- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480072375
作品紹介・あらすじ
親の学歴や居住地域など「生まれ」によって、子どもの学歴・未来は大きく変わる。本書は、就学前から高校まで教育格差を緻密に検証し、採るべき対策を提案する。
感想・レビュー・書評
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2020新書大賞第3位。
少し前、ニュースで東大生の親の平均年収が高い話や、家の蔵書量と学歴には相関関係があるという話を耳にした。
タイトルである「教育格差」や子どもの貧困について、それが〝ある〟ことを、皆さんはそれぞれ実感されているのだろうか。
生まれた場所、しつけ、習い事、蔵書量、通塾、受験への姿勢・期待……。
生まれた時から始まる格差は、縮まることなく子どもの成長にのしかかってゆく。
努力をすれば挽回可能だというそもそもの機会さえ、与えられにくい現状がある。
SGHやSSHに指定される進学校には、政府からお金が補助される。このことも筆者に言わせると、更に格差を広げるためのお金だという。進学校には、良い家庭の生徒が集まりやすいからだ。なるほどなぁと思わされた。
そしてまた、教員になることの出来る人も恵まれた家庭で育ってきた可能性が高く、そのような先生が教育格差を知ることで、親の無関心や子が抱える背景に寄り添う一助ともなるということだった。
道中、データとの睨めっこで疲れる部分はあるものの、それらを整理する(また足りない部分には警鐘を鳴らす)過程そのものに感心はさせられる。
だが、恐らくそんな感心なんて鼻で笑われるだろうな(笑)
後半以降のまとめ部分から顔を出してくる、筆者の思いと怒りに是非触れていただきたいと思う。
筆者のような教育者が、深い学びや批判的思考にこんな正面から啖呵きるのは珍しくて、面白い。
格差が縮まり、機会が与えられるようになった時、筆者の言う、モノ・サービスの質が上がり、生きやすくなる社会に変わるだろうか。
そもそも、そこに至るには社会のあらゆる格差が関わってくるだろうし、単純に教育だけを焦点化するわけにはいかないだろう。
また、差を失くしていくことは、能力の高低といった比較選抜ではなく、質を高くして全ての子どもを成長させていくこともある。ただ、そこまでの質を教育が担保出来るかも疑問ではある。
最後まで読むと、憤りの中に活路を見出す筆者の姿勢が見えて、良かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
データや同じ単語の繰り返しになるのはテーマ上しょうがないし、それだけ説得力はある。
生まれが学力や進学先に影響してくるのはもちろん、考え方(そもそも子供が大学に行きたい、と思うかどうか)にも関わってくるのは、当然と言えばそうだけれど残酷
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この教育格差を完全に消すのはたぶん難しくて
それ自体よりももっと危険なのは、格差が広がることで「学力が高いことで得られた数字やレッテルが、その人の価値や幸せを決定づける」という風潮が助長されることだと思う。 -
「勉強以外に心から没頭できるものがあるのであればよいが、メディア消費量が長いわけで、何に、どうやって向かっていけばよいのか分かっていない児童・生徒が多いと考えられる。遺伝的に学習に向いているかどうかを判断する以前の問題なのだ」
生まれによる教育格差は存在する。今まで生きてきて何となく気づいていたが、データをもとにはっきりと書かれている。
親の学歴や意図的養育によって就学前から格差は生じており、その格差は縮まる可能性は低い。そのままずるずると格差を引きずって社会人になっていく。
生まれによって人生における学びが決まってしまうのはどうかと思う。それぞれにある潜在能力を引き出すような環境ができるといい。
教育機関は日本には緩やかな教育格差があることを自覚する。そして、それが伝達・研究・改善できるようにしていくべき。 -
教育は正解がないからこそ最善の道を模索し続けなければならない。また、どれだけ手を尽くしても格差が0になることはあり得ないため、その事実を心に留めておくことも必要であろう。
✏学校教育には教育機会の平等化装置として格差を縮小する機能があるといえる。
✏教育は誰もが何らかの実体験を持っているので自説を持ちやすい。どんな見解であったとしても白黒つけることは難しく、大半の教育論はその性質から完全な肯定も否定もできない。
✏個別化制作の「効率」性の高さという「正しさ」に酔うだけではなく、その政策の「差異化」機能が格差を拡大する可能性を意識することで、「個別化を推進しながら、なんとか格差にも対処できる方策を同時に打てないか」と議論を進めることができる。
✏学校現場では個人間の差異が表面化しないよう「平等」を重視する傾向がある。ここでの「平等」は「同じ扱い」を意味し、処遇を変えるのは差別の温床とされてきた。この帰結は明快だ。学力格差は縮小せず、学習努力など行動格差は拡大している。
✏学校をコミュニティに開くといった議論もされ始めて久しいが、社会経済的にどんな地域かによって学校が使える資源量に格差があるため、それに伴って生徒が得られる便益に学校間格差が生まれる。
✏「同じ扱い」の義務教育があるからこそ「機会の平等」という舷窓が流布していると解釈することもできる。「平等な機会」が付与されているのであれば、最終学歴・職業・収入・健康などあらゆる社会的に構成される「結果」は個人の責任となり、社会福祉政策は「能力」の低い「弱者」に対する「お情け」となる。
✏望ましいとされる椅子の数が限られている以上ら目の前の子供を笑顔にすることはできても、それは目に見えないどこかの誰かの涙と落胆を引き起こす行為である。教育政策・制度を議論する際、労働市場との繋がりも含めて、この選抜機能という現実に向き合う必要があるのだ。
✏学校を構成する最大の要素は生徒が「誰」であるかだ。カリキュラム、教育手法、伝統などの特色と進学実績を関連付けて議論する有名進学校の校長インタビュー記事が散見されるが、「どんな生徒がその高校に通っているか」を考慮すると、学校の効果はとても小さい。
✏低SESの子どもたちの可能性に投資しないことで、私達は潜在的な損失を受けているかもしれない。 -
途中まで読んだあと、長い間積読していたので通読は諦めてまとめの7章を先に読んだ。
・なんのために教育格差是正は必要なのか
→より良い社会を作るため p.314
・著者は教育格差について教職の必修科目にすべしと考えている。教員志望の学生が教育格差を自覚することは都合の悪いことかもしれない。p.331
→上野千鶴子先生の祝辞を連想。というかほぼ同義の主張。
・機会は「平等」なのだから結果は「自己責任」という考え方p.267
→若林のエッセイにあった新自由主義を連想。
少子化の進む現代で、教育格差が少しでも是正され、底上げされて進学希望者が増えることは教育産業の片隅にいる者としては望ましいと感じる。一方で一人の子の親としては不都合なこともあるかもしれない、というジレンマ。
少し前から、高卒で就職する社会は豊かな社会と言えるのか?という疑問がある。
新聞で、高卒で就職は離職率も高いしその後の最就職も難しい、所得も平均的に低いという記事を読んだ。
高卒でも所得にも再就職にも不便しない社会なら、豊かな社会だと言えるかもしれないが、おこがましさを承知で、現状では豊かな社会とは言えない、積極的な選択とは言えないように思ってしまう。
就活中に、選択肢は多いに越したことはない、と言われたことがずっと胸の内にある。
言い換えれば低きに流れることは後からでもできるということだ。
コロナ禍で、シングルマザーが食うに困っているニュースを見た。かたや、バラエティでは一回で一千万越えの買い物をする経営者が紹介されていた。
いつからこんな社会になった?私が知らなかっただけ?
個人が見知らぬ個人を助けることは難しい。その代わりとして先人たちはシステムを作り、私は税金を払っているのではないか?それが社会であり、政治なのではないのか?
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『過去や現状を把握せず、内省もしないのに「主体的に深い学び?」「批判的思考?」それって悪い冗談だよね』
本書のタイトルこそ「教育格差」だが、もう一つのテーマは「根拠の弱い教育政策」だろう。誰もが知っている分野だからこそ、喧々諤々の議論が巻き起こる。そうして、国民が振り回される。そのわりを一番食うのは低所得者層である。
この連鎖を繰り返さないために、本書が訴える教育格差を可能な限り是正する教育制度を作る必要がある。そのためにはエビデンスに基づいた政策の実施と、得られた経験を可視化する仕組みづくりが早急に求められる。 -
日本は「生まれ」によって機会と結果に格差のある「緩やかな身分社会」他国に比べて平均的な教育水準は高いが、教育格差については極めて凡庸な国。格差は未就学時点で存在、
高校受験で学校間格差がより大きくなる。
ーデータで検証。 -
出身地域・親の学歴によって子どもの最終学歴は異なり、それが収入、職業、健康等様々な格差の基盤となる、そうした教育格差はどの社会にもどの時代にも存在することをデータを基に立証しています。
日本では、1970年代半ばに高校進学率が9割を突破し、2009年には四年制大学の進学率が5割を超えました。しかし、(70~80年代のデータがないので立証は難しいですが)「大衆教育社会」と呼ばれるその頃からSES(社会経済的地位)による影響が強まる階層化社会は始まっていたことは、当時の実態から伺えます。そして、教育意識の地域格差は2000年代以降確実に拡大しているのです。
アメリカの研究によると、中流家庭は「意図的養育」、労働者階級・貧困家庭は「放任的養育」と称される子育てロジックを持つことが分かっています。具体的には「日常生活の構造化(習い事参加・テレビ視聴時間の制限等)」「大人との議論・交渉の奨励(論理的な言語・豊富な語彙)」「学校等との交渉(子どもに便宜を図るため)」等への介入です。
親が大卒であるかということが世帯収入や子どもの学力に大きく影響しますが、その格差は未就学時より存在し、子どもの成長と共に拡大傾向にあります。また、地域格差も大きく、私立中学進学率は三大都市圏の両親大卒層で高く、特に都内の区部中学では、両親大卒層で公立中学に通う生徒の割合は53%、両親非大卒層で88%だとのことです。また、学習量、メディア消費量、親の学校関与度合いなどの「ふつう」度合いは学校間で異なります。高校になると、高ランク校が高SES校、低ランク校は低SES校であることは自明の事実です。そして、どの国においても、高学歴は高収入であることがOECDの調査でも分かっています。
私たちはデータを冷静に分析して改善を図らねばなりません。例えば、過度な受験戦争、詰め込み教育、画一教育を問題視して転換された「ゆとり」教育ですが、1990年当時さえ、中学3年生であっても毎日2時間以上勉強していた生徒は20%に届かなかったそうで、「受験地獄」が局所的な体験に過ぎなかったことが分かっています。教育改革のやりっ放しが多くの子どもの可能性を潰しているのです。
著者は、分析可能なデータを収集し研究知見に基づいた実践の拡散と、教育格差を教員免許取得の必修科目にするなどの改善を提言しています。
夏に受けた研修で話題に上がったため読んでみましたが、この根深い問題が私の生きている時代に改善されることはあるのだろうかという暗澹たる思いと、事実を受け止めて意識していかないと何も変わっていかないと鼓舞する思いが交錯しました。