- Amazon.co.jp ・本 (305ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480091994
作品紹介・あらすじ
ポトラッチやクラなど伝統社会にみられる慣習、また古代ローマ、古代ヒンドゥー、ゲルマンの法や宗教にかつて存在した慣行を精緻に考察し、贈与が単なる経済原則を超えた別種の原理を内在させていることを示した、贈与交換の先駆的研究。贈与交換のシステムが、法、道徳、宗教、経済、身体的・生理学的現象、象徴表現の諸領域に還元不可能な「全体的社会的事象」であるという画期的な概念は、レヴィ=ストロース、バタイユ等のちの多くの思想家に計り知れない影響とインスピレーションを与えた。不朽の名著、待望の新訳決定版。人類社会のアルケーヘ。
感想・レビュー・書評
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ポイントは、元の持ち主の力が宿っている、というところですね。現代に置き換えると、たとえば楽天市場で自分の顔を出して商売している人がいるとします。その商品(お酒でも、チャーシューでも、果物でもいいですが)を買うことで、その商売している主人の人柄も買っているような気になることはないでしょうか。すごく気に入った商品であるならば、商品をみると、その主人の顔も思い浮かぶような。そういった感覚って、実はアニミズム的な、この『贈与論』で言われている感覚に近いんだと思っています。
そして、その感覚は主人への敬意を生みます。他者への敬意を持つことは、他者をあまりにぞんざいに扱ったりしないことに繋がる。お互いに敬意を持ちあう社会というものは、成熟した人間関係が望めるかもしれない。それは、コミュニケーションにおいての責任感を生むだろうし、他者への暴力性を弱め、利他の精神を強める意味を持ちそうな気配があります。人と人の関係のあったかみであり、それぞれにいとおしい関係、それが望めそうだということです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
贈与論
人やモノを全て含んだ円環状の贈与体系をトロブリアントの民族からの実地調査をもとに検証している。また、贈与をするための霊的な感覚による根拠(ハウなど)を同時に示し、人類の経済の基層に贈与・交換があることを明らかにした。
ハウとは、何か物を与えられたら、人に与えなければならない。そうしないと、落ち着かないという気持ちを霊的存在に見立てて解説したものである。モノをもらっても人にあげなければ、ハウという悪い神が持ち主をどんどん蝕んで最後には殺してしまうというのである。これは、ものではわかりにくいが情報ならどうだろう。噂話を聞いたら人に語りたくなってしまう気持ちは、ハウによるものではないかと思う。円環状の贈与形態について、トランプをしていて気づいたが、ババ抜きは円環状の贈与形態のアナロジーではないかと思う。人からカードを受け、人にカードを渡す。そして、負ける人間とは、人に渡せない唯一のカード(ジョーカー)を最後に持っていた人である。このジョーカーを、持ち主を最後には殺してしまうハウに見立てるのは不自然ではないはずだ。時々思うのであるが、カードゲームや占いなど、古くから非科学的でありながら人々に親しまれてきたものには、何かしら人間の根本原理ともいえる真理を抽象化した形で内包しているのではないかと思うのである。情けは人の為ならずという日本のことわざも、贈与論の円環状の贈与形態の話をしているのかなと思う。
映画「ペイ・フォワード」は私の好きな映画の一つではあるが、これは典型的に贈与論的下敷きがあると私は思う。恩を受けたら、もらった恩をその人とは異なる3人の人に贈る、「恩送り」運動を少年が企画して、ロサンゼルスで一大ムーブメントを起こすというこの映画は、今や英語の教科書でも取り上げられている。
様々な経験的な具体例を挙げてきたが、人間は常に贈与・交換をする動的なシステムにいるという点は、レヴィ・ストロースに繋がっていると実感できる。本自体について言えば普通だが、脚注が膨大なので内容は少しだからすぐ読めた。 -
ドイツ語におけるGiftは「毒」の意味も併せ持っているというのは象徴的だ。そう、資本主義が商品の売買によって他者との関係を築くのに対して、それ以前の未開社会は相互の贈与によって他者との関係を築き、それは政治や法律の代替として機能していた。だからこそ贈与には受領や返礼の義務が付随するのであり、それは又物品だけでなく感情の交換をも担う行為でもあった。「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事上手くいく」これは決して偽善から生じたものではなく、人類の歴史が育んだ叡智の結晶であったのだ。知的興奮が止まらない。
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本書は、経済は市場経済だけではないという論証になっていると思うので、市場経済に苦しめられている私としては救われる書物であった。
贈与経済を実践するためには、贈与を義務としてとらえるというマインドや贈与先の無数のリストを保持するという条件が必要だが、未開社会や原始的な社会においては、神話や呪術や宗教や法や倫理が様々に入り組んで構造化されることで、その二つが人間に与えられている。
そういうものをこれから組み立てようとするのは至難の業のようにも思えるが、やはり必要な気がする。最終的には、人類共同体が生き残るためのきまり(=倫理)の追求の問題になるのかな? -
全人類に共通する慣習「贈与」。
これは、単に与えるだけではなく、受け取った側が返礼の義務を負うという点に特徴がある。
また、贈与に対する返礼といっても単なる物々交換ではなく、宗教的・法的・競争的・経済的・政治的な要素を多分に含んでおり、それらは全て集団的である。
本書は、世界各所および、あらゆる時代における人類社会の贈与活動についての考察を通して、現代社会が陥っている個人主義偏重を批判している。
本書で提案されているのは、貨幣経済に偏重しない、より集団社会的な人類の営みである。 -
ほぼ世界の全域にわたる地域に関する資料を渉猟し、古代の法に関する文献を蒐集することによって、贈与、受領、返礼を義務とする文化が、太古から人類のあいだに、しかも地域を横断する仕方で息づいていることを、比較文化的に浮かび上がらせる文化人類学の古典的研究であるが、そのアクチュアリティは、発表から85年以上を経た今も色褪せない。本書の議論において何よりも重要なのは、人類が太古から、場所によっては「ポトラッチ」と呼ばれる蕩尽の祝祭に極まる歓待と贈与の文化を発展させてきたことであり、またそこに生まれる鷹揚な交換を可能にする関係こそが、文化そのものを育んできたという洞察であろう。それとともに、英語のinterestという語で表わされる私的利害の追求が、簿記の行なわれる比較的新しい社会の歴史的産物であることも明らかになる。むろん、蕩尽の祝祭には呪術的な供犠が伴なうこともあるし、モース自身が認めるように、それが引き起こす興奮は、戦争とも隣り合わせのところに人を拉するものでもある。しかし、人間は贈与を通じて他の人々との協働関係を築いてきた。そのことの底流をなすモラルを見逃すべきではないとモースは言う。「感情には理性を、こうした突然の狂態に対しては平和への意志を対置させることによって、諸民族は戦争、孤立、停滞を協同関係、贈与、交易に変換させることができたのだ」。このことを可能にするモラルの所在を、いまは見失われつつあるのかもしれない人間の、あるいはその主体性の根源史のうちに探り当て、モースも述べているようにその地点から、「政治」と呼ばれるものを「ポリス」の手前で捉え返すことが、今あらためて求められていよう。
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>贈り物がもたらしたさまざまな利得を自分が占有し退蔵していると「何か悪いことが起こり、自分は死ぬことになる」
>『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
>スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。
できることは、いつでもできる。
そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
(ブログ「内田樹の研究室」より、とりいそぎ。 -
特に一部の地域コミュニティでは、人間の活動は贈与で成り立っている。そこには、霊とのつながりから導き出される現所有者との
過去所有者とのつながりがある。それが、恐らく地域コミュニティにおいての不和をなくさせてきたのかもしれない(もしかしたら、逆なのかもしれないが)。
では、なぜ現代社会では不和がすぐ近い人間同士でも起こるのか?それは、現代社会がつながりを見えなくしているからかもしれない。
人間、やはり視覚でとらえられないものに対しては非常に弱い(ラ・ポール効果の目隠しした人の誘導でも分かるが…)。それが人とのつながりを
希薄にさせているのか…。考えさせられる逸品である。 -
新訳読みたいなぁ