万葉集から古代を読みとく (ちくま新書1254)

著者 :
  • 筑摩書房
3.44
  • (4)
  • (11)
  • (5)
  • (2)
  • (3)
本棚登録 : 119
感想 : 17
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480069627

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 万葉言葉から、(私の関心領域である)弥生時代まで遡る「古代」を読み解くことができないか?と思って紐解いたのではあるが、飛鳥・奈良の辺りまでしか描かれていないのは、少しがっかりした。

    とはいえ、小説も書いているという著者の語り口はたいへんわかりやすく、かつ興味深いものだった。以下、面白かった処をメモする。

    ・アニメ「君の名は。」を大きく評価。この素の発想は、万葉集の「誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を」を受けてのものだった。男と女、友と友、土地と人、親と子、神と人、田舎と都会、現代と古代、それら関係が、結びによって生まれるものと思い、それこそ生きる力の根源であり、日本人の信仰心の根源なのだ、と説いた折口信夫に繋がる。という。新鮮な見方だった。
    ・右兵衛という役名の男は、宴会に呼ばれて即興で「物の名を歌い込んだ歌」をつくる芸を持っていた。芸名で呼ばれていたために、姓名が伝わっていない。蓋し、芸名の始まりであり、芸人の始祖(これは私見)であろう。
    ・作り手、歌い手、伝え手、聞き手、等々と歌を巡る流通チェーンがあって初めて「歌集」は出来上がる。その背景に古代の文化、文明があり、想いがある。
    ・日本語や韓国語は膠着語と呼ばれる。四千年の歴史のある漢字文化圏の辺境である。よって、著しい後進性があり、だからこそ、古いものも残る。また、遅れているから、先進性を取り入れる構造も持っている。
    ・山上憶良は「日本型知識人」の最初期の代表である。無位無官の身でありながら、その学殖によって遣唐使に任命され、帰国後学問によって、最下位ながら貴族に列した。漢字文化や仏教思想を熟知しながら、漢字と大和言葉を駆使して、「組み合わせ」「ずらし」て独自の「大和魂」を語り残した。この型に、近代では森鴎外、夏目漱石、九鬼周造、和辻哲郎などがいるだろう。また、加藤周一もその中に入る(私見)。
    ・万葉集に「竹取の翁」の話があるが、竹取はしなくて、かぐや姫は現れず、九人の仙女と歌の力で結婚する話になっている。当時は仙女邂逅譚がブームだった。「竹取物語」の「異伝」というのが著者の見解。万葉集は物語文学の萌芽である。
    ・「文章こそ人が生きた証なのだ」という「文選」を手本にしたのが「万葉集」である。よって、天皇から庶民まで登場し、文は個人の思いを述べるものであり、詩歌は個人の情を伝えるものであって、そこに身分の上下など関係ないはずだ、という思想がある。もちろんどちらも貴族文学だから、それが徹底されていたわけではない。でも、積極的に「オールジャパンの歌集」を演出している。
    ・著者は、奈良大学のゼミナールがこの本の元だと謝意を表している。しかし、「睡魔と闘いながら粘りつよく話を聞いてくれた」「十哲には、あらためてお礼を申し上げたい」とかなり「あとがき」とは思えない皮肉を書いている。蓋し、こういう人なのだ。
    2019年1月読了

  • 元号が「令和」となって、書店に「万葉集」本の紹介コーナーのようなのが増えている。改元はちょっとした「万葉集」ブームを引き起こしているようだ。

    しかし、本書はそのブームの前に出された本で、著者は「本書は、普通の『万葉集』の入門書ではない」と述べており、本書は「古代社会において歌とは何か、『万葉集』とは何であったか」を考えるヒント集、提案集としている。

    まず最初に面白いなっと思ったのは、歌の流通チェーンの話。そもそも、今から1300年前の歌が現在もこうして読まれ、語られていること自体不思議な感じがするが、それが著者のいう、この流通チェーンによるものと考えられる。

    古代の歌は、「歌を作る」人だけでなく、「歌唱する人」「歌を伝える人」「歌を記す人」「歌を理解し批評する人」たちに支えられているという。当時はそういう役割の人(職業的にその役割を担っている人)がおり、歌を後世に残していく努力をしていた。万葉集が現在も語られているということは、これまでの期間、連綿とそういう役割をしてきた人たちがいたということだ。

    次に興味深かったのは、出土された木簡。木簡とは細長い板のようなもので、そこには歌が書かれている。その文字が漢字の羅列であったりするが、それが当時の日本独特の言葉の伝達方法だったということを知ることができた。日本の言語文化という視点でみても面白かった。

    本書では、聖武天皇の奈良の大仏建立や、遣唐使壮行の場面なども登場する。本の扉をめくって1300年前にワープしたかのような感覚だ。

    当時は、そういうイベントにおいて、必ず宴の場があったという。そして宴では歌が詠まれるというのが決められた様式のようでもあった。そこには、必ず「作る人」「歌う人」「記す人」「批評する人」たちがいたのだ。

    本書には、著名な二人の歌人、山上憶良と大伴家持がと登場するが、これらの二人についての記述も非常に興味深かった。

    山上憶良は、儒教、仏教、道教、老荘思想に精通した天平時代を代表する知識人だったと著者は述べていた。なぜだか野菜のオクラをイメージしていた私は非常に失礼なことをしてきた(笑)。

    また大伴家持の歌日記についても、とても興味深かった。家持はビッグイベントで歌を披露するチャンスに最高のパフォーマンスが出せるよう、事前に歌日記を用意していたという。

    出席するイベントがどういうものか、出席した天皇を喜ばせるには、他の参加者を唸らせるには、といったことを十全に事前検討し、いつ指名がかかっても大丈夫なように歌を事前準備していたという。非常にビジネスライクだと感じたし、家持は優秀なプレゼンテーターだったのだなと思った。

    そういう家持もせっかくの準備が没ったこともあったり、それでもそれらの情報の蓄積を次回に生かすツールとしたりと、なかなか天平の時代も大変だったのだと胸の内で苦笑いをしてしまった。

    著者の「万葉集は、七世紀、八世紀を生きた日本人の声の缶詰」、「万葉集は、言葉の文化財」という言葉が印象的だ。

  • 万葉集の歌の解説ではなく、万葉集そのものから読み取れること、万葉集が後の時代、文学に対してどういう縁を「結び」繋いできたか、そんな背景や役割について掘り下げていたと思います。
    読めば、日本語の成り立ちや特色についても分かるし、万葉集を作り上げてきた人たちの想いも受け取れると思います。
    歌を残したいと思う意志があって、歌を残す技術を持つ人たちがそのために尽力した。
    二つの確固たる意志があったからこそ今の時代にもこうして残っている万葉集。
    ただ歌を楽しむだけでなく、万葉集が今の自分たちに繋がることに何を残してきたか、その辺りのことも掘り下げて考えてみるのも、万葉集を読む楽しみなのかもしれません。

  • こんな話を高校時代に聞いてれば、古典が好きになったかも。学習要領にもないし、受験にも関係ないから仕方ないか。大学でやっと教えてくれる(先生と一緒に議論しながら考えていく)内容だね。

    そういえば数学でも、当時は何の役に立つかわからなかった微分積分も、いまでは仕事で大いに役立ってます。解き方も、考え方も。

    自己啓蒙度:★★★★★

  • 令和元年にあたって万葉集関連の本を読もうと選択。かねてより上野誠氏の万葉集解説の身近さはしっていたので面白く読めた。文字で記録することの重要さ。漢文、万葉仮名、の使い分けなど興味深い内容。

  • 第1章 歌と文字との出逢い
    第2章 歌を未来に伝える意志
    第3章 歌の作り手と歌い手
    第4章 木簡に書かれた歌
    第5章 日本語を漢字で書く工夫
    第6章 日本型知識人の誕生
    第7章 日本型知識人と神々
    第8章 消えゆく物語をどう残すか
    第9章 日記が芸術になる時

    著者:上野誠(1960-、朝倉市、日本文学)

  • 「君の名は」を話の枕にして、万葉集の歌をきっかけに古代のありようを語っていく、おもしろく分かりやすい書。
    当時、歌は非常に力を持ってい(ると考えられてい)て、耕作人を集めるために有名歌人を呼んで宴をしたり、イベントの前に詠む歌の下書きをしておいたり。著者も引用している『古今和歌集』の「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける(中略)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」の通りの世界である。そのような価値観の中、どのようにして万葉集が歌い継ぎ記し継がれていったのか。
     日本人型知識人とは「言語と文化の翻訳者」のことという解釈、日本的な知性は「組み合わせ」と「ずらし」によって生まれる、という話になるほどと思った。また、「ずらしの工夫」すなわち、原語の意味や原書の内容を意図的に「ずらす」ことで、独自のものを作ろうとするのが日本型知性の特性の一つ、というのも納得した。鎌倉仏教などはその典型だし、入ってきた文化をアレンジするのは現代でも変わっていない。
     竹取物語の原型となった歌のやり取りは、ラノベにも通じるようなまさかの主人公無双であるが、古代においてそれほど歌の力は強かったのだろう。
     巻末の、莫言に「貴方は私に『万葉集』について、どう語りたいのかい」と訊かれて、「『万葉集』は、七世紀と八世紀を生きた日本人の、声の缶詰でしょうか」と答えたエピソードが好きだ。「この缶を開けると、香りや味が蘇ります」まさにその通りだし、古代の香りや味を逃さないよう読んでいきたいと思う。

  • 万葉集とは7,8世紀を生きた日本人の声の缶詰である、という一文がとてもしっくり来た。仮に幾分かの作為や意図が混じっていようと、膨大な歌(文字)の中にはやはり往時の空気が詰まっており、古の日本の風景を垣間見る確かな証となっている。本文では歌の現代語訳と合わせて原文も併記し、祖先の言葉をなるべくダイレクトに伝える工夫がなされている。また、かな文字という独自の文字を持たなかった当時、言葉をどの様に表記し後世に残そうとしてきたかの苦心も、今日の日本語の成り立ちと特徴が見えて興味深かった。それを踏まえると、カタカナ語を多用する我々の癖も、それが日本語というものなのだという主旨にも納得。経国の大業として文章を遺すことは人が生きた証という曹丕の論旨が、数世紀後律令国家として産声を上げつつあった古代日本で、万葉集という果実として実ったという見方が出来、その繋がりも新鮮だった。

  • 万葉集を基にした古代論。
    ①歌とは人の心を一つにする
    ②歌集の成立要件は、作りてと受けてと流通が整っている必要がある
    ③法会の時に使用した木簡に歌が書かれているのは、みんなと歌を共有するためである
    ④日記文学が成立した背景

  • 万葉集の解説というより、表題のように、万葉集から古代を読みとくという本ですね。

    これが、なかなかに面白いですね。

    いろいろ、へ〜と思ったことはあるのだが、大きなところでは、日本が中国文化圏の中にあって、中国から学びつつ、中国との比較の中で、日本文化の特質ということを意識し、洗練させて行った、ということかな。

    山上憶良は、官位の高くない地方役人で家庭を大切にする素朴な歌を歌う人、くらいにしか、思ってなかった。

    が、実は、山上憶良は、家柄はそれほど高くないのであまり出世しなかったかもだけど、遣唐史で、当時の最先端の知識人だったんですね〜。

    もちろん、家族思いのいい人で、「子供は可愛くて、これにまさる宝はない」なんていう歌に偽りはないのだけど、ここで表現されているのは、仏教的な煩悩という考えへの婉曲な反論であり、それこそ人間の自然な感情を大切にする日本的な心情だという一種哲学的な主張だったんですね!

    つまりは、中国とか、仏教とか、外国の偉大なものを吸収しつつも、そことの対比の中で、自分の文化を確立していくというプロセスなんだな〜。

    まあ、そんな話が色々な角度から書かれてあって、最近、考えていたこととぴったりあったな。

    万葉集は、天皇から庶民までの歌がのっていて、地位の差はあっても、一人一人の気持ちが表現されるのが大切にされるのが日本だ、という話があるわけだが、この話自体が、実は魏の「文選」に収められた「典論論文」の思想であるらしい。(で、この「文選」の思想が、なんだかハンナ・アーレントを想起させたりするところが面白い)

    あと、竹取物語の原型として万葉集に出てくる話のなんともトホホな展開に笑いつつ、ジョーゼフ・キャンベルを読んでしまった私には、日本最初の物語である竹取物語のストーリーは、中国、そして世界各国にある物語の典型的なパターンの一つで、そこにはあまり日本の独自性はないことに気づかずにはいられなかったり。

    あらためて、文化というのは、単独では存在し得ず、他者の影響、他者との関係の中で生み出されていくのだな、と思った。

    が、このことは、日本文化を低く見るものではなく、日本文化を世界の多様性と普遍性に向かって開きつつ、その素晴らしいさをあらためて愛でるためのちゃんとした道なんだと思う。

全17件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

奈良大学文学部教授。著書『万葉文化論』(ミネルヴァ書房・2019)、論文「讃酒歌十三首の示す死生観—『荘子』『列子』と分命論—」(『萬葉集研究』第36集・塙書房・2016)など。

「2019年 『万葉をヨム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

上野誠の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×