚に近いという。本書は、一貫して筆者の経験的な武道の身体性に紐づけられながら語られていた、気もするが、読み終えてみれば何について書いていたかな?と思うほど多種多様な議題を取り扱っている雑然とした本である(褒め言葉である)。

    非常に面白いのは間違いないがコラムを寄せ集めた本であるために、個人的な好みより星を一つ減らしている(実質的な減点の意味はない、なぜならそもそも本書は数値評価なんてクソ食らえについての本である)。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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