神田橋條治 精神科講義

著者 :
制作 : 林道彦  かしま えりこ 
  • 創元社
4.25
  • (8)
  • (9)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 110
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784422115443

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • オカルトっぽい記述も多々あれど、職人技というのはこういうものなんだろうと思わせる。まあ、筆者自身が、「ボクの根底にあるロマンは、結局は魔術師とか超能力」と言い放っているわけで、清々しい。

    結局のところ、医療の不確実性の中で、患者との関係性をどのように築いて行けばよいのか、という技の紹介と思われる。

     最も納得したのは、近頃の青少年の患者に「物差しとしての自己」が非常に薄いということ。自己の中に侵入してきた流行が物差しとなって、外側の尺度によって自己占領されているからアイデンティティができない。「自閉する能力」「豊かな充実した社会的引きこもり」にする方法を考えようという主張が面白かった。パソコンは自閉ではなく「疑似社会性」を与えるからよくないと。
     しかし、実現可能なんだろうか・・・受け皿は少ないよなあ・・・

  • P:364 推定文字数:349440(20行×48字×P) 抜き書き:21988字 感想:2653字 付箋数:48
    (対ページ付箋:12.63%、対文字抜き書き:6.29%、対抜き書き感想:12.06%)

    ※付随して読みたい本
    登校拒否児への援助 稲垣卓
    精神症状の把握と理解 原田憲一
    大脳疾患の精神医学―神経精神医学からみえるもの 三好功峰

    「現場からの治療論」という物語(岩崎学術出版)
    スクールカンセリングモデル100例(創元社)
    うつ病治療―現場の工夫より(メディカルレビュー社)

    中井久夫の著書の中で、「芸術療法を言葉でやる」と発言するなど伝説的な精神科医の神田橋先生。幾つか著書を読んだものの、考えの流れが把握できなかったが、ようやく素養が一般人でも考えを辿れる著に行きついた。
    とっつきにくそうですが、九州大学の同志(?詳細は忘れました)に一年に一度講義形式で語ったもので、言うなれば短編集。人間への見方について、とても収穫が大きいと思います。


    ・従来、精神療法と呼ばれているものでは、身体医学の場合と同じように、ニーズというものを治療する側が決めなきゃならんかった。この人は自立する方向がいいとか、あの人は他人と甘えた関係を作れるようになるほうがいいとか、決めるわけです。けれども違う意見がいろいろとあって、体の病気のようにはみなが一致しない。間違いやすいことも多い。
    看護師さん仲間でも意見が合わず、よく「会議を開いて意見統一しましょう」とかやるけれども、あれはよくないね。優れた第一級の人ばかり集まっているところなら判断は正しいはずだから、意見を統一してやったほうがいいだろうけど、普通の私たちはそんな第一級の人ではないわけで、誰の判断が正しいか分からない。意見統一してやったら駄目です。精神科ではみなが勝手にやって、あの人はどういう考えでこういうことをやっているかを、チームのみながお互いに知っていることが必要なの。そのために話し合いをするのはいいことだけど、統一したら駄目です。
    統一するとは、四つある考えをひとつにすることです。捨てられた三つのどれかが正解であったらもったいない。一番悪い考えに一所懸命に統一してやったんだってことに、後になって気づくことがしばしばあります。勝手にやっていれば、そのうちに「どうもあの人のやり方がこの患者さんにはいいらしい」と分かってくる。分かってくると「私も少しそうしようかなあ」ということになる。人はみな、自由にやっているように見えても、個人はみなバカのひとつ覚えのワンパターンのことしかしていないものです。よい言葉で言うと「個性的に」やっているの。その人のタイプでやっているんです。
    だから、みなさんはもう分かっていると思うけれど、「あのタイプの人に合うのはあのタイプの患者さん」というだいたいのマッチングが、だいたい分かってきます。細かいところはわからなくても、大まかに「何かいつもあの人のああいう感じがあのような患者さんとは合うし、事態がうまくいく」ということを、みなが知っていくことがいいの。そうなっていくと病棟がうまくいきます。みなそれぞれ歪んどるところを、そうやって生かしていくといいわけです。
    >>/> コールセンターでも、OPの話し方、SVのフィードバックの仕方、それぞれなんだ、考えてみれば。どの職場でも人間関係はそうかも知れない。自分に合う方法を唯一としがちだけれど。

    ・これまでの精神療法では、自分のことを「ああ、そうだったのか。よし、それなら私はもう分かったから、ひとりでやっていきましょう」というふうに分かることになっていた。自分のことが分かると「これで私は分かったから、もうみなさんに助けられないで、この考えに沿ってやっていこう」となることになっていた。
    そうじゃなくて、「今、自分はこういうニーズがあって、それを誰かにしてもらいたい」、あるいは「誰かに要求したい」、あるいは「自分でやってみよう」とか、自分のニーズを把握できる内省精神療法が実際的なんです。
    …そのためにどうするかというと、患者に欲求を自分でとらえて、それをたくさんたくさん言えるようにしてあげるの。そしてそれを聞いたら、こちらは、いかに何もしないでなんとかならないかといつも工夫することです。こちら側のサポートにおける筋肉活動の部分を少なくして、しかも患者の欲求が満たされるように、頭を使うことが大切です。
    >>/> 自分の中へのセンサーを育ててもらう事。何が出てくるか、周りも怖いというか面倒なのだけれど、まずはそこから。

    ・中学生くらいの子がいろいろな家庭問題やなんかで入院してきて、「眠れない」って言ってくるとするでしょう。すぐ当直医を起こして薬を処方してもらい、薬局から出してもらうというのは、頭は使わず、走りさえすればいいというやり方。筋肉労働が多いわけで、それではつまらないし、全然自助にもならない。
    「いつも眠れないときはどうしてたの?どんなふうにしたら眠れそう?」と聞くと「誰かがそばに寝てくれて、眠るまでいてくれるといいみたい」と言うことがある。そうしてあげてもいいけど、それも労働でしょう。ところが「看護師さんがそんなふうにしてあげたら眠れそうね?でも忙しいからしてあげられないの。暇だったらしてあげられるのにねえ、してあげたら眠れるだろうねえ」と言うと、そのやりとりだけで眠れるようになる人がいます。なぜかというと、眠れないときに、「そばに寝て、眠るまで見守ってやろう」という気持ちのある人がいるということだけで眠れる場合があるわけ。それは単に看護師さんの労力が少なくなるというだけでなくて、患者さん本人に「私はそんな人がいるというだけで眠れるんだなあ」ということが分かる。そうすると次に、これまで知らなかった自分のニーズというものが分かってくる。今までの「眠れない、眠りたい」と思っていたニーズのすぐ近くに、「自分のことを思ってくれる人が欲しい」というもうひとつのニーズがあることが、本人のなかで気づかれてくる。それによって事態は先に進みます。
    >>/> すぐ状況を解決したくなる。いつも、どうしていたのか?は、患者側にも周囲にも万能。本人の既にある芽を引き出す。

    ・そのときに少しセンスのいい患者さんなら「あなたは私が『添い寝してあげようか』と言っただけで眠れたね」と言ってあげると、早く気がつくよ。だけどそれは言わずに本人が勝手に気がついたほうがいいのよね。さっきから言うように自分で気がついたほうが嬉しいでしょ。だから「この人はひょっとしたら、言わなくても自分で気がつく可能性が10%ぐらいでもありゃせんかなあ」と思ったら言わないほうがいい。
    >>/> 例えば家の人とコミュニケーション取ってもらったり、似たような気付きを起こせるかも知れない状況を繰り返す。自分で気づくよう仕向けるって、上級だなあ。

    ・ゴリラが神経症になったとき、テレビを見せるといいんだそうです。ある番組を見せるとよくなるんだって。それがないと毛をむしったり、自傷行為、強迫行為があるらしい。つまりゴリラも神経症になって、それを非言語的に治療しているわけです。それで、どうも精神療法において治癒をもたらす力として働いているそのものは、言葉でない何からしいと思う訳です。
    …それで、10年くらいは言葉によって生起されてくる「イメージ」が精神療法の働きをもつんだろうと考えて、イメージの問題をずっと考えてきたの。そこで治療効果は上がってきましたが、芸術療法の学会などにいくと、全ての療法にみなイメージが伴っているようでもないんです。それで、「イメージを中心概念にするわけにはいかんなあ」と思いました。
    それで、左側に身体的なもの、右側に概念的なものを置いてその間にいろいろな感覚を置いてみた。
    (触→味→嗅ぐ→聴く→見る)
    左側は芸術療法じゃありません。介護とかスキンシップとか、なでたり、さすったりのことで、芸術療法じゃありませんね。左端にそうした身体的ケアが置かれて、反対のいちばん右端に数式が、その隣辺りにおそらく人間学とか哲学に近いような精神療法が置かれ、その次が言葉による対話精神療法で、その対話精神療法は当然イメージを媒介します。
    そして、その隣には音楽、次が香道ですね。香道の文献を見ると、こころを鎮め、脳を清らかにする、という文章が出てくるんです。それからそのまた隣り、左端近くにラジオ体操みたいなものがありますね。体操療法、運動療法です。
    …この物差しは考えをまとめるためのものではなくて、実用のためのものです。ある患者さんの治療を考える場合、治療法の選択はとっつきやすさでいいのです。たとえば音楽をやっている治療者は、音楽療法がとっつきやすいでしょう。絵になじんでいる患者さんは、絵を使って治療するのがとっつきやすいでしょう。言葉が好きな人たちは言葉からと、どこでもお互いに相性がいい、とっつきやすい治療を選べばいいの。
    そしてたとえば、絵を選んだとしたら、治療効果が上がっているかどうかは、絵が上手になる所にはありません。絵の修業ではないからね。絵を描く治療をやると、この物差しのすぐ隣にある、たとえば絵の右側にある写真とか、観察するとか、観察日記とかそういうもの、あるいは左側の音楽、音楽に関連したイメージなどといった、隣接した関連領域へ患者のセンスや活動性が深まっていくなら、この絵画療法は治療として役立っていると考えていい。
    …そしてまた、ただの絵描き、ただの音楽家、ただの香道の修業者ではなくて治療者と言えるような人であれば、香の道、あるいは音楽の道、音楽療法の道に精進すればするほど、他の領域のことを勉強しなくても、何らかの形で他の領域に通じてくるはずです。そうなることが治療者として成長していることになると考えていいのだろうと思います。
    この考えをボク自身に当てはめてみますと、ボクは芸術療法学会に参加していますすが、いわゆる芸術療法は何ひとつしない。「絶対、絶対」と意地でもしないようにしている。言葉だけでやっているんです。そして言葉だけでどこまでどういうふうにカバーできるだろうか、楽しみに工夫しています。「言葉をいかに身体接触的に使えるか」ということなんかを、今でも技術の上では練習しているんです。あれやこれやに手を出さずに、言葉ひとつを一所懸命にやって、他の芸術療法の領域にまでセンスが拡大することを期待しているの。
    >>/> うーん、恐ろしい人だ。ああ、でもゴリラは言語的でなく治療する必要があるけれど、人間にアプローチする時に精神の病んでいる場所はゴリラと同じだけれど、言語がとても大きなファクターの違いとしてあるからそれを使いたいのか。成程。

    ・この図式を通してずっと共通して一貫しているもの。なんとなく感じでとらえられるようなもの。命名してしまうと、物差しの上に乗ってしまいますので、命名してはいけないもの。仮に名前をつけるとしたら、それは「気」。「気」とすると漢方の「気」とごっちゃになるので、一応いまのところは「雰囲気」と言っておきます。「雰囲気」という言葉によってわれわれが共有しているプレ認識、そういうもので表されるものが、共通の核としてあるんだと思いついたわけです。そしてその「雰囲気」という言葉によって仮に指し示されているものは、まず形がなくて、限界がなくて、言葉によってはとらえられないものであって、感じ取られていくもの、そういうものです。
    >>/> 影響を与える対象は人のマインドでしょうか。自意識と言うと中に向かって自分を意識していくようなイメージがありますが、その向かっている方の自分。何かが起きるとそれに反応・判断する自分に、インプットとアウトプットで普段と違う影響というか、ズレを与えてそのマインドを認知させるイメージ。そうか、どの療法でも一貫するなにかなのか。

    ・ですから、理論を勉強するときはその理論の、そのオリジナル、その理論を創った創始者、まあたとえばフロイトさんでもいいし、森田正馬先生でもいいから、その先生がその理論を生み出したきっかけになったケース、あるいはその頃の事情、その頃のまわりの様子、そういうのが分かると理論がよく分かる。
    …たとえばこの「雰囲気をとらえる」という考え方から眺めてみると、ペニス・エンビーという考え方、これはフロイトが考えたんでしょうが、男性にはその雰囲気が分からん。女性じゃないとわからないの。男性で精神分析を勉強している人がペニス・エンビーという概念を考えのなかで使うと、ほとんど女性蔑視的な理論構成の雰囲気が自然に生まれるようにしかならない。
    女の人でペニス・エンビーというのを勉強して、自分の体験のなかでその雰囲気が感じ取れるという人は、ペニス・エンビーという言葉を自分の辞書のなかに入れておいて、たとえば、いろいろな女の患者さんの意欲が90%合理的なものであっても、残りの10%のところをこのペニス・エンビーという考えで味わうと、さらに味わえるというような、ある種の哀しみを嗅ぎ取ることができるようになるかもしれません。
    …男だけが大事にされていたフロイトの家庭では、女の同胞はみんなフロイトの犠牲で、「兄ちゃんが勉強しているから、あなたたちは静かにせい」というようなところで育てられていた。フロイトは断トツの大秀才でしたから、フロイトが勉強するためには、女の同法はピアノなんかも弾かせないようにして、声もたてないようにして育てられた。そういう家庭で育ったフロイトが、頭のなかで考えたペニス・エンビーというものに魅了されてしまった。そういうペニス・エンビーという考え方に女性の治療者がとりつかれてしまうと、自分のなかの女として生まれてきた特性のよさというものがすっかり抹殺されてしまって、変な人になります。
    >>/> 確かに、あなたはエディプスコンプレックスでどうこう、って影響を与えないかも知れない。自分も分かって、相手にその理論で言える影響があるとすれば、相手と話しながら相手の言葉を使って、相手に何か気づかせようと、するだろうから。

    ・治療もどういう方法であろうが、何の言葉を使おうが、使うまいが、大事なのは雰囲気なんだということです。雰囲気が大切。雰囲気だけが治療効果を持っているんです。だんだんそのうちに、自分と患者との間に作られている雰囲気ではなくて、自分と患者との間に作られているかのように患者が受け取っている雰囲気が、よいものになっていくように工夫されるといいんじゃないかと思います。自分と患者の間がごちゃごちゃになっても、そのことによってかえって、患者のなかに映し出されている治療者との関係というものが、よい雰囲気になることがありうると思います。
    >>/> 更に上級編(笑

    ・「アクション」に対して「イメージ」とか「言葉」とか「感じる」とかいったような、内省的なものを時間的・空間的に近いところに置いてやる。逆に、「イメージ」とか「言葉」とか「感じる」とかいうような内省的な事象に対しては、その傍らに、時間的・空間的にできるだけ近くに、できれば同時に同じところに、「アクション」を添えてあげようとする。これで、精神療法と呼ばれている方法のすべてをカバーできるように思います。
    …技法のひとつの例を挙げると、リストカットというのがありますね。これは典型的に「アクション」。これに対してどういうふうにするかというと、多少カミソリに似たようなプラスチックの定規みたいなものを持って、患者さんに手首を切ったときの動作をどういう姿勢でしたのか、そのとき、どういう気持ちがながれていって、どういうふうになったのかを思い出させるんです。思い出させたら、それ以上何も解釈する必要はないの。ただ「ああ、そういうことだったんだね」と言っとけば、だいたいリストカットはしなくなります。
    家庭内暴力の患者さんに、「家庭内暴力をしてはいけません」とか言わんでね。そうではなくて、「あなたが棒で叩く気持ちと、その叩いた棒が当たった瞬間の気持ちをぜひ知りたいんだけど。あなたは研究してないだろうから、この次、棒を振りまわしたときに、叩くときの気持ちと当たったときの気持ちをよく観察しといて、治療のときに報告して。そうすれば一緒に考えられるから」と言っておくといいです。
    「アクション」というものは、傍らに「内省」が置かれると、興奮が一定以上にかきたてられず、むしろ基本的な「雰囲気」というものに目覚める。そこで分かってくる家庭内暴力の基本的な雰囲気は、たいてい「悲しみ」なんです「悲しさ」を持っていない暴力は長続きしません。
    逆に「イメージ」や「言葉」「感じ」に対しては、「アクション」を添えてやるといいの。たとえば「あいつをぶん殴ってやりたかったんだ」と患者さんが言うとします。どのぐらいの強さでぶん殴ってやりたいかが分かるとずいぶんいいので、昔よくやってたのは、枕を持ってきて「ぶん殴ってやりたいという気持ちぐらい枕を殴ってみて」と言って、「ああ、そのぐらいなの」と言うようにするんです。パントマイムです。「落ち込んじゃう」と、患者が言ったら、「落ち込んじゃう、という恰好をして」というふうに言うと、アクションを通して本人のなかに無意識が明確化されるのです。
    >>/> アクションも内省も習慣なんだ。反応の形。それで問題が起こっている時に、更に要素を分解して少し違う側面からアプローチするのか。うーん。

    ・赤ん坊を育てているお母さんは、たとえば子どもが足を引きずっていることに気づくときには、「普通子どもというものは歩くときには手をこうやって足をこうやって動かして歩いていくのに。おかしいねえ」というふうには見ない。子どもの体にお母さん自身のボディ・フィーリングが乗っかっていて、その子どもが動くのと一緒に動くんです。自分も動いているという錯覚を持つ。相手に乗っかっている自分のイメージが、なんだか、滑らかに動かない、妙な動きをする。自分のなかに不愉快な感じが起きてくる。
    …これは自分の体、ないしは精神のある一部を部下の人に重ね合わせていて、もともとの自分の思っているものとは差があるものだから不愉快になる。相手の身になりきっているから不愉快になる。重ねる作業をやめてしまえば不愉快な気持ちはなくなります。こっちの健康法としては、相手の身にならんようにするのがいいの。
    逆に臨床現場の技術がうまくなるには、相手の話を聴いて相手に自分が半分乗っている。で、こちら側にいる自分のなかに不愉快な気持ちが湧いてくる。そこで、「ああ、そうか、このあたりがこの人の問題点なんだろう」と、だいたいの目星がつくわけです。
    >>/> まず自分のボディ・フィーリングを重ねてるんだっていう認識が大事。重ねることにも重ねないことにも有利不利があり、それをコントロールしようと意識できる。

    ・次に大事なことは、患者に問題点となるようなある特徴があるとして、その特徴があると逆にどんな利益があったのかなと考えてみる。これは行動療法の学習という考え方のなかにもあって、利益のほうがもともとはあって、今ほど問題ではなかった、むしろ有利なことがいろいろあったから今も少しはあるんだろう、と考えてみるのです。
    …問題点の指摘の仕方は、これはもう指摘する人の勝手にしていい。問題点を正しくとらえてさえいれば、その人の個性しだいで、優しく言う人もあれば、叱るように言う人もある。指摘の仕方という作業は、要するに理解と働きかけです。理解はみなが共通のものであることが必要ですが、働きかけはその人の勝手でいい。みな、人間を何十年もやっているわけだから、その間に外界に対して働きかけるための訓練をずっとしているわけで、各々のいちばん得意なやり方がいいのです。
    …でも、ひとつだけお勧めしたいやり方があります。それは指摘するときの言葉をその相手が、オウム返しに呟いてみて、自分が心のなかで呟いたかのように、あたかも自分自身の言葉のようになるように工夫してみるやり方です。たとえば「すぐに酒に逃げるのがあなたの問題ね」と言うと、「あなたの問題ね」では患者自身の言葉にならない。自分の言葉にはならない。そこで「あなた」を取って、「すぐに酒に逃げるのが問題だよなあ」というように変えると、「問題だよなあ、問題だよなあ」と呟いていって、「ああ、それが俺の問題なんだなあ」と自分自身の言葉になっていくでしょう。
    >>/> この自分に沁みるような言葉の使い方は、統合失調症の人なんかには心に侵入されるように感じるほど怖いもののようです。

    ・年寄りを五年間世話していると五年ぶんあの世のほうへ行く、世話している自分も五年経ったぶん、あの世のほうへ行っているわけです。「散る桜、残る桜も、散る桜」です。人と人とが順送り的に接しながら、時が流れていくのです。
    こと老人に限らず、長いつき合いのときは、どんな関係もそうです。たとえば統合失調症の方とのつき合いも専門職が統合失調症の病人と接している、その根本のところでヒトとヒトが会っているのでなくてはいけないの。
    具体的には、次のようにしたらいいんです。最初に出会った瞬間は、日常的な人と人との初対面だと心がけるのです。
    >>/> 繰り返しが、作業にならないように。

    ・相手を大切にするとはどうすることだろう、と改めて考えてみると、必ずしもはっきりしないのではないですか。たとえば、貯金をはたいたり借金したりしてご馳走してあげる、こちらは財産がずいぶん減ってしまう。そのぶんだけ相手を大切にしてあげたという考え方、これらはみんな、自分が損をした分量で相手を大切にしてあげた程度を測定するわけです。
    こうしたやり方の欠点のひとつは、「あれだけしてあげたのに」という恨みの気持ちが出てくることです。こうした結末は、世の中にとても多いですよね。
    じゃあ、相手を大切にするということを、どんなふうに工夫したらいいのでしょうか。それは、自分が損した量で計るやり方の反対のやり方です。
    相手の人と自分とが過ごした関係とその時間が、まず自分にとって価値ある過ごし方だったと感じられることが、なにより第一です。その上で、その同じ関係と時間が、相手の人にとっても、価値あるものだったんじゃないかなあ、だったらいいなあ、と思えるような接し方を心がけるのです。
    お父さんの肝臓をもらって、移植手術を受けて、しばらく後に亡くなった子どもさんのことが報道されていたけれど、あの子の場合はどうでしょう。お父さんは肝臓の一部を失ったし、治療した医師やお母さんは疲れたし、だけど「損した。失った」とは思ってないでしょうね。お母さんが「あの子は、もう誕生日を迎えることはないだろうと思っていたけど、迎えることができた。あの子は幸せだったと思う」と貴社に話していました。一年足らずでも生命が延びたことは、子どもにとっても価値ある時間だったと思おうとしている。そこのところは難しい。「単に自分自身を慰めようとしているだけだ」と言われても仕方がない。確信を持って「あの子にとっても幸せだった」と言うことはできない。この微妙な難しさのところに、実は、相手を大切にする工夫の要点があると思うのです。
    確信はないけれど、「相手にとってもよい時間が、関係が過ぎていたのじゃないかなあ、そうあってほしい」と願いながら、祈りながら、みながあの子に関わってきた、気にしながら関わってきた、そこから生まれる謙虚な優しさが相手を大切にする工夫の要点であると思います。
    >>/> 相手のためにと思うと、害を与えないことと何か与える事とついつい考えてしまう。まず自分で人間関係を価値あるものとして、何か生じさせるというか膨らませるというか。

    ・ただ、痴呆の人では、精神的に失われた部分が多くて貧しくなっていますから、普通にわれわれが人と人としてだけで接していたんでは、なかなかよいものが出てこない。出てくるのは痴呆の症状ばかりということになってしまう。そこで、専門家としての工夫が必要になるのです。
    痴呆の人はいろいろな面で失われています。それも、一様に失われているのではなく、ある面は残っていたりして、失われ方が凸凹なの。その人の歴史についての情報を収集しておくと、凹の部分を、空想で埋めやすくなります。そうすると、痴呆の症状としか見えなかった特徴が、その人本来の歴史の残骸であることが見えてくるものです。
    …このやり方がなぜそんなにいいのか、実はボクもはっきりしないのです。今のところ、おそらく次のようなことかなと考えています。
    こちらが空想で凸凹を埋めて接すると、こちらの接し方は痴呆老人が痴呆になる前に、周囲の人たちがその人に向けていた接し方と同じになるはずです。つまり痴呆老人はもとの接し方に出会うわけです。そうすると、痴呆老人の残された記憶のなかにある見慣れた環境、懐かしい対人関係の雰囲気が甦り、気持ちが落ち着くのではないかと思います。
    >>/> このやり方がなぜそんなにいいのか…、か。これが、机上の理論でないというのがすごい。

    ・精神科の領域では一般に、勉強している人のほうが治療が下手になるという変なことが起こりますが、痴呆の看護では特にそうね。なぜそんな変なことになるのかといいますと、勉強が主として凸凹の凹の部分、つまり欠けた部分を見つけるための勉強になっているからです。記憶力が悪くなっている、状況判断が下手になっている、感情の抑制が失われているといった具合にかけた部分をすみやかに見つけるための勉強ばかりするから、看護は下手になるの。
    >>/> マニュアルを覚えて接客が下手になるのと似てる。新幹線の新入社員の雰囲気が数ヶ月で消えてしまう感じを誰か本で嘆いていたけど、似てる。

    ・チベットから帰った人の話はみなさん興味深く聞きますね。実用的な価値はありゃしません。写真週刊誌も実用的な価値はないけれど興味があります。50年前の話は同じくらい興味深いものです。ちょっと腰を据えて聞いてごらんになるとすぐに分かることです。
    >>/> 今どきの若い者は、というご老人は自分にも若い時代があったのだから、年上の方が下に合わせるべきだと思っていたけれど、、こういう考え方もあるなあ。

    ・ヒトという動物の自主性は、言葉と手で発揮されるものですから、脈を取ったり検温したりする際にも、痴呆老人が言葉を発し、自分の手で何かをするように仕向けるのがいいです。脈を取るときなど、まず握手して老人のその手と指とが看護師さんの手を自主的に握っている状態にして、その上でこちらの左手が老人の手首の脈をとるようにしてみると、所要時間は大差ないのに、雰囲気はずいぶん違ってくるものです。
    >>/> 確かに、何か暖かい。

    ・陰陽論のなかでは陰と陽の関係は、どうなっているかというと、「陽は陰を導く」と言われています。だから心(陽)が体(陰)の状態を導いていく。これは精神身体医学ですね。心の持ちようによって身体のコンディションも変わるということです。そうすると、いつも陽が支配者であって、陰がそれに従っていくことになる。ところが、もうひとつ「陰は陽を養う」というのがあるのです。つまり、陽は陰をリードして導いていくのですが、その導くときに使われる陽のエネルギー、陽の持つ力は全部、陰に発している。陽は心の状態、それが体を導いていく。しかしそのエネルギーは体によって補給されていかなければ導く力も出ない。このことをいつも考えるのが、精神健康法の中心になるだろうとボクは思っています。
    >>/> 陽が陽だけでどっか行ってしまうのではなく、陰を導かないと続かない。

    ・なるだけ、陰と陽を別々にやるというようにならないほうがいいんです。堅いきちんとした世界の、申し分のない人が痴漢をしたりするでしょ。それは生き生きしたもの、スリルのある、曖昧で一寸先が闇のようなものを求めてバランスを取らないと健康が保てないからなんです。そんなことをせずに、ただ一所懸命仕事だけしていると、あとはうつ病になるしかない。だからあれは確かに健康法ではある。しかし、ああした別々のところでする健康法は、アイディアが貧困な人の工夫であり、よい方法とは言えない。
    それじゃあ、よい方法、正しい工夫は何かというと、動かなくなり安定している職場での自分の在り方を変えて、よりあいまいで生き生きとした、一寸先は闇のようなスリリングな、やや不道徳的な部分を増やすことです。
    >>/> 河合隼雄も書いていた。仕事に空虚感を覚えて、ふと突然音楽を始める。でもそれでは仕事の空虚感は解消されない。音楽的な何かを、仕事で表現しないといけない。

    ・精神療法で過去を眺めるという行いが登場したのは、実は前を向いて、何とかここを乗り越えていこうとやっていたら、後ろの話が出てきて、それがヒントになって前に進んでいけたのですが、これを精神療法の理論を作る人が、「後ろを見にゃあいかんのじゃ」と思って、後ろを見る精神療法になってしまった。その結果、ただ後ろを見ることだけが目的であるような精神療法が今、流行っているわけです。後ろを向いて、昔のことばかりいろいろ考えていると「後ろを振り返って過去をいろいろ考える」という形の前向きな行動になります。「これから一年間ずっと過去ばかり見て暮らそうよ」と、奇妙な前向きの香道になる。
    いつも前向きな計画を持っていると、何か新しいことをしようとすれば困難にぶつかりますから、「どうしたもんじゃろうか」となる。そうすると、自然にその困難に関してだけ後ろを振り返るようになります。50年生きてきた人が後ろを見たら、丁寧に見るにはあと50年かかってしまいますよね、見るだけで。いつも、何のために後ろを振り返らなきゃいかんのかと考えてね。だけど実は、どこを向いて進んで行くかさえふたりが考えていれば、それに関連した後ろが自然に引っ張り出されてくるんです。
    >>/> 確かに精神分析はみんなそうだ。だけど実は、どこを向いて進んで行くかさえふたりが考えていれば、それに関連した後ろが自然に引っ張り出されてくるんです。なるほどなあ。

    ・だけど前を向いていても、必ずしも健康とは思えないような状態もあるのね。「執念」「妄念」なんかがそうです。たとえば、「何がなんでも東京大学に入るんだ」と言って、7回も受けて一所懸命にやっても、「精神的に前向きだから健康だ」とはなかなか言えないわけです。それは、“こだわっている”という状態です。
    それでは、こだわっている状態と健康に前向きな状態とは、どこがどう違うのか。健康な目標に向かって一所懸命に集中している人は、たとえば看護でもいい、看護を一所懸命にやっている人は、もちろん一所懸命やっているから疲れます。疲れるけれども、そこから本人に戻ってくるものがあるんですね。たとえば看護に一所懸命になるでしょ。一所懸命になって、それがその人にとって生き生きとしたものであれば、他のいろいろなサービス業についてとか、看護の歴史とかを本で読んでみたり、ボランティア活動をしている人たちと自分たちとはどこが同じでどこが違うかとか考えてみたりする。そうはならずに、「それは私には関係ありません」とか「私は看護一筋ですから」とか「給食?それは給食の人たちがやりますから」とか言うようなら、だんだん輪郭がハッキリしてきて、硬くなっていきます。これはもう陰になって、のびやかな陽は動いてこないようになります。
    ですから、精神が健康である状態を一言で言い表そうとしたら、それは「好奇心」です。
    >>/> こだわっている状態だと、そこから学べないのか。何故そうなってしまうんだろう。いやむしろ、どこに向いていても好奇心が動けない時は精神が不自由なんだ(不健康と書こうとして思いとどまりました。より精確に)。サービス業の世界から他のサービス業として看護論に入ってきた僕としては、自分の好奇心を褒めてあげたい(笑)。

    ・男の人は全体としては陽で、女は陰だから、陰の状態にある患者さんには男の人が接するほうがたやすい。陽の状態というのは不安定でふわふわしているから、女の人が接するほうが相性がいい、陰と陽だからね。じゃあ男の人が男の人と接するとき、女の人が女の人に接するときはどうしたらいいのか。そこから陰陽論はどんどん複雑になっていきます。どんな人にも自分のなかに陰と陽があるから、自分のなかの陰の部分を相手側の陽の部分に対し、自分の中の陽の部分で相手の陰の部分に接するという感じで、相手に接するといいわけです。
    …ところが看護の本なんかを読んで勉強すると、その言葉につかまっちゃうから、ぜんぜん上手にならないの。どうしてかというと、本に書いてあることをする自分は、たとえば禿だったり、髭が生えてたり、デブだったり、チビだったりする。だから本に書いてある通りにしても、患者が受け取っているのは、その人の声の調子であるとか、筑後の訛りがあるとか、関西弁の訛りであるわけだから、人によって違うわけです。だからいつも今しようとしていることと、自分というこの肉体が持っている特徴とを足し算して、その組み合わせが患者に影響しているんだと考えないと駄目だよね。また、そう思ってすると楽しいのよ、工夫のしがいがあるの。
    >>/> ああ、自分の第一印象って今どんななんだろ。これ掴むの苦手だな。

    ・ほとんどの患者さん、特に統合失調の患者さんは言葉に捕まえられていますから、「私は開放病棟のほうがいい。自由があるから」とか言っても、開放病棟に行くとかえって不安定になって、また戻ってくることになる。言葉ではなくて、フィーリングが大事なんです。
    >>/> 開放病棟がいいと言っているその表情が、伸びやかかどうか、それを見るべきだそうです。

    ・最も表面に言葉の世界がある。言葉の世界はイメージの世界によって支えられている。そうしたイメージの世界は実体験によって支えられている。さらにこの下には、この実体験をやっていくための身体がある。そして、言葉の活動とイメージの活動との間を行ったり来たりすると、言葉が豊かになっていく。また実体験の世界とイメージの世界、ここを行ったり来たりするとイメージの世界が豊かになる。
    >>/> 多面的に。何かを得たいときは特に。急がば回れ?

    ・難しいのは卵をこっちからこっちへ移すロボットを作ることなんですって。卵の大きさがいろいろあるでしょ。だから、卵をこう握って、触れた瞬間に持ち上げて、しかも卵の殻を割らないようにフィードバックを使って力を加減しながら持っていって、入れて離すというロボットを作ろうと思うと、その情報処理機構のコンピュータはすごい容量が必要になる。グシャッとつぶしてしまったり、持っていく途中にガバッと落としてしまったりする。
    それを言葉で言えば「割らないように丁寧にしなさい」で済んでしまう。「ソフトにつかんでやるようにしなさい」と言えば、「ああそうか」と分かるでしょ。
    つまり実体験というもので処理されている情報の量はすごく大きいのです。それを処理できるように人間の脳はできています。潜在的にそういうキャパシティが付与されているのです。そこに言葉の世界がどんどん与えられると、この言葉の世界というものはさっき言いましたように、いくらたくさん入れ込んでも脳全体のキャパシティからしたらすごく小さい。すごく小さな情報量しか脳には入っていないわけです。
    したがって現在、「情報過多の時代」と言われていますが、その「過多」と言われている情報は何かというと、言葉情報とイメージ情報なのです。バーチャルリアリティなんかで家のなかを歩いているような気になっても、実際に家のなかを歩くのと比べたら、情報量は著しく少ない。
    …それを遅まきながらやっているのは、いじめをしている子供たちだろうと思います。いじめをしている子供たちにとっては、自分の脳、情報活動に飢えていた脳が、ちょうど目の前にいじめられている奴がいて逃げ回ったりするので、いろいろ工夫しがいがあり、非常な脳の充実感があるのです。
    >>/> 確かに体験は、万華鏡を見るようにキラキラしていなくて意外と拍子抜けすることだってある。でもそれを実際にしたという感じからくる安定感とか情報量ってあるかも。

    ・治療の中ではどうするか。ボクがこういう考えを作るひとつのヒントになった、不登校の子どもたちをずっと見ておられる稲垣卓という先生の本を紹介します。その先生は理論化をしない人で、ただ経験だけを語るという少々頑固な人で、「不登校の治療でいちばん有効なのは家事労働をさせることだ。理由は分からないけれど、家事労働をさせたらいつの間にか学校に行くようになった」と書いています。
    ボクもそれをさせていますが、確かにいいですね。家事労働をさせるとき、「ここはあなたの受け持ちよ」というのは駄目で、何でもさせて、できるならばお父さんお母さんと一緒にするのがいいのです。そして分担も決めずに、たとえば洗い物をしていたら、皿をふいてとか、ちょっと火を止めてとか、それも「火を止めて」と言わずに、「ほらっ」とか言って、できるだけ言葉は少なくして、お互いにものを言わずにするのがいいんです。「あなたも早う学校に行けるようになるといいね」と言ったりしないように、それを禁止する意味もあって、できるだけお互いにしゃべらないようにするといいです。
    そして工夫するということ。家事労働では、ある程度お母さんがいろいろ工夫してひとつのシステムを完成させています。だから、もう、工夫のしようがあまりないですね、だから「工夫」という言葉をこの場合は使わずに、「だんだん上達するようなところを分担させてください」と言うのです。洗濯機に洗濯物を入れて、洗剤を計って、ボタンを押してというのは、そのうちにそおれがすごく上手になるというのは考えられないでしょう。そういうことは、なるだけお母さんがして、でも干すというのは上達のしようがあるのよ。ちゃんと干したら、きれいに乾くし、干すときにタンタンと叩けばシワがとれて、あとでアイロンがけが楽だし、そういうのをさせればいい。
    >>/> 野菜の下ごしらえなんかもいいな。

    ・人間は言葉というものを発明した。生物が進化する上で言葉が必要になった。そして、言葉のやりとりのなかで、「何かについて語り合う」「何かについて伝える」というようなことができるようになったの。ミツバチなんかも伝え合いをしているらしいね。羽を振るわせたりして、「あっちの方向に蜜があるぞ」とか伝えている。
    人間は恐らくその何万倍も伝え合う。ネコは講演をすることはないけれど、人間は講演をするでしょ。講演は、「何か」について伝えているわけで、この関係は三角形なの。もし若い男性と女性がいるとして、「何か」について話をせずに会話をしようとすると、すごく難しいでしょう。「師長はけしからん、バカだ」とか、「ダイエーホークスがどう」とか、話題があるでしょう。話題があると三角形になるの。話題なしだとすごく難しい。それぐらい人間関係のなかでは話題が大切です。
    だけど、おたがいが一定以上親密になると話題はいらない。一緒にベッドを共にするような関係になると、話題はなくなります。性行為の最中に、「明日のスケジュールは」とか言ったらしらけるものね。関係が三角形になると距離が出てくる。二者関係は親密ね。
    >>/> コミュニケーションと話題なんて考えたことも無かったな。。三角なのだったら、たくさん出せた方が有効なはずだ、きっと。

    ・「主訴」というのがあるでしょう。「イライラした」とか、「熱が出た」「捻挫した」とかいろいろあるね。これをそのまま病気と考えると、なかなか精神療法はうまくいかないよ。精神療法を含めて治療はすべて、その主体がよい方向に行こうとする、一日が気持ちよく過ごせて、よく眠れて、御飯をおいしく食べられて、うんこは毎日出てというような健康な状態に持っていこうとしている自然治癒力がうまく働くように力を貸してあげることです。自然によくなっていこうとする働きを支えて、それを邪魔しているものは除けて、ね。
    だから主訴を見たときには、何かの病気と、それと戦っている自然治癒力の合成だと考えるの。それが見えていないと臨床が見えない。言いかえると、「主訴のなかに自然治癒力がどう現れているかな」と思って見ると、精神療法の計画が立つようになります。…貧乏ゆすりをしている人に、「それは変だからやめなさい」と言わずに、貧乏ゆすりをすることによって、何が少しでもよいほうへ向かっているのか、少しはイライラが減るとか、そういうところに目をつけるといいかな。
    >>/> 傷病老苦、すべてそれの悪い面を捉えると、別に捉えてもいいんだけど、それと関わろうとする時に間違う。傷は負ったときから治りはじめるのだし、老いの細胞分裂も新陳代謝から始まるのだし。

    ・「腹が痛いよう」と言って転がっている人のところに行って、見て共感するということはない。思い入れで、何となく察するだけです。その人がこちらに気がついて、その痛みの体験を、「自分は今こうあるんだ」とこちらに伝え、こちらはそれを聞く。そういう関係ができたときに、そこで初めて共感があるかないかということが問われる。
    そう考えると、「共感」という言葉の曖昧さが少なくなると思います。
    …われわれが、不幸な状態の人に心を寄せたときには、「思いやる」「思い入れる」ということが起こってきます。ところが、言語によってまとめられた体験が語られ、伝えられていている関係で、「思いやる」「思い入れる」を同様に使ってやっていますと、しばしば「思い込み」になってしまって、大きなズレが生じる危険があるのです。
    このズレが、看護の場面なんかで、「共感」を一所懸命やっている場合に起こって、かえって患者さんが悪くなったり、自殺をしたりするんです。共感でやってたつもりが、転移性恋愛、惚れられちゃって困ったことになったりする。
    その結果、「共感」という言葉はスローガンになり、しばらくして、しなくなるんですね。ろくなことが起こらないから。今日、「共感」という言葉が価値を高く与えられていて、実際には使われていないというのは、そういう理由です。たまさか、非常に献身的な人がいて、一所懸命に聞いていると、ズレが見えてきたりする。そうすると、「ああ、なんだ、そういうことだったの。分かった」となります。それが「共感」の瞬間なんです。
    >>/> あいまいに使われがちで、ただそのまま使っていると、確かに何も起きない。

    ・「思い入れ」と「思い込み」のときには、その不幸な人の全体を自分が包み込んで、この人全体を理解し、共鳴し、共振れしているような感じが起こります。こちら側にね。そんなときは入れ込んどる状態です。
    それがズレが見つかって、「ああ、なんだ」となるとどうなるかといいますと、この患者というひとりの人について、「この人のこういうところは分かる。だけど、こういうところはちょっと分からん。異質だ。やはり、生まれも育ちも違うから私とは別だ」というふうに、自分とは異質のところがたくさん見えてくる。そして、異質のところが見えながら、ある部分について、今までの思い込みのときとは異なった、ジーンとするような感じが出てくる。言葉になりにくいこちらの感情が、患者が話す体験のある部分に対してだけ、重点的に起こってきます。これが「共感の感覚」です。
    そして、「ああ、そうだったのか」から分かるように、これは「洞察の体験」なの。つまり、共感は洞察の体験なのです。
    >>/> 共感が、ただの一方的な感情から、実効性のあるスキルに成長する瞬間。


    ・目についていた鱗、目の前を覆っていた霧は、「思い入れ」によって作られてきた「思い込み」なんです。共感の体験のときには、それが壊れるの。壊れて、うわーっと「共感」が起こるの。
    じゃあ、はじめから、「思い入れ」を起こさんようにしていたらいいと思うかもしれないけど、それじゃ駄目なんです。どうしてかというと、「共感」は「思い入れ」よりいくらか上等なものだけれども、それを進めているエネルギーは、「思い入れ」のエネルギーと同じものだからね。
    まず共感をしようとする意欲がある。そして「思い込み」が出てきて、それが崩壊して、「洞察」が得られたのが「共感」であるということです。ここでわれわれは、「共感というのは大事だから共感をするように努力しなさい」というのをやめるの。共感は“すること”ではないの。思い込みが壊れて、「あっ」と気がつくわけだから、共感をするように努力するのではなくて、共感ができるだけ早く自分のなかに“生じてくる”ように質問を工夫することなの。
    >>/> 共感しようとしていたらできない。何と天邪鬼な。

    ・孔子の「知らざるを知る、これ知るなり」、これが質問技術の根源です。「ここが分からない」と思えた瞬間に、もう三分の二ぐらい済んでるの。あとはただ、質問すりゃいい。
    一見分かっているように見えるけれども、分かっていないところを探す。「知らざるを知る、これ知るなり」なんて言っても、そりゃ賢い人が言うことでな、普通は、「知らざるは知らざる」なの。だから、洞察が生じてくるように質問を工夫するんです。工夫するポイントは、その話のなかの重要な言葉。「重要な」というのは、何かそこでその人の事態が変わっているいるような言葉を探して、そこを聞くの。
    たとえば、「私がこうなってるのは、結局母のせいですよ」とか言ったとき、「せいです」とは、それが重要ということだから、「母のせいって、どういうこと?もう少しそこんとこ話してみて」と聞く。
    >>/> 普通は、「知らざるは知らざる」(笑)。じゃあどうしたら、まで考えているのが凄い。

    ・「重要」ということの第一番は、ひとつでも重い言葉。二番目は、そうじゃなくて何度も出てくる言葉、頻度が高い言葉です。たとえば、「私は古い人間なもんで」とか、「そういうところが私は古いんでしょうな」とか言うのに対して、「あなたの言う『古い』っちゅうのはどういうことね?」と頻度の高い言葉に焦点を当てるの。
    第三番目は、四つの漢字でつくられている言葉、それからカタカナ言葉。そうものは、そこには何かが隠れていることがあります。たとえば、「精神修養」とかの四つの漢字や、「アイデンティティ」なんていう言葉。こういう言葉は、分かってないことを分かったみたいにまとめてしまうために使われているからね。「あなたの言う『精神修養』とはどんなこと?」と聞いてみる。
    そうすると、多くの場合、特に患者さんの場合は、こちらが「えっ?」と思うくらいに、こっちの考えていることと違うことを言います。
    >>/> 一番強い自分についての思い込みを打破するために。

    ・ときには「この人には共感しないように、受容しないようにしましょう」という看護計画が立たないかなあ。技術だったら、使うか、使わないかだからね。たとえば「患者さんを大事に」とかいうのはスローガンだよ。「この患者さんは大事に、この患者さんは粗末にしたほうがいい」とかになれば、技術でしょう。
    >>/> 品質もCSもESも。

    ・ところが、精神科医療のなかでは、知らせてパニックが起こるということはほとんどないね。ボクは、「精神分裂病(統合失調症)だと思う」という診断を20年も前から、本人に言うようにしているけれど、パニックなんか起こらないよ。だけどまあ、他の精神科医が伝えると起こるらしいんだけどね。「なぜ、ボクが伝えて起こらないのかなあ」と思っていたけど、僕は、「分裂病(統合失調症)」って何のことか全然分かっていない診断だと思っていますので、言うときに、あんまり診断が決まったという雰囲気では言わないの。こちらがそんな気がせんからね。「まあ、今んとこ、強いて名前をつけるなら、分裂病(統合失調症)だろうね」というような感じです。
    >>/> 伝わるんだなあ。言葉は同じでも。

    ・なぜ、内容を聞かなくても、治療上ほとんど支障がないのかというと、治療者が「この内容を知りたいのは、好奇心からではなくあなたの治療のためなんです」と言うでしょ。患者は隠しておきたい。そして、「その理由は、こうだ」という理由だけが語られる。そうすると、自分のなかの今、隠している秘密のことが、自分の受けている医療とどう関連しているのかということが、うっすらと患者自身に自覚されてくる。治療者側は、この患者の秘密を知らないんだけど、患者は「これ以上言いたくない。隠しておきたい。その理由は」というようなことを治療者側と話すことを通して、自分のこの秘密というものと病気との関連について、内側で「自分勝手に知る」という作業が進む。進めば自分なりに何か方針が決まって、自助、自分で何か自分のためにするという働きが出てくるんです。
    そうなると治療者は、「知りたいけど、あなたが知らせたくないその気持ちがよく分かったよ」と告げることによって、本人のなかの自分で自分を知って、自分でそこから立ち上がっていく道を生み出すことができる。
    >>/> でも、この構造を知った上ででないと、効果が無いんだろうな。不思議。

    ・自分たちの医療が患者に対して、何を伏せているのかを拾い出してみてごらんなさい。その伏せている部分が操る部分なんです。
    >>/> 部下に、家族に。

    ・田代先生という漢方薬について研究している薬理の先生がおられて、その田代先生がおっしゃるには漢方薬というものはしばしば、それ自体は薬効がないんですね。薬効がなくて、腸内細菌がその漢方薬を食べて、そして排泄するわけです。その腸内細菌の排せつ物に薬効があるんだそうです。だから腸内細菌を殺すような抗生物質を与えて腸内細菌を殺しておくと、漢方薬が全然効かないし、血中に有効成分が出てこないというようなことが分かってるんです。
    >>/> 何故その結論を発想できたのか、何故そこを調べようと思ったのかが不思議。

    ・精神分析をやっていると、この人がこうするのは、一人っ子で甘やかされて育ったからだとか、親御さんがずいぶん躾が厳しい人だったので卑屈になって、今こんなになっているんだとか、いろいろ言うじゃない。その説明が正しいとしたら、過去の影響が現在に出ているわけだから、現在をじいーっと見れば、そこから過去がうかがえるはずだと思ったのよ。それであれば、精神分析をやっている人たちが過去と現在を結びつけて言う説明は、そのレベルでは受け入れてもよさそうです。
    >>/> その人が持っているものを今この場で見抜けるものなのか、そもそも。

    ・たとえば「家に帰っても、子どもが暴れてどうしようもないんです」と患者さんが言う。でも「どうしようもないんです」と言ったって、どうかしてるんだからな。それで「そのとき、あなたはどうしたの?」と聞くと、「もう家におる気がせんから、飲みに行きました」とか、「蹴ったくりました」とか、「ぶん殴ってやろうかと思ったけど、向こうのほうが強いですから、諦めましたわ」とか言う。
    そのときのその人が、自分なりにどう対処したかを見る。諦めたとすると、この人は諦める資質が優れてるのかもしれん。殴りあってるなら、運動系が優れてる。そう思って見るんです。いつもそうです。何か事があったときに、人はどうにかするわけです。どうにかするときに、よほど新興宗教や心理療法か何かにかぶれていない限りは、自然である限りは、本人のなかの資質が出てくるの。
    …できんことじゃなくて、できそうなこと。「我慢しなさい」と言うのもあるし、「我慢なんかやめたほうがいいよ」と言うのもある。相手によるの。「人を見て法を説け」というのはそういうことです。相手の資質をよく見て、相手ができそうなことを言えということです。できそうなことはきっと、それに近いことを自発的にしているだろうと思います。だから「そのとき、どげえしたね?」と聞いてください。これをひとつ覚えただけで、今日の講義を聞いたことが活きます。
    >>/> うん、何かしてるんだね。困ったとき。何もしていないようにしか見えないのは、自分が狭いわけです。

    ・老人を診るとね、よそで血圧を130台ぐらいに下げてもらった人がいる。その人の血圧の検査成績は正常です。でも、70歳ぐらいの人で血圧を130ぐらいに下げてもらったら、ぼうっとしてるよ。半ボケみたいになっている。頭に血が回らんのよ、もう血管が動脈硬化で細くなってるから。
    そういうのは水銀柱の高さを治療しているわけです。そんな治療をしたってしょうがないんだ。「どうですか、気分は?」とか言って、気分を治療しなきゃいかんのにさあ。
    >>/> 気分を、治療しなきゃいけない。。!

    ・それからもうひとつ、精神科に関係して、ボクが前提として置いているのは「心」。心は自然治癒力を持たないということ。自然治癒力を持っているのは脳です。脳は自然治癒力を持っている。そして、これは証明されていないんだけど心というものは、束縛されないこと、束縛されず自由に動けることを最良のものとすると考えます。
    そうすると自然治癒力と言うのは、ある一定の方向へ進もうとする動きですから、心とは合わないんです。自由自在性を心の本質とするならば、自然治癒という一定方向にしか進まないものと、心という機能は合わない。
    …人間の持っている心というのはサルよりも百倍も一万

  • 読んでいる中で、どんどん頭の中で思考が動き出してしまって、なかなか読み終えることのできない一冊でした。

    気付きがたくさん、
    導き出される思考がたくさん、
    うまく想像できないこともたくさん、、

    多くの学びと課題に出会えました。

    バランスを考えること、
    全体を見ること、
    自然治癒力を大切にすること、
    しっかりとした「知識」と「技術」を身につけて、そして手放すこと、

    私はまだまだ基礎力が不足しているので、もっともっと学びたい!と思いました。

  • 神田橋先生の割と新しい本です。25年間の講義録集で、その後の著作になる前の発想集と著者も言われているが、原酒のような味わいがある。これまでの著者の著作の変遷が時代の変化とともにわかる作りになっている。そのため後半は漢方、整体、鍼灸の話になっていくが。この辺りは今一つ今でも理解できにくいところではある。前半部分は精神療法の関わりの基礎の部分を述べられており、改めて基本に立ち返らせる気分になる。印象に残っているのは、「痴呆」老人への対応で、「相手の人と自分とが過ごした関係とその時間が、まず自分にとって価値のある過ごし方だったと感じられることが、何より第一です。その上で、その同じ関係と時間が、相手の人にとっても価値あるものだったんじゃないかな、だったらいいなと思えるような接し方を心がけるのです」初心者に対しては、「もともと知り合いの人が来てつき合い、治療が終わった後もずうっと付き合いが進んでいく、そう思って接する」
    「知」についたものを「技」にするためにじっくり咀嚼したい。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

1937年生まれ。
1961年、九州大学医学部卒業。
1971-1972年、モーズレイ病院およびタビストック・クリニックに留学
1984年~ 伊敷病院(鹿児島市)にて診療。

本書『精神療法でわたしは変わった』の著者:増井武士、旧知の師匠。

「2022年 『精神療法でわたしは変わった』 で使われていた紹介文から引用しています。」

神田橋條治の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
大野 更紗
三浦 しをん
ヴィクトール・E...
最相 葉月
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×