隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民 (ちくま文庫 う 32-1)
- 筑摩書房 (2010年9月8日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480427274
作品紹介・あらすじ
独自の生活様式と思想を持ち、過酷な自然のなかで生きる「大自然の民」アボリジニ。しかしそんなイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニもまた、多くいる。伝統文化を失い、白人と同じように暮らしながら、なおアボリジニのイメージに翻弄されて生きる人々。彼らの過去と現在をいきいきと描く、作家上橋菜穂子の、研究者としての姿が見える本。池上彰のよくわかる解説付き。
感想・レビュー・書評
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1990年から約10年間、上橋菜穂子は小説を書きながら、同時にオーストラリアの西部の町を訪ねて定期的に文化人類学のフィールドワークを行っていた。アボリジニ先住民族の調査である。
私は今、戸惑っている。彼女の仕事を純粋に文化人類学の成果として学ぶべきなのか。彼女の小説にどのように影響しているのか分析するべきなのか。とりあえず、この一文はその両方の立場をとる曖昧なものになるだろう。
一つの文化体系に、強力な文化体系が押し寄せた時に、その文化はどのような変容を起こすのか。例えば縄文文化に弥生文化が押し寄せたとき、どうなったのか。弥生文化体系は、イギリス西洋文化よりは遥かに弱かったはずだ。しかし似たような変容を遂げたのではないか。
アボリジニは奥地に「追いやられた」わけではなかった。多くはその土地に留まり、積極的に「都市化」した者もいれば、伝統集団からはじき出され行き場をなくしスラム化した者もいた。オーストラリアの場合、それが急激に進んだので、略奪、疫病による人口急減、アボリジニ狩り、保護の名による囲い込み、子どもの隔離(文化絶滅戦略)、修正反省による保護政策等々が進んだ。
それでもなお、アボリジニは完全に西洋文化に「同化」しなかった。
すっかり都市化した中で暮らしているローラでさえ、部族の日常単語や日常動詞(「どこへ行くの」「食べるものが欲しい」「見ろ」)などの言葉を覚えていたし、精霊が人を殺すことを信じていた。
この精霊の概念や呪術師などの存在は、言葉としては「守り人シリーズ」でも出てくるが、その意味合いは全然違う。しかし、小説に影響したことは間違いないだろう。
その文化体系を残そうとする1番大きな契機は、一族をいかに守るか、ということだろう。上橋菜穂子が調査した二つの親族の女たちは、ビックリするほどの子どもたちを産んでいる。あるお母さんは10人、あるお母さんは13人を産んでいた。当たり前のように再婚を繰り返している。この系図は古事記の神様の系図に似ている。まるで文化の途絶を、本能的に守ろうとしているかのようだ。
「誰もが百人以上の親族を記憶していた」「(都市部においても)葬儀と婚姻に関する厳しい決まりは、いまなお強く守られている」その他、再婚や事実婚、10代の出産、白人との婚姻には寛容だが、系譜上近い親族との婚姻は、絶対に許されないタブーなどの決まりもある。そして、子供は親族全体で育ててゆく。
だから、なおさら新しい部族との婚姻は、その部族の「成長」にとって、欠かせない出来事なのかもしれない。
目に見えない精霊の働きは、そのことを大いに助けるだろう。
上橋菜穂子のファンタジーの住民たちの文化が、機械文明を排し、しかし古代文明よりも進んでいるのは、「隣のアボリジニ」の文化が参考になっているのかもしれない。
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ファンタジー作家として有名な上橋菜穂子さんのもう一つの顔、すなわち文化人類学者としての顔をのぞくことができる1冊です。
上橋さんの作品の土台には、本書にあるようなフィールドワークの経験が、どっしりと根をおろしていることがわかりました。
大学院生時代から足掛け9年、オーストラリアで暮らしながら現地のアボリジニ、特に白人社会の中に生きるアボリジニの生活を見て、聞いて、記録してきた上橋さん。
本書には、教科書からはうかがい知れないアボリジニの姿が綴られていました。
本書の序章で、上橋さんが次のようにことわっていることが印象的でした。
「この本を書くにあたって、私はこの本で描くことが過度に一般化されて理解されてしまうことを防ぐために、私―日本人の未熟な娘―が、どんな風に彼らと出会い、どんな事件を経て、どう彼らを理解していったのか、それが、きちんと見える形で語ることを心がけようと思っています。これからお話することは、あくまで私の体験という狭い窓から覗いた世界でしかないのですから。」
文化人類学者としての上橋さんの姿勢に背筋が伸びる思いです。 -
上橋菜穂子さんの研究者としての側面がうかがえる本。
実際に何度か現地に滞在して行った調査から、アボリジニの人たちの歴史、文化や民族集団としての復興の労苦などがわかる、
それと同時に、日本人とはまた違った家族のつながりや親族集団の構造などについても説明があり、非常に興味ぶかい。 -
友達が「鹿の王」がとてもおもしろかった、と言うのを聞いて、じゃあ読んでみよう、と図書館で著者名で検索。その時検索結果に一緒に出てきたこの本もついでに借りてきました。でも、私はもともとファンタジーより文化人類学の方が好物なので、つい、こちらに先に手が伸びてしまった。
「失われた文化」について書かれた本、ではなく、「失われていく過程」と「失われた結果として、起こっていること」が描かれていて、非常に興味深かったです。なかなかこういうこと(=今まさに起こっていることで、しかもネガティブな要素や、公的資金にからむ要素が多いこと)って、本にしづらかったのではないかと思う。最初から最後まで、内容が「お客様」目線でしかなかったので、ちょっぴり物足りない気がしたのも事実だけれど、未来について、これからの社会のあり方、みたいなことを考える上で、貴重な本だと思う。
この本に書かれているような事実を目にするたびに思うのだけれど、やっぱりすべての諸悪の根源は「貧困」と「希望を持てないこと」にあって、私たちは、なんとか、それについて考えて考えて考え続けて戦っていくしかないんだよなぁ、と思う。
民族の文化が失われること=そのまんま全部哀しいことだ、いけないことだ、とは私は思わない。旧弊な時代特有の偏狭さ愚かさ理不尽さが消えつつあることはとても喜ばしいと思う。それに、ブッシュでのワイルドな暮らしは、どんな歴史をたどろうといつかは失われていただろうとも思う。
でも、彼らのイノセンスに付け込んだような形で労働力などが長く搾取されていた歴史はやはりとても悲しい。そう考えると、老女ドリーのキツイ一言、「ワジャリの文化を教えてほしい? で、あなたはその代償にいくら払ってくれるの?」はすごく理に適っていると思うなぁ。
そういうものが誰も傷つけない形で、うまくお金になるといいのにととても思うのだけど。
しかし、「星の下で生まれた」とか「朝起きると呪術師の気配(エミューの油の匂い)があちこちにした」とか聞くと、哀しい話はしばし忘れて、やっぱりわくわくしてしまいます。
ここではないどこか別の世界の物語の入り口を感じるからかな。 -
ファンタジー作家としてすっかりおなじみ上橋さんのもう一つの顔、文化人類学の研究者としての著作。
自然の中に隔離されて伝統文化を守って暮らし続ける先住民族ではなく、ふつうの町なかでふつうの人として暮らそうとしているアボリジニたちに注目して、異なる歴史や文化の背景を持つ「異民族」がいっしょに暮らす中でどんなことがおきるのか、同化政策や保護・優遇といった国の制度が人々の意識の変化になにをもたらしたか、といったことを、研究者目線ではなく、コミュニティや職場の隣人・友人という立場から誠実に取材して記述している。
オーストラリアのアボリジニだけではなく、先住民とあとから来た人々という関係にかぎらぬ「異民族」同士、もっといえば同じ民族でも歴史的しがらみから強者と弱者とが隣り合って暮らすどの国や地域でも、身近に考えるべき内容だった。一方の「被害者意識」ともう一方の「いつまで謝罪や反省をしなければならないのか」といったテーマはけっして他人ごとじゃない。
たとえアボリジニには興味がなくても、広く読まれるべき本だと思う。 -
ファンタジー小説家として著名な上橋菜穂子は、オーストラリアのど田舎に学校に、ボランティアとして派遣された。文化人類学を学んでいた彼女の真の目的は、先住民族のアボリジニと接することだった。アボリジニは激しい人種差別にあい、また研究対象とされてきたため、その歴史的経緯から学術目的として接することは非常に困難である。そこで彼女は海外交流の一端でアボリジニの町へ飛び込んだのであった。若い彼女が、今思えば赤面もの、しかし若者にありがちな思い込みで体当たりし、柔軟に現実を吸収し成長していく姿がとても心地よく感じた。そして、彼女の作品のルーツがここにあったことも手に取るように分かった。
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〈守り人シリーズ〉や『獣の奏者』で知られる著者の文化人類学者としての仕事。
「大自然の民」というイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニ。
一緒に生活して関係を作りながら、インタビューを重ね、彼らの声を引き出していく。
混血を繰り返し都市の生活に順応しながらも、白人とは違った親戚づきあいや世界観を持っている彼ら。差別を受けてきた歴史、それは悲惨そのものであるのだが、分離や保護といった政策には功罪両面があることも否めない。現実はこんなにも曖昧で複雑だ!「気高い大自然の民」あるいは「飲んだくれて暴れるならず者」といったステレオタイプにはまらないよう、ひとりひとりの歴史と生活を丁寧に描こうとする誠実さに感銘を受ける。
彼女が構築するファンタジー世界は緻密な設定と歴史観に裏打ちされていると感じるが、そのルーツがどこにあるのか、この本を読むと感じることができる。
上橋ファンタジーのファンにはぜひおすすめしたい一冊。
これを読んでから小説をまた読みたい。 -
人類学者の卵だった著者がオーストラリアに滞在し、街に住むアボリジニとイメージのなかのアボリジニのギャップにショックを受けながら、友情を通して〈理想の先住民〉ではない隣人としての姿を少しずつ知っていく過程を綴った体験記。
管啓次郎の『本は読めないものだから心配するな』で紹介されていたので手に取ったのだけど、本当にいい本だった。文章は優しくとても読みやすく書かれていながら、オーストラリアに限らずありとあらゆる文化において他者を尊重するとはどういうことなのか、考えるヒントをくれる一冊だと思う。
文化人類学というものがそもそも西洋のアカデミズムに拠っているという問題がある。先住民に〈野生〉の理想を押しつけながら、同時に資本主義的な観点からは〈役立たず〉のレッテルを貼り、社会から排除する。上橋さんの戸惑いもまずはそこから出発する。
一方で、今はもう街に暮らしているアボリジニも親戚の死などをきっかけに伝統社会に引き戻され、魔術師やトーテムがいる世界に入っていってしまうところはやっぱり面白く、興味を惹かれずにいられない。本書で取材対象になっているのは、日本文化の先生としてオーストラリア西部の小学校に赴任した上橋さんが友だちになったアボリジニの女性たちだ。彼女たちは幼い頃を白人が定めた居留地で過ごし、今は街で生活しており、父や夫はもう狩りをしていない。
面白いのは居留地時代がノスタルジーの対象になっていることだ。居留地はそれぞれの共同体が白人の入植前に暮らしてきた土地とは関係なく決められていたらしいのだが、それでもブッシュで動物や虫を捕っていた日々を語る口ぶりはにわかにいきいきしてくる。言葉や文化の伝授を禁止された時期があるせいで親世代と子世代は精神的な分断を抱えており、ブッシュの記憶はその溝を飛び越える大事なものだったのではないか。
日本でもアイヌや琉球の文化を持て囃す一方で、生活リズムの違いや宗教観・家族観の違いには理解を示さない、歩み寄らないという差別の歴史があると思う。「物質社会 VS 精神世界」だとか、「先住民の生き方こそが"本当"なのだ」とかいう話じゃなく、他者や他文化を理想化せずに尊重するにはこれから世界はどう変わっていかなければならないのか、と優しく問いかける一冊。
よくわからないけど、泣き止んだのならよかったです(^ ^;)。
私は、ゴミ出し、よく遅れてギリギリになりま...
よくわからないけど、泣き止んだのならよかったです(^ ^;)。
私は、ゴミ出し、よく遅れてギリギリになります。