- Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393366257
作品紹介・あらすじ
母との名状しがたい関係に苦しみながら、それでも罪悪感にとらわれている女性たちが数多く存在している。本書では、カウンセリングの経験に基づいて、墓守娘たちの苦しみを具体的に取り上げた。進学、就職、結婚、介護…。どこまでもついてくる母から、どう逃げおおせるか。NOと言えないあなたに贈る、究極の"傾向と対策"。
感想・レビュー・書評
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ベテラン・カウンセラーの著者が、現代日本に広がる母と娘の「支配・被支配関係」を読み解いた本。
ここでいう「娘」とは、すでに成人した女性を指す。また、「支配・被支配関係」といっても、暴力などの児童虐待に端を発した関係ではない。
むしろ、本書に登場する母たちは、表面上は娘を思いやり、家事も完璧にこなす「よき母」ばかりである。にもかかわらず、見えない鎖で全身を縛り上げるように娘を支配下に置き、就職や結婚などさまざまな人生のステージで、娘の進む道をコントロールしようとする。
本書に紹介された事例の一つ――。
T大法学部に進んだ娘がベンチャー企業への就職を望むと、母親は涙を流しながら次のようにまくし立てたという。
「許さないわよ、どうしてそんなこと……。先の見えない人生なんて送らせるわけにはいかないでしょ、いったい何のためにママが生きてきたと思ってるの。だめよ、絶対だめよ」
娘の側はそうした支配に耐え難い思いをしているものの、母の磁場から逃れて自由に生きることができずにいる。
児童虐待をするような親なら、子が憎むことはたやすい。しかし、「私はあなたのために生きてきた」と言いつのる「よき母」を憎むことは難しい。母を疎ましく思い、逃れようとすればするほど、娘の心には罪悪感が湧き上がるのだ。
そのような女性たちを、著者は「墓守娘」と名づけた。カウンセリングの中で聞いた「墓守」という言葉に強い印象を受けたことに由来している。
たとえば、娘に「結婚しろ」とせがみつづけたある母親が、そのことをあきらめたときにつぶやいたのは、「もう何も言わないからね。ただ、私たちが死んだら墓守は頼むよ」という一言だったという。また、母との関係に苦しんで摂食障害になったある女性は、母に向かって「こんな家のお墓を守って生きるなんていやだ」と言ったという。
今年(2008年)の4月に出た本だが、手元にあるのは9月に出た第11刷。かなりの勢いで売れているのだ。「母が重くてたまらない」と感じている成人女性が、それだけ多いということだろう。ただし、男が読んでもたいへん興味深い本であり、私は一気読みしてしまった。
信田さよ子といえば、少し前に読んだ『依存症』(文春新書)もよい本だったが、これも示唆に富む良書だ。
著者は、母娘の支配・被支配関係を、次のような6つの類型に立て分ける(ただし、一組の母娘の中にいくつかの類型が混在するケースも多いだろう)。
1.独裁者としての母-従者としての娘
2.殉教者としての母-永遠の罪悪感にさいなまれる娘
3.同志としての母-絆から離脱不能な娘
4.騎手としての母-代理走者としての娘
5.嫉妬する母-芽を摘まれる娘
6.スポンサーとしての母-自立を奪われる娘
各類型の典型的事例を著者は挙げているが、そのうち私にとって最もショッキングだったのは、「嫉妬する母-芽を摘まれる娘」。娘の若さと美しさ、社会的達成に「嫉妬」する母が少なくない、というのだ。
《注目すべきは、娘の社会的達成に対しての嫉妬は、セクシュアリティに関するそれよりもっと頻繁にみられることだ。若さや美への嫉妬は、かわいげがあると思えるほどだ。
(中略)
娘が人生で喜びを味わうたびに、丹念に一つずつ潰しているとしか思えない母がいる。彼女たちの多くは、戦後民主主義教育を受けて育ちながら、就職や進学では明らかな女性差別を経験した。そして、選択の余地なく専業主婦となり、夫の浮気や浪費、暴力などで苦しんだ母たちだ。彼女たちは、娘たちが昔とは比べものにならないほど広範に門戸を開いた大学にやすやすと進学し、一流企業に就職し、自己実現の階段を一歩ずつ上がるたびに、激しく嫉妬する。自分と娘とは時代背景が違うということは十分承知のうえで、だからこそ陰湿な嫉妬の毒を撒き散らす。
娘が結婚すると、どこかほっとした顔をしたりする。「これで娘も世間並みの女の苦労をするだろう」という安堵感が、そこから読み取ることができる。》
カウンセラーらしく、問題解決のための処方箋を後半で提示しているところもよい。そこには、母の側、娘の側への処方箋のみならず、問題の隠れた主役である父親たちに向けた処方箋も書かれている。ゆえに、世の父親たち――とくに、本書に多くの事例が出てくる「団塊の世代」の父親――も一読すべき本である。
メモしておきたいような深みのある一節が、山ほどある。たとえば――。
《夫を子ども扱いすることで大人になれた妻たちは、中高年になり夫から解放され(るために)、今度は同じような関係を娘とのあいだにつくり出しているのではないだろうか。無邪気を装った無神経ぶり、都合のいいときだけ老人ぶったわがまま放題、身体的衰えを材料に娘を脅して言うことを聞かせる……。これらは依存や甘えと紙一重の支配である。多くの支配がそうであるように、支配する側は半ば無自覚である。なぜなら他者を支配することは苦痛ではなく、むしろ豊かな快楽に満ちているからだ。夫たちが結婚と同時に手に入れた「大きな息子」の地位に伴う快楽は、母親たちのそれと似ている。とすれば、母親たちは娘たちの「大きな娘」になっているのではないだろうか。こころおきなく無邪気に依存できる快楽を、彼女たちは娘によって初めて得ることができたと考えると納得がいく。》
《中途半端な理解などしないほうがいい。むしろ有害である。
そう思うほどに彼女たちの理解や推測は、子ども本人の考えていることとずれている。彼女たちの理解は、子どもたちにすれば無理解で的外れなのだ。自分の子どもとはいえ、すでに成人していれば自分の理解を超えるのだということを、母親たちはなかなか認められない。こんなズレや無理解が生じるにつれて、母と子どもの関係は遠ざかるどころかもっと近づいていく。ズレや無理解を埋め合わせようとする母と、理想の母親像を求めて「お母さんならわかってくれてもよさそうなものなのに!」という怒りに満ちた子どもが四つに組んでしまうのだ。》
もともと母子密着度が高い日本社会が、一定の豊かさを持ったからこそ生まれた「墓守娘」たちの悲劇。その悲劇の内実を、鮮やかに腑分けした一書。良質の文学作品のような読後感が味わえた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
認めることにした、この一週間。
自宅と職場近くの一般書店には売られていなかったので、休日を待って。はからずも、両親とランチしたその帰り道に図書館に赴くこととなった。
1章は筆者がカウンセラーとしてみてきた事例がさまざまに列挙され、2章は母をとりまく環境とその簡易タイプ別一覧。
正直、そこまでは「そんなものかぁ」しっくりこない、私の場合はやはり誤認なのかもしれない、でも勉強するつもりで、読み進めていたが、3章で問題解決にむけての具体的対処を示されてようやくほんとうに自分のこととして認められたように思う。
1章終わりで「人生お落としどころを娘に求めないでほしい。母は娘にとって重いのだ」と言いきり、あとがきで「憤りに近い気持ち」と記す筆者が、一冊を通して私たちを励ます立場でいることがわかるだけでも、手に取って読んでよかった。
読み通している間にも衝突があった。
つらいが、先に進むための「必要経費」と思いたいですね。 -
もがいている最中に手にとった本でしたが、最後に向き合っても仕方ないと書かれていたところには救われました。何か問題があれば正面から向き合わなければならない、何とかこの思いを言語化して相手に理解してもらわねばならない、という強迫観念にずっと苛まれ苦しんでいたので。また、とうの昔に父が亡くなっている父親不在の家庭だったからこその歪みも感じました。父がいたらここまでこじれていなかったかもしれない。ちなみに我が母は、殉教者とスポンサーの2種混合ですね。ため息ばかり出ますがなんとかやっていかなければ…。
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「あー、こういう母娘関係、あるある」と「つらい」が交互に押し寄せてきて、読むのがなかなかしんどかったです。
父と息子ならばこんなめんどくさい関係にならないように思うのだけど(精神的にこじれるよりもダイレクトに殺し合いそうで、それはそれでアレではある)、どうしてなんでしょうね。 -
つれー
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すごいタイトル笑。
日本では、息子が母親とべたべたしているとマザコンと囃されるが、
娘が母親とべたべたしていても、仲のよい母子、
くらいにしか思われないことが多い。
…が、しかし、娘の人生と自分の人生を切り離して考えることのできない母の恐ろしいことよ。
娘も娘で、母(家庭)に依存し結婚が遅れる、
または結婚したとしても健全な夫婦関係が築けない。などなど。
あな、恐ろしや、ニッポンの依存家族。
と、まぁ、極端な例ではあるけれど、周囲にも散見され、
自分にもあてはまることのある母子関係。
一度読むと関係を見直すきっかけになる。 -
3つの関心からこの本を読んでます。
一つは、宗教者として文字通り「墓守娘」(墓守息子も)を相手にすることが多いので、その苦悩に寄り添った法要を考えられないかと思ったこと。
二つに、ジェンダーの問題、性差別の問題として、現代の家族のあり方の問題として、事実私も含め当事者として切実に直面していると感じていること。
最後に、私自身家族と深刻な対立の真っ只中にいるですが、そこに根深く両親の重圧、特に母親の重圧を感じていること。
率直にいって、嗚咽感を堪えずしては読み進めるのが困難でした。それくらい、グロテスクなケースのオンパレード。
両親から受けた心身両方の全ての古傷が疼いて仕方なく、あるいはバックリぶり返した傷や激痛さえあったのですが、全く大袈裟でなく本当にそう感じながら何とか読み終えたというところです。
読み終えてからも、猛烈な怒りと底無しの悲しみに囚われて、訳もなく地団駄踏みたくなったりと情緒が安定しなかったのですが、それだけ読む意味と価値はあったと思っています。
何で、こんなに苦しく、切ない思いをしてまで、子どもは親に人生を奪われ続けないといけないんですかね?
そこまで苦しい、切ない思いがどうして親本人には理解されないんですかね?
読みながらある程度納得のいく仮説は立てられましたが、考えれば考えるほど頭を抱え込んでしまいます。
先に挙げた三つの関心については、かなり考えが深まりました。
まず、宗教者としての関心で言えば、間違いなく今の葬儀・年回法要は墓守娘を苦しめる方向で恐ろしいまでに加担しているように思います。自分自身の立場の罪深さと問題の根深さをこれでもかと読んでいて痛感しました。
特に坊さんがする法話に顕著ですが、あたかもこの弔いは続いていくように、そして家族で今後の墓守を支えていくように、どうしても語ってしまうところがあります。露骨かつ端的に言えばお布施収入がかかっているからなんですが、そこにどれだけ目の前の墓守娘の苦悩が見落とされているか。考えるだに震えが止まらなくなります。
まずは、葬儀・法事はやって当然という意識を捨てて、ご遺族に対して心の底からこれまでの苦労をねぎらう姿勢を見せることからだと思います。そして、生前の苦労に関しては、ご遺族の方が話せる限りにおいて丁寧にうなづいて聞き取ること、今後の墓守に関する不安には聞き取るだけでなく惜しみない支援・協力もすることが大事だと思いました。
ジェンダーの関心で言えば、重たい母親にも猛烈に腹立ちますが、それ以上にその旦那である父親ですよねぇ。何だこの無能でクソみたいな生き物。
そも夫婦関係がうまくいってないような親で、親子関係だけはまともだなんて、そんな家庭ある訳ないじゃないですか。
だいたいうちでも父親は基本無口で子の私とはコミュニケーションを取ろうとしませんよね。感情も聞かない。「あれやれ」「これやれ」という仕事の話だけはする。母親に対しては出来てないことを「何で出来ないんだ!」「何回も言っているのにさっぱり聞かない!」とネチネチきつく怒鳴り声で言う……驚くほど本で書かれてた父親像と合致するところがあります。
いっそのこと、生涯独身で自分の職分を全うし続けるだけの人生送った方が幸せたっだ生き物なんじゃなかろうか。相手の感情に寄り添う気もなければパートナーを人間として尊重する気もない男が家庭作っちゃダメでしょ。
私の兄弟は男三人なので身近な話じゃないですが、こじらした母娘ってのもキモいですねぇー。事実世の中にいる母親なのだし娘当人の苦悩は想像を絶するとはいえ、生理用品買わせないとか……そのくだり読んだ時は流石にあまりのキモさに寒気がしました。
で、今後の両親との付き合いという関心でなんですが、うん、絶交してもいいんだ、って素直に思えてそこは気持ちが楽になりました。
一番の基本は、「私(娘・息子)とあなた(母)の幸せは全く違う。決して同じにはならないし、同じである必要は全くない」ということ。そして「あなた(母)でない、私(娘・息子)が望む、私にしか歩めない人生を歩む権利が私にはある。決して邪魔してはならないし、邪魔することも決してできない」ということ。このことを強く自分自身に言い聞かせて、必要なら両親にもはっきりさせる必要があるのだと思います。そのためのNO!を言える勇気を少しずつでも自分の中に育てていけたらと思います。 -
一時期問題は私にはなく、母にあると思っていた事がある。
しかし蓋を開けてみれば私が普通と違う子ということになり、この本に書かれている通り私がカウンセリングを受けに行く事になった。
いまこの本を読んで、当時家族ともども通院して問題を解決していくのは不可能だった事を知った。
その上で、改めて大惨事にもならず、自分も死なず、今があるということに感謝。