- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480432919
感想・レビュー・書評
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とっても楽しいエッセイだ。
読みながらずーっと顔がニコニコしていたに違いない。(気持ち悪い)
吉田さんの作品が好きなのだから、もっと早くにエッセイを手にすれば良かった。
書籍のタイトルも沢山あがる。
アーティスト名も沢山あがる。
奥様とのエピソードや、ひいお祖父様の話、いかにも吉田さん!という文章の数々…。
タイトルにある「木挽町」は現在の東銀座であって、吉田さんのルーツだ。
その昔、お祖父様は歌舞伎座の辺りで寿司屋を営んでいたとのこと。
何と言うか、吉田さんらしいというか、不思議なエッセイだった。
話がタイトルから脱線(連想)してゆく 笑
更に脱線(連想)する 笑笑
それなのに最後は気持ちがいいくらいにストンと落ち着く。
あれやこれやが次々と繋がって、そこから新しい展開を見せてゆく。
自室で読んでいたときは声を出して笑ってしまった。
冒頭の「左利き」。
砂時計の話が魅力的だった。
"大は小を兼ねる"とはよく言われることだが、砂時計の世界においては"小は大を兼ねる"。
「三分計」では一分を計ることが出来ないけれど、「一分計」では三分だって十分だって計れるというお話。
そりゃぁそうなのだけれど、「おお!」と思ってしまった。
楽しい。
この章の中で旧仮名遣いによる文章が引用されているのだが、その部分だけ吉田さんのト書きも「どうでせう。」となっていて、遊び心が感じられる。
これもまた楽しい。
そして話は自然と若き日の吉田さんやお父様、ひいお祖父様である音吉さんのお話へ…かと思いきや、吉田さんの日常へ戻ったり。
ゆらゆらと思考を巡らせながらルーツを辿る。
"月光夜咄"という表現もぴったりだ。
「その昔、街ゆく人々は誰もがバナナの皮に滑って転んだものだ。」
「「好きなだけ遠まわりをしたら、いつかきっとここまでおいで」と声をかけた。」
「「………お前さんがいずれ書くことになる最初の小説に、この店を鮨屋ではなく食堂として書いたらいい」」
「そのときの自分は、小説を書くことは孤独という言葉を使わずに孤独を書くことだと思っていた。」
『つむじ風食堂の夜』へと繋がるお話(あとがきも含めて)も出てきて嬉しくなった。
他にも魂や双子や東京の夜など、あの作品この作品のキーワードあれこれが登場する。
吉田作品を読むたびに個人的に気になっていたことも、「あとがきーーーおじいさんは二人いる」を読み、納得!
吉田作品には必ずキーワードの1つとなりそうな美味しい料理が登場するのだ。
スープ、ステーキ、カレー、ハンバーグ、チョコレート…(チョコレートは料理じゃないけど)。
高価なものではなくて、みんなが安心して食べられるような、あったかくて、共通の"美味しいイメージ"を持つ料理。
ああ、やっぱりもっと早くに本書を手にするべきだった!!
ちなみに"あとがき"は3つあり(笑)、そういうところも吉田さんだな~と思うのだ。
そして2つめの"あとがき"である「遠くの「自分」ーーーあとがきの「あとがき」」を読み始めて気付く。
本文と1つめのあとがきが、ある思惑をもって書かれた文体であったことに、だ。
それはおそらく、夜咄として"つらつら書き綴る感"を出したかったのではないか?ということ。
どこが?何が?と言われると説明しずらいのだが、作中は改行も少なくて、あとからあとから次々に繰り出されてくるような感じだった。
2つめの"あとがき"(特に"※"より前)は実に後書きらしい後書きだ。
3つめの"あとがき"である「月夜の晩の話の続きーーー文庫版のあとがき」は、タイトル通り。
そして吉田さんには仕事と人生の相方である奥様の存在って大きいのだなぁ。
ファンにとっては充実の内容、隅から隅まで存分に味わえる1冊だった。 -
このタイトルを見たときから、わくわく。
好きな感じ。
吉田篤弘さんのエッセイ。
小説と同じく楽しめた。
はじめに目から鱗だったこと。大は小を兼ねるは、砂時計では違うということ。しきりに感心してしまった。
吉田さんは、もともとは左利きで痩せていたそうで、鏡で全身を見たり、地下鉄表参道駅のA4番出口の階段を上ると、息が上がることで、太っていることを認識する。
12キロのダイエットを決意。
赤堤から木挽町までが12キロ。
こんな感じで、今まで読んできた吉田さんの小説と同じく、言葉同士の繋がりがたくさんあって、楽しかった。本籍地の場所での偶然な繋がりもすごいと思った。
曾祖父の音吉さんがやっていた音鮨、武蔵野美術大学で非常勤講師をしていたこと、ギターのことなど、自身のルーツから東北の震災までの吉田さん情報という感じでもあった。
話が脱線していって、また脱線して、もどってという部分もあり、読んでいて飽きなかった。
最後に書かれていたことで、絶対なことは、〈死〉と〈誰にでも父母がいること〉と気づいた吉田さん。祖母が福島出身だと震災後に知ったことは、必然だったのかも。
そして、今更ながら『つむじ風食堂の夜』が映画になっていたことをこの本で知った。吉田さんの勝手なキャスティングもおもしろかったし、見てみようと思う。
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エッセイ、一年を通した日記なのだが、これは小説と言えると感じる。
独特の空気感、薄暗さの中にユーモアを散りばめ、懐かしさを、古き良き時代の雰囲気を、楽しめる。
そこに現代とのギャップや、風刺が込められているのが、またニクイ。
こんな少しふざけた大人、男になりたいなぁ。 -
お恥ずかしながら、吉田篤弘さんという作家さんを今年に入るまで知りませんでした。家族がたまたま読んでいた「月とコーヒー」を手に取り、最初の一篇を読み終えたときにはもう虜になっていました。本書はそんな吉田さんの頭の中のあれやこれやを覗き見るような、氏の魅力あふれる一冊となっております。
吉田篤弘さんの曽祖父 音吉さんが、明治から大正にかけて銀座の木挽町で営んでいたという鮨屋「音鮨」。一代限りで終わってしまったその店と、今はなき木挽町の周辺に残る吉田氏のルーツや思い出やあれやこれやを、故人音吉の「ひとだま(?)」の声をを交えて綴る、半フィクションのエッセイです。
この本を読むと、吉田氏がいかに「読むこと」「書くこと」を愛しているかがわかります。「読むこと」に関しては、随所に吉田氏イチオシの作家仲間とその著書名が登場するので、読みたい本リストが増えて仕方ない。
そして「書くこと」については、物書きとしての氏のスタンスが下記の一節にあらわれていると思います。
―基本的に文章を書くことは即興的で、書くことの面白さは、即興的な態度で臨んだときに、はたしてどんな言葉やイメージが引き起こされるかを、驚いたり呆れたり感心したりすることに尽きる。下記ながら、読み手の側に立ってコントロールしたり、書き手に戻って好き勝手をしたり、瞬間瞬間で行ったり来たりして紡いでゆく。
これは、楽器でアドリブ・パートを弾いているときの頭の中に似ている。自由に弾いてはいるけれど、楽譜の約束事もあるし、没頭しながらどこかで冷静に編集している。ただし、編集が過ぎると、予定調和的なものにしかならない。自由に溺れるとただのデタラメに終わってしまう。思いがけないけれど、自分の中から出るべくして出てきた音がいちばん重宝される。―
(「木挽町月光夜咄」p. 208-209)
本書は全体に「過去」「夜」を思わせる空気感が流れるエッセイですが、でも決して暗くはなくやわらかいロウソクの光でほっこりとさせてくれるような、秋の夜長にしっぽり読みたい一冊です。 -
左利き、ポールマッカートニー、ギター、…
するすると連鎖が始まって、エッセイのような小説のようなおはなしが進んでいく。
気がつけば連鎖ってそこら中に落ちているものです。
たとえば読みたい本、聞きたい音楽。
それらを直感的に拾い上げていく、その繰り返し。
つづきはあっても、終わりがない。ああ、終わらせなくていいんだ。
そう思うと、すっと気持ちが楽になりました。 -
名前をなんとなく知ってる程度で手に取った。
偶然の入れ子構造のような身辺雑記エッセイだが、実際には偶然に見せかけて話の筋を構成している小説とも言えるだろう。巻末の坪内祐三による解説でその一端が種明かしされている。ちょっと偶然を押し出しすぎていて、真に受けて読んでいるとややしらけてしまうものがある。 -
本は寂しい人のものだというような記述を見て思わず閉じた。
口寂しいような秋の夜に開いてしまった時のこと。
寂しさを紛らわすためになんぞ、読むもんか、と思って。
そうだ、料理をしよう、アイロンかけをしよう、ピアノを弾こう。
すっかり著者のペースに巻き込まれて、日常をアップデートしてもらったような気分になる。ありふれた風景が、こんな見え方をするなんて!いつもハッとさせられるコトが詰まっている。
気を取り直して「寂しい」記述を読み返してやろうとページを開くと、もう見つからない、、キツネにバカされたような気分。
夢でも見たのかな?
この人の文章はいつも、不思議な夢を見させてくれる。
いい歳をして、と自分で思いながらも、実はいつも、理性より先に身体が反応するのです。
先に手が出る、、、ことはないけど、涙が出るとか、ウキウキするとか。
身体の反応の方が先。
ホントはみんな、そうなんじゃないかと思うんだけど、、、違うのかなぁ。
言葉はあとから、その理由付けとか分析として出てくる左脳の仕業。
泣いてる自分に「どうしたの。何かイヤなことでもあったの?」と
聞いてあげなきゃいけないことというのがたまにある。
知識が蓄積されて、冷静な判断も善悪のジャッジや物事の塩梅も、それなりに分かるようになってしまったがゆえに、見て見ぬフリをされている感情があるんだろうと思う。
内面に耳を澄ませて、それを言葉というツールを駆使して描き出しているようなこの人の本はいつも、そんな「見て見ぬふりで仕舞い込んだもの」を引っ張り出してきて目の前に並べられてしまったような、そんな気にさせられる。
正直「せっかく忘れてたのにさ、余計なことしないでよ」などと弱々しく抗議したくなることもあるのだけれど、
自分の感情の動きから逆算しただけではうまく説明できなかったことがツルッと言葉になって出てくる、手品を見せられたようで妙に納得したりする。
ひとだまの話が好き、未来の俺 の、話が好き。
最後の一行が好き、その後ろの白い部分が好き。
この改行とスペースがいいよねぇ。ほれぼれする、とまで思って、要するにファンになっちゃったのだな、とようやく自覚したりする。
「締め切り」の稿を読んでホッとした。
嘘でもいいから「書きたいから書いてる」と言ってほしい。ああ、これもファン心理かも。
「プロなのだから、決して趣味や芸術で書いたり描いたりしない」
という考えの人が少なからずいるのは分かるし、理解もできるけど、なんて不自由な、と思ってしまう。
自分の好きな人の文章はそんな不自由から解き放たれたものであってほしい、という、、、
これもある意味「夢物語」なのかもしれないけれども。
書きたいから書く。
描きたいから描く。
歌いたいから歌う。
あの頃の壁新聞みたいに、頼まれたわけじゃないけど作る。
そして、読んでもらうのが喜び。
・・・ステキ。グッときちゃう。
青臭いと言われてもいいや。
いい夢見られる一冊です。 -
この人、あまりエッセイは得意ではないのか?
切れ切れのとびとびを、無理やりくっつけようとしている感があって、しかも自分は、自分のルーツは、でそんなこと特に作者に興味がなければ、知りたくもないことをだらだら。。。当方エッセイファンなのですが、これほど楽しめなかったのはめずらしい。どちらかというとエッセイには、共感やらちょっと違ったものの見方なんかに触れるととても面白く感じますが、事物や事柄を偶然を装って、無理やり配置した感があって、鼻白みました。。。 -
読みたいと思っていた本だった。
なので、タイトルを見たとき、おっ!と目が輝いたことは言うまでもない。
吉田篤弘の小説は、私にとって居心地の良い異空間を味わせてくれる。
共感ではないのに、居心地が良いのは何故なのだろうと、いつも思う。不思議である。
だから、そんな摩訶不思議な小説を書く人は、どんなエッセイを書くんだろうと楽しみだった。
読んだ感想としては、ちょっと意外なほど、吉田篤弘という人が出ている。
木挽町という自身のルーツを辿りながら、日常をあれこれと描いてくれる。
好きな本、大学でのこと、ダイエットなどなど。
そこには彼らしい言い回しや、モチーフも出て来る。でも、異空間には飛ばされない(笑)
それも、なんだか不思議だった。
私はこんな着眼点を持っているんですよ、といった類の饒舌さではなく、日常を描くことについての真面目さが伝わってくるように思えた。
俺もまだまだ短歌は奥が深...
俺もまだまだ短歌は奥が深くてわからないことが多いが、少しでもみんなに共感してもらえるような短歌を作って、みんなに楽しんでもらえるよう頑張りたいと思ってる。こちらこそ、これからよろしくな!
最近、張飛さんのレビューやブロ
グの方も拝読しております…。
この度はフォローもしていただきコメントも…頂きまして...
最近、張飛さんのレビューやブロ
グの方も拝読しております…。
この度はフォローもしていただきコメントも…頂きまして、こちらこそありがとうございます!
私は短歌のこと、わからないのですが…どうぞよろしくお願いします♪
お返事拝読しました。
こちらこそ、わざわざこちらにまで有難う御座います♪
拙い返歌で恥ずかしいかぎりです 笑
気持ち...
お返事拝読しました。
こちらこそ、わざわざこちらにまで有難う御座います♪
拙い返歌で恥ずかしいかぎりです 笑
気持ちだけでも受け取ってくださいませ。