死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

著者 :
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480069870

感想・レビュー・書評

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    なんだか難しかった。読み終えたけど、やっぱりよく分からない。

    無期懲役は仮釈放可能性あり、終身刑はなし。
    終身刑は、なぜ税金で生きさせなければならないのかとの批判がある。
    刑期を300年にするなど海外の例は、収監中の態度により刑期調整できる。終身刑の人より御しやすい。
    死刑の、犯罪抑制効果は証明が難しい。
    治安悪化のイメージとは、凶悪さがセンセーショナルに報じられることが一因。
    道徳教育強化により、殺人減ではない。
    最後は命により償うということが、多数にとり分かりやすく納得しやすい。
    人を殺してはいけないという道徳について。
    死刑とは殺人か。
    安楽死や中絶も殺人か。
    カントの定言命法、ダメなものはダメ。道徳には根拠がないから普遍的だ。死刑肯定。人を殺しておき自分は生きているなら、どこに正義はあるのか、同等性の原理、同等の不利益を与えられることで処罰。
    価値の天秤、殺人への価値の天秤は死刑だとカント。
    公権力と死刑。
    冤罪について。
    死刑反対のベッカリーア論、人が同胞を虐殺する権利を誰があたえることができたのか。私たちは安全確保のために政府を設立したので、どんな理由あっても、私たちを殺す権利を持つことはあり得ない。
    それに対するカントの批判。人が欲した刑罰しかくだせないなら、それは刑罰にならない。
    ベッカリーア、死刑は刑罰として対した効果もってない。だから終身隷役制を提唱。

    うーん、羅列したけど、しっかりした理解難しい。だけど面白かった。

  • 発売時になんとなく気になっていたが、一ノ瀬先生の本を借りる際に同じ死刑を扱った親書ということで借りてみた。議論がよくまとまっていて、分かり易かった。

    論の運びとしては、まず文化相対主義では欧米の死刑制度批判に対峙できないとして、普遍的なロジックを構築すべしとする。そして、この本の根本的な問題として問われるのは、池田小学校の宅間のように死刑となるために殺人を犯す犯罪者に対して死刑は無力ではないかという問い。
    これに対峙するため、道徳を哲学的に考えていく。
    「人を殺してはいけいない」という問いは、昔からよく問われるが、まずはそこに説得的な理由がないことを確認することから始める。その上で、それに真っ向から対立するカントの定言命法を持ち出す。当然、カントからすれば「人を殺してはいけない」はどんな時にでも成り立つはずだ。だが、実はそのカントが死刑については肯定している。
    この矛盾を考察していく中で、著者は応報論こそが根元的な道徳原理になっていると明らかにする。応報論をもとにするなら、死刑を価値の天秤に乗せて、罪と釣り合うかどうかを考えることになる。
    そして、死刑の是非に道徳特的な決着がつかない以上、死刑はどう権力を行使するかという政治哲学の問題になるとする。ここでやっと、著者の専門とも言える分野に突入する。
    ここで考えられるのは、冤罪の問題だ。そこでは足利事件を含め、冤罪の構造が詳細に語られる。著者は、基本的にはこの冤罪の問題から、死刑制度に対する反対を表明していく。
    最終章では、デリダの死刑廃止論に痛烈な批判がなされるとともにチェーザレ・ベッカリーアという法哲学者の死刑反対論が示される。

    過去の哲学理論を参照しつつ、ある議題を自分の頭で徹底的に考える見本のような議論だと思った。その強靭な思考の前では、デリダの死刑廃止論もなんら説得的でない、ただの感傷的な赦しの道徳理論とこきおろされる。
    現実に起こった事件などへの言及も多く、単に思弁的ではない哲学の力を見た気がした。

  • 死刑制度について、どんな理論や背景があるのかを知っておきたいと思って読んでみた。
    知りたかったことがよくわかった。

    死刑になりたくて犯罪をする人がいるなんて、思ってもみなかった。
    死にたいくらい生きるのがしんどくて、それは社会のせいだと思ってて、だから他人を巻き込んで殺されよう、ということだった。
    死刑は、死んで罪を償ってもらうためのもの、という意味だけではなくて、”処罰されて”殺されるということだった。

    死刑反対派の言い分で「どんな人でも赦す」ということが高尚だという理念は間違っている、という部分は、なんだかモヤモヤするところをハッキリさせてくれた。
    「どんな人でも赦す」ということが、「凶悪犯を赦せない」ことより高尚だと言える根拠なんてなかった。

    道徳がどのような原理で成り立っているのかについて知れたことも、これから何かを考える時に参考になると思う。

    ブログでもう少し詳しく感想を書きました。
    https://kon-yorimichi.com/death-penalty/

  • 哲学を専門としながら選挙などの制度面にも造詣の深い著者らしく、序盤は社会学的、中盤は哲学的、そして終盤は制度的アプローチにより死刑制度の是非を論じる視野の広いところを見せる。
    「死刑の是非は、道徳判断の本質が相対性にあることから道徳的には確定困難。制度的にみると、公権力に内在する構造的要因により死刑は冤罪リスクと無縁ではありえないため、死刑は廃止し終身刑の導入を検討すべき」と端折ってしまえば身も蓋もないが、そこに至る筋道は簡便ながら説得力あり。特に中盤、カントの「同等性原理」や定言命法・仮言命法を引き合いとしながら、道徳判断の相対性から判断根拠の普遍性を際立たせる下りは、込み入っているがなかなか読みごたえがあった。

    (以下は勝手な要約)

    第1章 死刑は日本の文化だとどこまで言えるか?
    * 「死刑は日本の文化といえるか」すなわち「文化相対主義か普遍主義か」という問いは普遍主義的な問いである
    * 従って死刑制度を擁護するには「死刑は人権に反しない」と普遍主義的に答えねばならない。
    * 安易な相対主義への逃避は議論の放棄である

    第2章 死刑の限界をめぐって
    * 自らへの死刑適用を希望する者にとって、死刑制度は犯罪を抑止要因ではなくむしろ助長要因なのではないか(「死刑の悪用」)
    * 死刑の悪用を阻止するためには死刑よりも厳しい刑罰を科さねばならず、死刑賛成派のみならず反対派にとっても不都合が大きい
    * 終身刑を極刑に追加するとしても、本音では死刑を回避したい犯罪者が、死刑希望を欺罔することで死刑適用を免れてしまう(またはその逆)という弊害がある
    * 無期懲役刑は仮釈放の可能性があるという点で終身刑と異なる
    * 死刑を存置する理由として遺族の応報感情があげられるが、道徳の基盤の一つを成しており、これを否定することは極めて困難。ただし終身刑が死刑よりも過酷な面を持つとすれば、終身刑でも応報感情に応えられる可能性あり
    * 死刑の犯罪抑止効果を立証することは死刑の性質上困難。凶悪犯減少の理由は死刑制度とは別に下記3点で説明可能。「治安は悪化している」という我々のイメージの高まりは、実は治安が良化した結果、我々の意識が凶悪犯罪に対し敏感になり、殺人に対する拒絶感情がかえって強まったことの産物
    1. 教育水準上昇による、長期的視野に立った行動習慣の定着
    2. 貧富の格差縮小による暴力抑制
    3. 死亡率(死ぬ機会)低下による、殺人の重大性上昇
    * 死刑の犯罪抑制効果は、同一社会で死刑制度を備える場合と備えない場合を比較せねばならず、現実的に立証困難* その上でなおも「死刑制度には抑止効果がある」というなら、それは実証的レベルではなく、「道徳的」なレベルで死刑制度に信頼を置いていることになる。この「人を殺せば命で償わねばならない」という「道徳的な歯止め」こそが、現在死刑制度維持が支持される大きな理由
    * しかし一方で、「死ぬことでしか償えない罪がある」という前提は「死ねば何をしてもよい」という帰結を導く。「命による償いは単に死ぬことを意味しない」ことの補強として、「処罰」が導入される。この点では死刑も終身刑も同値。

    第3章 道徳の根源へ
    * 死刑は人工中絶と同様「人を殺してはいけない」という道徳の適用の例外
    * そのような根源的な道徳に例外があるのだとすれば、道徳という概念そのものが絶対的なものではなく相対的な概念であるということではないか
    * 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには以下の回答があるが、即座に反論が可能でどれも確実なものではない
    1. かわいそうだから (→かわいそうでなければ殺してもよいのか)
    2. 悲しむ人がいるから (→悲しむ人がいなければ殺してもよいのか)
    3. 自分がされたくないことを他人にしてはならないから (→自分がされてもよいとする者なら殺してもよいのか)
    4. 誰も他人の命を奪う権利もを持っていないから (→トートロジー)
    5. 秩序を守り、社会を存続させるため (→社会秩序のためなら殺人は許されるのか(=死刑制度の正当化))
    6. 同種の個体を殺すのは人間だけだから (→自然界に同種事例多数あり)
    * これらはすべて因果関係を描写した命題であり、善悪を論ずるものではない。ことばに内在するこのような制約が、道徳の絶対的な論拠付けを困難にしている
    * しかし、エマニュエル・カントは「むしろ道徳には根拠がないからこそ絶対的・普遍的なものである」と説いた
    * カントによれば、「信用を失いたくなければウソをついてはならない」のような仮言命法は、前提条件が満たされなくてもよいケースを必然的に招いてしまうので、真の道徳は「仮言命法」ではなく「定言命法」により記述されなければならない。
    * 同じく、特定の前提条件のもとでしか守る必要のない「道徳」が真の道徳と呼べるのだろうか。いかなる場合でも守る必要があるのが「道徳」である。従って道徳は前提を伴わない「定言命法」で記述されねばならない
    * いかなる条件も許さないカントの厳格な道徳の定義には異論もあるが、結果としてある行為が悪い結果を引き起こした場合、その行いが道徳的なものか非道徳的なものかは、その行為者の「良心の呵責」に大きな影響を及ぼす。それは「道徳」それ自体が善悪の規範として我々の行為を拘束しているからに他ならない。カントはそれこそが道徳の本来の力であるとする
    * 道徳は論理の力により「論証」すべきものではなく、ことばの力により「説得」すべきもの。したがって道徳が絶対的根拠を欠くことは何ら道徳の価値を貶めるものではない
    * しかし一方でカントは死刑を肯定している。それは死刑が凶悪犯罪を抑止するからではなく(それでは仮言命法の脆弱性が露呈してしまう)、死刑を含む刑法が「同等性(同害応報)の原理」を体現しており、いかなる条件にも左右されない=普遍的な、定言命法としての道徳を記述していると考えたから
    * 死刑を肯定するということはすなわち個別の道徳命題(e.g.「人を殺してはいけない」)に例外を設けること(相対化)。したがってカントにとって普遍的な(絶対的な)道徳とは個別の道徳命題ではなく、それらに存立根拠を与える道徳原理であり、それが同等性の原理である
    * 道徳判断は相対的にならざるを得ないが、定言命法を実践する、即ち普遍的に道徳的な行動をしようとするには、「誰がやっても問題ない」行為のみを基準とすべき
    * したがって、定言命法には「自分が他人にして欲しくないなら」という隠れた条件があるという意味で、実は仮言命法的であるという矛盾が生じる
    * 定言命法は個々の道徳判断の根源的な規範原理であり、具体的な命法(道徳命題)では表現され得ない。その普遍性を個別の命法で表現しようとしたため矛盾が生じた
    * 個々の道徳判断が相矛盾するものであっても、そこにはそれらに普遍的根拠を与える道徳原理があるはず。カントはそれを応報論的な「同等性原理」として抽出した
    * 我々が道徳判断をするとき、それぞれは相対的なものに過ぎなくとも常にこの応報論に裏付けられた「道徳的なるもの」を念頭に置いている
    * ではなぜ応報論なのか。それは、応報論が、「私が他人に為すこと」と「他人が私に為すこと」の価値同等性を主張することにより、「道徳的に正しい」という判断が成り立つためには二つの物事の価値が釣り合わねばならない、ということを説明しているから
    * 「何と何が釣り合うか」は相対的であり、したがって死刑肯定派と否定派で犯罪と平衡する刑罰の軽重は異なるが、衡平性という判断基準それ自体は普遍的であり同一
    * 道徳が相対的なものである以上、天秤の両皿に何を乗せても良いことになり、従って死刑の道徳的な是非は確定不能。したがって、その是非は政治学的に論じられるべき

    第4章 政治哲学的に考える
    * 「公権力が」「合法的に」人の命を奪うことができるとされている理由は何なのか
    * 「正しい殺人」であれば、公権力でなくとも誰が行っても合法とされるはず
    * 「合法性」とは、その行為主体が公権力=合法/違法を決定できる権能を有すること(「決定と執行の一致」)
    * 「公権力」とは、他人が従うべき決定をなす能力を持ち、かつ従わせるための暴力(物理的強制力)を有するということ
    * したがって死刑とは、公権力に抗う人間に発動される暴力の、もっとも究極的な顕れ
    * フーコーによれば、権力なき社会は単なる夢想。従って、死刑が公権力の手段であるからと言って公権力を否定するのも同じく無意味
    * では公権力行使を認めるとして、死刑という手段を持つ公権力と持たない公権力のどちらが望ましいのか
    * 冤罪は公権力行使の単なるミスか、それとも公権力に構造的に内在する問題なのか
    * 冤罪に固有の「虚偽の自白」は、捜査当局の過剰な使命感と正義感に起因する可能性
    * 刑事司法で既判の事実を覆すには公権力の自己否定を要するため、困難
    * 権力の本質は決定すること、そしてそれを貫徹すること。そして冤罪は公権力に内在的な「権力的なるもの」とならざるを得ない。そして死刑における冤罪が取り返しのつかないものである以上、死刑は廃止すべき

    第5章 処罰感情と死刑
    * 人々の処罰感情は、冤罪を過小評価する一方、犯罪者を処罰する公権力の活動を支持し正当化する
    * 従って死刑廃止を主張するならばこの処罰感情への対応、具体的には被害者遺族の救済が必要
    * しかし死刑制度を存続させる日本では、海外に比べて救済措置の整備が遅れている
    * 日本では、無期懲役刑における仮釈放が認められにくくなる傾向にあり、事実上終身刑化している
    * 日本の死刑廃止論の根底には厳しい処罰をすべきではないという「優し過ぎる心情」があるが、死刑以外に厳罰感情に応える手段がない現状ではこのことがかえって死刑存続の理由となってしまっている。凶悪犯罪者を赦すという寛容さが処罰感情より高尚であるわけではない
    * 処罰感情は、自分に優しくしてくれた人には同じく優しくすべきであるというポジティブな感情と同じく、同等性の原理に根拠を持つ感情であり、根源的な道徳感情である
    * この処罰感情に応えるには、 冤罪のリスクを考慮し死刑を廃止する一方で、 死刑よりも厳しい刑である可能性のある終身刑を導入すべき
    * 死刑と終身刑は両立困難(どちらがを極刑とするか判断困難。また犯罪者の意思表示のみで死刑が回避される可能性)。
    * 18世紀イタリアの哲学者ベッカリーアは、社会や道徳秩序を徹底的に破壊しようとするものに対しては死刑は無力であるとした上で、死への逃避を許さない終身隷役刑を提唱した。これは哲学の歴史における最初の死刑廃止論だったが、それは寛容や赦しとは無縁の、刑罰の「厳しさ」の視点から死刑制度の不適切さを論ずるものだった

  • この本を読んで最も学びになったことは、「死刑制度の是非は道徳的に確立することはできない」ということ。そして、公権力が冤罪をしてしまう可能性がある以上、死刑は取り返しのつかないものとなってしまう。だから死刑はやめるべきだということがよく理解できた。
    もう一つ!p35「『それはあなたの意見にすぎない』『考え方は人それぞれ』というかたちで相対主義に逃げる人がいる。(…)徹底的に普遍主義の次元にとどまって議論する意志がなければ、他者をせっとくすることなどできないのだ。」という意見にはハッとさせられた。私も話してる相手に「それも考え方の一つだよね」と言われるとそこで違う次元に持って行かれてしまったような、一種の思考停止感を味わっていた。

    冤罪は単なるミスではない。公権力自体の権威や信頼を維持するために、構造的に冤罪の危険性を含んでいる。
    理由として↓
    ・重犯罪の犯人を捕まえなければならない使命感
    ・再犯にて誤りを認めることによる信頼度の低下

    道徳的に死刑の是非を議論できないことの証明として、カントの定言命法の説明があった。道徳の性質として、それに理由づけをすると全て仮言命法になってしまうことがある。

    「人を殺してはいけない」の根拠には、「同等性の原理」(応報的な規範原理)があって、
    ★道徳的に正しいかは二つのものごとの「価値」が釣り合うかにあるかで決まるという。
    ↓しかし!
    何と何が釣り合うか、は個々人の考えや文化的背景、時代、その時の状況によってもことなってくる。だから、道徳的な判断は相対的になる。

    相対的だと何がいけないかというと、個人の自己正当化の主張として、どんな「価値の釣り合い」も実現可能になってしまうから。

    (感想)
    残酷かもしれないが、私は安易に死刑にするのではなく、犯人は被害者と同じ方法で処罰されるべきだと思っていた。しかし、その方法でも同時に冤罪だった場合取り返しがつかず、冤罪の疑いがかけられた人がたとえ死ななかったとしても、身体的・肉体的苦痛を伴うことになる。
    でもそしたら牢屋にいれられることも程度は低いが
    身体的・肉体的苦痛になるよなぁ。しかし、容疑者を社会に野放しにしておくこともできない。難しい。

  • 死刑反対、あるいは賛成の立場をあらかじめ表明した上で考察される関連書籍が多い中で、あくまでニュートラルな立ち位置から死刑制度について考える書籍。

  • 感情論一切抜きで客観的に議論してて面白かった。死刑と社会への復讐目的で凶悪犯罪に及んだ事件とか詳細に言及されてて衝撃的でしたね。死刑を見直すきっかけになる一冊。

  • 死刑の問題を、道徳、政治という視点から論じている内容で、死刑廃止論者と存置論者のどちらにも哲学的な考え方の問題点を指摘している。寛容論だけで死刑は廃止できないし、被害者感情への応報論だけでは死刑の存置を主張できない、ということ。個人的にはデリダを批判している部分が興味深かった。

  • 死刑制度について、廃止と存続、双方の立場の議論をざっと俯瞰した本。
    コンパクトにまとまってる感じ? 著者の独善がやや気になるけど。それに死刑の歴史的経緯についてまったく触れられてなくて現在だけを論ってるのは物足りなくもある…けど、それでは紙幅が足りなくなるかな。
    著者は大衆の処罰感情を尊重しろという。でも感情論を正当化すると、政治テロや私刑だって、正当化されちゃわない? 特に、「相手を殺して自分も死ぬ」タイプの殺人とかさ?
    著者は、死刑の存続の論拠に、遺族の復讐感情を挙げるのは難色を示す。殺人事件の被害者遺族(死刑判決出るのはまあ殺人事件に決まってるし)といっても皆が皆同じように死刑を望むわけでもない。むしろ「遺族感情」が体よく利用されてる、てのは、ワカル。(被害者遺族でありながら死刑に反対する人の意見…「被害者の死と犯人の死ではとても釣り合わない」というのも重い)
    一方で、人道的見地、温情主義からの廃止論を無意味と切り捨てるあたり、身内に厳しいインテリの所以だろか?
    著者は、死刑廃止の唯一の論拠を、冤罪の可能性とする。それは単に手続き上のミスではなく、司法制度そのものに起因するので、完全に無くすことはできない、と。確かにそれは正論だ。現にイギリスでは冤罪事件を契機に死刑制度が廃止されたのだし。(「冤罪の余地のない現行犯ならどうなんだ」って意見にもちゃんと反論されてるのでご安心を)
    ちょっと疑問なのが、著者は、「人を殺したくない」という人間の本能を丸っと無視してる点。大衆の処罰感情を肯定するなら、逆に、殺人の忌避という本能だって尊重されるべきじゃなかろか? 兵士や犯罪者や司法関係者など、実際に人を殺した経験のある人たちの意見では、「人を殺したくない」という本能はとても強烈なものだというけれど。(このへんはデーヴ・グロスマンの研究が興味深い。彼が参照しているマーシャルのデータは胡散臭いにしても、彼は現代の人たちからも意見を聞いてる)
    そして、「なぜ人を殺していけないのか?」という命題について、カントまで持ち出して「合理的な理由はない、ダメなものはダメ」という。このへん読んでふと気付いたのは、この命題になかなかスッキリした答えが出されない理由は、そもそもこれは順序が逆なんじゃないかと。「人を殺してはいけない」のではなくて、「殺していい動物」と区別するために、「人」が定義されてきたのではないだろか? 特に西洋では伝統的に、動物は魂がないから殺して食ってもいい、人間は魂があるので殺してはいけない、とするしね? ニュアンスの違いはあってもどこの文化圏でも同じ。だから「なぜ人を殺していけないのか?」という問いはトートロジーになるのではなかろか?

  • 死刑という制度を哲学的観点から考察するという内容だったが、死刑制度に限らず多くの気づきをもらえた。

    OECDで死刑制度があるのは日本、アメリカ、韓国の3カ国で韓国では20年以上死刑を執行されていない状況を考えると事実上の廃止しているようなものだそう。

    なぜ国際的に死刑制度廃止の流れに向かっているのか?
    そんな中なぜ日本が死刑制度を続けているのか?
    死刑はなんのためにあるのか?
    死刑は必要なのか?

    様々な疑問があふれてきたが、できる限り中立的な立場で哲学や道徳論など様々な観点から死刑制度について考察されていたおかげで自分なりの答えがみつかった。

    個人的には、死刑に対する考えだけでなく、「死刑」という究極のテーマを用いて哲学を今まで以上に深く学べたような気がした。

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著者プロフィール

萱野 稔人(かやの・としひと):1970年生まれ。津田塾大学総合政策学部教授。哲学者。早稲田大学卒業後に渡仏し、2003年、パリ第10大学大学院哲学研究科博士課程を修了(博士・哲学)。専門は政治哲学、社会理論。著書に『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』『名著ではじめる哲学入門』(ともに、 NHK出版新書)、『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』(河出書房新社)、『暴力と富と資本主義』(KADOKAWA)、『死刑 その哲学的考察』 (ちくま新書)、『リベラリズムの終わり』(幻冬舎新書)ほか多数。

「2023年 『国家とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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