- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480069870
感想・レビュー・書評
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発売時になんとなく気になっていたが、一ノ瀬先生の本を借りる際に同じ死刑を扱った親書ということで借りてみた。議論がよくまとまっていて、分かり易かった。
論の運びとしては、まず文化相対主義では欧米の死刑制度批判に対峙できないとして、普遍的なロジックを構築すべしとする。そして、この本の根本的な問題として問われるのは、池田小学校の宅間のように死刑となるために殺人を犯す犯罪者に対して死刑は無力ではないかという問い。
これに対峙するため、道徳を哲学的に考えていく。
「人を殺してはいけいない」という問いは、昔からよく問われるが、まずはそこに説得的な理由がないことを確認することから始める。その上で、それに真っ向から対立するカントの定言命法を持ち出す。当然、カントからすれば「人を殺してはいけない」はどんな時にでも成り立つはずだ。だが、実はそのカントが死刑については肯定している。
この矛盾を考察していく中で、著者は応報論こそが根元的な道徳原理になっていると明らかにする。応報論をもとにするなら、死刑を価値の天秤に乗せて、罪と釣り合うかどうかを考えることになる。
そして、死刑の是非に道徳特的な決着がつかない以上、死刑はどう権力を行使するかという政治哲学の問題になるとする。ここでやっと、著者の専門とも言える分野に突入する。
ここで考えられるのは、冤罪の問題だ。そこでは足利事件を含め、冤罪の構造が詳細に語られる。著者は、基本的にはこの冤罪の問題から、死刑制度に対する反対を表明していく。
最終章では、デリダの死刑廃止論に痛烈な批判がなされるとともにチェーザレ・ベッカリーアという法哲学者の死刑反対論が示される。
過去の哲学理論を参照しつつ、ある議題を自分の頭で徹底的に考える見本のような議論だと思った。その強靭な思考の前では、デリダの死刑廃止論もなんら説得的でない、ただの感傷的な赦しの道徳理論とこきおろされる。
現実に起こった事件などへの言及も多く、単に思弁的ではない哲学の力を見た気がした。 -
死刑制度について、どんな理論や背景があるのかを知っておきたいと思って読んでみた。
知りたかったことがよくわかった。
死刑になりたくて犯罪をする人がいるなんて、思ってもみなかった。
死にたいくらい生きるのがしんどくて、それは社会のせいだと思ってて、だから他人を巻き込んで殺されよう、ということだった。
死刑は、死んで罪を償ってもらうためのもの、という意味だけではなくて、”処罰されて”殺されるということだった。
死刑反対派の言い分で「どんな人でも赦す」ということが高尚だという理念は間違っている、という部分は、なんだかモヤモヤするところをハッキリさせてくれた。
「どんな人でも赦す」ということが、「凶悪犯を赦せない」ことより高尚だと言える根拠なんてなかった。
道徳がどのような原理で成り立っているのかについて知れたことも、これから何かを考える時に参考になると思う。
ブログでもう少し詳しく感想を書きました。
https://kon-yorimichi.com/death-penalty/ -
この本を読んで最も学びになったことは、「死刑制度の是非は道徳的に確立することはできない」ということ。そして、公権力が冤罪をしてしまう可能性がある以上、死刑は取り返しのつかないものとなってしまう。だから死刑はやめるべきだということがよく理解できた。
もう一つ!p35「『それはあなたの意見にすぎない』『考え方は人それぞれ』というかたちで相対主義に逃げる人がいる。(…)徹底的に普遍主義の次元にとどまって議論する意志がなければ、他者をせっとくすることなどできないのだ。」という意見にはハッとさせられた。私も話してる相手に「それも考え方の一つだよね」と言われるとそこで違う次元に持って行かれてしまったような、一種の思考停止感を味わっていた。
冤罪は単なるミスではない。公権力自体の権威や信頼を維持するために、構造的に冤罪の危険性を含んでいる。
理由として↓
・重犯罪の犯人を捕まえなければならない使命感
・再犯にて誤りを認めることによる信頼度の低下
道徳的に死刑の是非を議論できないことの証明として、カントの定言命法の説明があった。道徳の性質として、それに理由づけをすると全て仮言命法になってしまうことがある。
「人を殺してはいけない」の根拠には、「同等性の原理」(応報的な規範原理)があって、
★道徳的に正しいかは二つのものごとの「価値」が釣り合うかにあるかで決まるという。
↓しかし!
何と何が釣り合うか、は個々人の考えや文化的背景、時代、その時の状況によってもことなってくる。だから、道徳的な判断は相対的になる。
↓
相対的だと何がいけないかというと、個人の自己正当化の主張として、どんな「価値の釣り合い」も実現可能になってしまうから。
(感想)
残酷かもしれないが、私は安易に死刑にするのではなく、犯人は被害者と同じ方法で処罰されるべきだと思っていた。しかし、その方法でも同時に冤罪だった場合取り返しがつかず、冤罪の疑いがかけられた人がたとえ死ななかったとしても、身体的・肉体的苦痛を伴うことになる。
でもそしたら牢屋にいれられることも程度は低いが
身体的・肉体的苦痛になるよなぁ。しかし、容疑者を社会に野放しにしておくこともできない。難しい。 -
死刑反対、あるいは賛成の立場をあらかじめ表明した上で考察される関連書籍が多い中で、あくまでニュートラルな立ち位置から死刑制度について考える書籍。
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感情論一切抜きで客観的に議論してて面白かった。死刑と社会への復讐目的で凶悪犯罪に及んだ事件とか詳細に言及されてて衝撃的でしたね。死刑を見直すきっかけになる一冊。
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死刑の問題を、道徳、政治という視点から論じている内容で、死刑廃止論者と存置論者のどちらにも哲学的な考え方の問題点を指摘している。寛容論だけで死刑は廃止できないし、被害者感情への応報論だけでは死刑の存置を主張できない、ということ。個人的にはデリダを批判している部分が興味深かった。
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死刑制度について、廃止と存続、双方の立場の議論をざっと俯瞰した本。
コンパクトにまとまってる感じ? 著者の独善がやや気になるけど。それに死刑の歴史的経緯についてまったく触れられてなくて現在だけを論ってるのは物足りなくもある…けど、それでは紙幅が足りなくなるかな。
著者は大衆の処罰感情を尊重しろという。でも感情論を正当化すると、政治テロや私刑だって、正当化されちゃわない? 特に、「相手を殺して自分も死ぬ」タイプの殺人とかさ?
著者は、死刑の存続の論拠に、遺族の復讐感情を挙げるのは難色を示す。殺人事件の被害者遺族(死刑判決出るのはまあ殺人事件に決まってるし)といっても皆が皆同じように死刑を望むわけでもない。むしろ「遺族感情」が体よく利用されてる、てのは、ワカル。(被害者遺族でありながら死刑に反対する人の意見…「被害者の死と犯人の死ではとても釣り合わない」というのも重い)
一方で、人道的見地、温情主義からの廃止論を無意味と切り捨てるあたり、身内に厳しいインテリの所以だろか?
著者は、死刑廃止の唯一の論拠を、冤罪の可能性とする。それは単に手続き上のミスではなく、司法制度そのものに起因するので、完全に無くすことはできない、と。確かにそれは正論だ。現にイギリスでは冤罪事件を契機に死刑制度が廃止されたのだし。(「冤罪の余地のない現行犯ならどうなんだ」って意見にもちゃんと反論されてるのでご安心を)
ちょっと疑問なのが、著者は、「人を殺したくない」という人間の本能を丸っと無視してる点。大衆の処罰感情を肯定するなら、逆に、殺人の忌避という本能だって尊重されるべきじゃなかろか? 兵士や犯罪者や司法関係者など、実際に人を殺した経験のある人たちの意見では、「人を殺したくない」という本能はとても強烈なものだというけれど。(このへんはデーヴ・グロスマンの研究が興味深い。彼が参照しているマーシャルのデータは胡散臭いにしても、彼は現代の人たちからも意見を聞いてる)
そして、「なぜ人を殺していけないのか?」という命題について、カントまで持ち出して「合理的な理由はない、ダメなものはダメ」という。このへん読んでふと気付いたのは、この命題になかなかスッキリした答えが出されない理由は、そもそもこれは順序が逆なんじゃないかと。「人を殺してはいけない」のではなくて、「殺していい動物」と区別するために、「人」が定義されてきたのではないだろか? 特に西洋では伝統的に、動物は魂がないから殺して食ってもいい、人間は魂があるので殺してはいけない、とするしね? ニュアンスの違いはあってもどこの文化圏でも同じ。だから「なぜ人を殺していけないのか?」という問いはトートロジーになるのではなかろか? -
死刑という制度を哲学的観点から考察するという内容だったが、死刑制度に限らず多くの気づきをもらえた。
OECDで死刑制度があるのは日本、アメリカ、韓国の3カ国で韓国では20年以上死刑を執行されていない状況を考えると事実上の廃止しているようなものだそう。
なぜ国際的に死刑制度廃止の流れに向かっているのか?
そんな中なぜ日本が死刑制度を続けているのか?
死刑はなんのためにあるのか?
死刑は必要なのか?
様々な疑問があふれてきたが、できる限り中立的な立場で哲学や道徳論など様々な観点から死刑制度について考察されていたおかげで自分なりの答えがみつかった。
個人的には、死刑に対する考えだけでなく、「死刑」という究極のテーマを用いて哲学を今まで以上に深く学べたような気がした。