- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344986367
作品紹介・あらすじ
人間が言語に規定された存在であることは二〇世紀の哲学の前提だった。二一世紀に入って二〇年が過ぎたいま、コミュニケーションにおける言葉の価値は低下し、〈言語を使う存在〉という人間の定義も有効性を失いつつある。確かに人間は言語というくびきから解き放たれた。だが、それは「人間らしさ」の喪失ではなかろうか?――情動・ポピュリズム・エビデンス中心主義の台頭、右・左ではない新たな分断。コロナ禍で加速した世界の根本変化について、いま最も注目される二人の哲学者が、深く自由に精緻に語り合う。
感想・レビュー・書評
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対談をまとめたもののため、二人の中で共通の知識、言葉選びがあるため理解できていない部分がある。
ところどころ日本語ではなく英語の横文字を調べなくてはならず、少しずつ読むもののやはり何度か読まないとつらい。
(言語を扱え人たちが選んだ言葉だと思うので、選び方にも意味があるということなのか)
これまで読んできたお二人の書かれた著書は、まだ読む対象が一般の人に向けたものだったことがよくわかった。
それでも面白く読めた。
能動的の対義語として存在し、消滅した「中動態」についての話、
個人的に体感のあった、LINEスタンプによる言語の変化。
エビデンス主義、責任回避の話などがあった。
勉強が足りないので、まだ挑むには早かったかな…「現代思想入門」と同じで、触れられている哲学者たちの考え方に興味が湧く…どんどん濃いほうに向かってるのでここからが本番かな…詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『暇と退屈の倫理学』の國分氏と、『勉強の哲学』の千葉氏の対談。大学院の先輩後輩なのだと知る。
LINEのスタンプの話があって。
言葉を交わすことから、視覚的な情報の一コマにまで簡略化されたやり方で事足りるようになった。
紡ぐものには、意趣や考えの余地があるけれど、スマホは言葉を〝予測〟さえしてくれる。
ガラケー時代には絵文字一つで送ることに難を示したり、感情を読み取りきれない距離があったはず。
私がスタンプだけのやり取りに抵抗があるのは、ある意味当然だったのだなぁ。
以下、印象に残った箇所の引用。
大きく三つが自分の気になっているポイントらしいと分かった。
中動態的な教育の在り方のこと。
ただ、教師は生徒を主体的にするという、この過程に中動態的な関わりを感じるので、アクティブラーニングは完全な主客転倒ともならない気がする。
言葉の価値と依存のこと。
本を読むことにも繋がるかもしれない。
他者が言葉で作り上げてきた世界の偉大さ?に触れることが、自分にとっての線引きにもなる。
エビデンス主義(笑)絶対的なものでしか、納得を得られないことの、浅さを知る。
多様性と否定性のこと。
一番最後の引用が、一番モヤモヤ抱えている。
皆違って皆いい、ではなく、どこかしら否定性を持つことが、意味ある死に繋がると述べる。
今の世の中には反した意見とも言える。
否定性を他者にぶつけることではないような気がする、でも、否定性を自分の中で抱えること、違和感を流してしまわないことに意味があるのかな。
それは苦しいことで、問うことに繋がる。
「薬物依存に関して、有名な『ダメ。ゼッタイ。』という標語があるでしょう? 上岡さんたちは、『ダメ。ゼッタイ。』というとが『ゼッタイ、ダメ』だと言っています。意志の力で、『もうやりません、絶対やらない』と思っていると、絶対やっちゃうそうなんです」
「でも、、僕は先生をやることに少し疲れていました。生徒になりたい、教わりたいという気持ちがあった。だからアテネ•フランセに行って、久しぶりに生徒として徹底的に教わる経験をして大きな満足がありました」
「だから、最近流行りのアクティブラーニングとか言って、学生にアクティブに課題か何かやらせて、それに対して教師がアドバイザー的に関わるなんていうのは、能動•受動の二項対立の枠組みに囚われたまま反転しているだけだから、まったくダメ。アクティブラーニングより、これからはミドルボイスラーニングをやっていかなきゃいかんと思うわけですよ」
「孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で、私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます」
「エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだということが、まずは共有されなければならない」
「それもあるけれども、僕がいま考えているのはドゥルーズのことで、『差異と反復』の序論に、優れた教師とは、『私のようにやりなさい』じゃなくて『私と一緒にやりなさい』と言う者だという話がありますよね。『一緒にやりなさい』と言う教師はコミュニケーションをしているわけではないんですよね。それこそある種の集団的主体がそこにできあがっている」
「だからこそ、言語で構築された文学的な物語によって憲法の掲げる価値が理解されてきた側面にもう一度目を向けるべきではないか」
「まず大事なのは、自分が他のものに依存していることを認めることだと思うんですよね。今の平等化は、みんなが自己権威化している状態になっている(中略)まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いるのが現在の状況です」
「要するに、すべてのマイノリティが不快な思いをせず、安全に生きられればいちばんいいんだ、という考えが強まっているわけです。僕はそれがマイノリティの問題のすべてなのかとつねづね疑問を感じています。やっぱり多少苦労があったり、お互いに対する否定的なものがあったりしても、それとともに生きていくことにこそ、人間的な意味があるんじゃないのか」 -
道具的で記号化してきた現在の言語。
実存主義、エビデンス主義、メタファー、心の闇、アレントやスピノザ、ハイデガーなど引用しながら國分功一郎さんと千葉雅也さんの言語に対する想いも含め、近年変化していく言語をどう取り戻すのか、そもそも言語とはなんなのか、そして言語無き人間とは存在するのか。
例えば「これは違反だ」とか「違法だからダメだよ」とテレビでモザイク入れて、悪い人を煽ることが当たり前ですが、その一つ一つの問題を法外まで考えている人は叩かれてしまう。
しかもその法外までを考えていくと、自分で考えて言語化しなければならないからめんどくさい。そうなると、もう法律がそうなんだからと言って、エビデンス主義が強くなってしまう。
本当は法外にこそ正義があるのかもしれないのに。
元々たくさんの言語によって法律ができたのに、その法律も記号のようになってしまった。
では今の言語ではない、人間らしい言語とはなんなのか、とても難しいかもしれませんが、とても大事なことなのかもしれません。
課題はあるようですが、もしかしたら中動態という概念が一般的になれば、社会が良くなる気もしてきました。
政治や公共的な問題を考えるには哲学が必要なのかもしれませんね。 -
「責任回避論」のところが面白かった。ケーキ屋さんでの例え。相手に(お客)に改めて確認することによって「私は、ちゃんと確認しましたよね」というような自分が責任を負わなくても良くするというくだり。なんでも「責任」を追求してしまうあまり、社会や人間関係が窮屈になっているような印象を抱いていたので。どこかで逃げ道を用意しておかないとならないんだな・・・。今読むべき本だと思う。
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タイトルに惹かれ、昨今の言葉の誤用を嘆いた内容なのかなと軽い気持ちで手に取ったらもっと深く切り込んだ内容でした。
著者の方々やきちんと内容を知らずに購入したので、こちらが不勉強なため中々理解が難しかったです。
漠然と今まで自分の中で考えていたこと、気になっていたことが次のステップに進むようなヒントを貰えた気がします。
昨今蔓延る自己責任論。どうしてこうなってしまったのかピンとくるものがなかったのですが言語が思考に影響しているのではというのは自分の中では今までになかった視点だったのでとても興味深く面白かったです。
お二方の著作を読んだ方がこの対談をより理解できると思うので読む順番大事かもしれません。
IQの値が離れすぎていると会話がスムーズにいかないと聞いたことありますが読んでいる中でそんな気持ちになりました。
だいぶ「リッチ」な会話をしているように思えました。
インターネット、SNSの普及でこれから先の時代がどうなっていくのか。
年を重ねたことで今生きているこの瞬間も絶えず変化し続けるもので未来から見てようやく何があった時代なのかがわかるのだと悟りました。
若い頃は、過去の歴史を見ても今から切り離して考えていて今の時代の問題に気付きませんでした。
止められない流れはあるだろうけど、そこの中でも自分の価値観や意識を保っていかねばと思いました。 -
脳みその中がいい具合にシャッフルされる感覚の対談。中動態の話はいつ読んでもおもしろい。
2人の本の第二弾が読みたい。 -
他者の時間と自分の時間の二局に縛られずに生きていくことを心に留めて、訳のわからない時間を許容できればいいのか。
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20世紀の哲学は、言語論的転回ということだったんだけど、その「言語」が消滅しているという。ならば、21世紀の哲学はどうなのか?
みたいな問いがあるのだが、直接的にそれを考えるというより、SNS、ポピュリズム、コロナなどなど、今起きていることを例にしながら、ぐるぐると周りながら、その問題に近づいていく感じ。
もちろん、答えはないのだけど。
言葉の力をもう一度取り戻すこと。それは、一種の貴族的、権威的なものの復活なのかもしれない。
そして、しばしば思考のプロセスのなかで参照されるのが、アレント。國分さんは、フランス現代思想を踏まえつつ、スピノザの研究を起点にさまざまな思考を展開されているのだと思う。アレントは、スピノザとは逆の立場であることが多いと思っているのだが、アレントもスピノザも好きな私は、この辺が面白いところ。
アレントの議論は、しばしばわかりにくく、最後にはなんだか変な結論に辿り着いてしまうことが多い気がするのだが、それでも彼女が問題にする問題、問題にアプローチする方法は、とても鋭いものがあって、思考を活性化させるパワーがあるように思う。
そんなアレントの声が聞こえてくるようなところもこの対談の魅力。
対談なので、軽く読めるのだが、この議論はかなり深い。 -
とても面白かった。同世代ということもあり、私にとっては難しい内容の所があっても、肌感覚で分かる部分もあり、楽しく読んだ。恥ずかしながら、千葉雅也氏のことは本書で初めて知り、勉強の哲学を読み始めた。キモ友、欲しくなりました。
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全部理解できたかと言えばそれなりに理解できない箇所もあったが、著者らの感じている危機感のようなものは伝わってきた。
中動態という概念は初めて知った。「主語がそのプロセスの場所になっている場合」(p18)に使われるのだという。意志と言っても完全にゼロからというのはなく、後ろに経緯、脈略があるという指摘は興味深かった。「意志はだって、現実には常に他の事情に依存しているから」(p40)と千葉は指摘する。
他に刺さった箇所を挙げておくと、「行為を私的所有物と見なすのが現代の感覚なわけです。行為など私的所有できるわけないのに、意志という概念を使って私的所有物にする。」(p137)という國分の指摘は、やはり意志というものに対する一般の誤解を突いているように思える。また、エビデンス偏重や、情動的展開の話も興味深かった。
各章は元々独立した対談だから、全体に目を通してから気になるところを何度か読み直してみるのも、都度別の理解が得られるのではないか。あれこれと考える素材を与えてくれる読書だった。