カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫 ヨ 5-2)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480086747

作品紹介・あらすじ

感動するのは「心」か「脳」か。魂はなぜ生じたのか。「死ぬ瞬間」はあるのか。脳死とはどういうことか。死体が不気味なのはなぜか。身体は空の器か。墓とは何か。魑魅魍魎の正体は?宗教と科学と信仰の関係は?脳の問題は、機能すなわち心として見れば経典に戻り、構造すなわち脳として見れば自然科学に戻る。-宗教とヒト、とくに脳と宗教との関係を軸に、『唯脳論』の考えを多くの主題に応用して展開し、従来の宗教観を一変させる養老「ヒト学」の最高傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 人間の本質は「死の観念」を持つことだそう。これは今村さんも書かれていた。
    こちらにもお墓の話しが出てきた。

    死は他人のものはものすごくインパクトがあり具体的(なんとさっきまで生きていたものが目の前で死んでるのだから)だが、自分にとっては絶対に体験できない抽象(あたまのなかで組み立てるしかない)でしかないから。人間が抽象化を覚えたのは、仲間の死を目の前にしてではないかという養老さんの仮説に説得力を感じた。

    社会においては同性愛者が身体性を露骨に提示するとか、喜怒哀楽はデフォルトの感情だから発作がおさまるまでほっとくしかないとか、心を脳の働きと考えることでなんだか気持ちが軽くなるのが不思議な感じがする。

    きっと、養老さんの学識の広さと深さから滲みでるユーモアがあるからなんだろう。まことにありがたい。この本は唯脳論の応用版ということなので、また改めて『唯脳論』を読んでみようと思った。

    Mahalo

  • 『唯脳論』(1998年、ちくま学芸文庫)で知られる著者が、その立場を敷衍しつつ、宗教や倫理、文学、社会にかんするさまざまなテーマについて論じたエッセイです。

    『仏教』という雑誌に連載されたコラムをまとめた本で、死と生をめぐる議論がとくに大きなテーマとしてとりあげられています。そのさいに著者は、解剖学者という立場から死体という物に立脚点を置き、死のような理解しがたい自然を存在しないものにしてしまう現代の「脳化」社会の盲点を鋭く撃ち抜いています。

    著者の立場である「唯脳論」とは、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という主張にまとめられる考えかたであり、構造と機能、脳と心という二元論を無礙に通底する思索を展開するところに、その強みがあるように思います。著者はそうした立場に立って、近世の日本における身体の忘却という「都市化」ないし「脳化」の傾向を批判し、禅においても「修行」が重視されていた中世から、「唯神気論」への移行があったことを指摘しています。ただ、二元論の両極を無媒介に通底させる著者の発想は、たとえば本書でも言及されている鈴木大拙の議論とは多少のへだたりがあるように思います。「此土が彼土であり、彼土が此土であるというと、娑婆即寂光土とか、唯心の浄土、己身の弥陀ということに解されよう。愚見はそうではないのである。……仏教哲学者の真意―即ち事実に即して説かんと欲するところ―は、浄土と穢土とは相互矛盾で、それが即ち自己同一の存在であるということでなくてはならぬのである」という大拙のことばを著者は引用していますが、この「相互矛盾」が著者の「唯脳論」ではどのようなあつかいになるのかということは、本書を読んでもあまり明確に見えてこないように感じられます。

  • 寝る前ベッド本として2ヶ月くらいかけて読了。
    雑誌の連載をまとめたコラム集。
    ちびちび読んだのでまとまった感想を書くのは難しいが、どの編も興味深く面白い。
    膝打ちまくり。

    解剖学的視点で宗教、社会、生死、妖怪、量子力学、文学、更にはドラゴンボールなどについて書かれている。
    養老先生の本は結構読んでいるが、自分の興味と重なるテーマが多く、それを一言で言えば、「人間について、この世界について知りたい」ということだと思う。

    宗教、哲学、科学など色々な説明の方法があるが、解剖学や脳という切り口での説明がとてもしっくりくる。
    キレッキレの文体もクセになる。

    唯脳論も再読したくなった。
    フィクションでもノンフィクションでも、読み終わった後に自分の中で変化が起こる読書は良い。

  • 瀬名秀明氏の『ブレインバレー』を読んだ時にあはせて買つたものだと思つたから、もうかれこれ10年以上前に少し読んだきりになつていたと思ふ。
    あの時は考へるといふことがよくわからず、ただ与へられるものをそのまま受け止めていただけだつたから、随分難しく、結局読み終らずになつてしまつた気がする。
    それから幾分か時が流れて、池田某との出会ひがあり、『唯脳論』がおもしろく感じられるやうになつてから読んでみると、あの時の難しさが嘘のやうにするすると読める。時間とは不思議なものだ。
    「かたち」といふものはどうしても揺ぎ無い実態だ。
    たしかに、社会は、ひとは、脳化の一途を辿つてゐる。様々な技術、発見、どれをとつても脳がその働きを自身の外に投影したものに他ならない。ある意味で、脳の自己充足こそが社会といふ存在なのかもしれない。この長い時間の中で繰り返されてきたものを眺めるとさうとしか思へない。何かが実現できるといふことは、それに対応した形が脳に存在するからに他ならない。ないものはない。あるものがある。
    しかし、目の前に死体といふ形が存在する。視覚に訴える美術もさうである。黄金比であつたり、様々な技法や象徴が紛れもなく、形として存在する。どういふわけか、わからないものが「ある」。脳にとつてこれほど不気味で不可思議なものはない。死体が隠されるのも、不気味だからに他ならない。なぜなら、脳は死んだことがないからである。
    宗教とは、元来、原始的な「ない」といふものを「ある」と信じ、了解する脳の働きに他ならない。一方の科学は、脳の中にしか「ない」ものを、脳の外に「ある」やうにさせる脳の働きである。どちらも、脳の働きでしかない。科学は脳の中に「ある」ものだけしか扱へないから、脳の中に「ない」ものは宗教に賴るほかない。一方の宗教は「ない」ものを「ある」と了解為ざるを得ない逆説的な行為である。どちらかと言へば、科学よりも宗教の方が、脳にとつては原始的な働きではないかと思ふ。脳の高次低次(進化的に最初か後か)が対応するなら、聴覚の方が先で視覚の方が後であるなら、宗教が視覚以外に働きかけるものが多いのは、それだけ宗教が原始的な働きであるからではないか。視覚に訴える宗教は宗教史的にも新しい部類になると思ふ。科学は感覚的であることをむしろ嫌ふ。視覚的に示さうとする。未来予測や公式化といふのは、視覚の働きに他ならない。
    どちらにしろ、脳の働きなのである。なぜさうなのかといふよりかは、どういふわけか、さういつたものものが結びつきやすいといふことになつてゐるやうである。
    どちらも脳の働きなのだから、その片方だけを切り出し続けることはできない。そんな風に人間はできていない。遺伝子操作が人間の生命を支配することとは同等ではない。生命とはよくわからないものなのだ。死んだら終りといふこともわからない。どうやら、脳の高次の部分はよくわからないものを統制し、なんとかわかるやうに見せかけることを求めるのである。

  • 宗教や死、霊魂を著者の解釈のもとで「解剖」しています。大ヒットした『バカの壁』以前に出版されている本なので初版はかなり古いですが、内容は非常に面白い。

    たとえば「霊魂の解剖学」。
    古来、日本の「妖怪」は蛇や狐など、実体のあるものが化けていたのがほとんどだったので、同じく実体のある「封じの石」が効力を発揮した。そして、その背景にあるのは仏教だったので、封じの石はすなわち仏様だった。
    一方、19世紀以降は封じの石の役割を科学が担うようになったが、科学は宗教を追放したものであり、霊魂に対しては相性が悪い。霊魂を封じるための「ある種の毒」がないため効力がない、と論じています。あぁ、そういう風に考えることができるのか、と感心してしまいました。

    それに続く「臨床仏教」の章では、時間が早く進む気がするという現代人の忙しさの理由について触れています。
    「何が起こるか分からない」日は一日が長い、それはつまりその一日に「未来」があるから。一方、現代は起こるであろうことが「既定・既知の事実」になり、「未来」は「現在」になってしまった。予測可能、確実で制御された「未来」はもはや「現在」であるため、「未来」を過ごす場合に比べて時間が経つのが速いのだ、としていて、これもなるほどと首肯できました。

    終盤には、「目(瞬間の情報を切り取る)の作家」と「耳(時間と情報が流れていく)の作家」という観点で小説家を区分していて、目の作家の代表として三島由紀夫を、耳の作家の代表として宮沢賢治を挙げています。三島由紀夫はあまり読んでいないので判断しかねますが、宮沢賢治は膝を打って納得。

    解剖とはつまり、対象を切り開いていって詳しく調べ、その特長や個性を見極めること。とても読み応えのある「解剖学の本」です。

  • また読みます。

  • 養老さんのいう脳が“都市化”する、
    という事と、

    人の“死”について、深々と考えさせられます。

    養老さんはあくまで西洋式の近代思想に、どっぷり浸かって育った、最初の世代だと思います。

    彼が中年に差し掛かるころに、ポストモダンの思想がどっと入ってきました。

    そんな中で、ポストモダンな批判精神と西洋的思想と東洋哲学的思想がうまく混ざり合って、生きる事とは何かを捉えていると思います。

  • 色んな人に読んで頂きたい。

  •  生と死、宗教にまつわるテキストが多い。文学論も少々。やはり脳科学は、唯物論よりも腰が強い、というのが率直な感想だ。「脳の機能」で割り切って考えているところが、養老孟司の痛快さでもあり危うさでもある。

     <a href="http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20081009/p1" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20081009/p1</a>

  • 解剖学者であって脳科学者ではないと養老さんは言われます。確かにその通りなのですが、やはり『バカの壁』がタイトル通りにバカ売れしてしまって、世間が養老氏を脳科学者であるかのように表現するものですから私もいつの間にかそのように養老先生の文章を読んでいる時がありました。

    しかし、この本は養老氏が時の人となる前のかかれた『仏教』という雑誌によせていた連載の内容を集めたものです。個人的には著者が解剖学者でありながらも、宗教誌に連載をしていたというのが意外でした(この感覚も私が養老氏にたいしてあやまった見方を持っていたからに他ならないのですが…)。

    ヒトが誰しも最後にたどりつく「死」を解剖学者として数々の死体と対してきた著者が説明する「死」は、普通イメージされやすい「生」の反対概念とは異なります。生物学的観点からみれば、心臓が止まった瞬間を「死」と呼んでも、個々の細胞はまだ生きているという点で「死んだ」とは言い切れないと語ります。「まあ、そうだよな」と感想を持てるこの瞬間が、当然だと思っていた考えをあっさりと否定されるようで清々しいのです。養老氏の書籍を読む楽しさはこういう清々しさにあるのかもしれません。

    2008年9月29日号の日経ビジネスの巻頭に養老氏のインタビューが掲載されました。ネット上にあるすべての情報は「過去の遺物」であり、それは思い出に浸ることに他ならず、後ろ向きに生きていることと同意だと喝破します。この切り捨てるような表現も養老氏の魅力ですね。それは単なる独り言の吐き捨てではなくては、ヒトをうなづかせるものすごい説得力があります。

    脳ばかりに焦点が当てられる、心理学が分かればヒトのすべてが分かる、といったようなうたい文句で様々な本が売り出されたりしていますが、本書の211ページの文章(「ハイテク社会というのは、結局は脳の新皮質の機能を、突きつめたところに生じた社会である。新皮質も、人の脳の一部である。ゆえにそれは、当然生じてよろしい。問題は、ヒトが新皮質だけではできてはいない。そこである。」にあるとおり、人間は脳だけで生きている訳ではないこと。身体性を意識していれば当然と思えることを忘れてしまっていることを、恥じらいと驚きをもって再認識させてくれる本です。

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著者プロフィール

養老 孟司(ようろう・たけし):1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士(解剖学)。『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。『バカの壁』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。同書は450万部を超えるベストセラー。対談、共著、講演録を含め、著書は200冊近い。近著に『養老先生、病院へ行く』『養老先生、再び病院へ行く』(中川恵一共著、エクスナレッジ)『〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁』(毎日新聞出版)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など。

「2023年 『ヒトの幸福とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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