- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393333730
作品紹介・あらすじ
ふだんは意識しないけれど、誰もが自分だけの体のルールをもっている。階段の下り方、痛みとのつきあい方…。「その人らしさ」は、どのようにして生まれるのか。経験と記憶は私たちをどう変えていくのだろう。視覚障害、吃音、麻痺や幻肢痛、認知症などをもつ人の11のエピソードを手がかりに、体にやどる重層的な時間と豊かな可能性について考察する、ユニークな身体論。
感想・レビュー・書評
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伊藤亜紗さんの本を読むといつもおもうことは、「にんげんのからだって不思議だなあ!・おもしろいな!」
目がみえない人のからだのなかでおきていること や、耳の聞こえないひとのからだのなかでおきていること、どもるからだのなかでおきていること…などなど…ふだん、自分には聞けないことを亜紗さんは どんどん聞いて書いていく…。なんか、その様子は美術の共同製作のようです。そう感じると、亜紗さんの専門が「美術」というのがうなずけました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
目の見えない人や腕を切断した人、また、先天的に腕のない人。とくに幻肢痛に悩まされる方を多数取材されています。プロローグで述べられているのが、「体のローカル・ルール」という言葉でした。不自由になった中で、自分なりの世界の認識の仕方や感じ方を作り上げていく。たとえば目の見えなくなった人が出先の喫茶店に入れば、健常者だったとしたら視覚で状況を把握しがちですが、本書に登場する目の不自由な人の状況把握は、音の反響の仕方や、人の話し声の多さで店の規模や混雑具合を把握するのです。席に案内されれば、テーブルの手触りや椅子の座り心地を感じ、その素材について考えていたりするということでした。そういうことが、一人ひとりののローカル・ルールとして体の固有性を形作るまでにいたっていく。
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記憶は、蓄積という意味でも、喪失という意味でも、現在の体のあり方を大きく左右します。それは多くの場合、本人の手によってはどうしようもなく起こる変化です。そのどうしようもなさとどう付き合うか。
(p265)
つまり、体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。もう一つは、意識的な介入によってもたらされる「人為」の結果としての側面です。
(p271)
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(→障害の状態が変化したり病気になったりするような変化が「自然」の作用の結果としてのもので、試行錯誤の末に新たな工夫を手にしたり、他の誰かの助けを得て自分の体の可能性を発掘することが「人為」の作用の結果である、とp271の引用の前段にあります。)
本書はそのような、健常者が一般的な生き方をしていると見過ごしている先述のようなことにフォーカスし、平易な感覚で掘り下げ、暗黙のものだったそれぞれの「ローカル・ルール」をできるだけ言語化し一般に知らせてくれるような性格を持っていると思いました。
ただ、それぞれに共通項を見出すのはなかなか難しく、障害を持つ方がほんとうにそれぞれのあり方で生活していらっしゃって、ときに相反するような「ローカル・ルール」をお持ちの方が章をまたいで登場されていたりします。エピローグで著者が述べていますが、21世紀初頭の時点においての、日本の科学技術の状況を背景にした、体の記録といった書物としてのまとまりがあり、それぞれのケースを無理なくそのまま本に収めた体裁だといっていいのかもしれません。
こころにひっかかったエピソードは、たとえばエピソード1の視覚障害の方のところからもうありました。視覚障がい者に対する介助者の方の仕事って真面目で、細かくここがどうだとかこうなっているからとか上手に言葉で説明するのだそうです。それは過剰なほどとも障がい者の人にとっては感じられることがあるし、それを聴いてばかりいると自分を失くすような状態に追い込まれもする、と。また、介助者と円滑にやりとりするためには、障がい者が障がい者を演じなければならないようになってしまう、と。
なるほどなあと思ったのです。盲点とまでは言わないし、すべてそうだったとも言わないけれど、僕が自分の生活の中でこれまで流してしまってきた部分がここなのでした。それは僕の家のような在宅介護でも、どこまで手を貸すか、促してあげるかの程度もむずかしいのです。うちの母なんかは、「自分でする!」と強く言うときがあります。ああ、自分をなくす感覚なのだろうなあ、と本書を読みながらちょっとわかりました。
また、エピソード10の吃音当事者の方のところで、「引き込み現象」というものがでてきました。たとえば当事者が現在、自らの吃音の度合いがとても軽い状態だったとしても、他の当事者が重い吃音の症状に苦心しているさまをみてしまうと、自身も過去に重度だったときがあるので、他者の吃音が伝染するかのように自身にも過去の状態のような重い吃音が舞い戻ってきてしまう、というものでした。
このことについては、吃音ではないですが僕にも経験があるなあと思ったのです。それは小説用の文章を書いている時に、過去と比べるとそれなりに進歩した状態まで来たものだと自負していても、何年か前のまだまだ発展途上の未熟さの強い自作の小説作品の文章に触れると、その拙く感じられる文体が伝染してしまい、今の自分の文章も当時の状態に戻ってしまう。まるでこれまで築きあげた自分の文体が過去のある時点にリセットされてしまうかのようなのです。これを恐れて、僕はかなり前の過去作品を読むということをほとんどしません。なんというか、今の技量というか血肉化した文章感覚と、過去のそれとの距離が、なんとも絶妙な気持ち悪さの範囲にあると、引き込み現象が起こります。この絶妙な距離感をなんと表現していいのか、なかなかすぐに浮かんでくるものではなくて、どうやら暗黙の領域下にある感じなのです。
これは吃音の引き込み現象と同じように、言葉を使う領域だからそうなのでしょうか。それとも言葉で仕事をしない大工のような技術仕事や、サッカーなどのスポーツでも起こるものなのか。そこはどうにも僕にはわからないところです。ですが、言葉の領域である小説の文章についての個人的体験で言うと、ほんとうに初期の拙い文章に接したときは、もうそれをかなり克服しているというか、現在はそれを超越できている状態なので、引き込まれることはまずなく、逆に添削ができたりします。引き込まれるのは、言語化がままならず、それだけ現在と過去がちょっと重なり合いのあるときだと思います。また、現在に近い過去についても添削が利く感覚がありますから、やっぱり「絶妙に気持ちの悪い距離感」のところと干渉してしまうと引き込み現象が起こるようです。
というようなところです。ほとんど知らない世界のいろいろなエピソードが綴られていて、このような感想では一割もその内容を伝えることができていません。時間が自分を作っていく、というエピローグの金言に深く首肯するには、それまでのエピソードをよく読みながらの読書体験が不可欠でしょう。世界をより幅広く見るため、それまで数多くの人に見えていなかった視界を知ることのできる良書でした。本を読むうれしさって、こういった体験ができることに大きなところがあります。 -
フィクションの世界で幻肢痛という言葉を見聞きしたものの、それがどういったものかもよく知りませんでした。この本の中でエピソードのひとつとして詳しく紹介されていた幻肢痛は、私が想像していたものとはかなり異なり、認識を改めることができました。
「もう無いもの」を求め続ける脳の働きの不思議さを知り、それぞれ条件の違った世界で生きる方々の創意工夫や無意識に行っていることから、世界の見え方がこうも違うのかという発見もありました。
そして、今ある身体とない身体、新たに刻まれていく経験と過去の記憶が織り成した生きる術の多様さを思い知らされもしました。
障害を持つ/持たないで単純に二分化できなどしない、人とという生き物の複雑さをわかりやすく知れた、とても素晴らしい本でした。 -
ここに出てくる人たちと比べれば、何もなく50数年生きてきて、さてこれからこういうことに身体がなった時、自分はこういう考え方ができるのだろうか。淡々と文章は書かれているのだが、インタビューを受けている当事者は今現在も、もしくは過去の時点において、相当な痛みや苦しみを経験している。でもそれでも相当な苦労をして、「距離」を置けるようになっている。もちろんそれで幻肢痛が治るわけではないし、認知症が改善するわけでもない。でも、距離を置けるようになったことで確実にそれまでの日常とは変わっていけるようだ。やっぱりこういう本を読める事実はとても凄いことなのだろう。もちろん、このまま何もなく生涯を終えることができればそれはそれで良い。でももし、自分の身にこれらのことが起きたときに、どのように向き合えば、いやむしろ向き合いすぎないようにできるのか、この本を思い出せればまた違うように思う。借りるだけでなく、持っていると良いだろうな。
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障害を持つことで生じる体の機能の変化のイメージが何となく伝わってきました。
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少しマニアックな分野の本。
視力を失ったり、腕や脚を失った人が、
どのような感覚でその後の生活をしているか、
実際にインタビューした内容を書き綴った本。
幻肢痛という四肢を一部失ったけど、
脳が、失ってない!と何度も信号を送り続ける
事で猛烈な痛みが走る事がある。
というのは衝撃だった。
目が見えなくても物を書く少女とか。
目が見えなくなると嗅覚や触覚が鋭くなるそう。
障害と向き合いながら生きる人々、
失ったけど失ってないような感覚で、
折り合いつけながら前向きに生活している
人たちが印象的だった。
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幻肢痛や吃音、若年性アルツハイマーは自分が考えていたのとは違う感覚だった。私もイップスがあるが、身体の記憶は普段生活している中では意識しないで出来ることが、意識すると出来なくなる、又は出来ないから意識せざるをえなくなる。厄介なものだと思うけど、上手く付き合っていかないといけない。文体が教育的なドキュメンタリーのナレーションのようで、言葉の面白さや次の文章を読むことの高揚は殆ど感じなかった。読みものというよりレポートのような感じ。
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本書は、身体的にいわゆる「障害」をもった十数人のエピソードに基づき、人間の体のその人らしさ、アイデンティティについて、記憶をテーマに解き明かそうと試みた著作である。
著者は、もともとは生物学者を目指しながら途中で現代アート専攻へと転向しつつ、人体について彼女独自の視点から研究を続けているというちょっと変わった経歴の持ち主だ。以前読んだ『目の見えない人は世界をどう見ているのか』でも感じた独自性は、ここでも発揮されている。
取り上げられた人々は皆、何かしら身体的に障害を持っている。無論そのために不便な暮らしを余儀なくさせられて、それでも彼らなりの工夫をこらして、自らの置かれた状況を悲観することなく人生を謳歌している魅力的な人物ばかり。そこから私が感じたのは、身体的な障害のみならず、精神的な障害や疾患においても同様なのではないか、本人の心持ちが、その症状に強く影響を及ぼすのではないか、ということである。
昨今、精神疾患というとまず第一選択として、投薬が挙げられるが、急性期はそれでも仕方がないとしても、必ずしも投薬することでしか治療の余地がないわけではないのではないか、自分自身の意識や人との関わりのなかで、大いに変わりうる可能性がもっとあるのではないだろうか。
本書に登場する人物は、身体的欠損を自らの精神活動によって、脳が感じている違和感や不全感を解消する術を見出している。脳が、視覚的な情報によって、いい意味で容易に騙されることは既に知られているが、自分の思考パターンを意識的に変えることによっても同様のことが起こりうるならば、精神疾患でも同じアプローチかできると考えてもおかしくない。
今話題になっているオープンダイアローグという北欧発の治療法も、投薬治療よりも劇的な効果を生み出していると聞く。これはとりも直さず、本人が、他人との対話によって自分自身の意識へアプローチし、思考パターンの変革を無意識的に行うことで、疾患とされる生物学的な身体反応にも、良い意味での影響を及ぼすことができる証明だと言えるのではないか。
本書は、決して脳科学の専門書ではないが、脳がいかにコントロール可能な余地をもったものであるか、脳の持つ可能性を示してくれていると感じた。
本当は、個々のエピソードでいろいろ思うところがありもっとたくさん書きたいことがあったのだけど、読み始めてから読了まで時間がかかってしまって、その多くを失念してしまったことがとても悔やまれる。
機会があったらまた読み返そうかな。-
身体的な障害を精神活動によって、解消している点から、精神疾患もまた精神活動によって改善できるという仮説に、私も同感です。普段から思考訓練を重...身体的な障害を精神活動によって、解消している点から、精神疾患もまた精神活動によって改善できるという仮説に、私も同感です。普段から思考訓練を重ね、捉え方をより良い方向へと導いていけるよう試行錯誤していく環境が必要であると同時に、精神的に追い詰められる以前から、そういった捉え方を話し合える相手が必要不可欠であると考えました。下界と交流を断たたずに、人との交流を続けられれば、人それぞれの認知を人との触れ合いを通して、より良くしていけると思うので、その為にも彼らが安心できる環境で話を聞いてあげられるような方々が、必要なんだと改めて感じました。2020/02/16
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tamiさん、コメントありがとうございます!
身体的障害にせよ、精神疾患にせよ、当事者にとって安心できる環境というのは不可欠ですね。
...tamiさん、コメントありがとうございます!
身体的障害にせよ、精神疾患にせよ、当事者にとって安心できる環境というのは不可欠ですね。
身体的であれ精神的であれ、何かしらの障害を持つということは、社会生活における不便さを強いられるということですから、環境的に安心できるということは、日々の暮らしの中では大きな意味をもつのだと思っています。2020/02/17
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