- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480080554
感想・レビュー・書評
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これから美術館行くのもっと面白くなりそう。けどこの人のルネサンスの本読んだときも思ったけど内容が豊かすぎておうってなるな。
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20世紀美術の制作の論理をかみ砕いて、整理して書いてくれてます。読んだら、なんだかかしこくなった気分になれました。たとえば、オブジェとイマージュという概念を持ち出して、伝統的な美術ではどうで、それが印象派以降どのように変わっていったかを解説してくれたりとか。こういうふうに、図式的といわれようとも、ざっくりと論点とりだして流れをまとめてくれたら、初心者にはほんとありがたいです。【2020年2月9日読了】
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ショウペンハウエルの、
「すべての芸術は音楽の状態を憧れる」
がまた出てきた。
ついでにシラーの、
「造形芸術はその最高の完成したかたちにおいては音楽とならねばならぬ」
てのも付いてきた。
おなじ文章の引用に各所で繰り返し出会う感じは呪いに似ているが、この呪いならウェルカムです。
この人の本は随分前に同じちくま学芸文庫の『世紀末芸術』を読んでるはず。世紀末って20世紀末じゃなく19世紀末のほう。私が好きなほう。 -
20世紀美術とあるが、実際には、19世紀から書かれている、というのも、当初かいてから四半世紀立ってしまったので、現在の動向を反映させるために二十世紀の後半の内容を入れたため、そちらを主として扱ったというわけである。
本著における、中心的概念は、「オブジェ」と「イマージュ」である。オブジェは、物理的物質性のようなもので、イマージュは、人間の想像性を踏まえたものといった形である。だから、大まかに分けてしまえば、オブジェは写真的とも言えるし、イマージュは絵画的とも言える。だが、写真は二次元になってしまっているので、それはオブジェでありながらもイマージュ的なオブジェであるとも言える。逆に、彫刻なんかはそれこそオブジェでありうるが、製作者のイマージュがこめられていたりもするから、この両者を明確にわけて考えるのは困難である、特に絵画においては。
さて、まずは、写実主義がある。これは見たままをありのままに描くことである。しかし、これが実は不徹底であると考えたのが、印象派のそうそうたる面々である。彼らは、「目に見えるものをよりありのままに」描こうとした。ただ、このありのままというのが難しい。なぜなら、ありのままとはオブジェなのか?イマージュなのか?どちらとも言えるからである。つまり、視覚に映じるものは、その時点で人間の創造性が介在しているはずなのだから、それはイマージュと言えはしまいか、つまり、オブジェとは手触りのようなものではないのか、だとすれば、「彼らがありのまま=オブジェ的な信念」があったとしても、それは、「イマージュ性を強めることになっていってしまった」のは、「必然」とも言えるわけである。特に、クロード=モネの睡蓮なんかは、抽象画の目が開かれているといってもいいくらいである。特に、彼らの行った筆触分割(=筆遣いがキャンバスに残る描き方)という技法が抽象性を与えたのだろう。※個人的にはモネが好きです。
さて、二十世紀を迎えることとなり、抽象絵画が誕生し始めるわけであるが、この頃には、マティスやピカソなんかが登場してくる頃でもある。マティスのフォーヴィズムと、ピカソのキュビズムである。キュビズムとは、当初は、「イマージュに偏りすぎたオブジェをよりありのままに捉えよう」とする試みであった、らしい。というのも、キュビズムという言葉の意味が「立体派」なのであるから。とはいえ、オブジェを擁護するつもりの彼らは、逆にオブジェを追放してしまうこととなる。これが、彼らの「分析的キュビズム」と呼ばれる時代である。アコーディオンなど、本来オブジェであるものを一つ世界から切り離して絵画として捉える、しかし、その際に、「そのもっともあるべき姿を描こう」とした結果、それはイマージュでありオブジェの追放になってしまう。それこそ、立体ではなくて平面になってしまう。二次元でも立体性を表そうとしか過去の絵画とは異なり、彼らは、オブジェを完全に平面的なものに変えてしまう、などといったことを行う。さて、しかし、「オブジェの解体」=「イマージュの危機」だと彼らは考え、最後には、コラージュなどと言った具合に、「実際のオブジェをイマージュとしての絵画へと輸入してしまう」のである。そして、描かれるものも「紙=平面的なもの」といった形で、オブジェとイマージュの境界にあるような技法、対象を選ぶことで彼らは両者を統合しようとする=「統合キュビズム」が生まれる、というわけである。
他方でマティスはどうかと言うと、彼は単純化を推し進めた。彼は、古典的な技法と、彼の技法とで同じ構図の絵を描いている。一つ目は伝統的な写実的な絵画であるが、もう片方は、食卓が描かているのだが、どこからが壁でどこからが机なのかの境がわからなくなっている。というのも、境界があやふやなうえに、単純化され=平面的になってしまっているからである。マティスは写実性よりも、「造形要素や色彩」などといった形質的な部分へと傾いていってしまったからなのである。「絵画は描かれているものによって決まるのか?、あるいは、それとも、ただ単に色彩を集めたものなのか?」といった問いがここで発されているのだろう。マティスは後者へと向かっていったのであろう。
そして、キュビズムもフォーヴィズムも、どちらも、「抽象性」に行きつくことになる。オブジェの徹底的な解体や、絵画の単純化を突き詰めれば、それは、定まった形態を失うことになり、それこそ、色のみによって構成される作品や、物質ではあるのだろうがそれが何であるのかまるでわからないオブジェが描かれている作品となってゆくこととなるだろう。だが、この時代においても具象性が喪われているわけではない。例えば、「具象的表現主義」などが見受けられる。モディリアーニなどがそうであり、彼らの内面などを絵画として表現するのだが、それを、具象的な女性の表情などを使って表すわけである、といった具合に。だから、二十世紀とは実は混交の時代、と言えそうである。この後も、絵画はさまざまな道をたどる。アンフォルメルといったように、形態を否定したり、アクションペインティングといったように、筆触分割の進化版とでも呼ぶべき、「描く動作」すらも絵画に納めてしまうような流れ然りである。さて、著者は、結局、二十世紀とは、「分化」・「分離」の時代であったと考える。それぞれが分化・分離を行い、純粋性を追求していった。しかし、そのせいで、あまりにも混沌としすぎてしまったし、失われたものも多かった。「手段・目的・形式・内容」すらも混沌としているが、本来的にこれらは分けるものではない。これらは有機的に絡み合っているものなのである。とすれば、著者はこの後には、「統合の時代」が来るべきだと考えている、というところで、本著は終わる。 -
現代美術の擁護でも否定でもない,まさしく批評の名に値する.人間にとって芸術とは何なのか,その問いを忘れてないからこそ,批評する文章はどんどん核心へと向かっていく.見事としかいいようがない.入門書や概説書ではない.
本書を真に理解するには,20世紀美術に関する理解と経験が不可欠であろう.一緒に刷り込まれている図版だけでは,ちょっと心許ない.
・二十世紀の美術は素朴な感覚主義的な考え方を拒否するところから生まれた.
・絵画は,その本質上,オブジェの世界に参与していると同じ程度にイマージュの世界に参与している.
・従来の伝統的な絵画が,オブジェをイマージュに転化させることであったとすれば,現代,特に第二次大戦後の美術の大きな特色は,イマージュをオブジェに転化させようとするところにある.
・ブラクーシの《世界の始まり》が,自身によって《盲人のための彫刻》という副題を与えられていることも見逃してはならない.いわばそれは,視覚的価値を無視して,触覚的価値にすべてを賭けようとするものである.
・たったひとつの赤という色にしても,少なくともドラクロワまでは,このように幾重にも意味を担わされており,複雑な役割を果たせられていた.つまり,色彩だけにおいても,「重層性」は存在していた.
・第一の流れは,「構成と造形の芸術」,第二の流れは「表現と幻想の芸術」
・十九世紀以来,「分化」の一途をたどってきた現代美術が,わずかながら新しい「綜合」への芽を見せ始めたことは注目して良い.
・単線的な歴史のとらえ方がもはや成り立たなくなってしまったような状況を「歴史の終わり」と呼ぶとするなら,「歴史の終わり」はすでに近代と共に始まっていたのである.
・(芸術と人間をめぐる)問題はその享受の仕方である.※作る人と鑑賞する人の完全な分化. -
現代美術の潮流を解説。カラー版とかないのかな。
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ある絵を説明しようなどと試みる者は、たいていの場合誤りを犯す。もう大分前のことだが、ある時ガートルード・スタインが嬉しそうな様子で私のところにやって来て、私の絵が何を描いたものか、やっとわかった、三人の音楽家を描いたのね、と言った。
ところがその絵というのは、実は静物だったのだ…。 -
20世紀の美術、現代美術は、ようわからん!
……と思う人は、きっと多いはず。
私もです。
現代へと続く美術の潮流が、なぜ始まり、続いてきたのか。
そして、それぞれの表現方法がどんな意義を持っているのか。
簡潔でわかりやすい文章で、
でも詳しく、
高階さんが教えてくれます。
とはいえ、現代美術初心者の私は一読では消化し切れなかったので、
もう一度読みたいな。