移行期的混乱: 経済成長神話の終わり (ちくま文庫 ひ 22-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480430250

作品紹介・あらすじ

「問題なのは成長戦略がないことではない。成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ」-人口が減少し、超高齢化が進み、経済活動が停滞する社会で、未来に向けてどんなビジョンが語れるのだろうか?「見えているはずなのに見えていなかったもの」に目を凝らし、網野善彦、吉本隆明、小関智弘、エマニュエル・トッドらを援用しつつ説く、歴史の転換点を生き抜く画期的知見。

感想・レビュー・書評

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  • 企業での仕事には、みんな「プロ」という言葉が付いている。

    ある「プロジェクト」を立ち上げるためには、計画=「プログラム」が必要だ。その事業の責任を持つ「プロデューサー」が「プロセス」を組み立てて、商品やサービスを「プロモーション」して、企業として「プロフィット」を計上することが求められる。それこそが「プロフェッショナル」として求められる姿勢である。今の世の中に氾濫する「プロ」という言葉、ラテン語のそもそもの意味は「前」というものらしい。つまり、企業活動というのは未来を予測して創り出していくもの、と定義することができる。


    そんな企業活動が低迷しているのはどうしてなのだろうか。アベノミクスといわれる経済政策によって、一時的に息を吹き返したようにも見えるが、そもそも震災前には100年に一度の経済不況と呼ばれていた混乱があって、そこで必要とされていた量的緩和や公共事業が進められているに過ぎない。むしろ構造的に何も変化しているわけではなくて、人口減少やエネルギー等の資源制約、民間消費の低迷といった条件は震災前よりもさらに進んでいるように思える。


    企業というものの存在理由が「未来を創り出すため」にあるのならば、これまでの延長線上で考えていくのは筋が悪い。実際に安倍内閣を支持しているのは、重厚長大型大企業を中心とした経済団体であり、官僚型組織の代弁者として自民党という存在がずっと政権を担ってきた歴史がある以上、今回の参院選というのもそのような組織的な利益代弁の意味があったということだ。それらのフォーマットはすべて、人口が増え続けて、経済が発展し続けるという前提の元につくられている。


    いまは移行期なのだと思う。たとえば江戸時代でも、1700年から150年くらい停滞期があって、明治維新後に工業化が進んで人口が一気に増えていったという。そこに投入された技術的イノベーションというのは、アンモニアから窒素を供給する化学肥料だったり、石炭を焚くことによる蒸気機関だったり、人間の根源的生活の質を劇的に高めるような発明が西洋からもたらされたためだ。同様に、戦後の高度成長というのも農業の機械化や石炭⇒石油への移行といった生産性の向上が図られたために、1億人を超える人口がこの島国で住めることになった。その延長線上に原子力発電があるのだし、東京への一極集中がある。


    移行期的混乱を問題視するのか、楽しむのか。それによってその後の変化に対する主体性が違ってくると思う。願わくば変化を興す側に回ること、それこそが移行期を乗り切るための最高の戦略なのではないだろうか。企業家が少しでも増えてあるべき未来を創造していくことでしか、前進はないのである。

  • 成長の段階はすぎ、成熟へと向かうべき、との認識を日本人はどこまで認識できるか、が問題。

  • ☆☆☆2019年9月☆☆☆


    「成長」から「定常」へ
    「人口増」から「人口減」へ
    社会の価値観が変わっていく「移行期」に我々は生きている。

    「問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ」
    という記述に賛成したい。
    平川氏は、コンビニ、週休2日制が大きく日本人の価値観や労働観を変えたといろいろな著作で語っているが、的を射ているだろう。

    僕が思うに、これからの日本はお金だけを頼りにするのではなく、人と人とのつながりや、金銭価値でははかれない自然といったものを大事にしていくのが良いのではないかと思う。

  • 人口減少時代に入った日本について著者は、こうした変化が有史以来の出来事だと述べています。そのような事態に対処するためには有史以来のことばが必要であるにもかかわらず、これまで人口減少について語られてきたことばは、「経済成長」という神話が通用した、たかだか数十年のスパンで考えられたものにすぎないといいます。

    こうした立場に立ちつつ、著者はわかりやすい処方箋を求める読者の性急さをしりぞけて、まずはこのような時代の変化と向きあい、そうした大きな変化を正しく見据えることからはじめるべきだと主張します。著者は、少子化は問題ではなくむしろ問題の解決なのだと述べるとともに、その解決へと移行する期間の混乱にどのように対応すればよいのか、という観点から、日本社会の行く末を考える必要があると論じています。

    『反戦略的ビジネスのすすめ』『株式会社という病』と三部作をなす本をめざして執筆が開始された本と書かれていますが、本書だけでも著者の主張を理解する妨げにはならないと思います。なお、巻末には、哲学者の鷲田清一との対談と、内田樹、高橋源一郎の二人の解説が付されています。

  • 2010年9月に発刊。
    著者の平川克美は内田樹とともに翻訳会社で働いていたことがあり、解説は内田樹が書いている。
    何の本かは忘れたが、何かに本書が紹介されていたため購入した。
    著者の主張は主に次の2点である。
    ①日本人の価値観(主に労働観)の変化に伴って、経済成長が鈍化している
    ②都市化し成熟社会を迎えた結果として、少子高齢化・人口減少社会に突入している
    この2つの観点から、成熟社会の結果として日本は衰退していくが、その衰退がおさまるまでは移行期的な混乱が起きる。
    しかし、それは必然であろうから、それを予想して受け止める準備をしておくべきである。
    以上が本書の骨子であるが、①、②ともに全く新しい視点という訳ではない。にも関わらず本書が勉強になるのは、学者ではなく一人の庶民として本書を書き上げている点であろう。学者が理論を振りかざすような上から目線の書き方ではなく、時代の波にのまれながらも何とか切り抜けてきたような水平的な目線の物言いに共感するのだ。
    平川克美は、早稲田大学理工学部機械工学科を卒業している。直感的に時代を洞察しながらも、なるべく理論的に裏づけようとしているところも良い。

  • 百年単位の時間軸で時代の転換期を読み解く◆「義」のために働いた日本人―六〇年安保と高度経済成長の時代 1956‐1973◆消費の時代の幕開け―一億総中流幻想の時代 1974‐1990◆金銭一元的な価値観への収斂―グローバリズムの跋扈 1991‐2008◆移行期的混乱―経済合理性の及ばない時代へ◆未来を語るときの方法について◆「右肩下がり時代」の労働哲学

    著者:平川克美(1950-、東京)
    解説:内田樹(1950-、大田区)、高橋源一郎(1951-、尾道)

  • 私は2014年の現在30歳です。なので、経済成長を実感した世代でありません。
    どちらかというと、日本経済が、この先、あまり発展しないだろうなと思ってしまう世代です。
    給料なんて、まず平均的に上がっていくなんて考えられないですし、来年、自分の所属する会社が
    なくなったり、リストラ候補になっているかもしれない、そんな不安定な世の中をもの凄く実感出来ている
    世代です。

     これから、どういう時代になるか、私はよくわかりません。これは、いくら、データーを分析しても、
    答えは出てこないでしょう。ただ、わかっていることは、人口減少です。
    これだけは、ほぼ、間違いなく、推移がわかっています。
    ただ、それがわかったとして、どうなるかなんて、わかりません。

     私自身は、劇的な時代の変化に対応できるか、わかりません。
    日々の生活で一杯、一杯です。ただ、一生懸命やっただけでは、
    今の世の中、上手に生きるのは、難しいかもしれません。
    そんな不安が心の奥底にありますし、みなさんも持っているかも
    しれません。

     平川氏も、おそらく、同じ感覚なのかもしれません。
    世間では、絆とか、調子のいい言葉がはやったりしていますが、
    なんか、薄っぺらいような気がします。
    明るく生きて行こうなんて、今の世の中なかなか言えませんが、
    それでも、平川氏みたいな、「まともなオトナ」がいることに、
    自分なんかは、まだまだ、この世の中、捨てたもんじゃないなと思います。

  • これまでの日本経済を振り返り、政治や経済のその時を振り返る本です。
    成長し続けなければ止まってしまうかのような流れに疑問を持っていた私は、考えに共感しながら読みました。
    高度経済成長の時のような、ない時代の生産性を今に当てはめても、おかしいとわかっていても合わせざるをえない世の中の不思議。
    これを読み終わっても日々社会は変化しているし、読んだ先からすでに思い出です。

  • 日本は今、初めての人口減の現実に直面している。政府は少子化対策などの施策を行っているが、国が成熟してきたら人口が減っていくのは、歴史の必然。筆者は未経験の時代に対するスタンスを、丁寧に語りかけてくる。それは「仕事のシェア」であり、労働の「等価交換」ではなく「贈与」なのである。

  • 2006年をピークに日本の人口は減ってきている。日本の人口動態を1000年以上のスパンで見ると、人口が減るという経験は、これまで日本になかった初めての事態だ。

    ▼…将来に対する不安が人々の頭上に暗雲のように立ち込めていた時代、つまり戦国の世の中においても、戦争前夜においても、敗戦後の荒廃の中でも、日本人の総人口は減るどころか増え続けてきているのである。
     では、将来の不安ではないとすれば、何が、日本の総人口の減少を促しているというのか。
     それを探る論考を綴ったのが本書である。(pp.8-9)

    (「日本人の総人口」と「日本の総人口」が混じってるところと、前者の言葉遣いがちょっと気になる。)

    戦後60年という時間が経った。生々しい現実の渦中にあっては、何が起きているかを知ることはできなかった。だが今、時間を経て、多少は見晴らしのよい場所に立ち、「現在から時間を溯り、もう一度歴史の場面に自分を降り立たせること」(pp.10-11)によって、歴史を体の中に入れて理解することができるのではないか、と著者は考える。

    そういう認識に立って、この本で著者は「将来のわたしたちという仮想的な視座から見れば、現在が大きな時代の転換期であり、同時に現在は移行期的な混乱期であるという仮説を検証してみたい」(p.39)という。

    1章の末尾で「人口が減少し社会が成熟しきった時代における労働観価値観の再構築を、あらたに行う必要がある」(p.59)と著者はしめくくり、以降の章ではその準備作業として、「日本人の労働に対する意識がどのように変遷していったのかを知るために、それぞれの期間の政治・経済状況を背景にして、労働の現場、会社の内部で何が進行していたのか、そのときの日本を覆っていた気分、ひとびとの生活を支配する価値観とはどんなものだったのかについて分け入って論じていきたい」(p.59)と書く。

    2章 「義」のために働いた日本人
    3章 消費の時代の幕開け
    4章 金銭一元的な価値観への収斂

    先取りしていえば、過去を振り返って、「週休二日制」「コンビニ」「派遣という業態」が日本人の労働観を大きく変えた、と著者は読み取っている。そして、経済成長の帰結が人口減少社会なのだ、と著者はいう。

    そうした変化の以前、60年安保のころ。
    ▼確かに、全学連、労働組合は革命前夜のような政治的高揚の中で連日のデモを繰り返していた。しかし同時に、岸信介が言ったように、後楽園球場は満員であり、銀座通りはショッピングにいそしむ群衆で溢れていたのである。…(略)…このとき、政治的な意味においてはアメリカは、日本の自立を阻むものであったが、同時に日本人の欲望を映し出す憧れでもあった。そのことへの視点なしに、岸信介に代わって政権についた池田勇人内閣の「所得倍増計画」が、それまでの政治的高揚を、経済的な幻想によって一気にかき消してしまった現実を理解することはできない。多くの日本人にとって、国家の政治的な自立を考えるよりも、自らの生活を憧れのアメリカ的なものに近づけることが喫緊の問題だったのだ。そして、そのことは生活するものにとっては正当な欲求であった。(pp.69-70)

    60年安保の時、町工場の末端労働者はこの政治闘争にどのように関わったのか、どのような気持ちを抱いていたのか、それを描いている小関智弘さんの「ファンキー・ジャズ デモ」(『粋な旋盤工』所収)を読みなおした著者は、こんなふうに書く。

    ▼ジャズの大好きな工員に引きずられて、数名の町工場の工員が街頭デモに繰り出す。デモは政治的なものというよりは、仲間が集う晴れ晴れしい祝祭であるかのようであった。そこには、低賃金にあえぐ生活への屈託もなければ、政治的な理屈もない。あっけらかんとした、リズミカルに躍動するような、喩えていえばフェルナン・レジェの絵画のなかの労働者のように、シンプルな信念を持ち、健康で愛すべきひとびとがいた。(p.85)

    ▼ここには二重構造といわれた労働の現場に働く、底辺労働者の惨めさも、政治的な関心も直接的には描かれていない。辛い労働や運動に明け暮れる日々の中にさえ、ひとびとは喜怒哀楽を見出し、日々を楽しむことができたという向日的な視線があるだけである。いやむしろ、そういった喜怒哀楽の日々こそが主題的な関心であり、政治も経済もそれらを彩る材料でしかなかったということなのかもしれない。(p.86)

    あるいは、「やっぱりいい仕事をしておくのがいい」という職人たちの姿(宮本常一『庶民の発見』)が記される。

    コンビニエンスストアの登場は、「消費の時代の幕開け」となった。コンビニは、小売の商売の仕方や景観、物流といったことを変えただけではなく、多くの若者、とりわけ都市に暮らす者の生活を変えた。

    ▼いや、生活だけではない。それまで必要であった日々の食材の買い出し、調理、働き方そのものまで大きく変えることになった。ひとつの業態の出現が、ひとびとの、ライフスタイルを大きく変化させていったのである。(p.108)

    コンビニの出現は、単に利便性が増したという以上の意味を担った。その意味とは、「意識するにせよそうでないにせよ、【いつでも時間を金と自由に交換することができるという観念、労働を金と交換することができるという観念】がひとびとの価値観のなかに浸潤してゆくことになったということ」(p.109、【】は本文では傍点)だった。

    これは、お金により強固な万能性を付与していくことになった。そして、週休二日制の導入が「日本人の労働意識の変化の決定的な転轍点であった」(p.111)。

    私は大学を出るまで「土曜は半日の授業があるもの」だったが、院にすすんだあとは土曜が休みになった。学校の「週5日制」ではなくて、「週休2日」というところに、これが学校に通う子ども向けというよりは、学校で働く大人向けなんやなーと思った記憶がある。巻末の鷲田清一との対談によると、週休2日制を官庁が取り入れたのが1992年、民間では80年代ぐらいからだというが、たしかに学校が「週5日」になったときに、「これで先生たちも週2日の休みに追いつくんやな」と意識した気がする。

    ビジネスの世界では、人材派遣という業態が登場する。
    ▼わたしは、その功罪はともかく、人材派遣という業態が日本のビジネスの現場に受け入れられ根付いたことは、日本人のビジネス意識の転換を象徴する出来事であったと考えている。…(略)…ビジネスの国際競争力を強化するために世界標準に合った合理的なシステムを導入するという名目でこれらのシステムが採用されたが、このシステムを受け入れる労働意識の転換も、民主主義の発展過程の必然であるかのように準備されていた。(pp.137-138)

    こうして日本の「伝統的な」労働観(=「労働とは金銭に還元できるものであるというよりは、何ものにも還元できない生き方そのものの道徳律」pp.153-154)が、アメリカ的なものへと転換していった。

    2009年12月5日付けの毎日新聞朝刊「経済戦略をめぐる財界トップの発言」。そこで語られていたのは、「経済成長を期待する」ということと、「日本には成長戦略がないのが問題だ」ということ。

    これに対して著者は、「【問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ】」(p.167、【】は本文では傍点)という。

    成長だ成長だというなかで、従来のように売上げを伸ばすことができなくなった老舗企業の経営者が、利益を出すこと=経営者の至上命令だと考えれば、どうやって苦境を切り抜けようとするか。ひとりの経営者として著者も考える。

    最も手近な手段がコストカットだ。一般管理費や人件費をぎりぎりまでスリム化してなお利益が生み出せない場合には、商品そのものの製造原価を下げるくらいしかない。商品にはねかえってくる無理なコストカットをするしかなくなってくる。コストカットの努力そのものに異論を唱えることはないであろうマスコミ人が、それが食品偽装といった不祥事となるとたたきまくる。

    ・良いものを作っていれば必ず売れるという時代が終わった
    ・経営者が危険な禁じ手を使ってまで利益を確保しようとしたことには理由がある

    と著者は指摘する(p.183)。つまり、「経営者たちは倫理観が喪失していたがゆえに禁じ手を使ったのではなく、市場原理が生み出した経営の倫理(利潤を出すこと)に過大に従順であったがゆえに禁じ手を使ったということである」(p.183)。

    ▼日本においては、医療や教育は聖職であるという考え方がひとびとの間に流布していた。それゆえに、医療や教育は利益重視のビジネスとは馴染まないと思われてきたが、ここに来て、急速にビジネス化が進展してきている。…問題は、その[従来の病院経営や大学経営といったものの]見なおしが主として市場原理のなかでの競争有利の戦略によって行われているということである。
     実はこのことこそ移行期的混乱を最も鮮やかに映し出す現象であるとわたしは考えている。
     移行期的混乱とは、時代を動かしている原理そのものが揺らぐということだからである。(pp.224-225)

    「むすびにかえて」には、老父との暮らしから著者が知ったことが書かれる。
    ▼人間の生活にとって根本的なことは、食って、寝て、排出して、また食って、寝てという繰り返しである。こんなことに意味があるのかなどとは思わない。それが生きるということであり、もしこの生活が続いていくのなら、それはある意味でわたしが待ち望んでいたことでもある。
     この繰り返しには、ゴールというものがない。
     この繰り返しには、進歩という観念もまたないのである。(p.297)

    著者の親友・内田樹は解説でこう書く。
    ▼ものが「ぐるぐる回っている」限り、人間は交易をしている。交易をしている限り、人間はそのために必要な制度を考案し、そのために必要な人間的資質を必ず育むはずだ。平川君はたぶんそういうふうに考えていると思う。(p.310)

    民主化とは、著者の意味するところ「人間のひとりひとりがその権利を拡大してゆくプロセス」(p.128)で、イデオロギー闘争がどうのではなくて「変化そのものへの欲求」(p.128)である。この民主化は、「国民国家の中にしか生まれ得ないが、同時に国民国家を消滅させるところまで進展するものだということをわたしたちは、後に知ることになる」(p.128)と著者はいう。

    権利の拡大というのは、進歩という観念と似て、分かるようで分からない感じ。そういう箇所はところどころあったけど、「週休二日制」「コンビニ」「派遣という業態」が日本人の労働観を大きく変えた、というのは実感として分かるなと思った。

    (4/19了)

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著者プロフィール

1950年、東京・蒲田生まれ。文筆家、「隣町珈琲」店主。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを設立。1999年、シリコンバレーのBusiness Cafe Inc.の設立に参加。2014年、東京・荏原中延に喫茶店「隣町珈琲」をオープン。著書に『小商いのすすめ』『「消費」をやめる』『21世紀の楕円幻想論』、『移行期的混乱』、『俺に似たひと』、『株式会社の世界史』、『共有地をつくる』『「答えは出さない」という見識』他多数。

「2024年 『ひとが詩人になるとき』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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