ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫 コ-37-1)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (720ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480094315

作品紹介・あらすじ

「私は映画の歴史を、単に年代的なやり方で語るのではなく、むしろ、いくらか考古学的ないしは生物学的なやり方で語ろうと考えていました…私に興味があるのは、まさに、自分がかつてつくったものを見ること、そしてとりわけ、自分がかつてつくった何本かの映画を利用することなのです。」映画史上の名画と自身の旧作を上映しつつ個人史を自由に語るというユニークなこの連続講義は、空前の映像作品-『映画史』Histoire(s) du cin'emaへと結実する。語りを超えて映像と音からつくられる"真の"映画史は、ここから生まれた。

感想・レビュー・書評

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  •  「言葉では言い表せないくらい」という表現をよく見る。感謝している、とか、愛している、とかの副詞として使われることが多い。言い表せているじゃないかと思う。まぁこれはいちゃもんに近いし、文脈にもよるので、一概にその表現じたいが悪いとは言わないが、その言い回しを使う場合はせめて何とか言葉で表そうとする努力を経た上で、それでもどうしても言葉では不十分だといったときにだけ使ってほしいものだ。
     この言い回しに限らず、文章にあまりこだわらない人(端的に言うとものを考えない人)はとにかく決まり文句をやたらに使いたがる傾向があって、特にパセティックな慣用句を使って感情の処理はそれでこと足れりとする場合が多く、読む側としては面映い気持ちになる。思考は主に言葉によってなされるわけだが、決まり文句を使ってしまうとそれに引きずられる、というか予めわかりきっている内容しか出てこなくなる。というか、そもそも思考と呼ぶに値しないただの文書作成になってしまうことが多い。言葉は自己増殖するもので、予め頭の中にある考えを外に現すためにだけ使われるべきものではない。書きながら考えるのである。あるいは、言葉それ自身が思考するとでも言おうか。すでに書いた言葉に触発され、次の言葉が出てくる。だから、予め頭の中に、決まり文句によって導き出された思考とも呼べない既存の言葉の塊を形成しておいて、それをそのまま表現されても、はっきり言うと読むに耐えない文章になる。
     これと似たようなことが写真についても言える。ゴダールによれば、写真をとるために言葉を書く人は多いが、書くために写真をとる人は少ない。つまり、予め目的意識をもってあるイメージなり観念なりを書いた上で、実際の写真を撮ろうとするひとは多いが、何かを書くなかでどうしても写真を必要とし、そのために写真をとる人は少ないということだろう。写真には常に予想外のものが写っている(ロラン・バルト)のだから、内容が予め決められている写真というのはせっかく写った予想外のものに対する関心がなく、貧しい。一方、書くことが主体で写真が付随してくる場合は、そこで使われる写真の内容全てが等価であり、意味を持つ。そういう写真を撮るのはかなり難しいことではあるけれど、優れた写真家はみな内的な必然に従って写真を撮っているのだろう。
     書く=考える=生きるなかで必然的に見出してしまう方法によってものを作り出す。コンセプトがまず中心にあってそこから、あるいはそこへ向かってものをつくるのではない。もちろん時代や状況によってコンセプト先行の技芸にも意味がないわけではない。しかし、そういったコンセプトなり方法はすぐに古び、当初はそれ以前にあったものに対するアンチとして、反権威として出てきたものが今度は自分自身がその権威になりおおせ、また別の新しいものによって乗り越えられるべき対象とみなされることになる。コンセプトや方法それ自体を探し求めついに見つけ出すことができたとしても、それは歴史の中の一つのコマに過ぎなくなることが最初からわかっている。だから、あくまで内的必然性、その人の身体性から直接立ち上がってくる結果としての方法をこそ彫琢していかなければならない、と思う。
    以上、「ゴダール 映画史」を読みながら考えたことをつらつらと書いてみたが、レヴューにはなっていないかもしれない。

  • 佐賀大学附属図書館OPACはこちら↓
    https://opac.lib.saga-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB08283704

  • 12/28は
    シネマトグラフの日
    1895年フランス、複合映写機であるシネマトグラフで、初めて映画が商業公開。映画史を楽しみましょう。

  • 2019年12月18日の明治学院大学横浜キャンパスでの「さらば大学@高橋源一郎最終講義」にて高橋源一郎が引いた本で、迷うような時に開く、と言っていた。ぼくの本棚にも二十年以上も常にすぐ手の届く場所に置かれているのに二十年も開いていない(のでこれを書くにあたって開いた)。言わずと知れた有名本がいまは文庫で一冊にまとまっている。

  • 読みやすいのに驚き。文庫で2400円に驚き。
    「一本の映画の中には、自分がその中にいた部分や外にいた部分、わきにいた部分などがあるわけです」
    「ひとは見ているものを見ることも、見られているものを見ることもできます」
    「私はこの映画でも、何かをコピーしようとしました。結局のところ、それが私のやり方だったのです。」

  • 「私は映画の歴史を、単に年代的なやり方で語るのではなく、むしろ、いくらか考古学的ないしは生物学的なやり方で語ろうと考えていました……私に興味があるのは、まさに、自分がかつてつくったものを見ること、そしてとりわけ、自分がかつて作った何本かの映画を利用することなのです」…ということで、一癖も二癖もある、ゴダール独特の切り口で、映画で彼が何を考えているのか、語られている。興味深かったのが「文盲教育」というところで、言葉を用いない思考、「見る」ことにはいかなる可能性を持っているのか、そしてそれにかける氏の情熱が何となくよくわかる気がした。話し言葉で書かれているので、リズムは馴染みやすいが、所々難しいことが書かれたりしているので注意。

  • とにかく分厚い。その全てが理解できるわけではないし、そもそもきちんとゴダール作品を見れていない自分が、何をどこまで理解しているのか、はなはだ心もたない。しかし、まあ、それでも、ゴダールの映画史=作品群の考察において、彼が映像を使って何を企てようとしているのか、それが何となく見えてくる。それは恐らく「言葉」を用いずに「思考する」ということであろう。

  • 2-3 映画論

  • 私は映画についてはほとんど何も知らないに等しく、たいして見てないし、ゴダールの作品もわずかしか体験していない。
    ゴダールの映画は、まだはっきり正体がつかめないものの、言葉と映像が無数の断片として氾濫する様は、やはり音楽で言う「現代(前衛)音楽」の立場に似ているのだろうな、と理解していた。
    この本を読んで、まさに私の直感は当たっており、ゴダールが既製のさまざまな映画、あるいは今まさに自己が作りつつある映画に対して厳しく批判的に問い直しながら歩んでいるのだということがわかった。この「批判性」こそ、私が現代音楽(現代芸術)の一つの特質として解していたものだ。
    さらに、私が「作品は、先行し、周囲にとりまいている諸々の他の作品と関係しながら、その関係性そのものにおいて、生まれてくる」と考えていたのと同様のことを、ゴダールも語っていて感激した。ただしかれは「関係性」という言葉を使わず、「表現」に対する「感化」という語を用いている。
    スピルバーグやイーストウッドのような大衆的に人気のある映画を徹底的に批判しながら、その魅力をもゴダールはちゃんと理解している。
    また、この本によるとコラージュふうに切断された映画作法にもかかわらず、ゴダールは「物語ること」にほんとうは強い欲求を持っているらしい。で、それらしく物語ろうとした「メイド・イン・USA」では何故か失敗し、逆に何も物語ろうとしなかった「男性・女性」では、「物語」が成立した、というのは興味深い。
    ゴダールは、物語ることは、現在ではただアメリカ合衆国においてのみ可能になっている、と語る。なるほど、これは非常に鋭い指摘だ。ポストモダンにおいて「大きな物語」が不可能となったヨーロッパでは、「物語ること」という行為のために必要な何かが崩壊してしまったが、米国人はいまだに「物語」を持ちうる、ということだ。たとえそれが狂気じみた帝国主義に見えようとも。

    映画好きでもゴダール通でもない私にも、この本は非常に面白かった。「作品を作る者」として、示唆される部分が非常に大きかった。他の映画通ではない芸術制作者たちにも、一読をおすすめしたい。

  • 文庫になったんだ。しかし文庫で2000円越えは辛い。

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ジャン=リュックゴダールの作品

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