ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480072740

作品紹介・あらすじ

大学入学共通テストへの記述問題・民間試験導入などで揺れ動く国語教育・英語教育。ことばの教育はどうあるべきなのか、3人の専門家がリレー形式で思考する。

感想・レビュー・書評

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  • 対談ではなく対書。
    ある程度の量を持った文章を読みながら、別の人が新たな章を進めていくという形。

    中でも鳥飼玖美子氏による、大学入学共通テストのドタバタへの言及は、分かりやすい。
    何が問題?と思っている方には、良いまとめになると思う。

    この方の英語教育を扱った本は割と好きで、自分は専門ではないものの、第二言語として英語を学ぶこととはどういうことか、いつも考えさせられる。

    小学生から英語を導入し、中学生からオールイングリッシュがでの授業が期待されているわけだけど。
    鳥飼氏は早期教育したって日常会話レベルしか身に付かないよというし、苅谷剛彦氏も考える時は母語がベースになるといっている。

    確かに日本語だって、ある程度の文章を読みこなすには相応の思考力が必要なわけで、言葉は何となく分かっても「何を言っているのか」が分からない文章ってある。

    もう一つは、授業をオールイングリッシュにすることの意味合いも、私にはよく分からない。
    例えば、段階が高度になるほど、授業における会話の内容が高度になるのか?とも思うし。
    反対に中学の早い段階で、文法事項もままならない生徒に、オールイングリッシュで何を伝えるんだろう、とも思う。
    結局、行き来が単語レベルまたはイエスノーの、いわゆる一番難易度の低い問いにしかならないんじゃないか……。

    知っていることを使うこと、聞いたことを書いたり、書いたことを話したり、言語活動を工夫することには意味があると思うけれど。
    まあ、これも専門外の意見として。

    刈谷夏子氏の国語教育は、大村はまの実践そのものというより、感想に近いもので、具体的にもっと知りたかった。

    ただ、経験したことを踏まえ、理論化すること。
    自分の中にフレームを持つことの大切さには、気付かされたし。
    更に、教育のいう分野では、この経験が理論化しにくい、普遍化しづらい意味も分かる。
    大村はまの実践が素晴らしいものであっても、それは全ての教師に出来ることではないのだろう。

    だからといって、古き教えと片付けてしまうのではなく、結局、教えることの根本には変わらないものがあるのだと。それもよく分かる。

    資料問題を繰り返し扱わなくても、自分の授業を進めていけば、ちゃんと対応出来る。
    大は小を兼ねる、という言葉が相応しいかは分からないけれど、勇気付けられる人もいるだろうな。

    あら。思ったより長くなりました。
    整理になりました!

  • ことばの力とは何か? どうやって育てるのか?

    それぞれ専門分野が異なる3人の往復書簡のような意見交換。自分の中では鳥飼先生の分野にもっとも馴染みがあるので、鳥飼先生の意見が一番スッと入ってきた。しかし大村はまという大きな教育をどのように受け継ぐかは興味がある。教育に王道なしとはよく言ったもので、同じ生徒、同じ先生という条件にはないのだから、唯一絶対のメソッドなんてない。大村はまの教育がどんなに優れていようと、うまく適用されない現場や生徒がいるだろう。だからそれぞれの優れた教育法の核を認識して、教員がそれぞれの教室で一人ひとりの生徒をよく見て、もっとも適した方法を取る必要があるのだ。それはとても大変な道だけど。

    英語と日本語を比較することで深まる部分というのは自分の中にめちゃくちゃあった。自分は文法(というか文の構造)大好きなので、句や語に分解して理解していくというのを、英語・古文・漢文すべてでやっていたな、と。でもそれが万人に通じるとは思わないし、学習初期には向かないだろう。

  • 戦後の国語教育を支えて来た大村はまの教育実践。そして、グローバル化に伴い小学生から授業として取り組まれていく英語。アクティブラーニング、英語のみの授業といった指導方法。この本を通して、私自身も授業について考えさせられました。

  • 国語教育での大村はまの実践的な指導方法を継承している刈谷夏子と、英語教育で先進的な発信をしている鳥飼玖美子が、ことばの教育について議論した好著だ.まとめの形での刈谷剛彦の提言も良い.『星の王子さま』を例に英語、フランス語、日本語の絡みを議論する部分が楽しめた.(p155-)
    大学入試の問題点について的確な議論がなされている.

  • 外国語習得の基盤は母語(国語)。「第二言語としての英語」(ESL)≠「外国語としての英語」(EFL)。後者を意識的に勉強した学生の読み書き能力が高いことは珍しくない。異言語習得の基盤は「母語」だから。

    BICS(日常会話力)CALPS(認知的学習言語能力)。CALPSにはまず、母語の獲得が大切。だから母語を獲得してから海外に行った方が学習言語を習得するのが早い。
    にも拘わらず、(日本語が覚束ない)幼少期から英語漬けにしようとする。母語をしっかり獲得しないから、日常会話レベルの発音だけは流暢になっても学習言語の修得がおぼつかない。にも拘らず、もてはやされるのは日常会話レベルの流暢さ。

    考えてみれば、英語教育もまた言葉(人間)を育てる教育。言葉であるからには、生き生きと興味深い豊かな世界に直結しているはず。しかし単語を暗記したり、学術的な文法書を読んだり、単なる入試対策であったり、TOEICの点数を上げるためであったりと、英語は無機的は要素の集積のように感じてしまう。言葉として当然持っているはずの豊かさや人間らしさ、社会や文化ということを忘れ、スキルの集合体としての英語ばかりを見るようになっている。
    原点に戻って、言葉(人間)を育てる英語教育を目指すべき。
    協同学習は「自律性」の涵養に有効とはいっても、学習者中心の能動的な学習を誤解して、生徒や学生をグループに分けて話し合いをさせる(自由放任)だけでは学びにならない。共同学習の原点は、「周囲との相互行為を通して一人では到達できない領域に達する」ところにある。教師による適切な介入と丁寧な指導があってこそ「共同学習」は「自律性」の育成に大きな役割を果たす(p198)。これが、コミュニケーションとしての英語の学習の原点なのだろう。

    それにしても80年代から、教育行政に(教育素人の)経済界が(自社の利益を念頭に置きながら)割り込みすぎ。英語は人間育成でなく、産業育成に成り下がっている。こういった現状が教育をダメにしていることを考えれば、必読の価値がある一冊だ。

  •  言葉が人間に与える影響は大きい。言葉が人間の考え方や性格をつくっていくといっても過言ではない。

     筆者は、英語教育と国語教育の両軸から現代の言葉の使い方や学校教育について書いている。筆者は学校現場の経験者ではないが、大村はま先生の教室で学んだことのある方や大村実践に共感した方々である。

     刈谷夏子さんは、言葉の使い方として、「周囲と摩擦を起こさず、期待にうまく添って言葉を使っていこうとする」と論じている。今の若者は、自分の考えがないと言われることがある。話し手の意図を汲みすぎているというのだろうか・・・。自分の主張を大事にしながら、相手とコミュニケーションをとることの難しさを感じる。
     しかし、刈谷夏子さんのその言葉に共感できるところもある。「それは本当に気持ちで言っているのかな?」や「もう少しくだけてもいいのにな・・・」と思う言葉の使い方に出会うことがある。同調というか・・・言いたいけど言えないという感じがしてしまう。

     教育の実践についても言及している。例えば、大村実践というメソッドがあるとする。教育の恐ろしさは、「大村先生のやっていたことだから」と「理屈ではなく素晴らしい」となるところだ。要するに、著名な実践の鵜呑みである。自分の考えもなしに鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えて動くことが大事だと感じた。
     言葉を受け売りするのではなく、「自分はどう感じるのか」「どうしていきたいのか」と自問自答する必要がある。
     同じものというのは存在しない。その時代、その時の背景が混ざって実践が生まれてくる。他人と同じものを求めるのではない。他人の考え方と自分の考え方をミックスするイメージで。

    • Kimura Naotoさん
      「自分は...」という視点すごく大切ですね!
      惹かれる実践があれば自分はその何を良さと
      感じているのか、、、
      そこが繋ぎ合わされば自分がどう...
      「自分は...」という視点すごく大切ですね!
      惹かれる実践があれば自分はその何を良さと
      感じているのか、、、
      そこが繋ぎ合わされば自分がどうしたいのかも
      見えてくるように思います。
      子どもに主体性を求める前に、大人こそ主体的であれ!
      ですね!笑
      2020/05/10
  • 実践の国語教師大村はまの教え子として国語教育のありかたを考え続ける刈谷夏子、性急な英語教育改革をあやぶみ発信し続ける鳥飼玖美子、そこに社会学の立場から教育を論じる苅谷剛彦も加わって、対談ならぬ対書形式で、章ごとに書き手が変わって話を継ぐリレー仕立ての一冊。キーパーソンとなっている大村はまをはるかな目標とあおぎつつ、英語と日本語の語学教育にたずさわってきた私自身にとっては腑に落ちること多い内容(ああ、自分の教育感の根っ子のところは大村はまの存在と言葉で支えられていたんだと改めて気づいた)だけれど、急に読んでもわかりにくいところはあるかもしれない。

    親として大学入試改革に巻き込まれていろいろ気をもんで迷惑しているけれど、これを機に国語も英語も日本語もひっくるめた「ことばの教育」にもっと関心がむけられるようになればさいわいと思いたい。国語=文学鑑賞(ときに道徳)+漢字や文法の暗記ではなく、本当の「読める」を支え「考え、伝え合う」をたすける力をつける科目になってほしいし、英語(外国語)も単語や文法の暗記やコミュニケーションよりもむしろ第二の言語習得を通じて第一言語である日本語の感覚を問い直す科目になってほしい。

    まずは私自身が教壇に立つときの覚悟をあらたにして、こどもとのコミュニケーションの中でもあれこれ意識していこう。

  • 小論文対策推薦図書  人文系

  • 買って(正確には"贈ってもらって")よかった。

  • 対談形式で、ことばの教育について日本語、国語、英語にかかわらず、哲学や理論など様々な視点で語られている。
    互いに批判を恐れず、誤解を解き合い、少しずつ本質に迫っていく姿勢に尊敬の念を抱かずにはいられない。



    p198〜
    教える者がなすべきは、自身が研鑽を積んで真剣に学習者と向き合い、彼らに刺激的な知を提供して学びを深化させること、そのような教育を通して自律性を育むこと。
    国語であれ英語であれ、ことばを教えることも、根本はそれに尽きる〜

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著者プロフィール

立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授(研究科委員長2002-2005、2008-2010)を経て立教大学特任教授、立教・異文化コミュニケーション学会(RICS)会長(2009-2011)。著書『通訳者と戦後日米外交』(みすず書房2007)(単著)Voices of the Invisible Presence: Diplomatic Interpreters in Post-World War II Japan(John Benjamins, 2009)(単著)『通訳者たちの見た戦後史――月面着陸から大学入試まで』(新潮社2021)(単著)。

「2021年 『異文化コミュニケーション学への招待【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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