ニッポンには対話がない: 学びとコミュニケーションの再生

  • 三省堂
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  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784385363714

作品紹介・あらすじ

品格や武士道よりも「対話力」。「違い」を前提として互いの考えを粘り強くすり合わせていく対話の発想を軸に、気鋭・奇才の二人が、教育と社会の再生を語り合う。

感想・レビュー・書評

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  • 日本の教育は全くここで危惧されている通りになってきてしまっている。民主主義的な教育には、子ども側ではなく、大人の忍耐と技術が必要であるにもかかわらず、今の学校には子どもたちの試行錯誤を見取り、支援するためのゆとりがない。そのため、手っ取り早く、テストで点を取ることのできる技術を教えることで精一杯である。
    教育再生実行会議や文科省の示す方針は、支離滅裂である。グローバルな社会に適応し、生きていく子どもたちを育てるためには今の学習指導要領ではダメだということが本当によくわかる対談である。

  • 本書は二人の著者が特定のテーマで対談したものを文字化したもの。当たりだー。

    だれもが本当に考える力が必要だと思っているのだろうか。あらためて問われると迷うのではないか。自分で考えるというのは難儀であり、大きな流れに身をまかせていたほうが楽である。皆と同じように考え、皆と同じことを言っていた方が世の中は渡りやすい。皆もそれを期待している。世間でよくいう「もっとよく考えろ」というのは、「自分の頭で考えろ」という場合より、むしろ「まわりの考えに合わせろ」という場合のほうが多いのではないか。 p.200

    「なぜ人を殺してはいけないのか」に対して「だめなものはだめなんだ」ということに意味はないだろう。だって実際に人を殺している人がたくさんいる。普遍的な答えはなくて、共に考えていくことが必要だろうと著者はいう。大いに共感できる。けれども、目の前でいじめが起こってたら?ケンカをしていたら?それでも「ねーねー、どうしてそれっていけないのかな?」というだろうか?「だめなものはだめだ」はある程度必要な気もする。

    社会変化に対応する人間を育てる教育は、従来の価値観を無批判に受け入れるのではなく、さまざまな価値観に触れながら、ひとりひとりが自ら価値判断していくような学びの場を創出するところから始まる。 p.26

    問題解決型の学習は最終的にはその時点で最善のものを各人が見出して終わる。クラスでまとめる場合もあるという。ここで著者は「個人個人の内面とアウトプットが違っていてもいい(p.47)」という。そして「個人の内面のほうは、そのまま自分の中でずっと持ち続けていい(p.47)」という。これもその通りなんだけれど、それを個人がずっと磨いていくにはどうすればいいのだろうか。

    印象に残ったのは次の文章たち。
    ・学校というところは、意見を言うことが本質的に持っている危険性を子どもたちが経験を通して学んでいく場所です。 p.54

    ・子どもたちは、発想はすばらしくても表現が未熟なことがあるので、「ああ、多分それはこういくことだよね」と話しを整理して、ほかの人にもわかりやすくしてあげたりする。それがファシリテーターの役割です。何かを教えるという役割ではない。自分の意見とか、自分の知識とか、自分の情報を生徒に伝える役割ではないんです。 p.82

    ・アメリカのホテルでエレベーターに乗ったとき、無言ってことはない。(中略)じゃあアメリカ人のほうがコミュニケーションがうまい(中略)のかというとそうでもないと思うんですよね。アメリカという社会はそうせざるをえない社会だったわけでしょう。自分から相手に形やことばにして「わたしはあなたに敵意を持っていませんよ」っていうことを積極的に示さざるを得ない社会。 p.154

    ・相手の見解があって自分の見解がある、それが対立する、対立するとお互いが変わってくる、まさに、その変わってくるところを楽しめるか、そこを重視できるかですよね。 p.167

    (まっちー)

  • 非常に面白い本だった。
    価値観を同じくしない者同士が対話していくことの大切さ。そのための根気と精神的強さが日本人に必要だという主張が心に残った。「心からわかり合うことだけが、コミュニケーションの本質ではない」ということばは、忘れないようにしたい。
    グローバルコミュニケーションというと、日本人が外に出ていくシチュエーションばかり思い浮かべてしまうけれど、「移民」というケースも、もはや日本人に縁遠いものではないという指摘にははっとさせられた。確かに私のご近所さんにはブラジル人(日系含む)が結構多い。

    「これは!」と思ったところを手帳に書き留めていたら、数ページが真っ黒になってしまった(笑)

  • 日本人が国の違う人と海外において、あるいは国内において、そして日本人同士も、これからどのようにコミュニケーションしていけばよいかの指摘やヒントがいっぱい。示唆に富んだ本。
    日本の教育者は自分の価値観や価値判断を押し付けがちだというのは確かにその通りだと思った。

    「読書をすれば心が豊かになります、だから読書をしましょう」ということもふつうに言われていますが、「他人の心が豊かであるかどうか」の判断がなぜあなたにできるのか、そんなことはあなたが決めることではない、それは子どもといえども個人の内面に踏み込むことだという感覚が、大人たち側にあまりにもないんじゃないかと思うんです。(p.10)

    自分がよいと信じたものを子どもがわかってくれなくてもそれはそれとして受け入れていかなくてはいけない。
    それはすごく難しいことだけど、人を教えるということはそういう孤独に耐えていくことなんだと。
    そういう意識のある教育者が日本にどれだけおられるでしょう!?自分自身、教員免許を取る過程でそんな意識はまったくなく、今もそういう発想はなかったので目から鱗でした。

    広島や長崎に原爆が落ちたことは事実だけれど、それをどうとらえるかは色々な考え方があるのも事実だと。
    原爆問題を劇で演じるとすれば、あなたが原爆爆撃機のパイロットだったら、あなたが地上戦に向かうアメリカの兵士の母親だったら、植民地支配されている韓国人だったらどういう選択をしますかというふうに、それぞれの立場を自分の問題として考えないとほんとうに演じきることはできない…。
    原爆は決して落とすべきでなかったと教師が思っていてもそれを子どもに押し付けてはいけない…なるほど…でもなんて厳しいことだろう。

    だから表現するということには必ずリスクを伴うことになる。
    水俣病の問題にしても、チッソが悪かったという朗読劇にするのは簡単だけど、先進国である日本の中学生がそれをすると、発展途上国の中学生たちに「だから経済発展よりも環境を優先しなければなりません」と言うことになる、と。

    いやはや本当に難しい。
    と、一つの方向に導く日本的教育を受けてきたわたしは思うけれど、フィンランドでは「心とか考えというものは全員違うのがあたりまえ」と思っているから、こう感じなければならないんだという指導はむしろ罪に近いというのだから驚きだ。

  • 名言の嵐です。何度読んでもしびれます。

    『伝えたいという思いは、伝わらないという体験からしか生まれない』平田さんの言葉。

  • 主題:
    ・異なる価値観・文化を持つ人々が共生する社会においては、自分と他者との間にある違いを前提として、互いの考え・価値観を擦り合わせていく「対話」の発想と技術が重要である。多文化共生が世界の潮流となる中で、現代の日本には対話能力が不足している(から、身につける必要がある)。

    メモ:
    ・多文化共生社会への移行は、どの社会でも初めに必ず困難に直面する
    ・最初の困難を克服できる力(対話能力)を育むことが世界の教育の趨勢となっている
    ・真に個性的なものは、究極的には他人には理解不可能である。普段我々が個性的だと認識している個性は、実は一般性や共通性の上に成り立っている。社会的個性。
    ・個性が社会に認められるためには、一般性や共通性を意識して表現する必要がある。型の重要性。

    問い:
    ・多文化共生社会を築く意味、価値、利点とは?
    (漠然と良いものと思っているけど、厳密に突き詰めて考える必要がある)

  • 大きなショック 
    日本の課題=戦時体制からの脱却へ本質論で切り込む 
    「中央集権・画一主義・権威主義」→思考停止教育
    「経済の戦時体制」が「30年に渡る平成不況」の主因

    教育の最大テーマ「読解力」も「教育の権威主義」打破が本質 「教師の権威」が教育制度の欠陥 生徒不在
    脱・経験絶対主義

    「考える教育」とは一律の答えが与えられないこと
    多様な答えを許容する多様性が何より必要だ
    それが生徒の主体性・自主性を育む それ以外に一人ひとりの能力を高めていく教育は無い
    生徒が主人公

    日本の戦前回帰
    ①鎖国体制 世界のルール変化に無関心
    ②外国の柔軟さ 日本への着実な適応

    平田オリザ氏の切り口は尋常ではない 「多様性」にも覚悟が必要 氏は「日本は滅びる」と腹を括っている

  • 準フォレスター研修中に読む。
    ドイツ人フォレスターが来た際や、今回もそうだが、日本におけるいい質問は、結局、確認であり、自分の判断を担保するものであるケースが多い。

    コミニュケーションの型がそのようになっているからだと思う。
    コミニユテイの知的パフォーマンスを上げるためには、どのようにコミニュケーションの型をデザインすればよいか、が僕の問いで仮説である。

  • 研究図書で昨年購入してもらっていたものを読了。
    対話がなぜ必要とされるのかの本当の意味と、外国語を習う目的を知ることができた。
    あと、人間の成長において、演じるということが大切だということも。

  • 対話の方法も大事だが、それにもまして対話の中身も大事だと思った。いかなる場合に対話をすることがそれをしないことより正当化されるのか。


    フィンランド、嘘を言うことと大げさに言うこと/いじめることからかうことなどの境界線を設けずに話し合い、じぶんで価値判断していく学力が求められる。

    考える力、話し合う力を本当にもとめていくのであれば学校の先生がまず既成の価値観や道徳観の教え込みに対して敏感にならないといけない。問題解決型。

    先生の価値観の押し付けが子供の個性や選択を萎縮させる。

    わかりあえないことには我慢という感覚はない、それが当たり前だから。こう感じなければいけないという指導は罪に近い。しかしヨーロッパ人も価値観の押し付けを嫌う一方で自分たちの文化には普遍的価値があるとして善意で押し付けてくる。価値観の押し付けには敏感にならなくてはいけない。相手がパーンと押し付けてきたらパーンと跳ね返す。冷静かつ論理的に嫌味ったらしく言い返すのが効果的。相手が戦略的に押し付けている場合にはむしろそうしたほうが物事はスムーズにはこぶ。



    自分の罪、傷つけてしまう、という部分を見つめる。ダメなものはダメという思考停止教育は危険、ナチス的。

    日本には答えが一つでない授業が必要。答えが一つの授業のほうがコントロールしやすい。教える側が教えやすい授業。現状では自分の意見を持てない教育。考え方のベースは問題解決のプロセスをみんなでやりましょう。

    一つの方向や結論に向かって意見をまとめたり絞ったりするような話し合いと対極にあるものとしてオープンエンドという話し合いがある。でも出し合ってそのまま終わりじゃだめ。
    アウトプットの段階では何か一つに絞るというかまとめるという作業になるが、強調すべきは個人個人の内面とアウトプットは違っていい。
    そこに最善を追求する話し合いがあれば。

    対立や選択に伴う痛み。
    多数決は最終的に有効になる。それが最善、つまり仕方ないという意味で。実際現実では多数決で流されるので理不尽を感じたりもするが、みんなで意見を出し合って解決に向かうことがみんなで生きていくためには大切なんだということが大事。表現すること、人とコミュニケーションすることには痛みやリスクを伴う。そこを通過させずに多数決をしないというのは本当の優しさではないし対話の場も生まれない。

    みんなで一つのものを作るということで意見や思いを戦わせると子供達は仲間に対して優しくなる。本当の意味で思いやりが生まれる。中途半端な妥協や諦めじゃないところから生まれる。

    日本の民主主義の成立のための正念場にある。あなたの意見には反対だがあなたが意見を表明することの権利は命懸けで守る、というところを大人が守れるか。

    空気を読む技術は体験的に理解する必要。リスクを冒すことをおそれるあまり最初から自分で抑制して何も言わないという状況は望ましくない。学校が安全だというのは表現に伴うリスク、コミュニケーションのリスクを子供が侵しても現実的なダメージを負わなくてすむように最終的には先生が守ってくれる場所であるべき。

    根拠がない発言は認めないというルールを作って根拠を探すために学べる環境を作るべき。

    上から目線、一番だめなのが中年男性。自分の知識自慢経験自慢になりがち。

    知識人とも対等にかたる。知識人ー情報提供、アドバイス、素人ー自分の意見を言う

    若者のコミュニケーション下手。最先端の企業ほどコミュニケーションの不具合を個人の責任にしないでシステムの方をかえはじめる。

    会議の仕方を変えるんじゃなく、会議のバリエーションを作る方が解決に近づく。ライフスタイルが多様化して若者たちは意見を言いやすい場が一人一人違う。問題を社会システムや教育に求める。

    モンスターペアレンツは地域社会の破綻が原因?地域社会の重層性がないために一つの側からリスクなしでものが言えるようになる。コミュニティをいくつか階層化させた重層性のある社会に組み替えていく必要がある。

    いやだったらいつでもやめていい、好きな時だけ参加すればいい。そういう人々がゆるやかに繋がりあるうコミュニティネットワークが対話型社会をささえる。

    競争だけでなく自分なりの興味や関心、やりがいや生きがいを持って学習に臨めるかが大事になってくる。

    ヨーロッパ
    本当に個性的なものは極めて個人的なもので他人には理解不能なものである

    日本の個性教育では他人とわかりあえない部分ばかりが醸成されてしまう。フィンランドの初等教育の文学教育は何よりも感性や価値観を他人と比較することが活動の主眼。

    仲間外れにされた場合でも逃げ場があればなんとかなるが現状では逃げ場がみつからない。

    傷つけられないコミュニケーションになれた人が取り入れていくべきはエンパシー型コミュニケーション。自己移入型コミュニケーション。いくら察しようと努力しても結局は相手の気持ちはわからない。それならばもし自分がその立場に立ったらどう考えて行動するかと考えていくしかないというある意味クールでドライなコミュニケーションの状況分析。

    価値観がばらばらになっている社会においてはこういうコミュニケーションの考え方を入れていかないと人間関係を調整していくことが難しくなる。演じるというのは他者になりきって自分から離れることではない。

    電車の中で他者に声をかけてその人の隣に腰掛ける、は子供にはなかなかできない。他者との距離がうまくつかめずに妙に馴れ馴れしくなったり妙に緊張してしまったりして尋問みたいな会話になる。

    これからの社会のキーフレーズは協調性から社会性へ。人間はわかりあえないからこそどうにか共有できる部分を見つけて広げていこうという発想。日本は上辺だけの付き合いとか表面的とかいってマイナスのイメージだった。

    極端なことをいうと人間であること以外に共通点はないと思うくらいのつもりで話す。コミュニケーション:全く訳のわからないところから共通点を見つけること
    自分の興味ばかりにとらわれたり、本当の自分を表現することによって相手と心からわかりあおうとしたら永遠にできない。(それを求める人たちへの対処法が欠けていないか?)

    アメリカ:私はあなたに敵意がありませんということを積極的に示さなければならない場所。日本は平和なので以心伝心が前提とされてきた。(今これがハラスメントを生んでいないか?彼らの善意は敵意や陥れにうつる)

    ヨーロッパでは対立点を積極的に見つけて意図的に対立させ、少し違う次元のところへ話を持っていこうとする。お互いが変わることを前提とした対話。(でもこの人の感覚は受け入れたくないなという人もいないだろうか?)戦おうと思える相手は何かしらの点で尊敬できる部分を持っていたり議論能力が同程度の人では?

    お互いの価値観を擦り合わせて妥協点を探っていく。(日本の場合はギブアンドテイクを理由に希望を先に述べずに後から合意されたものとして押し付けられる脅迫じみたことがあまりに多くないだろうか。)

    相手が何を絶対に嫌がるかをまなぶ。異文化のコミュニケーションとして互いにそういうものがあることを知っておく。このまま移民の人口比率が高まると深刻な移民いじめが起こる。移民の低所得者層の方が出生率は高い。目的と手段を入れ替えない。論理を使うための論理はまやかし。その問題は自分の身の回りや社会における問題への対応力?(目的設定が違うひともいないだろうか)

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著者プロフィール

監修者について
テスト開発技術者。星槎大学共生科学部客員教授。
いろいろな国の教科書の制作や国際的なアセスメントの開発に携わっている。

「2022年 『99%の小学生は気づいていない!? 課題解決のヒケツ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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