いちばんやさしい美術鑑賞 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
3.66
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本棚登録 : 509
感想 : 37
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480071521

作品紹介・あらすじ

「わからない」にさようなら! 1年に300以上の展覧会を見るカリスマブロガーが目からウロコの美術の楽しみ方を教えます。アートファン必読の書。

感想・レビュー・書評

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  • いつも美術館鑑賞の時にお世話になっている、青い日記帳さんの著書。
    普段から的確な解説をしてくれる方だけに、わかりやすい解説です。

    タイトルには少し注意が必要です。
    美術の基礎知識を知っている人が対象になっており、一からのビギナーにとっての「サルでもわかる」類のものではありません。
    その分、美術愛好家もしっかり満足できる内容です。

    美術鑑賞は好きなものの、見方が実はよくわかっていない私。
    画家の技量がわかるのは手の描き方だとか。

    セザンヌやピカソの作品をどう観ればよいのかわからず、途方に暮れている人に嬉しいアドバイスがされています。

    フェルメール作品はどれも小さく、作品32点(真筆)を並べてもレンブラントの代表作『夜警』にすべて入ってしまうということには驚きました。

    絢爛豪華な狩野派ですが、代表的な狩野永徳の作品のほとんどは、当時の戦火で焼失し、10件しか現存していないのだそう。寡作で知られるフェルメール作品の三分の一以下ということに衝撃を受けました。

    専門的な観方がわからず、ビギナー目線から脱しきれない美術愛好家にピッタリの内容。
    この本のおかげで、これからはずいぶん美術展鑑賞をしやすくなりそうです。

  • アートファンの方ならきっと一度は訪れたことがあるだろう有名な美術ブログ「青い日記帳」。管理人の名前はTak(タケ)さん。ご本人は美術系の大学出身ではありませんが、年間300以上もの展覧会に足を運び、そのレポートを日々、活字にされています。
    本書は美術鑑賞の初心者に向けて、西洋美術7章、日本美術8章として「しっかり味わう15の秘訣」が満載しています。ここで紹介されている15作品は、いずれも日本国内に所蔵先があります。年中展示されているわけではありませんが、見る機会は恵まれているでしょう。
    美術鑑賞を趣味にする最初の一歩は人それぞれです。年数を重ねるうちに、好きなジャンルが幅広くなっていくこともあれば、気に入った美術分野をどんどん掘り下げていく人もいるでしょう。私自身は地方に住んでいるので、なかなか大型企画展に足を運ぶことができません。そのため狭く深くではなく、広く浅くの美術鑑賞になっています。でも、どうしても難しく考えてしまうジャンルがあって困っていました。工芸作品です。
    これまで、日本伝統工芸展や柳宗理展、北大路魯山人の展覧会などに行っていますが、自分なりに楽しめているのか疑問を感じています。もっと技術的な凄さが理解できれば良いのではないかと、勝手に思ったりしています。
    そんな不安定な気分のときに本書を読んでみました。本書では3つの工芸作品が紹介されています。
    1、《蜻蛉文脚付杯》エミール・ガレ(サントリー美術館)
    2、《曜変天目》(静嘉堂文庫美術館)
    3、《藤花菊唐草文飾壺》並河靖之(清水三年坂美術館)
    こまかく内容を書くとネタバレになってしまうので控えますが、なるほど工芸作品を見るポイントや楽しめるコツが書いてあります。一言だけ言うと、工芸品は絵画よりも暮らしに身近な道具であることです。壺であれ、器であれ、置き場所と設置する部分を高台と呼ぶそうですが、その高台が大好きな人もいるらしいです。車好きのタイヤマニアとか、城好きの石垣マニアみたいな感じでしょうか?無理して全体を論じようとするのではなく、まずは小さな部分、パーツを好きになってみるという方法も知りました。
    もう一歩、踏み込めない美術分野があるならば、本書を読むことできっといいヒントを得られると思います。

  • この本では、美術のカテゴリ(和・洋、クラシック・近現代、絵画・工芸品)ごとに代表的な、しかも国内の美術館に収蔵されていて鑑賞のハードルが比較的低いものを紹介してくれています。
    美術館に行って、「これはちょっと意味がよくわからない」「こういうのは好きじゃないな」「自分でも書けそう」なんていう第一印象をもつことは、まぁあります。それはそれで否定されるものではないけど、こういうところを観るともっと豊かな世界が広がっていますよ、というのが本書のメッセージです。

    キャプションをよく読もう、っていうアドバイスに関しては、「あ、見てもいいんだ」という安心がありました。
    だって、文章ばっかり読んで、肝心の鑑賞が疎かになったり、作品から無言のメッセージを受け取れなくなるんじゃないか(もともとそれほど受け取れてはいないけど)とか、そういう心配がありましたので。ところが、まずは第一印象でいいんだけど、作家のエピソードや作品のバックグラウンドを知ることで、第一印象と違った感想がもてるようになるというのです。うん、確かにそうですよね。その上で、第一印象と比較をしてみればいいんだなあ、と。もっと前からそうしていればよかった。

    ディテールをみたり全体像をみたり、つまり近づいたり遠くから眺めたり、というのも楽しみ方の一つで、筆致(タッチ)や「抜け感」も注目ポイントだといいます。

    いわゆる現代アートをみたときに、「意味不明だ」と感じてしまうのは、自分の感性が貧弱だからなんじゃないか、という後ろめたさがありました。
    だから、(特に現代アートは)単に観るものではなく、「考えるもの」「解釈するもの」だ、そしてそれは「格闘だ」というのには救われる思いがしました。(芸術をその域に押し上げたのは、デュシャンだそうです)

    さて、私は本書と同時に、若林恵さんの『さよなら未来』(岩波書店)を読んでいたのですが、その中で、

    “写真に限らずアートというものが同時代の最もアクチュアルな批評であるという認識は、どうして日本では一向に広まらないのだろう。(略)「アートはビジネスマンの教養である」(略)とほほ。アートってそういうことじゃないと思うんだけどなあ”

    という箇所があって、こと現代においてはまさにそうなのかもしれないな、と思いました。
    でも必ずしもそうとは限りませんけどね。アートが批評のためだけに存在しているわけじゃないから。だって、美しいと思ったものを自分の内面で濾して、より美しいものに昇華して表現しよう、っていう芸術的志向だってあるはずだし、そのときには批評なんて狙いはどこにもないと思うので。

    とにかく、この本で私にとっての一番の収穫は「分からないこと」が肯定されたような気がしたことです。
    分からないことは調べればいいし、その情報を頼りに考えればいいのです。第一印象でなにもかも感じ取れる必要はないし、芸術家もそんなことを望んでるわけじゃないかもしれないのだから。

  • 880

    青い日記帳
    1968年生まれ。1990年國學院大學文学部文学科卒、Tak(タケ)の愛称でブログ「青い日記帳」を主宰する美術ブロガー。展覧会レビューや書評をはじめ、幅広いアート情報を毎日発信する。他にも多くのメディアにコラムを寄稿。ギャラリーや書店、カルチャーセンターでのトークショーも多く行っている

    ギリシア神話や『聖書』を通読・精読するとなると途中で嫌気がさしてしまい、本を二度と開かなくなってしまうなどということになりかねません。『源氏物語』であっても五十四帖すべて隅から隅までくまなく読み込んで物語の内容を理解している人はそう多くはありません。絵画鑑賞の手助けとしてストーリーを完全にインプットしておく必要はありません。出会った作品ごとにその場面だけつまみ読みしたり、調べたりすればよいのです。一度調べた場面は、二度三度と同じテーマの作品と出会うたびに再確認していくことで自分の知識として定着します。そうした肩の力を抜いたコツコツとした積み重ねが、いつしか絵画を観る大切な眼として育っていくのです。

    冒頭で、しっかり描かれている作品はよい印象を残すと書きましたが、どんな時代のどんなテーマの絵画でも一貫して画家の力量を知ることができるポイントがあれば、しっかり描けているかどうかが分かりやすいものです。それはどこだと思いますか?人物が描かれている場合、それはずばり手です。手の描き方は画家の技量の度合いが表われる重要なチェックポイントのひとつなのです。では、どうして手なのでしょうか。人体の他の部分、顔や容姿は、人種や時代、慣習や流行により違いが生まれるので、一貫して比較するには不向きです。また顔などは個人的な好みもあるので、いくら上手く(美人、美男子)に描かれていたとしても観る人の好みに合わないと「下手な絵」となりかねません。身につけている衣装や体型に注目が行ってしまい、そもそも比べることが困難です。つまり、このように考えていくと人体の中で最も普遍性が高いのは手の描き方なのです。

    今でこそフェルメール(Johannes Vemeer一六三二-七五)の名前を知らない人はいま せんが、一七世紀にオランダのデルフトで活躍した彼がこれほどまで注目されるよう になったのは、ここ二十年程の短い期間に過ぎません。もともとフェルメールは名の 知れた画家であったにもかかわらず、死後、その存在が忘れ去られていました。しか し一九世紀になって「再発見」され、文学者にさえも影響を与えます。いったん歴史 の中に埋没してから不死鳥のように甦ったフェルメールですが、さらに現代において 再度大ブレイクします。九九五、九六年にワシントンナショナル・ギャラリーとマウリッツハイス美術館で開催された「大フェルメール展」に現存する作品が約三十五点ほどとされているフェルメール作品のうち実に二十三点が集結し展示されたことが、日本でのフェルメール・ブームの火種となりました。マガジンハウスの『BRUTUS』が「君はフェルメールを見たか?」と題し、初めてフェルメールの特集を組み、一気にフェルメールという画家の認知度が上がったのです。今では信じられないことですが、当時は雑誌が大きな影響力を持っていたのです。

    これらはあくまでも憶測の域を出ませんが、フェルメールに限らず、このように生前の画家の暮らしぶりを想像してみたり、どうしてこの絵を描くに至ったのかなど小説家になった気分で「物語」を編み上げられたりすれば、絵の前にいくらでも立っていられますし、家に帰ってからもポストカードを観ながらあれこれと思いを巡らすことができます。そして気がつくとその画家があなたの隣にいるような気にさえなるはずです。美術鑑賞はある意味で妄想のラビリンスを巡るようなものでもあります。

    フェルメールが注目されるに至った二つ日の理由は、その作品が歴史画(宗教画や物語画)ではなく、日本人にとって受け入れやすい風俗画だった点です。一七世紀、 一般的な西洋絵画の主題は宗教画や歴史画が主でした。しかし王侯貴族に代わり市民が政治の主導権をいち早く握ったオランダでは、宗教画よりも市民の生活の何気ない一場面を描いた風俗画が好まれたのです。キリスト教の主題やギリシア神話の一場面が描かれていても、『聖書』などによほど精通していないかぎり、何がそこに描かれているのかすぐには理解できません。けれども風俗画はそうした予備知識がなくても絵画の内容を楽しめます。実際には、風俗画にも、「花瓶に活けられた花や骸骨は人生のはかなさや命のもろさ(ヴァニタス)を象徴している」などのように、暗喩の約束事がありました。けれどもフェルメールはこの風俗画の約束事を可能なかぎり排除したのです。

    日常の台所風景のひとコマが描かれているだけの《牛乳を注ぐ女》(図2-2)を前に、この絵のどこがそんなにすごいのか?と疑問に思われる方もいるかもしれませんが、そこにあるのは引き算の美学なのです。余計な情報をそぎ落としそぎ落とし最小限度の事柄で最大限の美しさを発揮させる。引き算の美学、最小限の事柄で最大限の美しさを発揮する――これってどこかで聞いたことがありませんか?そう、これは素材を生かしたシンプルな和食の美学です。フェルメールの作品は、日本的な感性の世界に通じるものがあるのです。

    まず始めに、これまで見てきたグエルチーノやフェルメールと違い、モネが描いたのは主に風景だということに注日しましょう。宗教画や風俗画が、日本人にとってあまり馴じみがないのに比べ、風景画(山や川それに草花など)は予備知識がなくてもひと日でそこに描かれているものが分かり、作品の世界観に入っていくことができます。美術史上では風景画のヒエラルキーは宗教画や風俗画に比べ下位でしたが、今の時代、我々鑑賞者にとってはそうしたジャンルの階級制度はまったく無用なものにすぎません。美術館へ足を運び美術鑑賞をする理由は人それぞれあるかもしれませんが、「美しい絵」を観たいという願望は誰しもが心に抱いているものです。その願いに最も合致するのがモネの風景画なのです。画面全体に広がる優しい色合いや自然美、そして言葉の壁を感じさせない普遍性がモネの風景画にはあります。風景画は、地域や文化的な背景の違いを超越して、すべての人に絵のよさが伝わるという魅力があります。

    絵画の好みや良し悪しも人によって大きな違いがあるものです。言い争いになるほどではないかもしれませんが、自分がよいと思っている画家や作品のことを悪く言われるのは快いものではありません。印象派の画家についても同じことが言えます。「ルノワールの初期の人物画はよいけど風景画は観られたものじゃないね」とか「川以外を描いたシスレーの風景画は魅力が半減するね」など人によって様々な意見が出てきます。これがピカソやシュルレアリスムの画家たちとなると、机を叩いて怒りだす人も出てきかねません。 しかし、唯一モネだけは例外で、まったくと言ってよいほど敵を作らぬ存在です。 どうです?皆さんのまわりにモネ大嫌い!観るのも嫌だ!!なんて方いませんよ 1874年「第一回印象派展」に参加した画家はモネの他にルノワール、ドガ シスレー、ピサロなどがいますが、もし「印象派の中で誰が一番好きですか?」 ンケートを取ったとしたら問違いなくモネが一番になるはずです。それは日本に限らず世界中で同じ結果になるはずです。

    セザンヌやモネが活躍した一九世紀はすでに写真技術が発達しており、目の前のものをありのままに残すのであれば、絵画よりも写真に軍配が上がることは明らかでし た。だからこそモネは形態よりも光を画面に表現することを選んだのです。セザンヌ はそれをさらに突き詰めたと言えるでしょう。

    見えるままにリアルに描くのであれば写真にかなうはずがありませんし、画家としての存在理由もなくなってしまいます。写真とは違う世界を描こうと多くの画家たちが模索していた時代に、自然や建物やモノを分解し、意のままに再構築し描くことをよしとする頑なな画家が現れたとしたらどうでしょう?まさにそれがセザンヌだったのです。

    勉強ができる優等生は時にスポーツも万能で何をやらせても優れた才能を発揮するように、ガレも幼い頃から生物学そして文学においても優れた能力を発揮していまし た。ガレの作品にはボードレールやユーゴーといった詩人の言葉が引用されているも のがあります。詩(言葉)を元にしてガラス作品を作っていったのですから驚きです。そこにはアール・ヌーヴォーやジャポニスムだけでは語り尽くせないガレの幅広い才能の一端を垣間見ることができます。

    繰り返しになりますが、写真技術の発遠とともに、日の前の像を正確に二次元の画面に写しとるという絵画が担っていた役割が急速に薄れていくことを、多くの作家が危ぶんでいました。ピカソ自身もただならぬ危機感を抱いていました。天真爛漫で自分の好きなように生き、絵画を描いてきたイメージのあるピカソですが、実は決してそうではないのです。写実を超える新しい絵画のあり方を見つけるため、古代スペインや古代エジプトなどのプリミティヴな彫刻に興味を持ったり、スペインのディエゴ・ベラスケスら過去の巨匠の作品の連作模写を制作するなどしました。

    雪舟の中で一枚を選ぶとすると、やはりどうしても国宝《秋冬山水図》(冬景)になってしまいます。《秋冬山水図》は、対となる秋景と共に東京国立博物館に所蔵されています。もしかすると、もともとは春夏秋冬それぞれ四つの季節を描いた四枚からなる作品だったかもしれません。ちなみに「山水」とは風景のことを意味します。西洋絵画の風景画と比べてみるだけでも、多くの違いが見出せるはずです。

    ところで、湯水の如くお金を使い、派手な生活を謳歌していた尾形光琳がどうして絵師の道を志したのでしょうか。答えは簡単で、光琳が三十歳の頃に父親が他界したことにより雁金屋の経営は傾きはじめ、これまでのような生活を維持できなくなったからです。それでも贅沢三味に育った光琳が質素倹約な生活にシフトチェンジするなどできるはずもなく、相続した遺産は飲み食いや女遊びにすっかり使い果たし、とうとう最後は弟の乾山にまでお金をせびるようになります。 ゴッホの弟テオがしっかり者であったように、乾山は同じ家に育ったとは思えない ほど真面目で堅実な生活を送っていました。まるで光琳が典型的な社会性のないお坊 ちゃまタイプのダメ人間のように見えるかもしれませんが、それはあながち間違いで はありません。 しかし、京都の良家に育っただけのことはあり、他の人が額に汗して働いている間に、多くの書、美術、能など本物に接していましたから、無意識のうちに審美眼や教姿は蓄えられ、芸術的センスは他の誰にも負けないものになっていたようです。だからこそいよいよ生活に困窮した四十歳近くになってから、本格的に描き出すことが可能だったのです。三十代までの光琳はカブトムシの幼虫のように栄養分たっぷりの腐葉土の中でぬくぬくと育ち、来るべき「成虫」の時期に備えていたとも言えます。 尾形光琳の曾祖父・道柏は、本阿弥光悦の姉を妻とし、光悦と仲がよかったこともあり、光琳の家には光悦や光悦と親密な関係にあった俵屋宗達の作品が残されていました。それを幼い頃から目にしていたのですから、芸術的センスが磨かれないわけがありません。そして同時に光琳自身も宗達に対し尊崇の念を抱いていました。さらに光琳は、狩野派や仏画にも興味関心を示し、模写を行ったり、画風を真似て絵を描いたりもしています。しかし、まさかこの時は後に生活のために絵を制作するであろうとは思ってもみなかったはずです。ここが重要で日々の生活の中で知らず知らずのうちに身についた教養は、何十年たっても失われることなくその人の血となり肉となるのです。

    尾形光琳の作品は、写真家の杉本博司(一九四八ー)や現代アーティストの会田誠 (一九六五ー)などにも多大な影響を与えています。会田誠は《群娘図97》(個人蔵)という、《燕子花図屏風》の花々をなんと女子高 生に置き換えた作品を描いています。《群娘図》というタイトルは《燕子花図屏風》 の花に用いられている群青を意識し付けたのでしょう。とても美しく、こうした琳派 の継承もまたあるのだなと思わせる作品です。 こうした過去の作品を下敷きにして新たな作品を作り出すことを「本歌取」と呼びます。もともとは和歌の用語ですが、一般的に用いられることも多い言葉です。現代アートの世界で言われるところの「シュミラークル」とは一線を画し、あくまでも杉本も会田も光琳の作品を念頭に置いて新たな作品を作り出しているのです。 そして光琳自身も能や古典から多くの影響を受け、それを《燕子花図屏風》に生かしています。例えば世阿弥が唱えた「序破急」(さらに「破」を三段に分け五段構成することもある)が《燕子花図屏風》の中にも見て取れると河野元昭氏が指摘されています。画面右から左にかけて「物語」がリズミカルに展開しているように見えてきますね。日本は小さな島国ではありますが、千年以上にわたる長い歴史を湛えています。 本で生まれる芸術作品にはすべてどこかに、本歌取の要素があって然るべきなのです。つまり日には見えないつながりがあるのです。そしてそれこそが日本美術最大の特徴であり、魅力でもあります。お金を出せば作品は購入できるかもしれませんが、 積み重ねてきた芸術の「歴史」は買うことはできませんからね。イラストの投稿サイトpixiv(ピクシブ)がこれだけ活発な展開を見せているのも本歌取の精神があるからではないでしょうか。

    女性らしい女性を描くべく、松園が最もこだわったポイントは何を隠そう眉の表現でした。「女性の命は眉である」とし、ひとつの作品を描き上げるにあたり、最後に筆を入れたのが眉だったそうです。私は男性ですので化粧には詳しくありませんが、女性が化粧する際、眉にはことさら神経を使い時間を費やすと聞いたことがあります。それと同じことを絵の中で行ったのが松園であり、男性では気がつかない要所で先ほど、松園作品の髪形だけを見比べても興味深いと述べましたが、松園通になってくると、眉だけを見比べるようになってくるものです。女性の命である眉を観るだけで描かれた女性の年齢(既婚、未婚)や職業などの情報を読み取ることができます。

    そんな美人画を復活させたのが池永康晟です。奇しくも写真週刊誌『フライデー』 (二〇一五一一月二七日号、講談社)で池永が紹介された際に美人画についてこのように述べています。女性美そのものをテーマとする美人画は、日本ならではのもの。歌麿の美人画をはじめ、浮世絵以降の人気ジャンルのひとつですが、昭和の中頃にその流れが途絶えた。新奇さを求めて別のジャンルへ向かう画家が増えたからです。僕は愛する人を描くという当たり前のことを、改めてやっているだけです。

    モデルの個性を単に表すだけなら肖像画や写実画に委ねておけばよいわけで、美人画であるためにはその絵を観てそこに描かれている女性に心ときめかねばなりません。つまり絵を観て恋に落ちる感覚です。それは画家も観る側も共に。喜多川歌麿の浮世絵美人が衆日を集めた時代と少し似ている気さえします。

    思い返してみると、ブログとその前身のホームページを通じ十五年間にわたりアートの魅力を発信してこられたのには、小学校低学年の頃から日曜日となると市内の図書館へ連れて行き多読の愉しさを教えてくれた父親と、決して他人のあら探しや陰口は言わず、努めて良い点を見つけ好きになるように育ててくれた母親の存在が大きく起因しています。美術作品に向かう際に活字を通して得た知識と、良いところ、好きなところを探し出す姿勢は、共になくてはならないものだと経験上確信しています。 今あらためて両親と、展覧会へ飽きもせずに付き合ってくれる妻にこの場を借りて感謝の気持ちを記しておきたいと思います。

  • 前半の西洋美術に関する記述は、雑誌の記事のようで、他書を紐解いた方が良い。
    後半の日本美術は、著者の思い入れが深いように思う。やさしくはないが、引き込まれる部分もある。最後の池永康晟は良い。

    ・カラーバス効果
    ・日本美術はわびさびだけではない
    ・上村松園の眉

  • 様々な年代や種類の作品について、著者自身の経験や主観を交えて鑑賞する。教科書で見たことがあるような作品も数多くあるが、作品の背景と同時に楽しみ方の示唆も得られるのが本書の特徴。
    巻頭に本書で紹介される作品の写真がある。知識を得るというよりは、「自分も同じことを思った!」「自分は逆の印象をもったなぁ」のように、著者の主観に共感しながら読み進められる。私は美術館には1人で行くことが多いが、こんな友達と一緒に行って、鑑賞後に語り合えたらきっと楽しいだろうな、と思う。
    読みやすい文章なので、自分のように美術の知識が殆どなくてもサクサクと読める。美術館に行ったことがあるものの、まだ楽しみ方を見出せていないような人にオススメしたい本だと感じた。

  • 様々な画家を題材に、美術作品の見方を教えてくれる本です。

    この本は他の美術本とは違います。
    大体の美術本は専門家の方が書かれています。
    しかし、この本を書いた方は美術の専門家ではありません。そのため痒い所に手が届くような内容になっています。喩えが秀逸で、ユーモアのセンスもあるため、読み物としても面白いです。美術鑑賞のレベルを上げたい方にはもってこい。

    欠点もあります。まず最低限の美術の知識は必要です。全くの初心者には難しい可能性があります。また使われている熟語が難解です。私は辞書を片手に読み進めました。
    調べながら読むのが好きな方はこれらは問題にならないでしょう。

    私はこの本を読んでから、美術館での絵の見方が大きく変わりました。
    もっと美術館で楽しみたい!という方はぜひ読んでみてください。

  • 2023.01.31 日本で見れる作品15点という切り口がとても素敵です。足を運びたくなります。最後の池永康晟さんはぞくっとしました。

  • 借りたもの。
    展覧会感想・美術鑑賞ブログの大御所『青い日記帳』( http://bluediary2.jugem.jp/ )の著者・Tak氏による、美術の見方。
    日本国内、主に都心部で見れるものを紹介していることがありがたい。日本のコレクションの傾向も相まってか、西洋絵画(主に印象派からシュルレアリスム)、日本美術に工芸など。
    美術史の流れもちょっとだけ触れつつも、主軸は美術を鑑賞する際の、ワクワク感――知的好奇心とそれを広げること――について言及している。
    知らなくても、分からなくても、興味を持つこと。好き嫌いの価値判断でも良し。

    美術という概念は西洋の“Art”を輸入したものなので、日本“美術”はやっぱり工芸的な要素が強く出てしまうと思ったり。
    金屏風はパーティションであると同時に間接照明器具。
    曜変天目について、謎に包まれた焼き方やそれを科学的に解明、再現する試みがあることなども紹介。

  • 2022/07/31
    よきよき!面白い。

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著者プロフィール

1968年生まれ。1990年國學院大學文学部文学科卒、Tak(タケ)の愛称でブログ「青い日記帳」を主宰する美術ブロガー。展覧会レビューや書評をはじめ、幅広いアート情報を毎日発信する。他にも東京都美術館やブリヂストン美術館の公式サイト、goo「いまトピ」、朝日マリオン・コム「ぶらり、ミュージアム」、など多くのメディアにコラムを寄稿。ギャラリーや書店、カルチャーセンターでのトークショーも多く行っている。
http://bluediary2.jugem.jp/

「2018年 『いちばんやさしい美術鑑賞』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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