反省記 ビル・ゲイツとともに成功をつかんだ僕が、ビジネスの“地獄"で学んだこと

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  • ダイヤモンド社
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  • Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784478108055

作品紹介・あらすじ

ビル・ゲイツのもと草創期のマイクロソフトを躍進させ、創業したアスキーを当時最年少で株式上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、すべてを失った……。栄光と辛酸を舐めた「天才」が、ついに、その裏側をすべて明かす。。

感想・レビュー・書評

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  • 【まとめ】
    1 ビル・ゲイツとの出会い
    筆者の好きなことは「機械の分解・組立」。そして「モノ」を作りお金にすることだった。

    1997年5月に筆者はアスキー出版を設立。7月に月刊アスキー創刊号を販売。当時、日本にもマイコンマニアは激増していたが、マイコンに関する情報源は、アメリカの専門誌に限られていた。マイコン・マニアはもちろん、マイコンを組み込んだ製品を考えているビジネスマンなどを中心に、雑誌は飛ぶように売れた。新たなニーズが生まれたときに、最速で市場に参入する。その機動性こそが、ゲリラ部隊「最強の武器」だ。
    1978年10月から大手取次が扱ってくれるようになり、発行部数も2万部に増加した。

    1978年、マイクロソフトがBASICを売り始め、マイコンブームの萌芽が生まれ始めていた頃、筆者はビル・ゲイツの試みに強く惹かれ、ビルと会うためにアメリカに渡る。すぐに意気投合し、マイクロソフトBASICの東アジア市場における独占販売契約を結び、日本で株式会社アスキー・マイクロソフトを設立する。

    筆者はNECと何度も交渉を重ねた末、NECが極秘裏に始動しつつあった「PCX-01」に、マイクロソフトBASICを搭載させることに成功する。後の「PC-8001」だ。「PC-8001」は、1979年9月に発売が開始されると、瞬く間に大ヒット商品となった。もちろん、 『月刊アスキー』でも大々的に取り上げた。
    次々とメーカーから声がかかるようになり、営業マンと開発者の二重生活に追われていた。マイクロソフト本社のシアトルと日本を行ったり来たりする生活が続いた。

    それだけ仕事に打ち込めたのは、マイクロソフトBASICを売っているのではなく、パソコンの設計を売っていたからだ。自分なりに思い描いていた「理想のパソコン」「売れるパソコン」を実現したい一心で、パソコンの設計を売っていたのだ。しかも、それはただの妄想ではなかった。僕は、確かな裏付けのある「ビジョン」を売っていた。しかも、そんな話をできるのは、当時の日本には少なかったはずだ。だからこそ、名だたる経営者も一流のエンジニアも、たかだか20代の若造の話に耳を傾けてくださったと思うのだ。
    僕が売っていたビジョンの「裏付け」とは何か?それは「情報」と「人脈」である。どんな分野の仕事でもそうだと思うが、新しい技術を追求したり、新しいモノを生み出したりするときには、その分野に存在する人脈の中に入っていなければならない。しかも、その分野における「本場」の「本物」の人脈でなければダメだ。そうでなければ、最先端の情報が入ってこないからだ。最高の価値をもつ情報は、「人」を介してもたらされる。「人脈」とは情報ネットワークなのだ。

    僕は、初めてビルに会ったときに、「マイクロソフトの販売代理店にしてほしい」とは一言も言わなかった。そんなつもりは毛頭なかった。僕が求めていたのは、「理想のパソコンをつくる」という一点に尽きたのだ。だから、僕には、「単なる販売代理店」という認識はなかった。マイクロソフトとさまざまなパソコン・メーカーと協力しながら、「理想のパソコン」をつくるために、あくまで僕は自律的に仕事をするつもりだったし、実際にそうした。しかし、あの契約書はあくまでも「代理店契約」だった。その矛盾が、後にビルと僕の間に亀裂が走る一因になったことは否めないだろう。ビル・ゲイツは、コンピューターという「機械」をつくることには興味がなく、あくまでもソフトウェアに情熱を燃やしていたからだ。


    2 マイクロソフト帝国
    1981年、コンピュータの巨人IBMが発売したパソコン「IBM-PC」に、マイクロソフトのOS「MS-DOS」が採用される。大型コンピュータで世界の70%のシェアを誇っていたIBMが参入することで、パソコンは個人ユーズからビジネス・ユースへと広がり、その市場を劇的に拡大させた。そして、「IBM-PC」が、パソコンのデファクト・スタンダードになることにより、「MS-DOS」も世界標準としての地位を確立。これが、マイクロソフト帝国の礎石となった。

    この伝説の始まりの1年前、IBMはマイクロソフトを訪れ、16ビット用のOSの開発を依頼する。期間は3ヶ月。ビル・ゲイツ、ポール・アレン、筆者、そしてスティーブ・パルマーの4人は、議論の末開発を行うことを決定。これを見事にやり遂げ、「MS-DOS」はIBMのパソコンに採用された。新時代OSの世界標準になったのだ。

    1983年、アスキーはパソコンの「統一規格を作る」という目標を掲げ、「MSX」というブランドを作る。筆者はメーカーを回ってMSXへの参画を呼びかけ、統一企画の作り込みを進めていった。参画企業は松下電器、ソニー、日立、東芝、三菱、富士通、三洋、京セラ、キヤノンなど錚々たるメンバーだった。

    しかし、MSXが各社から5万円で発売されたことに対し、カシオがほぼ半額の2万9800円でMSXマシンを発売。これをきっかけに、陣営内部での激しい値引き合戦が始まってしまい、最後は瓦解していった。同時期に任天堂のファミコンが1万4800円で売られたことも痛手だった。

    僕は、安くて使い勝手がいいパソコンを作れば、一家に一台普及すると思っていたけれど、これが間違っていたのだ。どんなに安くても、どんなに機能がついてても、それだけでは普及しない。だって、パソコンがなくても、他のもので用は足せるのだから。
    では、何が足りないのか?ずっと考え続けて、ようやく気づいた。ネットワークが足りないんだ、と。電話もテレビも、ネットワークで結ばれているから、一家に一台ずつ普及しているのだ。車もそうだ。道路網というネットワークで結ばれているから、みんな車を買う。道路網が整備されてなければ、ランボルギーニが10万円で売られてたって、誰も買わないだろう。インフラが整備されていなければ、どんな高級車もパソコンももただの「箱」にすぎないのだ。
     

    3 訣別
    1984年頃から、アスキーとマイクロソフトの利害対立が垣間見れるようになった。
    マイクロソフトには、アスキーにもっと自社商品を売ってほしいという思いがあった。両者の間で結ばれていたのは「代理店契約」だったからだ。しかし、アスキーには、塚本さんが手塩にかけて育て上げてきたソフトウェア事業があった。だから、マイクロソフトのソフトを売るだけではなく、独自に開発したソフトを販売していた。
    ビルと筆者の間に亀裂が入ったきっかけは、マイクロソフトが半導体事業の参入に乗り気ではない中、筆者がアスキーの事業として半導体ビジネスに参入したことがきっかけだった。取引先のインテルと競合関係に陥ることをマイクロソフトが恐れたのだ。

    そして、ビル・ゲイツからマイクロソフトへスカウトされるも、アスキーの郡司さん、塚本さんを裏切れないと思い、断りを入れる。そこでビルと怒鳴り合いの大喧嘩が勃発。その後の1986年1月2日、ビルから「マイクロソフトとアスキーの契約は更新しない、君もマイクロソフトを辞めてくれと」告げられた。
    2月17日には、アスキーの仲間である古川さんが、部下を引き連れてマイクロソフト株式会社の社長になった。この騒動の幕引きは、仲間に裏切られて終わったのだった。


    4 瓦解
    ビルに対抗したかった。ビル・ゲイツは創業したマイクロソフトを上場させて、世界から称賛され、巨万の富を得た。盟友であり親友だと思っていたからこそ、彼と自分の落差を受け入れることはできなかった。傷ついた自尊心を回復するためには、自分の力で会社を上場させ、マイクロソフトが尊敬するような会社に育て上げるしかない。そう思い込んでいた。

    1987年4月、筆者はアスキーの社長に就任し、上場を目指して積極的な拡大路線を取る。
    しかし、筆者は経営に関してはド素人。会社を拡大して売上を伸ばしても、利益が出ていなかった。パソコン、ゲーム、出版、半導体、インターネット、映画の制作配給と次々に事業を拡大。また半導体メーカーのネクスジェンに巨額の投資を行い続けた。社長という立場を利用した暴走だった。
    これに郡司さんと塚本さんは猛反発、次第に溝が広がっていく。1991年7月、二人は辞表を提出し、創業チームは瓦解した。
    二人はアスキーの保有株を市場で売り始め、株価が7分の1まで暴落。転換社債の繰り上げ償還が行われるも、ネクスジェンに投資してしまい保有資金が無い。銀行が融資を取り下げ、金がどんどん無くなっていく。

    9月1日、興銀や富士銀行など六行が、転換社債の償還資金120億円と運転資金を含む164億円の協調融資で合意した。アスキーは国策によって救済されたのだ。

    しかし、本当の地獄はこれからだった。

    事業の精算、残った社員のリストラ、部下への詰め…。会社を再建するため、毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。
    アスキーネット、半導体事業といった目玉セクションを次々と売却するも、業績は改善しない。最後はCSKグループとセガ・エンタープライゼスの会長を兼務していた大川功氏に土下座。100億円を出資してもらう。
    CSK傘下に入ってからわずか4ヶ月で、筆者は社長の座から陥落した。
    当時を振り返って思うのは、経営者には「優しさと厳しさ」が必要だということだ。単なる「優しさ」や「厳しさ」ではない。「厳しい優しさ」と「優しい厳しさ」。大事なのはこの二つなのだ。「厳しい優しさ」とは、甘やかさないということだろう。「優しい厳しさ」とは、逃げ道を塞がないということのような気がする。どちらも、僕には足りなかった。


    2001年、セガがゲームハードから撤退、同年に大川氏が末期ガンで亡くなる。翌年に筆者はすべての役職から退任する。新たにCSKの社長になった人物は、アスキーの株式を投資ファンドに売却し、CSKはアスキーの経営から撤退した。「もう一回アスキーやらしたるから、いまはその準備や」という大川さんの言葉を支えに生きてきたが、もうその望みは完全に断たれたのだ。
    ただ、一番つらかったのは社長を辞めたことでも、株が紙切れになってしまったことでもなかった。CSKから占領軍がやってきて、僕たちのやっていたプロジェクトを次々と潰していったことである。東大法学部卒の人物が「自分はコンピュータのことも何でも知っている」と言いながら、全部潰していった。彼が潰したのは、ソフトウェアよりもハードウェアとシステム開発のプロジェクトの方が多かった。100以上あった。その中には、大きな「可能性」を秘めているものもたくさんあった。僕は、そのかけがえのない「可能性」を、よくわかりもしない人物に全て潰されたことが、それに抗する力を僕が失っていたことが、つらかった。許せなかった。その恨みの感情は、僕をずっと苦しませた。


    5 反省
    僕は、これまでの人生で数々の失敗をしてきた。その根本にあるのは、中山素平さんの「もっと広い心をもたないと君はダメになる」という一言に尽きると思う。これは、僕にとっては非常に厳しいご指摘で、その後もずっと心のど真ん中にあった。「広い心」って何やろ、と。
    それは、一喜一憂しないことだ。「すべてのことは過ぎ去っていく」のだから、どんな状況が訪れても、平常心で、やるべきことを淡々とやるしかないし、それが最善の対応策なのだ。どんなに激しい感情が生まれても、それは過ぎ去っていく。だから、激しい感情も放っておけばいいのだ。それに振り回されず、その感情が過ぎ去るのを待てばいい。大川さんは、「お前がいつもニコニコしてたら、いい商売人になるよ」と教えてくれたが、そのとおりなのだ。どんなに感情を刺激される出来事があっても、それはそれで放っておいて、ニコニコしていれば、感情は過ぎ去り、その感情を引き起こした出来事も過ぎ去っている。そして、また新しい局面が現れるのだ。

    感謝している時が「幸せ」なのだという気づきこそが、これまでさんざん経験をしてきた失敗から学んだ最大の知恵だと思う。もしかしたら、そんな僕を笑う人もいるかもしれない。それは、みなさんのご自由だ。だけど、僕がこれから成し遂げたいと思っていることはすべて、いろんな人々の力を借りなければ絶対に実現できないことだ。だから、僕は、このことを心に刻んで、少しでも「広い心」「高い心」「深い心」「温かい心」に近づけるように、一日一日を大切に生きていきたいと思っている。

  • アスキーを創業し、創業期のマイクロソフトを支えた
    伝説的人物、西和彦の自伝。
    面白すぎる。。面白すぎて、寝る時間がもったいないと感じるくらいだった。

    「反省記」まず、タイトルがいい。
    億万長者の一歩手前まで上り詰めていたにも関わらず、
    全てを手放し、自分の創業した会社まで追われてしまったのだから、
    そこには何か原因があったはずだ。
    古くは、「社長失格」という伝説的な名著があったが、
    まさにそれに匹敵するような出来。
    私たち凡人はこういった失敗から、多くを学ぶことができる(でしょう)。
    ※社長失格
    https://booklog.jp/item/1/4822241300

    自分はパソコンやITにはそこまで詳しくないので、
    本の中の細かいテクニカルな記載までは理解できない。
    それでも、当時の生々しいやりとりが生き生きと描写されていて、
    自分も疑似体験した気になってくる。
    特に、創業期のマイクロソフトでビル・ゲイツと共に奮闘したシーンは、
    当事者ではないと分からない貴重な記録だろう。

    前半部分のイケイケドンドンの時代から一転して、
    後半の転落人生(長期的には必ずしも失敗とも言えないと思いますが)。
    後半になると著者の悪い(闇の)部分がドンドン出てくる。
    おそらく、前半にもそういった面はあったのだろうが、
    結果が出ていたのでそれほどフューチャーされなかったのだろう。

    物語としてもとても面白いものですが、
    学びという意味でもとても読み応えのある一冊です。

  • 前々職、前職そして現職とアスキーさんとはお付き合いがあって著者ご本人とも何度かお会いしたこともあるので、その頃を情景とオーバラップしてとても興味深く読みました。前半の上り調子の話もとても面白いですが、後半のとても厳しい状況でのストーリーがとても心に染み入りました。

  • MS本社元副社長、国内PC市場の立役者、ジョブズからスカウトされた男。西和彦氏の燦然たる経歴。彼の自伝が面白くないわけがない。随所で語られる逸話と伝説の裏話(いずれも西氏目線なのでそこは割り引いて)を楽しめる一冊。西氏の猪突猛進の行動力と話をまとめる外交力とそれを形にする実現力が素晴らしい。ゆえに彼がもっとも苦手だったのが妥協であり、その強すぎる執着が裏目に出てしまったのかもしれない。後半の物語では彼はMSや半導体やPCではなく本当は「アスキーの西」に尽きせぬ愛情があったことが分かる。「いまとなっては」と比較的明るく語られる非常にヘビーな出来事の数々は読者にとっては楽しく読め、「反省」といいつつ時々昔の「アスキーの西」が出てくるのもご愛嬌。人生とは何なのか働くとは何なのか、非常に考えされられ示唆に富む一冊であった。

  • 半生記ならぬ反省記。東大定年を控えた西さんが、2年前に書かれた本です。PC創成記に深くかかわった西さんお話なので面白くないはずがありません。一気に読み終わりました。MS-DOS開発の舞台など興味が尽きませんが、他の関係者は別のことを言っているのではないかという気もします。
    たくさんの反省を口にしているけど、きっと行動は変わっていないんだろうなとも、思わせます。

  • 0→1
    1→100
    これらは違う。ビルゲイツは1→100
    西さんやジョブズは0→1

    天才(この言葉を安易に使いたくないが)が見えているものと、凡人が見えているものは違う。
    上から下は見えるが、下から上は見えない。
    バイタリティ溢れる起業家のケースとして大変参考になった。

    みな誤解しているが、成功者=人格者ではない。
    もちろん結局は苦労ののちに、自らのフィロソフィを確立し、人格者に成っていく。
    そのプロセスを、本人の偽らざる言葉で書かれたものが本書である。

    西さんがどうのとか、単眼てきな視座ではなく
    黎明期の起業家とはこういうものだというケースの一つとして大変参考になる。

    わたくし自身も博士論文を書いたが、本当に辛く、遊んだり、飲みに行ったりなどできなかった。

    人並み以上の努力が伴っていることを、行間より感じずにはいられない。

    こぢんまりとまとまった人物より、よっぽど味のある人生だと感じた。まあ、どんな人生が理想かは人それぞれ異なるところだが。

  • 今僕自身の状況にピッタリの本だった。

    これを読んでると、やはり物事は因果応報で、
    自分の行いがそのまま出ているということがわかる。

    広い心を持つこと
    相手の良い面を見ること
    お金ではなく、感動を原点に置くこと
    身体を整えること

    人生を歩んでいく中でとても大切なことを知れました

  • アスキー創業者の西さんの今までの人生の失敗をまとめた本。本は非常に読みやすい文章で書かれておりとても分かりやすい。まず読んで思ったのが、この波瀾万丈な人生は一体なんだ?これだけの行動力がある人だからこそ、いっぱい失敗して色んなものを生み出せたのだと思う。関わった方々の面子を見ても凄い方ばかり。非常に為になる本だと思う。

  • ITの源流を辿ると必ず西和彦にぶち当たる。
    MSXの立役者、MSの初期ボードメンバー MS DOSの関わり PCの黎明期のキーマンといえば西和彦である。

    パソコン雑誌では、アスキー派、ソフトバンク派と分かれていたが、自身は圧倒的にアスキー派だった。
    アスキーの方が知的な感じがしており、贔屓目で見てしまう。

    圧倒的なメインストリーム、ITという言葉がない時代、現在に至るまでの生き様を語ることがどれだけ今後の起業家に役立つことがあるのかという点で待望の半生記である。

    IQは高く、論理思考適性が高い。いわゆるパソコン雑誌オタクである。しかし、人間の感情に関して頓着しない、大きな度量を持って当たれないことから
    度々喧嘩分かれをして、人が離れていく様がこれでもかと書かれる。

    天才と呼ばれた西和彦、孫正義と並び称された行動力、知性に期待をかけた人も多い。

    喧嘩別れをしても、西が苦しい時は、ビルゲイツでさえ手を差し伸べる。過去の酷い行動を許してしまう魅力がこの人にはあるのだと思う。

    アスキーも経営が立ち行かなくなり、最終引き取り先となった 元祖ベンチャー経営家CSK会長の大川功もその1人である。

    本書で西は大川功の奴隷となると記載があるが
    CSKの大川功としては、大川功の鞄持ちをさせることで、今後の西の将来に何が必要か人生をかけて教えたかったのだろう。それを思うと胸が熱くなる。

    現在は、IOTラボで教鞭にあたっているという。
    経営者としての経験が将来の指針となる学生も多いだろう。

    まだまだ半生記。
    後進の中から西以上の起業家、開発者を輩出することを期待したい。

  • p8 過去を否定することは、自分の足をめがけて弾を撃つことであり、上に向かって唾を吐くということみたいな気がする。 いいことも悪いことも含めて、それが今の自分をつくっているわけで、それを否定しても始まらない。むしろ、「イヤなものはイヤ」「嫌いなものは嫌い」と言い続けてきたからこそ、今の自分があるとも言えるのだ。僕は僕であり、ぼくでしかない。過去を否定してもしょうがないし、公開することに意味はないのだ。「後悔」ばかりして「反省」しなけれあば、「失敗」は永遠に「失敗」である

    p33 アルテアにBASICを乗せるために、ハーバード大学の大型コンピュータにアルテア8800のマネを指せるプログラムを書いて、そのなかで4kバイトに収まるプログラムをBASICでかきあげた ポール・アレン ビル・ゲイツ

    p36 いきなり国際電話 マイクロソフトのビル・ゲイツにつないでくれ

    p62 国際コンピュータアート展 甲陽学院高校をずる休みして、飛行機で東京へいった

    p65 「興味のある場所」に行くだけで、人生は自然に拓ける

    p180 オリベッティ 北イタリアのイブレアという町をデザインしていた

    p251 過去に注釈するから人は苦しむ
    どんなに認めがたいことであっても、起きてしまった過去を素直に受け入れ執着を断ち切り、自分の改めるべきことを反省することで、過去を乗り越えて行くしかないのだ

    p313 パワハラはできない上司がやること

    p316 相棒と二人で仕事をするときは、何も言わんでも仕事はできる
    10人の人と一緒に仕事するときは、10人まではああせいこうせいと命令することができる
    100人の人と仕事をするときは、教えるようんあ気持ちで仕事をせんとあかん
    1000人の人と仕事をする場合は、君らたのむわ、一つよろしくおねがいしますという気持ちでないと仕事ができへん
    一万人 諸君らの幸運を祈ると、祈るような気持ちでないと、一万人のひとは動いてくれない

    p318 大切なのは、即断即決の瞬発力と熟慮する慎重さのバランスなんだろう

    p320 会社がきちんと回っていて、月末にみんなに給料が払えることが、どれだけありがたいことか。会社のデスクで仕事をしていて、ふとそんなことに気づいて、「ああ、幸せだな」と思うときが何度もあった


    p321ビル・ゲイツとの若い とりもったのは当時マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏


    p329 大川功 わしはな、会社のお金を遊びにつかったことは1円もないんや。

    p324 お前の言う嫌いなやつにも、お前が指摘するような欠点はあるんだろうよ。だけど、そいつらの欠点をどう受け入れて、いいところを見ながら仕事ができるかどうかが、お前の経営者としての器だよ

    p372 社長の最後の仕事は、社長を辞めることである

    p381 50億円(3500万ドル)を現金でMITに寄付 年率25%で回しているときいて、2500万ドルに値切った

    p415 お前、世の中は悪いやつばっかりや。お前は
    人がいいから、すぐ信じて突進する。前に進むときには右と左を見るだけじゃなくて、ちゃんと後ろも見ないとダメだぞ。そうしないと悪いやつが後ろからやってきて、やられるぞ

    p418 セガのハードウエアの撤退を決めるとともに、ご自身の所有する有価証券と金融資産のすべて、総額850億円をセガに贈ることを決断した

    大川さんは、いつも「生まれるときも裸、死ぬときも裸」とおっしゃっていた

    p452 一喜一憂しない。「すべてのことは過ぎ去っていく」

    p453 感謝しているときが幸せなのだ
    悪口をいっているときは幸せでない

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