リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

著者 :
  • 幻冬舎
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感想 : 15
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  • Amazon.co.jp ・本 (574ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344423244

作品紹介・あらすじ

「歴史」や「国民国家」のような「大きな物語」(ビッグ・ブラザー)で自分の生を意味づけることができなくなった今。誰もが「小さな父」(リトル・ピープル)としてフラットに蠢くこの世界を、僕たちはどう捉え、どう生きるのか。「村上春樹」「仮面ライダー」「震災」を手がかりに、戦後日本の変貌とこれからを大胆かつ緻密に描き出した現代社会論の名著。

感想・レビュー・書評

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  • やっと読了ーー!
    解説まで含めると564ページ。うん。重い!(笑)

    昨年辺りから村上春樹をどしどし読み始めたので、タイトルに惹かれる所があり、購入。
    「現代社会論の名著」と書かれているが「名著」たらしめたのは一体どこの誰なんだろう……と思うくらい、これからの論ではないかと思う。

    オーウェルの掲げたビックブラザーが壊死し、村上春樹の掲げるリトルピープルが台頭する社会。
    その変化の様子をポップカルチャーを例に挙げて述べている。
    ビックブラザー的ウルトラマンから、リトルピープル的仮面ライダーへ、という具合に。

    補論では、ダークナイトやキックアス、AKB48にも触れているのだが、私個人としては女系ヒーローの登場と変化についても触れて欲しかったなー。

    川上弘美の解説にもあるように、筆者なりの現代社会の生き方まできちんと書こうとしている姿勢が良い。
    ただ、読みにくい。

    私たちの理性とは、いかほどのものか。
    自分の中に持っておきたい社会の見方であった。

  • 大きな物語、小さな物語というポストモダン論にありがちな図式を、物語それ自体ではなく物語を規定する仮想人格、ビックブラザーとリトルピープルを用いて論じた本。基本、この二項対立を下地にして進むので、500ページという分量の割には読みやすかった。ただ、やや図式めきすぎている気がする。
    グローバルネットワーク化によって「市場」が「国家」よりも影響力を持っている現代では、
    <外部>=<ここではないどこか>を革命によって獲得することで世界を変えるのではなく、グローバル資本主義に内在しながら<内部>=<いま、ここ>を多重化することで世界を変えることが求められるらしい。これがこの本で提示されている処方箋なのだが、実はよくわかってない。時間がたったらもう一度読みたい。
    現代を切り取る上で仮面ライダーを論じることの重要性について書いてあって面白かった。
    「正義」がない今それでも「正義」を描かないといけないという要請を受けて物語が進化し続けているということと、バンダイをはじめとした商戦と結びついた設定ゆえ、消費者の現実に対する手触りを掬い取りやすいという二つの意味において、仮面ライダーを論じることは重要らしい。
    仮面ライダーアギトからダブルまでを体系的に論じているのには脱帽した。
    また、この本を通じて東浩紀の「動物化」という概念が行き過ぎであるということを確信した。
    「動物化」とは、狭義では「萌え要素」のデータベースから順列組み合わせでキャラを生成し、再帰的にそれらをデータベースに還元し「物語」を無化して楽しむオタクの消費性向を指し、広義では大きな物語に期待せず快不快原理に基づいて行動するポストモダン的実存の生存戦略のことである。
    しかしながら、私たちはどうしてもデータベースから生成したキャラから「物語」を読み取ってしまう。そしてそれはコミュニケーションによってn字創作的に広がっていく。キャラクターはそこに存在するだけで「物語」を想起させる磁場を放っている。
    キャラクターは「物語」から自由にはなれない。

  •  ほぼ全編書き下ろしの、500ページを超える長編評論。

     仮面ライダー1号のフィギュアを用いたカバーデザインが素晴らしい。
     ライダーが思いにふけって遠くを見つめているような印象で、ウィッシュボーン・アッシュの名盤『百眼の巨人アーガス』のジャケを彷彿とさせる。ファースト・ライダーの放映をリアルタイムで観ていた世代としては、このカバーだけでぐっと心をつかまれる感じ。

     タイトルの「リトル・ピープル」とは、村上春樹の『1Q84』に出てくる超自然的な存在のこと。
     ここでは、ビッグ・ブラザー(ジョージ・オーウェルの『1984』に出てくる独裁者)的存在が見えなくなった現在における、新しい「壁」の形を指している。「壁」とは、村上春樹がエルサレム賞の受賞式で行った「壁と卵」のスピーチをふまえたもの。私たちを取り囲む見えない束縛/システムの謂である。

     「卵」たる私たちを取り囲む「壁」のありようは、ビッグ・プラザーからリトル・ピープルへと変化した。その変容を読み解き、「現代における『大きなもの』への、『壁』への想像力を手に入れること」、「ビッグ・プラザーではなくリトル・ピープルとしての『壁』のイメージを獲得すること」が、「本書の目的」なのだと著者は記す。

     狭い趣味の世界を掘り下げてばかりいる印象がある若手評論家の中にあって、世界を鷲づかみにするような大テーマに挑む著者の意気やよし。

     全3章の本論に、3編の「補論」を加えた構成。そのうち第1章「ビッグ・プラザーからリトル・ピープルへ」は、『1Q84』論を核に据えた本格的な村上春樹論になっている。

     この第1章だけなら普通の文芸評論という印象だが、つづく第2章「ヒーローと公共性」で、論の展開はアクロバティックな飛躍をみせる。
     「ビッグ・プラザーからリトル・ピープルへ」という時代相の変容を、なんと、日本を代表する2つのヒーロー番組、『ウルトラマン』シリーズと『仮面ライダー』シリーズの変遷を通じて分析していく内容なのである。「ビッグ・プラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである」と、著者は言うのだ。

     村上春樹と仮面ライダーやウルトラマンを同列に論じる――こうした意表をつく展開にこそ、若手評論家としての著者の真骨頂があるのだと思う。思うけれども、ちとついていけない。第1章は大いに感心して読んでいた私だが、第2章に入った途端、マジメに読む気が失せてしまった。

     いや、第2章も評論としてはよくできているし、「『仮面ライダー』シリーズって、平成に入ってからスゴイことになっていたんだなあ」などと、目からウロコの記述がたくさんあった。しかし、「たかが子供向けヒーロー番組に、そんな大仰に論ずるほどの内実があるか?」とも思ってしまうのだ(そう思ってしまうところが私の古さなのだろうけど)。

     むしろ私は、第2章の「補論」として掲載された3つの小論のうちの2つ――AKB48論と、映画『ダークナイト』論――のほうを面白く読んだ。

  • ふむ

  •  
    ポストモダン論なのだと思いますが,ウルトラマンも仮面ライダーもとくに詳しくない私にはピンとこない部分が多く,読み解けませんでした。まだ私には読むのは早かったです。

    ポストモダン論では東浩紀の『動物化するポストモダン』がスッキリしているように個人的には感じ,そことの差異を取り出そうとしましたが,なかなか難しかったです。

    仮面ライダーを観たくなりましたので,仮面ライダーを観た後にもう一度読み直したいと思います。
     

  • 宇野氏をJ-Waveの"THE HANGOUT"で知り、興味を持ったので購入し、通読してみた。

    ポップカルチャーは時代を写す鏡であることを、本書を読んで改めて認識した。

    ただし「リトル・ピープル」というものがいったい何者であるかが、今ひとつクリアでなかった。私の理解力の無さに起因するものかもしれないが、氏自身がリトル・ピープルなるものをはっきりと掴んではいないのではないかとも感じた。

    あるいは仮面ライダーはともかくとして、村上春樹やジョージ・オーウェルを読まないと、本書の本質には迫れないのかもしれない。

  • オーウェルが「1984」で表したビッグ・ブラザーが壊死し、村上春樹が「1Q84」で表したリトル・ピープルの時代となった。宇野氏は前者としてウルトラマン、後者として仮面ライダーを取り上げてそれぞれの時代の批評を展開する。

    宇野氏はリトル・ピープルの時代を以下のように定義した。
    『かつて「壁」と呼ばれたものを人格のイメージで表現し、そして物語としてその正当性を説明することが難しくなった、共有できなくなった世界が到来した時代のことだ。』

    しかし、宇野氏自身が『正義はひとつではない――かつてはこの前提に基づいて「あえて」ひとつの正義を仮構すること(ビッグ・ブラザー的想像力)が求められた』と書いているように、ビッグ・ブラザーの時代にもリトル・ピープルの時代と同様に複数の正義があった。その中のひとつに光をあてて物語としていただけだ。

    時代の変化に伴って物語の語り口の視点が変更されただけであり、それをもってそれぞれの物語をビッグ・ブラザー的、リトル・ピープル的と区分するのには違和感があった。

  • たとえば「映画」はとても能動的な観客を想定したメディアだ。対してテレビはとても受動的な視聴者を想定したメディアだと言える。これは先ほどの比喩に当てはめるなら、映画は市民、テレビは動物を対象にしたメディアだということになる。
    しかしインターネットは違う。インターネットはユーザーの使用法で映画よりも能動的にコミットする(自分で発信する)こともできれば、テレビよりも受動的にコミットする(通知だけを受け取る)ことも可能だ。もちろん、その中間のコミットも可能になる。こうして考えたときインターネットは、初めて人間そのもの、常に「市民」と「動物」の中間をさまよい続ける「人間」という存在そのものに適応したメディアだと言えることになる。p543

  • 正直なところ村上春樹、ウルトラマン、仮面ライダーから時代をみるのだが、この3作品群としっかり触れあっていないので、深くは読み込めなかった。
    大きな物語=ビッグブラザーが失墜し、価値相対的な自己目的化した生産消費活動に移行した。それがリトルピープルの時代。ぐらいな表層的な理解に留まる。他の宇野評論にも触れて理解を深めようと思う。

  • なんだかんだ読めたけれど、読む必要があるのかどうか謎。
    仮面ライダー平成版のあらすじ知らなかったから、衝撃をうけた。

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著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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